フロントライン・シンドロームと兵站の問題

現場と中央、支社と本社、こうした精神的、物理的な距離を隔てた関係において、連携がうまく機能しないことはよくある。

特に自分が現場の立場であった過去を振り返ると、”どうしてもっと本社はサポートしてくれないんだ!”とか”どうして、現場の意思を無視した決定を押し付けるんだ!”など、不満が溜まり、嘆いたことを多々思い出せる。

製造装置の設置責任者として、顧客のフィールドへ行き、装置を所定の性能確認をしてくるような仕事の時には、思うように装置が立ち上がらず、本社からの支援も来ず、毎日顧客に状況を報告し、装置を動かし、時には不測の事態を引き起こして奔走したり、目まぐるしく忙しい中で、やはり孤独に苛まれていたことを思い出す。

やはり現場の最前線は、本質的に孤独になってしまうのである。

佐々淳行『連合赤軍「あさま山荘」事件 』(文春文庫)で、あさま山荘に人質をとって立てこもった新左翼の一派である連合赤軍と長期にわたって対峙した佐々も、現場責任者として中央への不満を嘆く。そして、それを振り返って、「フロントライン・シンドローム」に陥っていたとしている。

たしかに私たち現地派遣幕僚団は、私も含め「フロントライン・シンドローム」(第一線症候群)に罹っていた。後方の安全なところから実情にあわない指示をしてくる警察庁に対するフラストレーションは、もう爆発寸前、ギリギリの限界に達していたのである。(佐々淳行『連合赤軍「あさま山荘」事件 』(文春文庫)p.234)

フロントライン・シンドロームとは、現場と中央の間の温度差や指揮系統の乱れ、さらには補給がうまくいかないことによる中央からの支援不足などの要因によって、現場が中央に対して不信感を持ち、現場の意識が本来あるべき状態より肥大し、最終的には独走に至るような現象だと私は解釈している。

「事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起こっているんだ!」というものの、現場の判断がどんな局面でも全て正しいのかどうかについては、充分慎重に考えざるを得ないと思う。つまり、現場の意向に沿って、あらゆるリソースを投入することが正解とは限らず、やはり、中央での俯瞰した全体最適戦略の視点も必要なのではないかと思う。

勿論、私の実感として現場の判断はほとんどが正しいと思う。何故なら第一次情報、生の情報とリアルタイムに接しているのだから。加工され、伝言ゲームで仲介され、リアリティの薄れた賞味期限の切れたタイムラグのある情報で判断せざるを得ない中央の判断が誤っていることも多い。

しかし、その一方で、現場で意思決定をしてはいけないような場面もある。例えば、自己か他者かの瑕疵の範囲の判断など。フロントライン・シンドロームにかかっていると、そうした大きな判断を現場が下すことができるように錯覚してしまう。権力が肥大化していることに気づいていないのである。現地にいる自分の判断こそが、今ここでもっとも正当な判断であると思い込んでしまう。

また、現場責任者は時にそれを自らのために利用することもある。本社の悪口で現場の一体感を醸成したり、本社を第一の悪者にすることで、自分の決定を次善の策として現場の担当者に飲み込ませるなど、こうしたテクニックも確かにある。私もよく使った。ただ、やりすぎると、それらは単なる独走、暴走になってしまう。

福島第一原発事故の東電テレビ会議でも、現場にいる吉田所長が東京電力本店に対して苛立っている場面が多々ある。「そんなことで(現場を)disturbしないでくれ!」と。吉田所長の苦しみ(注1)が伝わってくる。

なぜこうした状況になるのだろうか。

本来中央と現場が連携できていればこうした状況にはならない。お互いがお互いの役割を果たすだけである。

こうした齟齬が発生するのは、現場と中央を結ぶ補給線、兵站(ロジスティクス)に原因があるのではないかと思う。

福島第一原発事故の現場では、十分な補給がなかった。補給線が断たれており、現場では本来やるべきでない作業が追加されていた。

補給が充分になされない中で、現場の緊張感が頂点に達すると一種の特攻のような状態にも追い込まれる。福島第一原発でも”決死隊”という言葉が吉田所長から吐き出されている。

つまり、作戦を成功に導くには、十分な補給線が必要である。

いくら優秀な指揮官でも、補給が不十分であればフロントライン・シンドロームに陥ってしまう。

製造装置メーカであれば、人、もの、金だけでなく、情報インフラや部品などのサプライチェーンも含めて整備することが必要で、これは会社組織だと、生産管理、調達、設計、開発、製造といった多部門を連携させるプロジェクトマネジメントが必要になるが、あまり、補給線あるいは兵站という形でその方法論が語られるのを不勉強だが見たことが少ない。

補給というのは一種の裏方作業であり、陽の当たる業務ではないからだろうか。あるいはプロジェクトマネージャーの裁量の一部とみなされて、それ自体独立して語りにくいからだろうか。

太平洋戦争における陸軍の転換点となったガダルカナル戦の攻略失敗においても、兵站の問題は指摘されている。

そもそも日本軍は伝統的に兵站を重視していなかった。

陸軍における兵站線への認識には、基本的に欠落するものがあった。すなわち補給は敵軍より奪取するかまたは現地調達をするというのが常識的ですらあった。戸部他『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(ダイヤモンド社)p.89

 半藤一利他「昭和陸海軍の失敗 彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか」(文春新書)における、陸軍の「陸大教育」に関する座談会では、このような兵站教育の軽視も語られる。

半藤 ちょっと細かな数字を出しますが、昭和六(一九三一)年以降に陸大を卒業した者は千二百七十二人いるんです。でも兵站を専門とする輜重科上がりの者は三十三人しかいない。どう考えても兵站を軽視していたとしか思えませんよね

黒野 そもそも兵站すなわち輜重科将校には陸大の受験資格がないんです。(中略)参謀本部にも輸送課はあっても兵站課は最後までありませんでした。

半藤 兵站参謀だった井門満明(46期)に会ったら「日清、日露のころからさんざん兵站で苦労したというのに、日本の陸軍は最後まで兵站や輜重を重視しなかった。代わりに現地調達。『輜重輸卒が兵隊ならば、トンボ、チョウチョも鳥のうち』なんて言われてましたからね」と、兵站部隊がいかに軽視されていたかを話してくれました(以下略)

半藤一利他「昭和陸海軍の失敗 彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか」(文春新書)p.44-45

 元幕僚が書いた、松村劯『戦争学』(文春新書)においては、もっと遡ること秀吉の朝鮮出兵の頃から、日本は兵站を軽視し、その失敗を改善しなかったことが指摘される。

秀吉の失敗の原因は数多いが、日本が海軍と言えるような海軍を持たなかったことと外征作戦に備える統一的な兵站システムがなかったことが主因と言えよう。

徳川家康は、この敗戦から何も学ばなかった。大砲の近代化と海軍の育成を禁止し、軍の中央兵站システムを造らなかった。(前掲書. p.129)

日本にとっては伝統的に不得意な分野であり、今後研究していく必要があると思っている。

注1:ただし、『福島第一原発事故 7つの謎』(NHKスペシャル「メルトダウン」取材班)によれば、吉田のいる免震重要棟と現場の運転班のいる中央操作室との間でも同様のフロントライン・シンドロームがあったことが吉田所長自身の反省として言及されている。つまり、二重のフロントラインがあったことになる。

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京王閣に藤沢秀行の”伝説の金網”を探しに行ってきた②

wikipedia「藤沢秀行」から引用。

 京王閣競輪場で250万円の車券を1点買いしたが惜しくも外れ、観戦していた決勝線付近の金網を強く握りすぎて菱形にひしゃげてしまい、「秀行引き寄せの金網」として京王閣競輪場の名所になった

ー引用終わり

金網は名所になっているのだろうか?

・・・京王閣競輪場はかなり寂れていた。

佃煮にできそうなくらいの高齢者で占められている。

昔はある種の逆ディズニーランド的に、タバコの吸殻捨て放題、車券などのゴミ捨て放題というやりたい放題な雰囲気だったが、タバコも分煙になっていた。

でも、誰も守っていなかったが。

”決勝線”=ゴール前に向かう。

金網が・・・あるけど・・その前に何か手すりのようなものが・・・。

これがゴール前。何だ、この防御柵のようなものは?名物なので保存しているの?違う?

金網には手が届かないようになっているが、目をこらすと・・・

どれだかわかんない!・・・無理!だいたい全部「菱形にひしゃげている」ようなものだった。

早々に諦めるのも何なので、バンク側に移動し、金網に触れるところを探す。

レースは迫力ある。

力を入れてみるが、賭け金が藤沢秀行と比較してセコすぎたのか、金網微動だにせず。

勿論外れました。

京王閣の勝負師ならぬ、負師と異名を取った(どこで?)私のプライドにかけて苦闘したものの、正月の立川競輪以来の出陣で、完全敗北。とほほ。しばらくやらない。

(写真撮影は京王閣競輪場の許可を得て撮影しました)

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