年賀状による消息から想像する”人生の黄昏”


年賀状の話題をこの時期にするのも微妙であるが、先日ふと思ったので備忘のため記載しておくことにする。

社会人になると交際範囲は増える、と同時に実際にリアルな場面で会う頻度はまだら模様になってくる。

学生時代の恩師や友人、仕事上の同僚、顧客など、今でもリアルで会う人もいれば、遠方に行って何年も会えない人もいる。

当然メールやLINEなどの手段で維持できる部分もあるが、特に自分より高齢の人だと、年賀状でしかその消息がわからない場合が多い。

今年(2017年)、大学時代の指導教官から年賀状が来ていないことに気づいた。こちらは毎年、年賀状を出していて、戻って来ていないので不在という訳ではなさそうだ。

もう80歳を遥かに超えているはずだ。気になったので遡って調べてみた。

昨年(2016年)時点で、年賀状は来ていなかった。そして、その前(2015年)の夏には転居通知が来ていた。私が知っていた指導教官の自宅から、マンション?への転居だった。

一昨年(2015年)の年賀状は単なる印刷で、これまで手書きでメッセージがあったものがなくなっていた。

さらにその前(2014年)は喪中はがきで、奥様が亡くなられたことを告げていた。

整理すると

-2013年まで    年賀状のやり取り、手書きメッセージで近況あり

2013年から2014年 奥様を亡くす

2014年から2015年 年賀状来るが、手書きメッセージ途切れる

2015年から2016年 自宅からマンション?へ転居

2016年から2017年 年賀状途切れる

となる。想像力を膨らませると、ある種の人生の黄昏を感じる(勿論全くの勝手な妄想かもしれないので非常に失礼な事を思っているのは承知で)。こちらも非人情で、日々の忙しさにかまけ、今まで何もコンタクトを取れずにいた事を後悔している。

しかし、事此処に至ると、直接のコンタクトそのものが取りにくい。研究室ももう残ってはいないので、同様に年賀状レベルの付き合いのOBにコンタクトを取るしかないのか。

自分が不義理をしている訳で、何とかしなくてはいけないと本気で思うなら、こんなところでグダグダと言い訳を書いている場合ではないのだが、気持ちが少々乱れている。

思案中である。

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