【転職の思い出】信用は無形財産であり、残高がある

 私が転職を経験した際に感じたことは、新たな人間関係を作り上げることは大変だ、ということである。

 これは会社内の異動でもある程度は同じかもしれないが、転職の場合には更にそのリセット規模が大きく、しんどい。

 転職の際に、受入先の上司とは何度も意見交換をして、自分という価値がその職場にとって必要であることを事前に確認して勝算を持って望んできるはずだが、実際にその職場に配属されると、そこでの人間関係には「私」という存在は全くの新参である。技術的はさておき、人間関係においては何も実績がない状態からのスタートである。

 仕事を進めるためには周囲との関係の中で進めていく必要がある訳で、ここで「初めまして」から始めるのはやはりしんどいものがあった。

 これまで転職前に誇っていた自分の成果にしても、そこまでに前の職場で築きあげた組織の力を(一部)使っている訳で、それがリセットされた状態で期待されたパフォーマンスを出すというのは、これは結構しんどいぞ、と思ったことを覚えている。

 何か業務を一つ頼みに行くにしても、「初めまして」からスタートの場合、まず「コイツ誰よ?」という視線を受ける。その後、小さい達成をコツコツと積み重ねていくことにより、次第に信頼を得られ、だんだん業務が円滑に行くようになって来た気がする。

 逆の立場でも最近思うのが、やはり頼まれごとをされるにしても「コイツの言っていることは、そもそも信用できるのか」という思いがあり、承諾するかしないかは、その人間(勿論そのバックの組織も含めてであるが)の「信用力」によって判断するということである。

 やはり、何か頼まれごとを承諾するには、リソースを動かす責任がつきまとう。リソースは有限なので、何でもハイハイと安請け合いする訳にはいかない。そこで「初めまして」の人は、やはり「コイツ誰?(=コイツの言っていることは信用できるのか)」というバイアスをかけて評価されるのは仕方のないことだと思う。

 改めて思ったことは、人間の信用というものは残高があり、この信用の残高を常に個人が背負っているということだ。信用残高が高い人はやはり楽に仕事をできるし、そうでない人は、なかなか仕事をうまく進めにくい。そして、その残高は日々の行動の評価によって増減する。

 成果が全てというものの、組織の中で仕事をする場合、こうした属人的な信用の問題はつきまとう。そして組織という団体戦の方が個人戦よりもアウトプットが良いのは、残念ながらかなりの部分で真実である(例外もあるとは思うが)。

 信用残高は個人とその属する組織の関係性に依存している部分が得てして多い。従って個人が組織を超えて移動する場合、ほぼリセットになることが多いのだ。

 まさに中根千枝が「タテ社会の人間関係」(講談社現代新書)で社会人類学の観点から述べたことが実感される。

(略)個人の集団成員と実際の接触の長さ自体が個人の社会資本となっているのである。しかし、その資本は他の集団に転用できないものであるから、集団をAからBに変わるということは、個人にとって非常な損失となる。 中根千枝「タテ社会の人間関係 単一社会の理論」(講談社現代新書)p.55

 願わくば、社会的、普遍的な信用残高が欲しいと思う(公的資格などはある意味そうした部分を補完するものであろう)。それがあれば、もっと会社組織を超えた人員の流動化が進むはずだ。

 転職の個人的な思い出はまた別に書きたいと思う。

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