【書評】つげ忠男『成り行き』にみる”現在”の劣化は本当なのだろうか?


つげ忠男『成り行き』(ワイズ出版)を読んだ。

主に3編(実際には4編)の作品(マンガ)が収録されている。2編は書き下ろしであり、残りの2編は過去の名作「懐かしのメロディ」(1969年)の発行当時バージョンとそのリメイクバージョンである。

書き下ろしの2編「夜桜修羅」「成り行き」は、主人公が老年を迎えたいわゆる”老人”であり、その”老人”に対して”現代の若者”が対置されている。

また、現代性の特徴としての具体的なイメージが沢山散りばめられている。アイドルグループや携帯電話などが象徴的な形、イメージそのものとして描かれる(余談であるが、つげ忠男のマンガに”携帯電話”が登場してくる日がやってくるとは夢にも思わなかった)。

気になるのは、こうした”現在”のイメージに対して、著者を投影したと思われる老年の主人公が、直接に否定的なメッセージを込めていることである。例えば「夜桜修羅」では主人公のモノローグとして

 それにしても、老若男女 この国はなんでこんなにカッコ悪い人間が増えてきてしまったんだろう

 何もかも私利私欲ムキ出しで・・・・・

 人間はもとより、自然も何もかも劣化しているようだ

「夜桜修羅」p.41

引用終わり

とあるが、つげ忠男は、なぜこうした感想に行き着いてしまったのだろうか、疑問に思っている。

未完に終わっている「けもの記」では、明示的には決して描かれなかった直接的な”現在”への否定的な感想である。

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なぜなら、つげ忠男が描いてきた、「懐かしのメロディ」の終戦直後の風景や、『無頼平野』(ワイズ出版)所収の「旅の終わりに」(1971年)、「風来」(1974年)などのヤクザ者による暴力や売血銀行に集まる人々だって、”私利私欲ムキ出し”の醜悪な姿を描いているではないか。

1970年代から、過去に向かって照射してみた風景と対比して、現在は劣化しカッコ悪くなってきているのだろうか。おそらく創作者であるつげ忠男自身の感想として、そうした感想を有しているのだと思う。

しかしながら、私自身の感想としては、終戦直後の風景も現在の風景も、等しくカッコ悪いのではないかと思う。

終戦直後、あるいは、高度成長期の中で、我々あるいは我々の同胞と同じく地べたを這いずりまわり、時には他人を出しぬき、密告し、少しでも自分の取り分を多くする。

そうした人間感情の本質部分に今も昔も変化はないのだと思う。そして創作者として、その”現在”を差異化した上で過去からの劣化として表現する必要はないと私は思う。

終戦直後も現在も、失業者はいるし、その失業者の思いは、もしも醜悪なものがあるとするならば、同じくらい醜悪であるし、もしも尊いものがあるとしたら、同じくらい尊いのである。

では、現在の地点は、過去と比較して、何が「異なる」とつげ忠男は表現したいのであろうか。

物質的な豊かさの差異であろうか。

生存のための止むを得ない盗みと、そうでないものに差をつけるべきだというのであろうか。

そして、つげ忠男のガロ的(あるいは夜行的)なサブカルチャーの視座では、その差が明らかな有意差として観測できるというのであろうか。

しかし、そうしたガロ的視座に、ある程度共感していると自負する私には、既に述べたように、その差異は見えないのである。

そして、その差異表現をつくりだす創作上の努力、所作自体に何か特別な価値があるという意味すら見出すこともできない。

こうした現在への感想に対し、作者の価値観から、その現在を否定しないこと自体が堕落であるという反論も予想できるであろう。

しかしながら、その反論自体が、むしろ過去に固定された視座からのものであり、その固定された視座からは、現在の人々が直面している「苦しみ」を決して正しく認識できないであろうと私は思う。

戦後、そして戦後を照射した70年代の視座から遠く離れて、ガロ的視座はそのスペクトラムが大きく分裂してしまったようである。

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