【書評】オーウェル「1984年」と連合赤軍における”粛清”の現実

 ディストピア小説の古典的傑作ジョージ・オーウェル「1984年」(新庄哲夫訳)を読んだ。

 出版は1949年であり、科学技術の継続的発展を前提とした比較的明るい未来を描いた(誤解を恐れずに言うと、楽観的な)SF小説と異なり、“全体主義的管理社会”の悪夢を描いたディストピア(反・理想郷 =ユートピアの世界を描く)というジャンルが存在し、本書もその区分に入っていると言って良い。

 ハヤカワ文庫でもSFの枠でなく、NVの枠に入っているため、背表紙の色は白である。

 20世紀初頭に台頭してきたファシズムや共産主義などの全体主義・管理社会が覇権を得て強化していった場合に、人類の自由な生活はどうなってしまうのか?

 本書はこうした問題意識のもとに書かれた。

 ここで描かれる未来社会には個人のプライバシーはなく、常に政府から住民はテレビにより監視されている。住民同士も相互に監視し、互いを密告し合う「粛清」社会となっている。

 小説構成のうえで、こうした世界を、未来のある時点で成立させる根拠として

  1. 世界が大きな3国に分割・均衡状態となり、戦争の目的が相手の磯滅から余剰生産の消費に変化している
  2. 言語の簡潔化により複雑な思考や新たな想像力を抑止する(ニュー・スピーク)
  3. 党の無誤謬性のために歴史を日常的に修正することによる史的感覚の喪失
  4. 個人の意思を無くす考え方の奨励(ダブル・シンク)

 という仕掛けをオーウェルは作りだした。

 第二次大戦後の核戦争後の世界において、大国覇権主義が進み、ある種の均衡(囚人のジレンマ的な)状態が生まれ、同時に大国同士であるが故に、これ以上の文明の自己発展に対する駆動力が喪失されることにより”最重要課題が自らの体制の存続”となった管理社会の姿を描いている。

 そこでは、戦争自体も、体制維持のための単なる<生産一消費>のシステムの一部に組み込まれたものとなっている。

 主人公であるウィンストン・スミスは、こうした世界に対して自己の内部に少しずつ「自分のための時間・空間」を作り出し、ささやかな自由を求める。それがこの世界のルールに反すると理解しながら。

 結果として、自らが予期していたように捕縛され拷問される。その尋問では、単に異分子を排除するのではなく矯正することこそが目的であり、彼は自分自身の中で唯一侵犯されず自由であると信じていた精神の領域一心の中の特別な領域一すらも、破壊させられる局面を迎えるのである。

 彼を尋問するオブライエンは彼にこういう。

 「違うんだ!ただ自白させたり、罰したりするためばかりじゃない。ここへ君を連れてきたのはなぜか話してあげよう。君を治療するためだ!正気に立ち返らせるためだ!いいか、ウィンストン、ここへ連れて来られた人間は、完治しないうちにここから出て行くことは絶対にあり得ないのだ。われわれは、君の犯した愚かしい罪には興味がない。党は明白な犯罪行為などに関心はない。われわれが問題にしているのは、思想そのものだけだ。われわれはただ敵を破壊するばかりじゃない。彼らを改造してしまうのだ。(略)」(「1984年」p.329-330)

 引用終わり

 監視される囚人の最後の砦として自分の精神の内部が存在すると良く言われるが、「1984年」の世界では、この精神の守るべき最奥部にまで迫ってくる。

 そして政府(党)はウィンストン・スミスに対して、その目的を成功裏に達成するのである。

 これはあくまでフィクションだから、現実にはそうした事態は起こりえないのであろうか?

 そんなことはなく、この描写が現実のものとなったことを、我々は既に知っている。

 ・・・森氏(引用者註:最高幹部 森恒夫のこと)は、誰かからアイスピックを受け取って、寺岡氏(引用者註:これも幹部の寺岡恒一氏で粛清の対象者)の前に立て膝で坐り、静かな口調で、

 「お前に死刑を宣告する。最後にいい残すことはないか」といった。寺岡氏は、小さな声で、

 「革命戦士として死ねなかったのが残念です」

と答えた。(植垣康博「兵士たちの連合赤軍」p.311)

 引用終わり

 かつての新左翼による「連合赤軍事件(山岳ベース事件)」における「粛清」(同志殺し)では、仲間たちによって反革命として追い詰められた被害者が、最終的には自らを裁く論理に従い、裁かれるものじしんが自らが死刑になることを認めた。裁いた者たちが、裁かれる者のその心すらも降伏させたことが明らかになっている。

 まさに「1984年」の世界を、我々は1972年に実践したことになる。

 吉本隆明の共同幻想一対幻想一自己幻想の概念で言えば、共同幻想と自己幻想の間には互いに矛盾が生じる。そして常に共同幻想が自己幻想に対して優位に立つが、自己幻想には必ず不可侵の領域があるはずであった。

 しかしながら、この事例では、そうではなかったことになる。

 赤軍派の新左翼たちが行ったように自己幻想すらも完全消滅するレイヤーがあるのである。

 おそらくそうした彼らのイデオロギーの父祖である、スターリンによる大粛清、中国の文化大革命、カンボジアのクメール・ルージュによる大虐殺などでも、同じようなケースが多々あったのであろう。

 主人公ウィンストン・スミスは、物語終盤で自己の自由であった精神領域と引き換えに、元の生活に戻ることができる。結果として、その生活は前よりわずかに豊かになっている。自己の裏切りと体制への忠誠という奉仕によって社会のステータスが上がったかのように。

 そして彼は、もはやこの世界を愛するようになっている。 過去の自分を顧みて、銃殺されることを待ちわびながら。

 こうして「1984年」の世界には、再び体制に疑いを知らぬ人々が溢れる。本当に善良な人は戻ってくることはなく、ウィンストン・スミスのように何らかの裏切りを為したものだけが戻ってくることができるからである。

 このこともまた、我々の世界で同じことが起こった。ナチスドイツの収容所から生還したフランクルは著書「夜と霧」の中で、こう語った。

 「すなわち、もっともよき人々は帰ってこなかった」と。

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