議事録の作成権は、人事権も評価権も予算執行権もない無力な事務方に残された最後の権力である


 先日の記事(ビジネスで「ライフハック」を求めて彷徨う人々に、かけるアドバイスが無くて悩ましい)における、ライフハックについての具体的質問内容は、あの記事の文脈と直接関係ないので記載しなかった。

 実際には「議事録を速く作成するには、どんな裏技があるんですか」であった(記事内冒頭の○○には「議事録を速く作成すること」が入る)

 前記事では、その質問に至った”何かのスキルを得たいと思ったときに、まず実行して訓練するよりも先に、裏技を探す”というその基本姿勢について疑義を提示した。

 この記事では、その質問内容について別角度の疑義を提示したい。

 議事録作成・発行の持つ「権力」を、あまりに軽くみているのである。

 議事録を作成する権利は、ある意味権力を握っているに等しいのだ。しかしながら、どうも質問者のような人々からは「速やかに機械に置き換えるべき無価値な業務」と捉えられているようだ。

 会議での質疑及び決定事項・担当者が記載され、責任者の承認を得た議事録は、口頭での 「言った/言わない」を避けることのできる証跡であり、長い開発計画の中で、ややもすると最終ゴールを忘れがちな我々にとって重要な道しるべになるのである。 ”発行しても誰も読まない自己満足な業務”などでは決してないのである。

 議事録とは、組織内、組織間で色々な利害が絡み合い、1本道では進まない複雑な開発スキームを維持し、会議という「点」と「点」をつなげてゴールに向かう1本の「線」にするための重要なツールである。

 しかも、議事録は誰でも勝手に作成する訳にはいかない。その正統な作成者になるということは、アクションアイテムの取捨選択や担当者の設定などが裁量の範囲内で自由にできるということを意味する。

 あまり大きな声では言えないが、これは大きな権力の源泉であって、評価権も人事権も予算執行権もない無力な裏方である事務方が、唯一能動的に使える権力なのである。

 これによって、担当者への貸しも作れるし、責任者の発言を借りた業務指示もできる。

 もちろん言っていないことを記載する訳にはいかないが、発言の強弱やハイライトなど、 作成者の裁量で調整できる部分は非常に多い。話し言葉の文書化というのは意外にテクニックが必要で、話し言葉をそのまま記載すると、論理的につながっていなかったり、”あれ”、”それ”などの抽象的な指示語が多くて不明確なもので、後から補足をしないと意味が通らないため、補足が必須なのである。

 つまり、本質的な作業として、発言者の意図を正しく理解し論理的かつ簡潔な表現に変換する、というクリエイティブな行為がそこにはある。議事録作成を機械で代替すべきと主張する人々は、どうも音声を単に文字に変換して、そこから取捨選択するだけの行為、単なる儀式的なルーチンワークと解釈しているようだ。

 全く間違った認識である。

 確かに会議でイニシアチブを握っていたのは、その場で声が大きい人であるかもしれない。しかし、それはその会議の瞬間だけであり、現実には文字記録として永続的に残す議事録作成者の方が、よほどイニシアチブを握っているのである(下記記事参照)。

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 様々な見方があるようであるが、ソ連などの社会主義国家で「書記長」が最高権力者であったのは、一説には「”民主的な”会議の決定を、最終的に全体の公式決定として文書化するのは書記局であり、その文書の責任者である書記長が最高権力者になった」という主張もあり、私も事務方の立場における皮層感覚としてうなずける。

 人間の記憶は直ぐになくなる。「あの時の会議は何が決まったのか」「現在実行している行動は最終ゴールに正しく向かっているのか」といったことも、今この瞬間でも忘れたり、記憶の中に仕舞い込まれたままになってしまって、人間はすぐに見失う。共有文書化されないと人は直ぐに忘却してしまうものなのだ。

 よって、本質的に発散傾向を持つ組織的な開発体制を、ゴールの方向に常に修正する役目が必要になる。そのためにも、議事録を自力で作成することによって、議論の方向性を確認し、また、指揮官の意図を正しく把握することは事務方としては非常に意味のあることだと思っている。こうした海図を持っていない開発には間違いなく無駄が多く、犠牲を払うであろう。

 そうした重要な役目を、AIに代替だの、ライフハック術を探すだの、と低レベルな問題に還元されてしまい、私は混乱するばかりである。

 百歩譲って、いわゆるテープ起こし作業を機械化、自動化して、その後の文書に整える”付加価値の高い”作業に時間を費やしたい、という意図なのかもしれないが、これもズレていると思う。

 そもそも議事録作成でテープ起こしからスタートするのは、よほどのことで、一言一句話し言葉を起こす必要がある場合のみに限られる(そのような場合は滅多にない)。

 音源は、意図がわからなくなった場合のチェック用で、音源から議事録作成をスタートするのは愚策なのである。もっと言えば初心者向きというべきか。あくまで議事録とは文書なのであるから、その場で自ら書いたメモからスタートするのが正しい手段だと思う。そして、そのメモを基に論理を追いかけながら作成していく。自分の中で、会議を追体験し、理想のあるべき姿に再構築する作業でもある。

 特に、この音源の存在も曲者で、音源があることで安心してメモが疎かになってしまう。甘えができるのである。むしろ、音源を用意しないような状態で常時緊張した状態でメモを取るべきであろう。後は場数を踏んで訓練するしかないのである。

 といった回答を質問者には伝えたかったのだが、時代遅れの意見なのであろうか。

 確かに、こうして述べてきたことが、いわば「大企業病」の典型のような気もしている。潰しの効かないスキルといえば、その通りである。会議なんて、新時代のインフルエンサーにとっては無用の長物で、そのファシリテーターなど不要と考えるのも一定理解できる。

 しかし、ある程度の規模の組織で団体戦の効果を発揮することに特化していると言えばその通りである。ベンチャーや中小ではそもそもそんな役割自体が不要なのだから。まぁそれならそれで早く見切りをつけるしかない訳で、お互い睨み合いの様相から早期に脱却したいものなのである。

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