シベリア抑留と強制労働

はじめに

 1945年から1956年までの約11年にわたって行われた、ソ連による日本陸軍の捕虜約50万人に及ぶ強制労働、いわゆる「シベリア抑留」を整理した(第1章)。

 続いて、いくつかの論点を提示する。

 極寒のシベリアにおける過酷な労働環境(2.1節)、強制労働における組織統制の問題(特に日本軍が保有した「戦陣訓」の精神が、強制労働に対してどう対峙したか)(2.2節)、その後の「民主化運動」における組織分裂(2.3節)、更に捕虜労働の国際法的是非(2.4節)、そして底流としてのシベリア出兵の記憶(2.5節)を整理した。

 それらの論点を受けて、3章で「戦陣訓」に代表される戦前の日本軍の精神を敗北させた「強制労働」を再度概念的に検討しなおし、労働という概念が本質的に「強制」という概念を持っていることを論じる。

 4章では、労働にとって「強制」が不可避であり、他者との関係において「支配」が逃れられないとする前提のもとで、その「支配」を乗り越えるための方法を提示する。

(文中敬称略)

1.事実関係

 いわゆる「シベリア抑留」と称されている事件は、それ自体が様々な様相を持ち、現代にまでその影響を残す歴史的事象である。

 ここで”様々な様相”と記述した理由は、本事象が社会的に重層的な側面を持っていることによる。

 すなわち、簡単に思いつくだけでも

  •  国際政治権力のパワーゲームとしての側面
  •  戦前の日本軍あるいは帝国主義の精神的イデオロギーの側面
  •  国家の敗北に対する日本人の心情の反応
  •  捕虜を他国の労働力として行使する強制労働のもつ意味

 などが挙げられる。まず、事態がどのように進んでいったのかを理解する意味で、事実関係を以下に時系列にまとめた。

 表1 シベリア抑留に伴う時系列

日時出来事
1945年4月5日相互不可侵を謳った日ソ中立条約の延長非継続をソ連が通達
8月8日ソ連、ポツダム宣言参加表明、同時に対日参戦
8月15日日本、ポツダム宣言受諾および降伏を国民に発表
8月16日日本 即時停戦命令
 ソ連 侵攻継続 樺太占領
8月18日ソ連 千島占領
 関東軍山田大将とソ連軍極東司令官ヴァシレフスキー元帥による停戦交渉
8月23日スターリン「国家防衛委員会決定No.9898」により日本軍捕虜のソ連内収容所への移送・強制労働の決定
8月26日関東軍総司令部「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」ソ連へ送付
 大本営「関東軍方面停戦状況ニ関スル実状報告」ソ連へ送付
 停戦終了
9月2日降伏文書調印(ソ連も参加)
 日本人のソ連国内収容所70箇所へ収容、過酷な環境下で強制労働に従事。強制労働に従事した日本人は57万5,000人、死者5万5,000人(日本側推定)
1946年12月19日在ソ日本人捕虜の引揚げに関する米ソ暫定協定
1946〜49年47万人が順次引揚げ
1950年4月ソ連タス通信「日本人捕虜の送還完了」ただし政治犯(残留戦犯受刑者)は含まれず
1956年10月日ソ共同宣言、国交回復
1956年12月26日ソ連引揚船第11次興安丸(最終引揚船)で1,025人(遺骨24柱)が帰還

 「シベリア抑留」とは、第二次世界大戦で連合国に敗北した際に、満洲に駐留していた日本陸軍(関東軍)およびその軍属が、参戦したソ連によって、捕虜として長期に渡り強制的な労働力として使役された事件を指す。

 実際には表1に示したように、1945年の日本のポツダム宣言受諾、武装解除から、1956年の最終引揚までの11年の間、ソ連各地の収容所で約50万人の日本人捕虜がソ連の地で抑留され、労働を強いられたことになる。

 そうしたマクロに粗く捉えた見方であるが、より詳細には様々な問題が発生している。

 様々な事情で日本に帰れずソ連に定住した人々、ソ連から政治犯と認定され、更に拘束され続けた人々も存在する。

 また労働に対する補償問題もその後も残り、現在でも完全解決には至っていない「賃金未払い問題」として残った。

 極寒の過酷な地で捕虜として自由を奪われた日本人にとって、この「労働」とは、現代的にどのような意味を持っているのか。

 次章から、こうした歴史的事象に対していくつかの論点を定義して、議論をしてみたい。

2.論点

 前章で整理した事実関係に対する論点として、以下の5点にフォーカスする。

2.1 過酷な「労働」環境

 日本人が送られた土地は、「労働」環境としてはあまりに過酷な自然環境であった。その形態は、ソ連による強制労働であり、そこに労働者の意思が反映されることはなかった。

 もともとソ連(ロシア)は、囚人を過酷な労働に使役することを計算に入れていたと思われる。栗原俊雄は、それをソ連が元々持っている「強制労働依存体質」と呼んでいる(栗原俊雄、p.32)。シベリアも元々ソ連の囚人らによる強制労働で開発されたものである。

 後述するように、当時のソ連指導者スターリンはもともと参戦の条件として、北海道を占領する意思があったという。しかしながら、アメリカ大統領トルーマンにより、これを拒否されたことを受けて、満洲にいる関東軍の捕虜を自国の労働力として使役することに方針転換したとも言われている(坂本龍彦、p.270)。この意味では、日本の国土占領と引き換えに犠牲になったという側面もある。

 シベリアの自然環境は、-60度の極寒の環境であり、既に敗戦の段階で、装備はソ連軍に簒奪され尽くした中で、極めて過酷な労働環境であり、日本側の推定値だけでも55,000人が死亡したといわれている。

 労働者として以前に捕虜としての待遇であり、その労働は強制で行われた。十分な栄養などを与えられない中で、日本人は多く倒れていった。こうした痛ましい事例は、様々な著書で実際の体験として記述されている。

 その自然環境は現在の我々では想像できないかもしれない。以下のような”吐く息がその場で凍結する”ような現象が起こる。

やがて十二月、街を流れるアンガラ川に水を汲みにいくと、吐く息がすぐに凍りついて、サラサラと音をたてた。ヤクート人が「星のささやき」と呼ぶ零下六十度の現象だった。

(2)坂本龍彦、p.122

 そのような過酷な自然の中で、更に労働自体も過酷なものであった。前述のように、通常の労働環境より厳しい地域に囚人労働を配置するソ連の方針そのものが、捕虜としての日本軍に与えられることになった。炭鉱、鉱山、未開の地の開拓などである。

「チャバンボルガの作業は原石を掘り出すことから石灰を製品にするまでの一貫作業であった。(中略)毎朝七時、全員集合の上、各自の作業が告げられ、仕事に取りかかることになる。(中略)二名の石積み、三名の採石、二十五名の運搬班に分かれ三十五立方米の石積みを完成するのである。これが達成出来なければ食事も就寝も休養もとることが出来ない。(中略)石灰がウランバートルを初めモンゴル各地で行われた建築に使用される必需資材であったということである。毎日トラックが五台から十台石灰を引き取りに来た。これは国策であり是が非でも需要に供給せねばならなかったのである。我々がそのためにいかに生贄になったことか」

(2)坂本龍彦、p.119 林隆氏の「ウランバートルを偲びて」の再引用

コリマは金の産地だが、大島さんたちは鉛の鉱山で働いた。地下五百メートルの地底で一日十二時間労働。囚人たちはみな青くどす黒い顔をしていた。冬、一月下旬は零下六十度以下で一日中陽は上がらない。午後一時ごろ、空がほんのり白くなるだけでまた暗くなってゆく。(中略)地下五百メートルの地底では横穴を掘って鉛の鉱石をツルハシで掘った。食糧は冬季、飛行機が運ぶしかなく、一週間、輸送が途絶えたこともあった。馬糧の腐った塊り(燕麦)をも焼き、むさぼるように寝床で食べた。

(2)坂本龍彦、p.122 抑留軍人である大島英雄氏の「惨!極北コルィマの労働」より再引用

 更に収容所では、食糧も乏しく衛生状況も極めて悪く、人々は生存すること自体で苦しみを味わっていた。馬糞や自らの排泄物すらも再度食べるような、人間の尊厳という観点など遠い彼方に追いやられ、生存そのものに直面させられている体験は身につまされる。

零下三十度の寒さである。本来なら体の内部でエネルギーを燃やさなければならない。しかし、収容所で一日に支給されるのは、こぶしより小さい黒パン一個と、のぞきこんだ目玉が映るほど薄いスープのみ。カエルをつかまえ、ドックに浮かぶ死んだ魚をすくって食べた。残飯をあさっていた猫を捕まえて食べたこともある。

(1)栗原俊雄、p.49 軽野相之助氏の回想

コウリャンは消化が悪く大便の中にそのまま出てくる。これを布で包んで河で洗い、コウリャンだけ取り出し、缶詰めの空き缶に入れて火で炊いて食べた

(1)栗原俊雄、p.51 「読者の手記 シベリア強制収容所」からの再引用

「作業に行く途中、路上に落ちている『馬糞』、その中には、消化されていない麦の粒が残っている。ただ食うこと以外は頭にない。この兵は両手で馬糞を掬いあげ、中にある麦の粒を拾い出してうまそうに食べている。(中略)放心状態で、子供がお握りでも食べるように、無心になって馬糞を食べている有様を、この兵の親や兄弟などが見たら、どんな気持ちであろうか」

(1)栗原俊雄、p.51 「読者の手記 シベリア強制収容所」からの再引用

 更には、本来であれば同胞であり助け合うはずの日本人同士でも、奪い合いや盗みなどが起こるようになった。

最初の冬に黄疸で倒れた。食欲がなくなり、粥を残した。それを見た周りの男たちが「大勢でわあっと奪い合いになった」誰も看病しようとはしなかった。

(1)栗原俊雄、p.53

元大谷大学学長、廣瀬杲は、コムソモリスク周辺でなけなしのパンを盗まれた。すでに僧籍にあった廣瀬は「あきらめるのではなく『よし、こんどは俺が盗んでやる』と思ってしまった。結局盗みはしませんでしたが、私は餓鬼道に落ちた。信仰は壊れてしまったんです」。シベリアの飢えは抑留者の身体だけでなく、人間性をも砕いてしまったのである。

(1)栗原俊雄、p.54

 この廣瀬の発言にあるように、「人間性」自体も砕かれてしまったのである。

 だが、その際に、一つの疑問が湧く。彼らを支えているべき「支柱」は、その間何をしていたのであろうか。ただ過酷な運命を傍観していたのであろうか。

 ここでいう「支柱」とは、物理的には、当時の日本軍のもつ組織であり、精神的には天皇制のイデオロギーである。これらは戦前の日本を支えてきたものであり、敗戦と言えど一定の効力はありうべきと思われる。

 なぜならば、”1945年の敗戦”とは、まず第一に「軍事力」の敗戦と認識されていたはずであって、国家およびその精神の敗北との認識を当時の捕虜たちが持つ術はなかったはずである(国家およびその精神が、真に敗北したのかどうかという点も含めて)。

 更にはあくまで日本は連合国、あるいは中国と戦争をしていたのであって、ソ連と直接に戦闘し、敗北した事実はほとんどない。それにもかかわらず、何故その行為に対してある種の受容がなされるのであろうか。次節で日本軍が、ソ連に対してどのように対峙したかを検討してみたい。

2.2 日本軍の組織的・精神的問題

 捕虜集団を管理する上で、ソ連軍は当初日本軍の組織構造を残存させた。これは将校団と一般の兵の組織を残したことになる。つまり、一時的に日本軍の制度はそのままシベリアの強制労働においても維持されたことになる。ただし、その最上位にソ連がいることは言うまでもないが。

 その将校団は、日本軍の代表としてその環境を改善するために動いたのであろうか。また、その精神的な支柱となり得たのであろうか。

 以下に引用する事例からは、むしろ否定的な実態が浮かび上がる。

(将校団は)「俺たちは陛下の命令で停戦に応じただけで捕虜ではない」と公然と胸を張って言う始末だった。兵たち厳しい寒さと飢えに耐えながら悪戦苦闘を続けていたとき、彼等は兵食の上前を撥ねた特別食で将校室のストーブを囲み談笑するのが日常だった(略)

(2)坂本龍彦、p.69

 本来捕虜を代表して一般兵を守るべき将校たちは機能せず、むしろ一般兵の待遇と引き換えに自らの生存を図る妥協を行っているかのようだ。こうした将校団と一般兵の対立は根深い。

 また、日本が戦前その精神の精華として掲げた「イデオロギー」は一般兵を救ったのであろうか。その精神を誰よりも持っているはずの将校たちの振る舞いからは、その精神すらも機能していないように見える。

 例を挙げると、日本軍の精神的根拠となった”生きて虜囚の辱めをうけることなかれ”とある「戦陣訓」は、シベリア抑留の兵たちに、どのように機能したのか。そして、この「戦陣訓」は、軍部だけの手によるものではない。その成立において、島崎藤村、土井晩翠らの文学者、井上哲次郎などの哲学者の手が入っている(坂本、p.182)。まさに当時の日本の「精神文化」であった。

 1941年1月8日に布告された「戦陣訓」において、前述の”捕虜の全面否定”が入る。つまり捕虜は日本軍において存在しないことになる。よって、シベリア抑留において将校たちは何をどう振る舞って良いかすらわからない無力な存在となり、自らの生存のために取引をすることになる。

 全抑協会長の斎藤六郎は、怒りを持って以下のように語る。

こうした捕虜の人権無視に、天皇制軍隊のゆがみがさらに拍車をかけた。

国際法の基本が解っていないから、天皇陛下が捕虜に非ずといえば、それが世界に通用すると思っていた。関東軍高級参謀の中にはシベリアの抑留中最後まで「俺は捕虜ではない」との信念を通した呆れ果てた将校すらいた。彼らは自分に託された、国際法上の捕虜代表権を放棄し、恥じることがなかった。これら高級将校は捕虜大衆を擁護すべき人道上の義務を理解できなかったのである。

全く救いがない。なにゆえ天皇は「お前たちは捕虜である。捕虜の地位を自覚し生命をまっとうせよ」とまっとうな命令をしなかったのか。私はそれが残念でたまらない。私はシベリア抑留の悲劇はこの辺からはじまったと思っている。

(2)坂本龍彦、p.138 斎藤六郎の証言

 翻ってみると、他国の捕虜の振舞いは日本人のそれとは異なっていたことも示される(ただし、そこにはドイツ人のソ連に対する差別意識も明らかに存在している。全力に服従する日本人、支配される側を明確に差別するドイツ人、どちらが良いのかは議論の余地があろう)。

(ドイツ人捕虜は;引用者注)ソ連におもねることなく毅然としていた。日本人以上にノルマ以上に働いてノルマを引き上げ、自らの首をしめるようなことはしなかった。ソ連の監視兵の目を盗んでさぼる。国際法の規定で将校は労働を免除されている、日本人捕虜は半ば強制されて「自主的労働」を申し出るが、ドイツ人はそんなことをしない。赤旗は掲げないし、労働歌も歌わない。個人は別として、日本人のように集団で「民主化」されることはない。末端の兵までもが国際法を熟知し、主張すべきことはきちんと主張する。そもそも文化的に自分たちの方が優れていると確信しており、ソ連兵を見下していた–といったものだ。

(1)栗原俊雄、p.91

 そもそも、このシベリア抑留を産んだ原因として、ソ連の意思だけでなく、日本軍(関東軍)上層が、自らの労働力を交渉のカードとしてソ連と密約を結んだのではないか、という問題は「関東軍密約説」として今なお謎として残っている。

 日本軍が自主的に申し入れた可能性として、1993年に発見された、関東軍首脳の労働力提供申入れ「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」(栗原俊雄、p.156)などが存在し、この説を裏付けるものとして扱われている一方、その真贋についてはまだ決着を見ていない。

 しかしながら、当時の日本軍が持っていた精神は、強制労働の前に明確に敗北している。軍事力の敗戦ののちに、精神としての敗北を、将校団自らが体現しているのである。高杉一郎は、以下のように語っている。

懲罰大隊は、あたかも「着物が人間をつくる」とか「人間は環境の動物である」という古い諺を証明する実験管のようであった。この実験管は、人間という脆弱な動物のさまざまな化学変化を悲しいほどはっきりとみせてくれた。

ここに送られてきた当初は、藤田東湖の「正気歌」や吉田松蔭の憂国の和歌を声高らかに吟じて「サムライ」的な気骨を誇示していた将校が、一ヶ月の労働ののちには、円匙を握って作業場からひそかに脱け出し、近くにある畑で馬鈴薯を拾う姿が見られた。

(4) 高杉一郎 p.221

 そしてその生きて虜囚の辱めを受けた「敗北意識」は、将校団だけでなくシベリヤ抑留を経験した全ての人々が共有している。それは、生き残ったものさえも同胞への加害意識、贖罪意識としても現れる。

「生還した戦友に『シベリアでは何をしてた?』と聞くと、食料係とか医務室とか通訳などですよ。うまく立ち回って、重労働を逃れた。誰かが代わりにその仕事をさせられたんです」。

「そうだったととしても、生き残るために、仕方がなかったのでは」私(栗原、引用者注)はそう問うた。佐藤は長い間だまったあと、うめくように言った。「我々生き残った者はね、加害者なんですよ」。

(1)栗原俊雄、p.201 佐藤清氏の回想

 フランクルの発言とも類似するこのような贖罪意識は、本来第一義的には、強制労働をさせた側(ここではソ連)にその責任を帰するべきであるにもかかわらず、生まれてしまう。被害を受けたにもかかわらず、ある種の「後ろめたさ」を感じてしまう。これもシベリア抑留による精神的な敗北が生んだ産物であろう。

 高杉はその有名な一節で、以下のような「後ろめたさ」を感じる。

(前略)私はやはりひとたび虜囚の辱めを受けた者の心の傷みを感じないわけにはいかない。私は決して夜になって自分の家の裏口からこっそり入って行こうとは思わないが、もし父や妻や子供たちに再び顔を合わせる機会があるならば、そのとき思わず彼らの前に目を伏せるような心の淋しさを感じることであろう。

(4) 高杉一郎 p.138

 また、政治犯として11年獄中にいた内村剛介は、帰って来なかった人との対比でこう語る。

筆者(引用者注;内村自身のこと)のような臆病卑小な者ではなくて果敢に高く頭を下げて真実をその肩に担おうとしたものはみずからあらかじめ死者の運命を選んだというべきであって、その声はついに地下へ消えざるをえなかったのだ(たとえばわれわれ日本人は、ヴォルグタで東を向いたまま一言も発せず食を絶って死んでいった同胞を知っている)

(3) 内村剛介 p.225

 当然のことながら戦前の日本がもっていたイデオロギーは何一つ彼らの「後ろめたさ」を救済することはなかった。むしろ、シベリアからの帰還者をソ連のスパイ扱いするなどの差別意識で迎える態度すらとった。その原因には、もう一つのシベリアで起こった精神的敗北が背景にある。

 旧軍制度が支柱として敗北した状態から、さらに時間が進むと、冷戦構造を背景とした「民主化運動」と呼ばれるもう一つのイデオロギー闘争が内部で仕掛けられる。

 日本人たちは更に分裂する状況に追い込まれる。次節で詳細に述べる。

2.3 「民主化運動」に伴う組織のさらなる分裂

 前述したように、抑留当初は、旧日本軍の将校団が捕虜集団を「指導」してきたが、次第に共産主義化を目的とした「民主化グループ」に、その主導権の移行が行われてきたという。

 坂本の著書で、”日本に帰らなかった人”として、瀬島龍三の次の日本人捕虜団長である吉田氏の事例が紹介されている。彼は、1955年10月の日本人抑留者の集団的対ソ抗議運動として注目されたハバロフスク事件では、日本人の同胞から罷免を要求されている。つまり、彼はソ連寄りの人間と見なされていた(坂本龍彦、p.78)。

この民主化運動にも収容所の支配権を握ろう、ソ連当局に取り入ろう、といった権力志向がからんで、ドロドロとした抑留史の側面をのぞかせている。

(2)坂本龍彦、p.146

 こうした新たな権力構造-あくまでソ連の支配下限定でしかないのだが-は、最終的に”シベリア天皇”と呼ばれる新たな特権階級を生み出す。

 収容所における情報メディアを支配した「日本新聞」の日本側編集責任者:浅原正基などが代表的事例で、「自分たちを不当に連れ去り、強制労働させた国をほめたたえ、その指導者スターリンを礼賛している」(栗原俊雄、p.84)、そこでは日本軍のソ連参戦は、日本人民を解放したものと解釈される(栗原俊雄、p.85)。

 さらに、民主化運動が最高潮に達しつつあった1949年には、「スターリンに対する感謝署名運動」という(グロテスクな)運動が起こった。この決議文には6万6,434人が署名したという(栗原俊雄、p.99)。

理不尽な旧軍秩序への反発を引きがねとして始まったこの運動は、日本人が日本人を集団でリンチする「吊し上げ」や「アクチブ」と呼ばれた民主化運動のメンバーと反対派が帰国後までいがみあう悲劇につながった。

(1)栗原俊雄、p.73

 こうした民主化運動は、前節の旧日本軍の将校たちへの批判が根底にあった。

 軍人から知識人への権力移行という側面から、ある種の価値転換=”革命”運動として支持を得た。更に段階は進み、知識人(インテリ)層から労働者層への主体の移行も進んでいき、権力構造は変転していった。

 高杉は、こうした状況を以下のように分析する。

ソヴィエト・ロシアの全地域に散らばっている日本人俘虜収容所で、反ファシズム民主主義委員会の確立が叫ばれているとき、民主運動の啓蒙時代には大きな役割を果たした、頭脳は明晰だが、理論と饒舌のほかにはなんのなすところもないインテリゲンチヤ出身の指導者は、もう必要なくなったのではあるまいか。労働者農民出身の若い指導者で、自ら生産労働の先頭に立って働き、民主化運動の成果を収容所の作業成績の昂揚のなかに直接示すことのできる指導者があたらしくもとめられているのではあるまいか。

(4) 高杉一郎 p.204-5

 この民主化運動においても、旧日本軍の制度の「敗北」を見ることができる。第一段階の移行においては、ある時間が経過したのちに、彼ら=旧日本軍の将校たちは、もはや管理制度としても不要の存在であると、ソ連から見做されているのである。

 しかし、この民主化運動の新たな指導者も、同時に新たな権力者として、同胞の恨みを買っている。まさに我々がかつて新左翼運動や、中国の文化大革命で見たり経験したものと同様の思想矯正の姿を見ることができる。

 こうした二重、三重の対立構造はさらなる悲劇を産み、最終的な引き揚げの際に、ナホトカで乗船した人数と比べ、舞鶴上陸時の人数が減っている=民主化運動の権力者が海に放り込まれた(栗原俊雄、p.110)という事例も起こっている。

 つまり、最終的に逆コースを歩んだ日本に帰還するに際し、再度価値の転換が起こっている。

 その結果として、もはや”日本に帰らないことを選択せざるを得なかった”人々も生んでいる。

民主化運動の指導者の中にも、シベリアで彼らが「反動」として吊し上げ、批判した者たちの報復を遅れて帰国しなかった人々がいる、と言われている。

(1)栗原俊雄、p.132

 こうした対立自体も、第一義的には不当な強制労働に起因する問題である。しかし、その実態としては個人レベルの苦悩にまで落とし込まれ、決して個々の人生は救済されることはないという悲劇的な構図になっている。

2.4 捕虜労働の国際法的問題

 本節では、この「労働」における国際法的問題を整理する。

 シベリア抑留を「労働」の問題と捉えた場合、この「労働」とは一般に理解されている「労働」とは、明らかにかけ離れたものであった。

 つまり、労働者が自らの意思のもとに労働に従事し、対価と交換するような契約形態ではなく、自由を制限された上での強制であったという事実である。そもそも、依然として「賃金未払い」の問題は解決していないのだ。

 このソ連による捕虜の強制労働・使役が、国際法的に正当なものであったのかどうかという議論がある。ポツダム宣言との関連では、以下のような国際法違反の指摘がある。

ソ連も参加したポツダム宣言が、日本の軍隊は武装解除されたあと「各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会」を与えられると記している。にもかかわらず、ソ連による抑留は最長11年にも及んだ。明確な国際法違反である。

(1)栗原俊雄、p.38

 また、捕虜の処遇については、日本と当時の帝政ロシアは「陸戦慣習ヲ明確ニ規程スルヲ目的」とする、1907年の「ハーグ条約」は批准、調印している(坂本龍彦、p.178)。

 ハーグ条約の「陸戦の法規に関する条約」では「平和克後ノ後ハ、成ルベク速ニ俘虜ヲ基ノ本国ニ帰還セシムヘシ」とされ、この条約には帝政ロシア、日本政府も署名している。帝政ロシアの締結した条約の多くをソ連は継承しており、ハーグ条約にも拘束されている(栗原俊雄、p.161)。

 しかし、ハーグ条約の人道基準を明確にしたジュネーヴ条約(1929年)は、日本も批准したがソ連は批准していない。

 ジュネーブ条約によれば「捕虜の労賃は捕虜の所属国が支払わねばならない」とされる。すなわち使役する国が発行した「労働証明書」に基づき、これまでオーストラリア、ニュージーランド、東南アジア地域などで米英、オランダの捕虜になった人々には支払われた(栗原俊雄、p.139)

 結果として、敗戦を迎えた場所、捕虜になった地域によってその後の対応・待遇に差異が生じていることになった。

米英蘭などの捕虜となった日本人将兵には、行政措置として日本政府が未払い賃金を支払った経緯がある。(略)労働証明書が発行されており、帰国後、これに基づいて未払い労賃が支払われたのである。しかし、スターリン統治以来のソ連政府は労働証明書を発行しなかった。

(2)坂本龍彦、p.135

 斎藤六郎会長の「全抑協」裁判は、1989年に地裁で敗訴する。ジュネーブ条約が日ソ間で発効する以前に帰国していたことがその理由である。その判決で出てきた”受忍論”では「原告等の損害は、国民が等しく負担すべき戦争被害であり、これに対する補償は憲法の予想しないところである」(栗原俊雄、p.140)とされていた。

 その後のソ連崩壊後の1992年1月、ロシア共和国政府は労働証明書を発行・交付し、新たな裁判に展望を開いた。

 しかし、依然としてこの問題に対する結論は出ていない。労働としての補償すら結論が出ていないのである。

2.5 シベリア出兵の記憶

 前節でシベリア抑留における「労働」の国際法的な不法性を示した。そもそもソ連の第二次世界大戦への参戦自体が、日ソ中立条約の破棄に関する明確な違反であると考えることが一般的である(ソ連自体は、当然のことながら正当性を主張しているが)。

 この問題は、条約の解釈論という論点ではなく、全く別の論理の帰結であることは明白である。

 すなわち、枢軸国敗戦後の世界のパワーバランスを協議したヤルタ会談において、既に勝利者としての連合国(ソ連も含む)は、次なる世界の覇権に向けた権力闘争を開始していた。つまり、ソ連参戦の正当性には、軍事力の勝者であるが故に正しい、とする以上の根拠は存在しないと判断できる。

 ソ連側にとっては、勝者(後から参戦という不合理にもかかわらず)の権利としてのシベリア抑留であり、もしも公正な視点が可能であれば、そこに利と呼ばれるものは何一つない。

 シベリア抑留は、ソ連による非道と断言するしかないのである。

 しかしその背景として、ソ連の人々の当時の感情について、その公正のために一言することも必要であろうと思われる。

 それは、1918年の「シベリア出兵」の記憶である。

 日本は、米英とともにロシア革命に対し、反革命を支持するためにロシア領内へ出兵(軍事的な内政干渉)を行った。日本軍の派兵は他国に比較してずば抜けて多く、3ヶ月で7万3,000人、「ソ連にとってもっとも苦しい時期に干渉戦争をいどんだ日本への恨みは、深く残っていた」(栗原俊雄、p.27)という。

 黒島伝治「渦巻ける烏の群」「橇」といった小説でも描かれているように、シベリアという土地に日本軍が”侵略”し、ロシア人と戦闘する。そこでは、戦闘だけでなく非戦闘員であるシベリアの住民の労働力を強制し、物資を強制的に調達する描写が描かれる。公平な視点からしても、まさしく「侵略」なのである。

 つまり、シベリア出兵まで歴史の範囲を広げてみた場合、これはロシア革命に内政干渉をした「報復」である、という見方もできる。

しかし、江戸時代から続いている日露敵対と報復の歴史は、もう絶たねばならない、と思っている。シベリア抑留が生んだ学者(引用者注;加藤九祚創価大教授)はこういうのだ。「シベリア抑留も、考えてみれば七十余年前の日本のシベリア出兵の報復だったのではないのか。日本軍がシベリアの民や赤軍兵士を殺傷し、シベリアを破壊した歴史を償ったのだ、とも思います」

(2)坂本龍彦、p.139

3.労働の本質とは

 前章までのいくつかの論点において、戦前の日本が持っていた「戦陣訓」に代表されるような精神が、強制労働とそのシステムによって容易く思想的に敗北した経過を見てきた。

 本章では、このシベリア抑留を題材として、労働がもつ本質的性質について議論をしていきたい。

 強制労働とは、強制+労働というように、労働に強制的な制約を付与した用語と理解されている。しかし、そもそも「労働」という概念自体に強制的な性質が内在していないのであろうか、という問いを議論したい。

 労働というものの本質は、自然の人工化(疎外)である。すなわち主体たる人間が、自然に働きかけて、自然から客体として認識される対象を取り出す作業(客体化)である。

 ここまで見てきた一つの極端な類型としてのシベリア抑留における強制労働とは、支配関係の同心円的多重構造といえる。具体的には、最外周にソ連の管理層による支配構造がある。その1層内側には(ある時期において)旧日本軍の支配構造があり、その更に内部には、人間関係としての支配構造があるという連環的な多重支配関係がある。その連環の中心にまで突き詰めると、自己と他者という単純な基本要素にまで還元されるであろう。

 そして、この最終的な基本要素においても、なお「他者」自体を客体化、人工化することは原理的に可能である。そして他者の客体化とは「支配」のことである。

 労働自体がその概念を突き詰めると「支配すること」を定性的には含み、その支配対象が”自己でない「他者」”に直接的に対して向けられた時、それは「強制」になる。

 つまり労働の本質に「強制」があり、労働とは強制労働に他ならないと結論づけることができる。

 シベリア抑留の過酷な労働においても、また同様に過酷な炭鉱労働でも、労働自体を数値化する仕組みの中で効率化を見出し、これを達成する「喜び」はあったという。

 ビジネスをスポーツのように理解し、他人をプレイヤーとして尊重し、あくまでゲームのルールにおいて独占を目指すような労働観の議論もある。

 しかしながら、それらは労働がもつある種の側面に過ぎないのであって、その概念において本質的に「強制」が潜む。労働という概念はニュートラルなものではなく、良い労働と悪い労働がある訳ではない。言い換えると、あらゆる労働は、強制労働に変わりうる潜在的な可能性を、その萌芽=基本要素として秘めているのである。 

 このことが、現代においても、労働問題がその環境や法的整備を進めた上でもなお人々にとって不幸な問題を生み出し続ける要因となっているのではないだろうか。

4.強制労働を乗り越えるために

 前章で、労働の本質は強制的であり、条件が揃うと強制労働に転化しうると主張した。では、この「強制労働」を回避するためにはどうすれば良いのであろうか。

 つまり、「支配」は存在することを前提として、それを回避するためにはどうしたら良いのであろうか。

 「支配」を少数から多数に広げていくという進歩主義的な解決方法は、既に我々が経験した新左翼運動の粛清の歴史を見るように、誤りである。

 残された道は、「個人」のなかに強制関係を無効化する、絶え間ない斥力をもつことであろう。「BがAをして、〜をなさしめる」という使役の構造を、「Aが〜する」という形で、Bを無効化する方法を探るしかないと思われる。言い換えると、他者による自己への解釈を拒否する姿勢をもつことであろう。しかし、それは非常に困難な道を歩むことは間違いない。だが、それしか道は残されていないと思われる。

 確かに個人としての人間は、弱く、はかない。福田恆存が「人間・この劇的なるもの」(関連記事:【書評】福田恆存「人間・この劇的なるもの」進歩主義の欺瞞を暴いた”奴隷の思想”の瑕疵と、<部分の中にある全体>概念導入による修正)で、以下に述べたように、個人が支えなしに全体としての流れに逆らって存在することはできないであろう。

 (前略)精神の自由こそ、唯一の拠りどころであるとしても、そういうはかないものによって自己の正当さを信じうるほどに、ひとはみずからを強者となしうるであろうか。ひとびとは節操などと安易に口にするが、時代に背く自己を基準にして、逆にその時代を裁くことが、どうしてできるだろうか。そんなことは不可能だと思う。なんびとも孤立した自己を信じることができない。信じるに足る自己とは、何かに支えられた自己である。私たちは、そのなにものかを信じているからこそ、それに支えられた自己を信じるのだ。

福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)p.90-91

 福田は、支えられるべきものとして、自然の周期を形式化した祭儀的な伝統を全体とするが、これもシベリア抑留の現実の前に有効な言説となっているとは言い難い。福田が選択肢から、敗北必至として消去したであろう「孤独者」の生き方、そしてそれを「奴隷の哲学」としないために何を拠り所とすべきなのか。

 そのヒントとなる、これまで見てきた文献の中から、いくつかの引用を行い、本論を閉じたいと思う。

 高杉一郎は「教養」として語る。

私は命令と鞭とびんたで行われた軍隊教育がいかに脆いものであるかを、ここで痛感させられた。誰にとってもおなじように過酷な条件を、堪えがたい現実であったが、結局その条件に堪え抜いたものは-たとえ受け身の弱々しい方法であったにしても-少数の将校服のなかにかくされていた市民的な背広の人間の教養であった。

(4) 高杉一郎 p.222

 外交官中村茂は、精神的な意思の力として語る。

「このような非道な屈辱的な生活に満足しているように自ら思いこむことは(中略)自分の尊厳を不当な圧迫の奴隷にすることである。豚になって豚小屋に飼われることに満足することである

(2)坂本龍彦、p.15 外交官 中村茂の手記より再引用

 11年間政治犯として収容所で過ごし、最終引揚船で帰国した内村剛介もまた同様に精神の糧、ことばの力として、こう書いた。

ラーゲリや監獄に拘禁されている者はその肉体が奴隷なのであり、逆にそれを監視する者はその精神が奴隷なのである。(略)肉体の奴隷の中には精神を奴隷にしてはならぬという不断のたたかいがあった。(略)衰え果てた肉体を養うところの物理的な糧は絶対的に乏しく、その不足を補うものは無限の精神の糧である。(略)当局の審問は判決があったのちも続く。それは拘禁の全期間にわたる。この審問は精神の糧を奪い、かくしてついにみずから進んで隷従するところの「奴隷の心性」をつちかうことを目的としている。だから囚人は自らの精神の糧を守り養い、これを当局に向けざるを得ない。この精神の糧をめぐるたたかいは、ことばにはじまり、ことばに終わる。

(3) 内村剛介、p.226

 個人が内部に持つ論理、言葉、知識、意志、こうしたものへの言及であるが、更に突きつめると、極限において個人が孤独の果てにこうしたものを媒介として、何を「支え」として取り出したのか。

 それは、「自己の中にある全体性」であろう。これは福田の文脈における「全体性」、「戦陣訓」に代表される戦前日本のメンタリズム、自然宗教的な日本人としての自覚、こうしたものいずれとも異なる。

「自己の中にある全体性」とは、いわば、ひとりの人間が存在するために連綿と続く生物としての必然性であり、これこそが我々にとって強制と孤独に抗する最後の支えとなると思われる。

参考文献:

  • (1)栗原俊雄「シベリア抑留-未完の悲劇」(岩波新書)
  • (2)坂本龍彦「シベリアの生と死 歴史の中の抑留者」(岩波同時代ライブラリー)
  • (3)内村剛介「スターリン獄の日本人 生き急ぐ」(中公文庫)
  • (4)高杉一郎「極光のかげに」(岩波文庫)
  • (5)黒島伝治「渦巻ける烏の群 他三編」(岩波文庫)
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