【書評】福田恆存「人間・この劇的なるもの」進歩主義の欺瞞を暴いた”奴隷の思想”の瑕疵と、<部分の中にある全体>概念導入による修正

はじめに

 福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)を読んだ。1956年、戦後11年経た頃に発表された論争的な書である。

 当時の世相状況は、第二次世界大戦敗北後のサンフランシスコ講和条約が成立(1952年)したのち、冷戦構造が成立した中で、いわゆる反共的な政治状況=”逆コース”が進み、この世界状況(冷戦構造)を反映して論壇も、いわゆる進歩主義的・革新的な思想と、保守主義が先鋭的に対立していた。

 進歩主義的な主張は、いわゆる旧来の日本軍国主義に対するカウンター的な意味もあり、個人主義を旗印として、旧弊な習俗・伝統を否定し、自由を求める”解放思想”であった。

 いわば当時の進歩的文化人の主流に対して、福田は真向から反対意見を提示した。

 本書は、こうした進歩思想に対する一連の福田による論争の中で、彼らとの本質的な人間観、幸福観の違いを感じた福田が、その人間観に基づいて”個人主義的ヒューマニズム、あるいは、自由思想は人間を幸福にするか?“という問題を設定し、その論拠の自己撞着を明示することにより、反証を行なっている。

 この論点は現時点でも有効であり、今この時代に読まれるべき古典としての価値を有している。ただし当然のことながら、そこには現代的な観点からの見直しも必要であろう。

論点の整理

 以下に、福田が本書で主張している論理を筆者の責任において図示化したうえで、その反証の論理を追ってみたい。

 その上で福田自身の論理自体にも、ある種の論理矛盾があることを指摘し、それを新たに解釈しなおすことを提案する。

 表1に本書における対立構造の論点を整理したものを示す。

 表1では、進歩主義、保守主義と比較して記載した。当然のことながら、福田が拠って立つ保守主義の立場で整理されたものである。

 それぞれの立場には、より基本的な「原理」が記載され、差異が明確化されている。ここではその原理を2点とした。

 原理と称したのは、それ自体で証明ができないもので、いわば立場のようなものであり、端的には”好き嫌い”である。そして福田が攻撃する「進歩主義」との差異、すなわち論点は、本書の主題でもある「人間が幸福に生きること」である。

 これの対立する論点が、いずれの立場がより論理として優れているかを議論している。

 そして、保守主義者である福田は、有名な”奴隷の思想“による自由思想、解放思想、進歩思想のもつ自己欺瞞、自己撞着を明らかにした。その予言は事実、その後の社会主義国の弾圧、新左翼運動の粛清の歴史によって正しさの実証もされている。

 奴隷の思想とは、以下のようなものである。

自由ということ、そのことにまちがいがあるのではないか。自由とは所詮、奴隷の思想ではないか。私はそう考える。自由によって、ひとはけっして幸福にはありえない。自由というようなものが、ひとたび人の心を領するようになると、かれは際限もなくその道を歩みはじめる。方向は二つある。内に向かうものと外に向かうものと。自由を内に求めれば、彼は孤独になる。それを外に求めれば、特権階級への昇格を目ざさざるをえない。だから奴隷の思想だというのだ。奴隷は孤独であるか、特権の奪取をもくろむか、つねにその二つのうち、いずれかの道を選ぶ。

福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)p.84

 すなわち自由主義に基づく進歩主義は、自由を求めながら決してその目的を達成しえない、つまり自己矛盾を生じているとする。

精神の自由の頂点においては、ひとは自己を証するために、自己以外のなにものも必要としなくなるだろう。かれは他人を否定し、不要物と化する。物質的自由においても、それは同様である。その極限においては、それは他人の否定を意味せざるをえない。(略)自分以外のすべての存在は、人間であろうと、組織であろうと、物質であろうと、ただ自己の快楽を保証するための媒体としてしか意味をもたなくなる。それが自由というものの正体であり、奉仕と屈従とを裏がえしにした生活原理にほかならない。

福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)p.91

論点の評価

 この”奴隷の思想”による進歩主義への福田の反証は、公平な目で見て、福田のほうが2つの点で優れていると判断できる。

優位点1:より根源的な理由に基づいていること

  ロレンスの例にもあるように、福田の論点の方がより人間にとっての生命性にまで広げた論理であり、いわば”生物としての人間”としての観点を持っていることである。

優位点2:より首尾一貫していること

 繰り返しになるが福田による”奴隷の思想”の論理は、進歩主義の拠って立つ原理に基づくと、それが論理破綻していることを示している。同時に福田の論理自体には(一見)それはなく、原理に基づき首尾一貫している。いわば、よりself-consistentな理論であると言える。

福田の論理矛盾

 ただ、急いで付言しておくならば、首尾一貫しているように見える福田の論理にも、いくつかの瑕疵が指摘できる。それを以下に検討しておきたい。

 福田の論理の優れた点としてあげた2点について、優位点1は単純に議論を生物学的な話に拡張しただけという指摘もあろう。また、優位点2については、厳密に検討すると「比較的」首尾一貫しているにとどまっていると考える。つまり、福田の論理にも、程度の差こそあれ論理矛盾を有している。以下で詳細に検討する。

 具体的な論理矛盾は、死についての思想である。

 福田は、以下のように「全体に対する部分の俯瞰」を錯覚であると否定する。

今日、私たちは、あまりにも全体を鳥瞰しすぎる。いや、全体が見えるという錯覚に甘えすぎている。そして、一方では個人が社会の部分品になりさがってしまったことに不平をいっている。私たちは全体が見とおせていて、なぜ部分でしかありえないのか。実は全体を見とおせてしまったからこそ、私たちは部分になりさがってしまったのだ。ひとびとはそのことに気づかない。

福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)p.32

 しかし、必然としての死、生を正当化するための宿命としての死と解釈する福田自身が、「全体を鳥瞰した」視点に拠っている。これは全体は鳥瞰できず不可知として捉えた福田の原理①と矛盾する。

かれらがそのために死ぬに値するものが生のなかにあったのであり、それがまたかれらに生きがいを与えていたのだ。(略)そのために死ぬに値するものは、たんなる観念やイデオロギーではない。個人が、人間が、全体に参与しえたと実感する経験そのものである。それは死の瞬間においてしか現れない。(略)私たちは死に出あうことによって飲み、私たちの生を完結しうる。逆にいえば、私たちは生を完結するために、また、それが完結しうるように死ななければならない。

福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)p.112

 つまり、福田も指摘しているように、幸福に生きることにつながる「死」とはまず自分の死であるが、われわれは他者の死しか経験できない。これに対して、全体のもとで宿命としての必然を語るとき、部分を超えた視点、いわば鳥瞰的な視点が必須になる。これは福田の原理①と矛盾する。

 また、”奴隷の思想”についてもひとつ瑕疵がある。内と外の2つの道筋があるとされ、その1つ「孤独」を否定する際に、そこに原理的な主張が存在する。

 つまり、「孤独者が全体の支えなしに生きられない」として、この選択肢を排除する客観的根拠が何も語られていないのである。福田自身も何度もこの部分は繰り返し語っているが、原理的な主張の域を出ていない。

論理矛盾の回避

 では、進歩主義と保守主義はどちらも似たようなものであるのか。そうではないであろう。より根源的である福田の論拠を自体を修正することは可能なはずである。

 それには、”部分の中にある全体”、という考えを導入すれば解決できると思われる。

 優位点1にあげた論拠である、より根源的な理由としての生物としての人間、あるいはロレンスからの言及である”性の問題”である。これは、生物学的な用語で換言すると、要するに”大脳新皮質から大脳旧皮質へ遡れ、それが幸福だ”といっているに等しい。既に述べた通り、この主張自体は、より広い概念への拡張であり、福田の論理が強力なゆえんである。

 これを更に根拠づけると、何を意味しているのか。自己のなかに、生物学的な進化の歴史があること。そして自己の生命の存在は、過去に遡る何世代のもの先祖の歴史そのものであり、これこそが「部分のなかにある全体」なのである。

 先に福田の原理的な主張であるとした「孤独者は全体に支えられないと存在できない」という主張もまた、この「部分の中にある全体」という観点を付加して拡張されなくてはならない。

 孤独者は、自己のなかにある全体によって支えることができるのである。これによって先ほど瑕疵を指摘した”奴隷の思想”も、孤独者の論理によって自己矛盾を回避される。

 無意味な死や誰にも知られることなく孤独に死んでいく例は、沢山存在する。炭鉱労働や、シベリヤ抑留の日本人もそうだった(関連記事:シベリア抑留と強制労働)。また現代のブラック労働による孤独死もそうである。彼らの「死」は福田の論理では評価できない。それを救済する必要がある。

 当然難しいことは言うまでもない。だが、そこに孤独者が生きていく幸福論の可能性があるのではないか。

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