【書評】村松秀「論文捏造」-ベル研究所の世紀の大捏造事件と”発見”の栄誉の正統な帰属とは


 村松秀「論文捏造」(中公新書ラクレ)を読んだ。アメリカにおける最先端研究所であるベル研究所で、2000年から起こった「世紀の大発見」と、それが研究者による不正行為(データの捏造)であったことが判明するまでのドキュメンタリーである。

 実は我々はこれを他山の石とはできなかった。

 考古学における旧石器捏造事件、そしてSTAP細胞事件、そしてそれらがあまりに大事件故に隠れてしまった様々な不正事件群をこの日本でも発生させている。

 このベル研究所で起きた問題は、上記の事例と同じくいくつかの現代科学とそのコミュニティが抱える課題を内包している。

 最先端にあるがゆえの境界領域や専門領域の細分化により、部門横断的な成果に対して専門家が非常に少なくチェック機能が働きにくい構造になっていること。ただこれは一方で、イノベーションの本質でもありブレークスルーはこうした常識外あるいは既存の発想外によって生まれる事実もある。したがって、大発見は本質として「今までそこに材料は転がっていたが、それを気づいていないだけ」という側面を持っている。

 今回も「高温超伝導」、「有機材料」、「酸化物の薄膜スパッタ」、「半導体プロセス」という最先端かつ異分野融合という側面があった。特に発想そのものは「有機半導体」「有機エレクトロニクス」という極めて現代的なテーマなのである。

 そこに先行者の「権威」という要素が加わる。これもバイアスとして存在することが本書でも指摘されているが、権威とはそれ自体悪いものではなく、要するに「専門性」であり「信頼性」と言い換えても良いであろう。この構図も、旧石器捏造事件、STAP細胞事件、常温核融合フィーバーでも起こった。

 今回の捏造の主犯とされた研究者は、最後まで「自分はその現象を確かに確認した。ただそのデータやサンプルは全て持っていない。捨ててしまった。再現は確かにできていないが、その理由はわからない」という主張をしている。世界各地での追試でも現象は再現されず、成功したとする実験装置は彼だけが独占した「マジックマシン」であり、最終的にその装置を使っても再現はされなかった。

 確かに不誠実な態度であり、証言に信用性はないと判断されるであろう。私もそう思う。だが、彼が「見た」と主張する以上、本当にそうであった可能性を完全消去することもできないのである。

 今回の事件における疑義のきっかけは、彼が論文で主張した「有機物に酸化アルミニウム薄膜を形成することにより高温超伝導体となる仮説の実験的検証」が再現できないというものである。

 この仮説自体はシリコンを対象とした電界効果トランジスタの原理そのものである。従って、物理仮説としては一定の妥当性がある。

 また、ここで登場したスパッタリングなどの成膜技術は、半導体製造技術(薄膜形成工程)として既に産業界で実際に高度に実用化・応用されているものであった。

 例えば、ハードディスクの高集積化を実現した巨大磁気抵抗効果は、まさしくスパッタリングによる薄膜形成技術によって実現できた。既に数原子層レベルといったミクロの世界で精密なコントロールが現実的に可能である。そこには製造技術として様々な手法の開発が必要であり、そこにもまたブレークスルーがあった。確かに製造技術として容易にマネのできない「レシピ」や「装置技術」は存在する。そして、それを秘匿する意味も確かに産業界の先行者利益として理解できる。

 この「マジックマシン」もその実態が不明な時点ではリアリティがあった。実際に高度になった半導体製造の現場ではそれに近いことが起こっているのである(ただ、彼の「マジックマシン」の形状は、いわゆる旧来型ベルジャータイプであり、むしろ非常に原始的な構成である。この例からも信憑性に大いに疑念が湧くのは当然であろう)。

 私自身、かつてある噂話を聞いたことがある。伝聞に伝聞を重ねているので本当かどうかはわからないが。

 ある電子部品を製造するために巨大な投資をしたメーカがあり、製造装置を作ったがどうしてもうまく生産できない。歩留まりが悪く、いつまで経っても大量生産に移行できないのである。製品計画は遅延し、製造装置メーカも手離れの悪い装置となり、疲弊していた。採算が取れず、撤退するメーカも現れた。

 そんな中、ある電子部品メーカのトップの前で製造装置の動きを見せろ、という場面(これもよくあるテコ入れ策で)があった。要するにうまくいっていない状況をトップ自らが視察することで鼓舞する意味があるので、労力をかけてリハーサルもするが、やはり当日まで装置は立ち上がっていない。ある意味関係者も、喝を入れられる覚悟でそのデモに臨んだ。

 しかし、その実際の場面で起こったことは、装置画面に完全に所定の性能を達成したことを意味する「数値」が出たのである。電子部品メーカのトップは当然成功と見て喜ぶ。そして、この製造装置を量産のために大量発注せよ、という指示が飛ぶ。だが、関係者は自分自身でも、なぜそうなったか理由がわからないので、半信半疑で喜べない。

 この真相は、実は装置の画面表示の「バグ」であった。

 装置はその時、別の理由の動作不良により、内部でエラーを出していた。制御的には、そのエラーが発生した時点で、画面に予め適当な表示をするようにプログラムを組んでいたが、その数値が偶然、装置の目標とする数値と一致していたというのである。つまり、装置は現実的にはエラーとして止まっていたのに、結果的に装置としての最高性能を示したように振る舞ってしまったのである。制御技術者がたまたま入れただけの数値なのだが。

 やはり実際の性能は出てなかった。しかし、もはやそうした真相は、関係者誰もが公にはできない。

 その結果、何が起こったか。

 なんと数ヶ月後には、その装置を使って所定の製品が、高い歩留まりで実際に製造できるようになったのである。

 つまり、確かにその製造装置には性能を出せるポテンシャルはあったのである。しかしその条件が見出されていなかっただけであった。

 だが、そのポテンシャルがあったということは、所詮結果論に過ぎない。運がよかっただけである。

 自然科学における実験データの再現性と同様に、結局は具体的なモノを製造して現実化しないと意味はない。しかし、上記のように、それよりも前に「できた」ように(故意ではないが)偽装してしまう状態も起こりうる。つまり、ここでは「一度はできた」(実際にはミスだが)という瞬間があり、結局最後は辻褄があって「できた」ことになる。栄誉は確かに正統な所有者の元に帰属された。

 今回の事例も、理論的な仮説としてはありうるものであり、この仮説が将来的に実験的に証明される事は起こりうるだろう。それはしかもベル研の自体と同様にアルミ酸化膜をつけるという方法かもしれない。

 その場合の栄誉は誰に与えられるのか。

 「一度はそれを見た」と証言する捏造した研究者であろうか。

 それは当然異なるであろうが、その時、もし本当にそうだったら・・・という可能性はゼロではないはずだ。これはSTAP細胞事件でも同様である。

 その場合、悲劇の研究者を産んだこととなるのであろうか。

 この点は自然科学の進歩自体にも同様の構図がある。誤りを修正しながら進歩してきた歴史があるからである。

 その時点の学会、コミュニティで承認された業績も、現時点で否定されているという事実も多い。しかし、れでもその研究者がその時点で誤っていたとは言えない。

 今起こっている正しさも、未来のフレームワークから見ると誤りの連続である可能性も十分にある。

 自分自身が今誤っている可能性を常に感じているが故に、科学者コミュニティとしても非常にナイーブな問題を含み、歯切れの悪い後味の悪さが残るのであろう。もちろん、ここで問題にしているのは、誤りと偽装(故意)・捏造との違いは存在する上で、個人の経験という要素を考慮した場合に、それを「客観的事実」として峻別することの困難さのことを指している。

 最終的には科学者としての誠実さ(どこまで自分の行動・結果を客観的に証明できるか)が問われているのであろう。

 繰り返しになるが、今回の主犯とされた研究者の態度が不誠実である事は間違いない。

 だが、彼個人はこれからも自分自身のストーリーを信じ続けるであろう。そして、もし将来に彼とは別の人間により偶然仮説が検証されたとしたら「悲劇の犠牲者」というストーリーが新たに彼の中で開幕するであろう。さらに世間と彼のギャップは広がり、そのことを想像するとやるせない気持ちになってしまう。

 

 

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