【書評】半藤一利「指揮官と参謀 コンビの研究」人と人の化学反応による組織的行動、そして人材マネジメントにおける”失敗の本質”


 半藤一利「指揮官と参謀 コンビの研究」(文春文庫)を読んだ。14組の指揮官と参謀の組合せと、それによる組織的行動の”失敗”を系時的に描くことにより、昭和初期の満州事変から太平洋戦争敗北に至る日本という”組織”の課題を「人事マネジメント」の側面から描いた名著である。

 個人が集まり、組織として行動することによって集団的・組織的行動を行い、組織としてのアウトプット(成果)を生み出す。そこには統制があり、状況判断と意思決定がある。

 組織論としては、最上位にリーダー=最高権力者である「司令官」が存在し、リーダーの意思決定を補佐する「参謀」と言うスタッフ的な存在がある。

 これは多くの組織において普遍的に存在するであろう。

 そして、その「司令官」と「参謀」の組合せによって、組織としてのアウトプット(成果)は大きく左右され、プロジェクトの成功・失敗を決定づける要因になる。

 本書で掲げられるプロジェクトの歴史的実例とは”戦争”であり、人間の生命や国家という巨大な存在そのものを左右する、重く大きなプロジェクトである。

 一人の人間としても「司令官」と「参謀」の特性を併せ持つ人格というものは、殆どいない。結果的に、それぞれの適性を有したものが人事マネジメントの決定結果として組織に配置され、相互補完的な関係となる。

 こうした「司令官」と「参謀」の組合せが悪い化学反応を及ぼすと、組織的行動の停滞や誤謬を生み出すことになる。本書では、こうした実例を挙げており、組織論として非常に有効な書籍である。

 いくつか概要をまとめてみた(文中敬称略)。

「板垣征四郎と石原莞爾」

 提案力に優れているが実行力に欠ける参謀(石原)と、粘り強い実行力・説得力を持った司令官(板垣)のタッグが、極めて細い成功確率を持ったラインを綱渡り的に維持し、時には挫折しながらも、「満洲事変」といういわば「軍部による独走の追証」(=一時的に統制を逸脱しても、最終的に大功を得られれば、それは遡及的に軍人としての栄誉になる)を認めさせた先駆としての前例を歴史的に作ってゆく様が描かれる。

「永田鉄山と小畑敏四郎」

 上下関係というより元々陸軍同期で、ともに理想を掲げた同志であった二人が、「統制派」と「皇道派」という陸軍を二分する派閥に分裂し、相沢事件(永田の暗殺)および2・26事件(皇道派の一掃)を経て、統制派である東條英機に権力を与えるまでの争いが描かれる。

 これも思想的には、皇道派が対ソ強硬論(対中、対米英は事を構えず)であり、統制派が対中強硬論(対中一撃論)という軍事作戦上、および国際戦略思想上の先鋭的な対立が背景にあった。

 そして、陸軍の人材マネジメントそのものが、”同じ山に性格の異なった虎を放つ”というような対立を煽るような人事を行うのである。

 いわば、この対立が、最終的に陸軍の主導権を握った統制派(対中一撃論)=東條陸軍の主導により、想定外の持久戦となる対中国戦争の泥沼に引き摺り込まれた出発点とも言える。

「河辺正三と牟田口廉也」

 有名な失敗例である「インパール作戦」において、既に歴史家から多くの非難を受けている”愚将”牟田口廉也だけでなく、現場主義で野戦志向であった牟田口の上官として”エリート”河辺が、牟田口の独走に対して如何なる掣肘も指導もできず、ただ傍観するのみであった状態が描かれる。

 そして、両者は敗戦の中で、責任を互いに持ち合う(あるいは相手に押し付け合う)補完関係という、やるせない平衡を作り出している。

「服部卓四郎と辻政信」

 前述の板垣と石原の例と類似し、個人としての作戦能力は卓越しているが組織的行動が苦手であった参謀(辻)に対して、歯止め役であり官僚的能吏として優秀な司令官(服部)が組合わされたことにより、満州事変と同じく関東軍による現場での独走(フロントライン・シンドローム)を生み、ノモンハン事件を拡大させてゆく。

 一度はその責任により左遷される二人であるが、”不可解な人事”により、再び陸軍中央(参謀本部作戦課)に戻る。そして、再びその最強硬論をリードし、対米開戦判断をさせるに至る。

「岡敬純と石川信正」

 海軍の対米強硬論・開戦論をリードしたコンビである。

 ロンドン軍縮条約における、海軍内の条約派(米内光政、山本五十六、井上成美)と艦隊派(伏見宮博恭王、加藤寛治、末次信正、岡、石川)との対立の中で、米内・山本・井上ラインに政治的に”勝利”し、陸軍と海軍が史上最も協調した状態を生み出していた。

 つまり、開戦に反対していたという後世の評価がある日本海軍も、この当時において独自の対米強硬論を持ち、対米開戦にむけて積極的に工作をしていた事実が指摘される。

 それをリードしたのが、策士・寝技師(岡)と軍事だけでなく政財界に広い情報網を持つ理論家(石川)のコンビであったとする。

「東條英機と嶋田繁太郎」

 太平洋戦争の東條内閣を支えた陸軍(東条)と海軍(嶋田)の代表であり、両者ともに戦犯となった有名な二人のコンビについて述べている。

 どちらも軍人の資質としては、能吏型であり官僚としての事務処理能力が極めて優れていた。

 コンビとして性格も補完的であり、敗戦濃厚の中、陸軍と海軍の対立が深まる状況下でも、両者は強い責任感を持って戦争継続(すなわち内閣存続)のために最後まで協力しあっている。

 そして彼らに共通しているのは天皇への敬愛であり、同時に昭和天皇からの信任も厚かったことが知られている。

 昭和天皇の東條への評価は良く知られているが、”東條の男メカケ”とまで軽蔑された嶋田への昭和天皇の評価は非常に高く、終戦後でもその評価は些かも揺らいでいないのである。

 彼らはまず第一に、物事を忠実かつ高速に処理する事務屋として、形式主義・精神主義、言い換えると「一度決めた形式に拘る真面目さ」が過剰なまでに優れていた。これは当初の戦争の目的に従い、その遂行のために最後まで努力する熱心さでもあり、そこに通底するのは天皇への忠実さ、そして強い責任感とも言える。

 それは非常にシンプルであり、プリミティブな行動様式であり、それであるが故に昭和天皇からの信任が不動であったのであろう。その一方で、戦略に消費するリソースとしての「国民の生命」や、昭和天皇が恐れた「国体」のために、この戦争そのものの遂行目的に根源的に立ち返ってその行方を判断するという選択肢は二人の中には存在せず、東條内閣と命運を共にするしかなかったと言える。

人材マネジメントの功罪

 こうしたコンビの例を見るように、やはり組織的行動のためには個人としての能力だけでなく、それを活かす環境や人間関係が重要であり、これがうまく噛み合うと、大きな組織的なアウトプット(成果)を生み出すことがわかる。

 当然のことながら、悪い方向に噛み合うと、その成果もこうした失敗に至る。

 これらは「結果論」という言い方もできる。後から好きなように言える。それは確かにその通りである。

 本書では、昭和史における失敗事例と、それを産み出したコンビの力が述べられた。その上で、その組合せ・人材配置を生み出した組織マネジメントとしての「人事」(人材配置)の問題が浮き彫りにされている。

 後世から見て「疑問」と解釈する人事や、バックにいる大物(元老とか皇族とか)の支援などの横槍などもあったであろう。しかし、それでもなお、必ずしも”人事とは、単純な正解のパターンがあってそれを決める作業ではない”と思われる。

 更に加えて言及するならば、上記に述べた昭和初期の軍の人事制度自体も、明治維新から続いていた薩長優位の明らかな藩閥人事に対するカウンターであり、より平明な人事を志向した結果の実力主義(ハンモックナンバー、士官学校の成績順位に基づく)からの帰結ということもできるのだ。

 単純に、不可解な人事が歴史を誤った方向に導いたとする解釈は誤りであろう。

 

 

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