【書評】河野啓「デス・ゾーン 栗木史多のエベレスト劇場」–「自己実現」と「大衆からの承認」のサイクルの中で泳ぎ続けないと死んでしまう”マグロ”になった人間の悲劇


 2020年の開高健ノンフィクション賞を受賞した河野啓「デス・ゾーン 栗木史多のエベレスト劇場」(集英社)を読んだ。(文中敬称略)

 ネット界隈で登山家ならぬ「下山家」と揶揄され、エベレストで最終的に命を落とした栗木史多の実像と虚像に迫る力作である。非常に面白く、一気読みである。

 栗木史多は、ネットを使った動画のリアルタイム配信を登山に持ち込み、副題にあるような「劇場型」の手法を用いた。こうした手法については、フェイクと噂される部分もあり、”炎上”の発生とネット民による”検証”という、現代的な動きも形成されていった。

 これは、例えば、科学者の捏造問題(STAP細胞、旧石器問題など)と同様の構図を持つネットによる大衆監視の劇場型事件の一つとも言える(参考記事:【書評】村松秀「論文捏造」-ベル研究所の世紀の大捏造事件と”発見”の栄誉の正統な帰属とは

 ビジネスシーンでは、彼は言い方は悪いが、「自己啓発系」のジャンルと理解されている。特に比較的中堅、若手の社員が、彼のフレーズを企画書に引用してくることもある。私自身はその度に、申し訳ないが、その「軽さ」に鼻白むことが多かった。つまり、フェイクっぽいのである。

 だが、一部の自己実現(と承認)を求める人々には、今でもなお「栗木史多」は確実にリーチしているようなのである。そうした言及も本書ではなされているし、栗木史多本人がそうした戦略を自分自身も含め、意識的に行っていた。

 本作は、こうした”中毒”のように「自己実現」と「大衆からの承認」を求めて実像と虚像を意図的に乖離させたはずが、そのギャップに苦しめられ自縛に陥ってしまった一人の人間を多角的に取材し、著者らしい映像的な構成でまとめたものである。

 冒頭で「少量の酸素でも泳ぎ続けられるマグロになりたい」とした彼は、”無酸素”登山というブランドにこだわった結果、「自己実現」と「大衆からの承認」のサイクルの中で泳ぎ続けないと死んでしまう、まさしく「マグロ」のようになる。

 そして、追い求めたものを死の直前に最後に抱くことはできたのかどうか?そうした仮説に対する回答が、本書のラストでは用意されている。

 その姿は、TVマンであった著者が、栗木史多を対象とした”製作できなかった企画作品”のラストシーンの映像のように描かれる。

 これは、著者自身もその取材者としていわば”共犯であると”反省しているように、劇場型イベントの悲劇的末路に対する著者なりの「落とし前」なのだろうと理解した。

 

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