【書評】秦郁彦「昭和天皇五つの決断」–天皇制のもつ二重性とその対立について


 秦郁彦「昭和天皇五つの決断」(文春文庫)を読んだ。

 大日本帝国憲法と日本国憲法、皇国史観と民主主義、2つの大きな時代とその転換点を、その中心として活動した昭和天皇の「決断」についての論考である。

 大日本帝国憲法では国政や軍事の最終決定権は”元首”たる天皇にあった。しかし、国務大臣の輔弼を必要とした制限がかかっていた。また戦後の日本国憲法では「象徴」という存在として規定されている。

 いずれにしても天皇としての行動には一定の制限はあったことになる。しかしながら、様々な局面において天皇自身が政治的に行動し、決断する場面が存在したとする。

 それが本書で描かれた5つの場面であり、これは二・二六事件、終戦、新憲法、退位中止、講和をさす。

 いずれも日本という近代国家の存亡において高度な政治的行動・交渉・意思決定が必要な場面であり、天皇自身が判断する必要があった局面ともいえる。

 本書でも描かれ、また他の史実でも明らかなように、昭和天皇自身の「意思」が、常に国家の意思と同期・等価であったことはなかった。そして、いくつかの局面では、ある勢力と鋭く「対立」したことが知られている。

 何と対立したのか。

 代表的には、2つの立場−「皇国史観」および「共産主義」−との対立であろう。両者はそれ自体相反する要素をもち、それぞれが天皇および天皇制と鋭く対立する宿命を持っていた。

 皇国史観は、「国体」なる概念によって明治維新後の近代日本の国家統一イデオロギーとして機能した。しかし、その概念を先鋭化させていくと、次第に本来同伴かつ補完しあうはずの天皇自体から離れていくことになる。

 それが「君側の奸」へのテロリズムとして現れたのが、二・二六事件や宮城事件といった日本におけるクーデター未遂事件である。ここでは、個人としての天皇(の意思)を否定し、それを乗り越えるようとする動きが見える。

 つまり、概念としての「大御心」=「万世一系の天皇」という思想的シンボルの究極化において、個人としての昭和天皇すらも優越すると”論理的に”帰結されるのである。より理想化した「天皇」というイメージによって、元首=政治家=近代的個人としての「天皇」を乗り越えようとするかのようである。それは元々、同じ思想から生まれたはずなのに。

 これは極論ではなく、終戦判断においても皇国史観の提唱者・平泉澄や首相の東條英機(二・二六事件を主導した皇道派に対抗する統制派であったにもかかわらず)、軍人であれば大西瀧治郎など、こうしたインサイダーですら、天皇個人の意思を強いて変更するという行為を、国体維持の目的のもとで正当化しているのである。

 また「共産主義」は、その思想自体が天皇制とは本質的に対立することと同時に、広義の”貧富是正”あるいは”平等実現”という理想主義(その実現手段として暴力的革命を前提)として原理的に捉えると、農村の貧困を背景とした青年士官を中心とする陸軍皇道派の意識に通底していたと思われる。これもまた二・二六事件の背景であったと思われ、その収拾において昭和天皇が明確に彼らを否定したことは、本書でも描かれた歴史的な事実である。

 こうした天皇および天皇制と対立する、まさに近代そのものの「概念」(皇国史観と共産主義)がある一方で、天皇制自体についてはどのような構造であったのか。

 終戦判断の際には、昭和天皇自身が「国家元首あるいは大元帥としての天皇」と「神器を司る神職の頂点としての天皇」の2つの立場の間で、逡巡していたと思われる。つまり、天皇制の中にも2つの矛盾する側面が存在し、天皇個人として内部対立していた。天皇制はこのギリギリの局面において、内部と外部の二重の対立構造があったといえる。

 それは近代日本の政治的リーダーと神職・祭主としての宗教的リーダーの二重性と言い換えることもできる。

 この2つの側面が、昭和天皇の人格の中にあった。

 「宗教的」という部分を補足しておくと、より自然宗教的な原始的形態を指す。日本人が、初詣に行き、神社で祈る。その際に心の中で唱える「神様」のイメージである。これは教義や戒律などで規定される「宗教」のイメージではなく、むしろ我々の生活に即したものである。あるいは夏祭りに集まる村の鎮守様のような、生活に即した小規模の緩やかな「神様」のイメージの集合体のようなものである。天皇へのイメージには、この「村の神様」が集合した、その頂点としての性格があるのではないか。

 それが故に、本書の第四章において敗戦後の占領下において、その地位が危ぶまれていた昭和天皇に対して、庶民からその地位を守る多くの声(GHQへの投書)につながったといえる。この庶民の肉声–天皇への一体感は、占領軍の意思決定に一定の効果があったと著者は指摘する。

 そして、こうした自然宗教は、決して近代国家制度の中に組み込まれることはない。歴史的にも先に存在したものであり、より広い時間空間的構造の中で普遍的に存在する上位概念であろう。

 本書で描かれた決断の中で生まれた「対立」は、こうした観点から、より普遍的な要素により勝者が決まったといえる。

 皇国史観や共産主義は、ある一時代に現れた近代的なイデオロギーであり、自然宗教のもつ時間的空間的な普遍性に対して優越はできないという必然的な結果であった。

 現代の象徴(すなわちシンボル)としての天皇制は、その意味ではより両者の対立が弱まっているようだ。本書でも以下のような記述がある。いわば「象徴」の方が座りが良いとも解釈できる。

むしろ長い天皇家の歴史から見れば、明治以後の天皇制のあり方は例外で、世俗的な権力と富から超越する位置を占めた時期の方がはるかに長かった。そして、それこそ天皇家が細々ながら万世一系の血統を保って生きのびることができた秘密でもあった。

天皇家の人々は、こうした歴史的事情をよく知っていた。だからこそ敗戦の直後にあわてふためく女官たちへ、貞明皇太后が「皇室が明治維新の前に戻るだけのことでしょう」とさらりと言ってのけたのであろう。

秦郁彦「昭和天皇五つの決断」(文春文庫)p.250

 象徴という規定によって、この「対立」は一時的な折り合いがついているように見える。

 しかし、天皇制に内包されたこの2つの側面、自然宗教(神器・伝統)と近代国家(個人)との対立は依然として解消されたとは言い難く、まだふと何かの折に、先鋭的な対立として顕在化する可能性を秘めていると思われる。

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