【書評】宮川ひろ「春駒のうた」–被害者の受傷と加害者への攻撃性がロックオンし、その膠着からの再生の予感を描いた児童文学の名作

 宮川ひろ「春駒のうた」(偕成社文庫)を読んだ。1975年出版の本であり、児童文学作家であった宮川ひろの初期の名作である。

 「春駒」とは、伝統芸能である門付の一つのことで、馬の形をした人形を持った一座が村の家々を回り、歌や芝居を見せるというもので、春を告げる山村の一大イベントであった。

 ポリオ(小児麻痺)にかかって右足が不自由になった主人公の少年・圭治、その祖父・文三、そして担任の先生・園田が軸となって、群馬県の山奥の村を舞台に描かれる物語である。

 圭治はポリオにかかり、片足が不自由になる。松葉杖が必要になり、それによって今まで遊んでいた友人たちとの関係から、不登校になってしまう。友人たちも悪気はなく、またお互い、受け入れられたい/受け入れたいという感情があるものの、些細な「行き違い」によって、それはなされない。

 いまあっさりと「行き違い」と書いたが、それはあくまで多数の第三者的視点であることは言うまでもない。<傷つく少数者>と<傷つける多数者たち>との関係は、本質的に「対称」ではない。非対称なのである。

 つまり、本書で描かれたような稚気による”からかい”や”いたずら”が、少数者である圭治にとっては、決して単純な仲直りでは立ち直れない心理的な傷となるように正しく描かれる。

 そしてその傷を受けた圭治にかわって祖父・文三が、分校の教師たちを攻撃する場面を著者は描く。

 その行動は、戦争で父(文三にとっては息子)を無くした圭治への愛そのものに依拠している。攻撃することによって、圭治のハンディキャップをカバーしようとする思いも込められている。だが、その攻撃は集団にとっての無謬性の禁忌を刺激することになり、何も解決もなされず、かといって後退もしない。集団の事なかれ主義によって、ただ凍結させられている。これも、こうした事件の被害者と加害者の関係を象徴的に示している。被害者が次の加害者となることもある、と言うことを。

 文三の攻撃によって教師が定着しなくなった分校に赴任する若い女性教師・園田によって、この膠着状態は少しづつ変化を始めていく。しかし、それでも長続きはしない。やはり圭治は不登校になり、祖父・文三は攻撃性を捨ててはいない。

 これは全き正しい構図である。

 理想主義や超越的な何かを物語に導入することでは、こうした個々の傷は決して解決しないことを正しく描いているのである。そこに、この小説の凄さがあり、典型的な児童文学に堕ちていないことを示している。これは現代においてもレベルの高い視座であるといえる。

 そして、本書では最終的な救済を<自己>の中に求めた。

 他者はその契機を与えるだけであり、自己を救済するのは自己の内部に求められると。

 契機とは、圭治が見た、肢体不自由でも自力で立ち、歩こうとすることをやめない子供たちの姿であった。

 あくまで本書では解決の姿は描かれない。

 園田先生は、春駒の前の日にやってきて、まだ物語の最後でも春駒を見ていない。表題にもなった「春駒」はこの小説の初めと終わりを意味する「節目」を意味するだけのランドマークであり、本筋は違うところにある。

 だが、そこには受傷からの再生の予感が描かれており、その結末の描き方も非常に爽やかな読後感であった。

 

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