【書評】奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年」”血”か”情”か、親子関係の本質を考えさせられる感動のノンフィクション


 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年」(文春文庫)を読んだ。

 昭和46年に沖縄で起こった赤ちゃんの取り違え事件。その2家族、そして当事者を、長期に渡って取材したノンフィクションである。

 昭和52年に血液型の違いから産院での”取り違え”が判明し、二人の子供は血の繋がった本来あるべき家族の元に戻される。こうしたケースでは、当時から”子供の順応性を信じて、速やかに実の関係に戻す(交換する)”というのがセオリーだったようだ。環境を離してしまうことで、時間が解決する方法といえる。

 交換後、この2組の親子はともに6歳まで育てた子供と、血の繋がった子供への愛情の間で煩悶する。

 子供たち自身も、これまでの生活環境の中でできた「家族」への愛情を断ち切ることができない。

 沖縄という地縁の強い土地、そして結果的に、2つの家族が行き来できる物理的距離のある生活環境だったことで、このケースにおいては特異な様相を見せ始める。だが、家族関係に通常も特異もないので、そもそも何が通常、正常なのかはわからないのだが。

 加えて、2つの家族がもつ特殊な環境、特に母親のあり方に「対称性」があり、次第に成長する2人の子供は1方向に傾斜していくことになる。これもまたレアなケースなのであろうか。

 結果的に成人した2人の子供は、ある片方の親とのみ親密な関係を維持するのである。

 子供にとって落ち着いた地点は、親にとっては幸せの分配が非対称になっている結論となった。

 全ての関係者にとっての納得できる結論にはなっていない。

 ”奪われた”親も、まだ先の人生においてもこのままとは思っていない。

 本書は、肉親としての”愛”と育ての親の”愛”に違いはあるのか、そういった問いかけを読者に投げかける。このケースを見る限り、おそらくそこに差異はないようにみえる。

 個々のケースにおいて、個々の事例で結論が出るのであろう。だがそれにしても、ある時間軸で切り取った場合の「結論」であり、その後も人生は続き、おそらく最終結論は出ていないといえる。

 親子の”愛情”とは、という非常に重い問いかけを提示し、読者一人一人が考えさせられる感動作である。

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