【書評】うおやま「ヤンキー君と白杖ガール」–ゆるゆるな世界から、我々に真っ直ぐに送るメッセージとは。

 2021年10月にドラマ化された、うおやま「ヤンキー君と白杖ガール」(メディアファクトリー)の1-6巻を読んだ。

 今時の絵柄でヤンキーと弱視の主人公の恋を描くコメディであるが、さまざまなバリアフリーの問題だけでなく健常と障がいの間の連続性について、ハードな内容も含まれている。

 ただ限界もあって、現段階での登場人物は全て最終的には根本に「善」がある。これは絵柄としても絶対的な悪を描ききれないこともあって、やむをえないことであろう。むしろ物語全体としての安心感を保持してくれているとも言える。

 物語空間の中で、主人公とその周辺における「万能性」あるいは「全能性」ともいえる読者への心理的安全性が担保されているのは、読み続ける意味で確かな魅力のひとつではある。

 だが、この作品において特筆すべき志向としては、こうした単純な「万能性」、「全能性」をもつ主人公カップル同士の”ほのぼの”、あるいは、”のどか”な日常では済ませない展開を暗示的に秘めているところであろう。

 特に4巻以降の主人公ユキコが外部世界に出る展開から、物語は少しずつ社会的な普遍性を帯びはじめる。世界において生きる「価値」の議論にさらされる。「価値」の議論とはある意味一つの尺度においては”フラットな基準”(公平でも公正でもないけど)で決められる世界である。そこでは評価される側は、その時点での外部環境に対して完全に防御なしで暴露されるという状態になる。

 ハンディキャップを抱えたユキコも同様にその評価に曝されるのである。

 善人しか現れないという、一種のあえていうと”偽善性”についてはさておいて、それでもなお、”自分とは異なる何かを許容する世界はどうありうるのか”というハードな問いを投げかけてきていることに率直に驚かさせられる。

 それを、殺伐とした全ての「費用対効果」「付加価値」で還元する<資本主義>世界においても、自立的な解答として提示しようとした作者の強い意思を感じる。

 自分と異なるものとそうでないもの、そしてその区別意識について、我々の境界線をアナログ的に把握させようとする。

 違い、とは何か?

 ハンデキャップとはいったい何を意味するのか?

 より具体的に何と何のハンデキャップなのか?

 とどのつまり、お前と自分の差異とは何か?と。

 そして、その差異を認めたうえで、我々の多数が今この瞬間において、徹底的にこだわっている「付加価値」とはいったい何なのか?と。

 繰り返しになるが、このマンガは、確かに完全な善人しか出てこない極めて安全極まりない物語なのである。リアリズム的な描写であれば現れてきてもおかしくない生々しい悪意の塊のようなものは、この物語世界には決して登場しない(これから出てくるかもしれないが)。

 そのことを作品の瑕疵として捉えるべきではないし、そんなものは最初から本質的ではないとするモーメンタムが、4巻以降のエピソードからは、読者にとって聞こえてくるのである。

 絵柄は、ほのぼのかつ安定しない感じで、正直、技術的にはうまいとは言い難い(失礼)。だが、この作品には明らかなメッセージ性がある。

 それは、バリアフリーや多様性といった人口に膾炙したバズワードに染まったものではない、我々に真っ直ぐに突っ込んでくる率直な強いメッセージをもっているのである。

 2024.01.27 追記

 2022年に8巻で堂々完結。最後まで安心感のあるマンガであったが、上記記事に述べたハードな問題意識は最後まで通底していた。

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