業務の棚卸をして業務の引き算をさせて部下の思考する時間を増やそうと思ったら、業務を極限まで引き伸ばす”金箔職人”あるいは”ピザ職人”を誕生させてしまった


ロジカルな思考を体得することは、人によっては意外と難しいもののようだ。労働集約あるいは役務提供的でない「知的」業務においては、与えられた前提条件から分析や調査を行い、ロジックを作り出すことが求められる。

これが意外なことに、人によっては非常に難しいことのようなのである。

 単純に例えると、「炭素と酸素を反応させたら二酸化炭素ができる」という言い方がある。これは「炭素と酸素を反応させたら一酸化炭素ができる」という言い方もある。しかし「炭素と酸素を反応させたら、水素ができる」というのは誤りである。

求めているのは、炭素と酸素を使って、何ができるかを何パターンか考えること。そして、その先には、より効果が高い生成物はどっちなのか?という議論をしたい。だが、そうした議論を求めているコミュニティのルールを無視して(ここでは自然科学を無視して)一人だけ「いや、水素もできるかもしれないのでは?」とか「さらに、臭素もできるかもしれない」とか、さらには「私の考える未知の分子ができる」といういわば思いつきを、ひたすら考えてしまう人もいるのである(なお、この例えは”実は核種転換ができるのでは”といったルール自体をメタ的に考えることも許容すべきという反論がありそうだが、ここではロジックの例えとして化学反応を挙げただけなので注意されたい)

そして、その人たちへの説得は非常に難しい。本人も、自身のアウトプットが求めるものと異なると繰り返し注意され、肝心の求められているものをいつまでも提供できず困っているし、マネジメント側も彼らにどのような形で指示してもルールが理解されないことで消耗する。このような場合、結局は「本人の適性」のような言葉で「交代させるか」と片づけられてしまうことが多いのではないか。

今回はこうしたマネージャと部下が、求められるものと提供するもののミスマッチを起こした場合に陥る一つの事例を挙げてみたい。

 それは「部下が業務に煮詰まっていると判断して、業務量を削減して思考する時間を増やそうとしても、アウトプットの質の上昇にはつながらない」ということである。

これは「業務量をこなすことで質が上がる」という経験則と反する(いわゆる量から質への転換)。

もちろん全ての事例がそうではないが、マネジメントの立場でこうした「思考の業務」「ロジックの注文」に対して煮詰まっている部下に対峙し、その課題を分析すると

 ①業務量が多い

 ②業務量の中身に占める、正味の思考する時間が少なく、雑務のような役務が多い

という要因に帰着することが多い。つまり「正味思考時間の不足」が原因でアウトプットが出ないと両者で合意するケースがある。

それが多くの場合で誤った判断になり”金箔職人”、”ピザ職人”とあだ名されるサラリーマンを生み出していることを提言したい。

ここで言うマネジメントの本質的な誤りとは何か。

悩んでいる人は思考時間が不足してアウトプットが出ないというケースは実は少ない、ということである。

多くのケースでは深層心理的に、思考より役務の方を優先したくなるというバイアスが働く。つまり頭を働かすことより、体を動かした方が、仕事をした感は高く感じるのは人間の感覚として間違いとはいえない。しかし、その前提を自覚せぬまま、業務負荷を削減して空き時間を増やしたとしても、当事者はその空いた時間に思考時間を増やすとは限らないのである。

その結果、いくらマネージャが部下の業務を棚卸しして負荷を低減してあげても、一向に業務の質は変わらないという事象が発生する。いわば、ムダ取りをして確保した時間に、またムダな業務を入れてしまうのだ。

 しかし、それでも根気よく部下の業務の引き算を続けていくことで、ついにはほとんど雑用や役務業務がなくなるに近い状態にまで持っていくケースもある。

 そうすればようやく質が上がるのかというと、否である。

今度は「あえて役務を引き寄せてくる」という現象が起こる。進んで役務をもらってきてしまい、やはり「思考する時間が増えない」ように見えるのだ。

さらに業務を強力にグリップして、「他はやらんでいい、頼むからこれだけをやってくれ」という純度100%な状態、つまり部下に対して思考時間を100%に近づけた場合、どうなるか。

 今度はその業務を引き伸ばし始めるのである。

このあたりから”ピザ職人”のような生地を伸ばして、いわばわずかに残る小さい業務を薄く長く引き伸ばす行為になってくる。本人も気づいていないが、思考する業務の中の役務的要素(調査とか)を引き伸ばすようになるのである。

 それをさらに極限まで押し進めると、もはや職人の域に達し、常識では瞬時に終わりそうな業務を徹底的に引き伸ばしている金箔職人が誕生してしまうのである。決定せず意見集約を引きずる行為や、ダラダラとして調査名目で時間を引き伸ばす。そしてやはり本質的な思考の時間は短いままで、質の向上にはつながらないのである。

これはマネジメントの問題であり、本質的には「思考のやり方」を教えるべきであり、業務量配分というマネジメントに解釈してしまったことが誤りなのであろう。しかし、パッとみた感じでは「うーん、これじゃ論理的につながらないよね?なんで?」→「時間がなくて」→「じゃあ、少し業務配分を考えるか」という一見、間違っていないような交渉になっている。

「時間がなくて」という言い訳は非常に便利である。優先順位をつけろ、という議論を回避して、「時間がなくて」=「時間さえあれば目的のものはできる」という前提がある印象を与えるからだ。実は、その前提は既に崩れており、そのことにマネジメント側が気づいていない場合”金箔職人”を産んでしまうのであろう。

そして冒頭に戻るが、この前提とは何か。

要するに「アウトプットはロジカルであること」である。

論理的思考というものは敢えて言わずとも、無言の前提と考えられがちであるが、実は多くの人間においてそうではない。数打ちゃ当たる方式の思考をしている人間は実は多い。これは試行回数=時間に比例するので、確かにアウトプットの質が悪いことの言い訳としては「時間がない」のは正しいのである。弾を打つ時間が足りないということだ。しかし、本来論理的思考をこのスタイルで実行するのは無理があるし、そこには応用性も拡張性もない。論理的な導出プロセスも顕在化されない。つまり仮に当たりが出たとしても、本人もその導出過程を説明できないし次に活かせないのである。

昨今は、ホワイトカラーの生産性向上と叫ばれているが、ホワイトカラーであるからこそ役務提供=労働集約的な業務をしていない、とは限らないのである。実は脳みその中で、労働集約型の思考をしている人々は多くいる。この転換を図らない限り、それこそ「知的労働っぽい労働集約作業」としてAIに奪われる業務になってしまうであろう。

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