【書評】岩井俊憲「人間関係が楽になるアドラーの教え」によるビジネスシーンでの負のスパイラルからの脱却のヒント

 岩井俊憲「人間関係が楽になるアドラーの教え」(だいわ文庫)を読んだ。

 ベストセラー「嫌われる勇気」などでアドラー心理学が話題になっていた。ただ、これをビジネス文脈まで拡張されると少々牽強付会というか、自己啓発チックな香りが漂うので敬遠していたのだが、この度必要に迫られ、読んでみた。

 ビジネスでもなんでも、うまくいっているうちは、好循環が回っているので少々の課題があっても勢いで何とかなるが、いったんそれが厳しい方向、退潮方向に進み始めると、今度は悪循環、すなわち負のスパイラルに陥る。そうなると、どんどん悪い方向に加速をつけて転がっていくことになる。

 組織もイナーシャ(慣性)があるので、いったん悪循環になると、その回転速度を遅らせ・停止させ・逆方向に回すということには非常なエネルギーを伴う。人間もそして組織も現状維持バイアスがあり、なかなか方針転換などもできないものである。

 具体的に、部門最適(個別最適)思考、部門間の壁による蛸壺思考、モチベーションの低下、足の引っ張り合いなどが起こり、いかに高性能エンジンを搭載しても、駆動伝達系の摩擦抵抗が大きいので、ほとんど摩擦熱に変わってしまい、有効な駆動力として使用されるのはほんのわずか。非常に効率(燃費)の悪いクルマのようなものなのである。

 しかし、再建・改善・改革という行為は、その経営者や一部の旗振り人間だけが偉そうに理想論を言っても効果はない。そもそもそれがわかっていれば、自力で改善できるのである。個々の人間も理解しているが、結果的には組織としては負のスパイラルになる。個人行動的に効用を重視した結果、全く意味のない結果を産んでいるのである。

 よって構成メンバの意識を、一つの目標に向かってベクトルを揃える必要がある。各自のベクトルが揃っていないということは、気体分子運動論のように、運動の方向を平均すると相殺してゼロ、マクロ的には「その場から動いていない」ということになってしまう。

 こうした目的から、再建のために構成員のマインドをまず変えることは非常に重要であり、こうした心理学的知見も援用する必要があるであろう。

 本書は「人間関係」に注目しているが、ビジネスシーンでも読み換えることができる。

 アドラー心理学では、外部環境は変えることができない前提条件とし、変えることができるのは「自分」「自分の行動」であるとする(自己決定性)。できない理由をつくり出す「原因論」ではなく、目標を決めて現在から未来への行動を建設的に考える「目的論」が重要であるとする(目的志向)。

 ビジネスシーンにおいても、

 「できない理由から入り、次から次へとできない理由を述べ続ける。また、自分でコントロールできない(環境要因)と、自分でコントロールできる要因の区別をせず議論する。そして、自分でコントロールできない要因を前提条件とせず、あくまでそれが目的を達成できない理由だと主張する」

 「過去の経緯(しかも属人的な理由が多い。権威のある誰々さんがこういった、など)を意思決定の材料とし、現在を起点に未来を考えることを避けたがる」

 「自己の既得権益にこだわるが、他人の既得権益については鈍感」

 などの例を想起し、これらは負のスパイラルのイナーシャそのものである。

 こうした事例からの脱却の直接的なヒントとして、アドラー心理学の示唆する「自己決定性」や「目的論」は有効であろう。

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【近況】異動になってしまった

 最近、身の回りに変化があった。

 具体的には「異動」である。異動自体はこれまでも何度もあって、最近では3年前だが、今回は比較的大きな環境変化を伴うものであった。

 業務内容は広義の「技術企画」と変わっていないのであるが、その対象が変わったという感じである。

 その結果、勤務地が変更になり、周囲の環境も変更になった。

 新しい環境、新しい人間関係、業務システム、全てを再構築である。

 おまけにコロナ禍でコミュニケーション手段の制限もある。

 その一方で、新しい職場では、よりフロントラインに近くなった。さらにより困難な環境になった。解決すべき課題は山積みで、しかも待ったなしの状況である。

 例えると、昭和20年8月前半くらいの日本のような状況である。もはや無理ゲーのような気もするが、「地には平和を」みたいなifもあるので。

 まあ今まで別の立場で、偉そうに遠くからアレコレ理想論を言ってたら「OKY」(=お前が・来て・やってみろ)になってしまったというべきなので、嘆いていても仕方がない側面もある。自分の蒔いた種というか、自業自得というか。

 ただ、自分の信条として、まっさらの雪に最初に足跡をつけるような新規環境、未踏の状況は嫌いではない(むしろそっちの方が好き)。さらに、苦しい環境の方が、最初からマイナスのスタートなので気楽と言えば気楽である(強がり含む)。

 経験は自分では選べない、というが、得難い経験をしていると思っている。だが、その結果として傷だらけにもなっているという昨今である。

 個人的にも厳しい状況ではあるが、製造業の立場からすると、マクロ的にみてバブル崩壊から次第に続いてきた「日本のものづくり」が直面する課題、すなわち”日本でものづくりをする意味があるのか?”という問いへの最終ジャッジポイント、瀬戸際だといえるのかもしれない。

 正攻法なものづくりは既に「過剰品質」のレッテルを貼られ、DXだ、UXだ、IoTだというバズワードだけはあるが、結局儲かっているのは”ツルハシビジネス”だけというこの状況(異論はあるはずだが、いまだに納得はいかない)。

 ゆでカエルになった日本の製造業にとって、この時点では”刀折れ矢尽き果て”という内部状況と思う。反転攻勢というのは簡単だが、そもそもその体力すら残っているのか?という絶望感すらある。

 だが、最後の正念場と思って、残り少ない知恵を絞ってやっていくしかないのである。

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相手の注文に正確に応えることの難しさ:上司に「ラーメン」を注文されて「寿司」を提供し続ける部下

 企画系の業務をしていて、噛み合っていないやりとりを良く見かける。

 「戦略シナリオ」案や、もう少し単純に「改善」案を、上司が部下に求めた場合に発生する収束しないキャッチボールのことである。

 回答に納得できない上司は、執拗に意図と違うことを説明し、提案を受領しない。

 部下は、否定された案を、上司の意向を考え、何度も修正・変更して提案する。
 
 お互い意図が伝わっていないのか、このキャッチボールが繰り返され、自然に”千本ノック”、あるいはちょっとした”マウントパンチ”の様相になってくる。要するに公開リンチのようになってしまうこともある。

 上司からすると”指導”なのだが、何度言っても一向に修正されない部下の態度にイラつきを覚え言葉も強くなる。部下にしてみると、出口のないただの言葉の暴力を受け続けるだけの単なるパワハラ的な印象を与えることになる。

 こうしてお互いが噛み合っていないまま、互いがひたすら不幸になっていくような風景が見られることがある。

 この「噛み合わなさ」は何なのか。もう少し掘り下げてみたい。

 第三者から見ると、以下のような単純化したやりとりになっているように思える。

 上司「ラーメンを作って欲しい。具はこうで、スープはこうで」
 部下「了解しました。作業にかかります」
 部下「できました。どうですか?」
 上司「いや、これ寿司でしょ。私はラーメンを注文したんだから」
 部下「・・・すいません。ちょっと誤解があったようです」
 部下「できました。ラーメンです」
 上司「いや、だから、これ寿司でしょ」
 部下「・・・・」

 この構図では、実際に第三者がみて、部下が作ったのが寿司なのかラーメンなのかは問題の本質ではなく、お互いにある料理の実体に対する認識が異なっており、その違うことを理解しないまま一応会話だけは進んでしまっている。

 では、最初にお互いにラーメンと称するものはこれだ、と、前提条件と定義をきちんと合意した上で業務を進めれば、この問題は解決するのであろうか。

 実際の現場では更に、もう一段複雑なすれ違いも起こっている。

 それは、上司が求めているのは「結論を導き出したロジック(論理)」であるにもかかわらず、部下が提出するのは「上司の心の中にある結論」となった場合のすれ違いである。

 これは更に根が深く、上記の事例のような前提条件を定義すれば解決できる問題ではなく、業務に対する基本的姿勢の違いに相当する本質的な問題である。

 上司の頭の中には想定された結論は確かに存在する。

 だが、それを部下に当てて欲しい訳ではない。

 もう少し大胆にいうと、その”結論”は直感で導き出されたものかもしれない。自分の経験や勘で導き出されたものかもしれない。

 いわば帰納的でも演繹的でもなく、先験的かつ超越論的に導出されたものなのである。

 繰り返しになるが、その正解を部下に当てて欲しい訳ではなく、むしろその正しさの論理的検証をして欲しい、あるいはより論理的にリーズナブルな解があるならその指摘をした上で、乗り換えるかどうかを判断したい、というのがこの「注文」の本質なのである。

 むしろ結論を考えるのは自分であって、それは部下には求めていない。それを当ててもらっても、むしろ心理的には反感も生まれる。

 だが、地位などのバイアスがかかった部下は、上司の心の中にある「結論の正解」を当てようとしがちである。その結果、論理ではなく、相手の感情に支配されることになる。

 最終的には「上司の結論と私の結論が一致しているんだから、それ以上何が問題があるのか?」という怒りすら部下は覚える。結論当てゲームに既に正解しているのに、まだしつこくグチグチと言っている上司に不信感を覚えるのである。

 結局、上司は「論理」を注文しているのに、部下は「結論」を提供するという、先程と同様の噛み合っていない構図が現れている。

 ここで更にバイアスを生んでいるのは、特に部下のもつ「絶対的正しさへの過剰な欲求」であろう。

 誰しも上司の前で間違いたくはない。

 だが、正しさとは相対的なものであり、固定されたものではない、という認識をなかなか持ちにくいものだ。特に会社組織のような、政治的、権力的なバイアスが常にかかっている場合には尚更であろう。
 
 それでも論理に必要なのは「首尾一貫していること」「論理的に整合して矛盾のないこと」である。従って、その要件を満たしていれば、複数の解(結論)がありうるし、その解(結論)同士が対立することも許容される。

 そして論理自体は玉ねぎのような階層的構造になっており、更に上位の論理が下位の論理を包含して乗り越える構造になっている。下位の階層の論理は、上位の階層の論理によって優越される。

 論理を注文する人は、ある意味「論理に殉じる」覚悟を決めているのであって、より論理的に正しければ、自分の感情とは無関係にそちらに乗り換える(意見を変える)ことも躊躇なく行う用意があるのである。そのための判断材料が欲しいのだ。

 そして、論理的な正しさこそが、組織において他者を動かす根拠(の一つ)になりうる。より論理的に正しい、より上位階層の論理である方が、他者を動かす説得力になるのである。それが故に、より論理的に正しい結論を組織においては欲するのである。

 もちろん、それらが最終的に感情や政治の力によって全く異なる別の答えになる(いわゆる”神の声”)こともあるが、それはまた別次元の話である。この神の声が全てであれば、トップ以外はただのロボットで済んでしまう。

 その意味で、納品すべきは「論理」なのであるが、納品されるのが「結論」となってしまい、終わりないマウントポジションからのパンチ連打の光景になるのは、見ていて辛いものがある。

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緊急事態宣言解除直後から、早々にテレワークをギブアップして自ら出社を希望する層が出てきている

 2021年1月に再び発令された「緊急事態宣言」は3月21日に解除された。私もテレワークであまり会社に行くことはなかったが、少しずつ戻る方向になりつつある。

 今回の緊急事態宣言に伴うテレワーク推進あるいは行動の抑制に関して、前回のような緊張感が少し薄れているようだ。経済活動との相反も指摘されることも相まって、実感としても前回より個人に与える精神的影響が大きかったように思える。

 具体的には、早々に「テレワークだと仕事が回らない、出社したい」という声が多く出てきたことである。

 前回よりもインフラや業務ツールは充実しており、業務環境としてはよりテレワークしやすいにもかかわらずである。

 前回同様に「現場」がある部門から当然そうした声が上がるのは理解でき、こうした配慮はしているのであるが、今回は、「現場」がないはずの事務屋、管理屋から多くその声が上がってきたことが予想外であった。

 つまり本来調整や管理をする業務、つまり、テレワークにもっとも親和性のある(と思われていた)はずの部門の「ある階層」から、早々に「このままでは仕事の効率が極めて落ちますので、出社したいです」というあからさまなギブアップ宣言が相次いだのである。

 そしてこの声は、むしろデジタル化に対応できないと思われる高齢の窓際世代ではなく、実務を担う中堅層から出ているのが、更に不審であった。

 実際、皮肉なことに、窓際というか”飾り”の高齢世代は、実は意外にもテレワークを歓迎しているのである。会社にいても用事も多くないし、周囲もかまってくれないので、むしろプライベートと近い環境の方が良いというのが本音なのであろう。これはある意味Win-Winな姿であろう。

 だが、こうした歓迎される世代と裏腹に、実際に調整作業や企画管理する部門、テレビ会議などで十分それが果たせそうと思われていた世代が、実は「フェイスツーフェイスで話をしないと、仕事が進みません。業務効率が落ちます」という状況に陥っているのが印象的であった。

 確かに、権力があれば別だが、そうではない場合、他者への説得や交渉では、ある種の「迫力」「熱量」がないとダメで、テレビ会議ではやはり「情熱」や「気合」などが表現することに限界がある、ということなのであろう。やはり、そうしたアナログな要素が現実の仕事を回していたということなのであろうか。

 しかし、これまでの「常識」からすると本来「現場」とはみなされていなかった事務屋の一部に、フィジカルな世界の必要性がわかったことはダメージを受けつつも勉強にはなった。

 今でもほんまかいな、とは思っているが。

 まあ、私自身はすでにかなり「窓」に近いので、「これからも基本テレワークでお願いします」と言われたばかりなのであるが・・・・。

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第二次テレワークの開始-テレワークメインとなった世界での成果評価において、「過程」をどう評価するか/してもらうかについて

 首都圏の二回目の緊急事態宣言を受けて、やや遅ればせながらも私も再度のテレワーク(在宅勤務)に突入である。

 先週はその準備のため出社したが、あまり電車は空いている感じはなかった。やはり様々な事情を抱えている中で、世の中、急にハンドルはきれないという感じなのであろうか。

 前回の経験もあるし、物資(インフラ)は市場にある。なので快適に過ごすための手段系は色々準備ができる程度の経験値は蓄積できたつもりである。

 今回準備したのは①サーモスのタンブラー②耳へソフトタッチするヘッドセット③ペットボトルのお茶500mLを箱買い④マルチビタミンサプリ、である。

 とはいえ、再び出張などの人間の物理的移動はしずらい状況になってしまっており、その中でも仕事を前に進めるための知恵も出して行かなくてはいけない。

 テレワークという各自が潜航して作業をすることになるため合意形成なども難しくなる。個々人が今までと異なる思考で、仕事を回して行かないと”業務トリアージ”の状況の中で、”あいつ、そういえば最近見ないな?いたっけ?”のように、在宅の中で存在そのものが埋没してしまうことにもなりかねない。

 要するに、個人が評価される場合にも、「汗をかく姿」をテレワークでどう見せるかというテクニックも新たに出てくるわけである。

 これまではリアルな姿を見せて、業務プロセスとして「成果は出なかったけど、過程での努力は認める」なんてこともできた。それに基づくテクニックも各自持っていたはずなのである。

 しかし在宅メインになると、息を止めて潜航しつつ業務をし、時々息継ぎするため浮上するようなものなので「成果に至るプロセス」が見えづらくなる。

 こうなると「努力」の姿をどう見せるかが悩ましいことになってくるのであろう。もちろん結果が全てで、ゼロイチで割り切れればそれでも良いのだが、そんなドライに評価を下せる訳もない。

 「過程」を「家庭」で、どうやって見せるかが、これからのビジネスシーンで重要になってくるのではなかろうか。

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わざと荒れ球を投げ込んで相手の意思の許容範囲を探るのは、やめた方が良いと思う理由

 組織の中で仕事をするということは、多様な人間が複雑に絡み合う状態で、情報を整理し、意思決定し、実行に移すということである、と言い換えることができる。 

 いま多様な人間と書いたが、構成要員全員が自分と同じ情報、価値観、意思決定基準、アルゴリズムをもっているとすれば、個々人の集合体としての組織活動を統合することは容易なことであろう。

 しかし、現実はそうではなく、構成員それぞれは、自分とは異なる情報、 価値観などを有している。 

 誰もが同じように「自分以外の人間が、自分と同じ価値観なら良かったのだが、そうではなくて、誰もが自分とは異なる」という意識を抱えながら日々行動しているので、更に話は複雑になる。 

 ヒエラルキー組織においては、特に自分にとって上位の人間の「意思」を慮ることが重要であろう。 

 つまり、”自分の上司が何を考えているか”を推測することが重要なのである。 

 もちろん直接聞けばよいのだが、実際に全ての細かい判断ポイントまで聞いている時間もないし、それらをいちいち聞いていたら自分の存在価値すらなくなってしまう。 

 なので、大なり小なり、このケースについては上司ならこう判断するだろう、この判断なら間違いとは言われないであろうという推測をしつつ行動する。そして重要なポイントでは、やはり上司に念のため確認をとる、ということになる。 

 上司目線からすると、何も言わずとも自分の思い通りに判断してくれる部下は使いやすい。逆にいつまで経ってもなんでもかんでも聞いてくる部下は、やはりその能力に疑問を持つであろう。 

 こうして整理してみると、上司の意思、あるいは、上司が設定した部門の方針に対して、自分の判断基準がシンクロさえしていれば、個々のメンバはいちいち悩んだり確認する時間は不要になることになる。 

 言い換えると、上司への”シンクロ率”が高い人間=上司から見て”気の利いた奴”と思われるのであろう。 

 シンクロ率とは、結局この組織としての行動原理をいかに自分の内部に作り上げるのか、ということである。

 その上司の判断にしても、さらにその上の上司の判断を見据えて判断しているる。そうした階層を上位にさかのぼると、組織行動および組織判断基準の原理 というものを体得する能力、それがシンクロ率の本質なのではないかと思う。 

 それができなくなった場合、特にゼロベースで相手の意思を探る場合には、どうすればよいか。 

 一つの手段としては、上司の気持ちを推量するために、わざと荒れ球を投げて「それは違う」「ちょっとあっている」のような応答によって感触を探っていく行動をとることもある。 いわばブラックボックスに対して、外部からの入力によってその応答特性を推定する行為に似ている。

 ただし目的は相手の意思決定の”範囲”を探ることなので、故意に少し変化球、時には明らかなポール球を投げる必要がある。そして、その返答の中から相手のストライクゾーンを探っていく。

 投げる球の方向にしても一方向ではダメで、いわば的の中心(これがわからないのだけど)に対して、全方位に球を散らばせる必要がある。 

 これは政治家が世間の反応を確認するために実施する”観測気球(アドバルーン)を上げる” こととも類似した行為である。こうした観測気球によって逆に炎上につながる例があるように、いわば実弾を使ってリアルな反応を見極めることになるため、リスクも大きい行為なのだ。 

 このような行動は、上司が変わった際によく行われる。 

 前の上司の方針に対して、今の上司がどのように考えているかを探る意味で、わざとあえて外した質問をしたりする。 

 そして今の上司のストライクゾーンが把握できたら、それ以降は荒れ球を投げるのはやめなくてはならない。 

 そうしないと自分が「無能」と思われるからである。 

 だが、これができずに、永遠に荒れ球を投げることが癖になってしまう人もいる。

 こういう人は、まず相手と話をする際に、まずありえないアイディアを提案し、ようやく狭めてくる。 

 「まるっきり違うよ」→「そうですよね、じゃあこれでは」→「ちょっと違うよ」→「そうですよね。じゃあ、これでは」→「うーんもう少しかな」→「そうですよね、じゃあこれでは」→「よし、それでいいんじゃない」という面倒くさい手順を毎回踏むことになる。 

 確かにこれはこれで当人にとっては、理に叶っているのである。いわば総当たり式で確実に正解にはたどり着く探索システムではある。無駄は多いが確実といえば確実である。 

 しかしこれを、生身の人間相手に毎度毎度やられると、最初のボールが確実に芯から外れていることに対して、ものすごくイライラしてくるのである。最初から正解を出す気がない態度をデフォルトにされるのは、さすがにきつい。お互い時間がかかってしかたない。 儀式じゃないんだから。

 上司目線からすると、無駄が多いとしか言いようがない行動なのである。 

 これは部下が上司の意思を計測することができなくなった=シンクロできなくなった、そして、シンクロすることをあきらめてしまったことによって起こる現象であろう。 

 構図としては、毎回荒れ球しか投げないコントロールの悪いピッチャーとの対決になり、ビーンポールの連投を受けてバッターである上司は疲弊する。時にはデッドボール直撃すら受ける。当然荒れ球を投げるピッチャーだって多投によって疲弊するので、なんのことはない、共倒れである。 

 かようにシンクロ率というものはビジネスにとって重要なのである。 

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【死して屍拾うものなし】成果主義を追求した結果、誰もやらない仕事=汚れ仕事ってあるよね

 長く仕事をやっていると、どうしても誰もやりたがらない業務、みんなが避ける業務が回ってくることがある。

 人間の心情としてスポットライトを浴びるような業務や、すぐ成果が出る業務をやりたいのは理解できる。

 成果主義がメインとなった昨今ではなおさらだ。

 ただ成果主義の悪いところは、結果として”越えられるハードル”を最初に交渉して、それを飛ぶ、という出来レースが横行してしまうことであろう。

 本来、越えられるか越えられないか、というところは成長性、伸び代を試す場面であろうが、この悪しき成果主義が加速してしまうと、まずは”越えられるハードル”を事前交渉され、その上に結果として超えられなかった場合の自己責任回避の他罰主義まで横行するのである。

 つまり「僕はこの期初目標を達成できる結果を出せました。しかしそれは外部環境のせいでそれはできなかったのです。つまり、今回の未達成は僕のせいではない。評価はAでよろしく!」という状況が生まれるのである。

 初めから失敗がわかっている業務とか、進めていくと絶対揉め事がありそうな業務は完全に誰もやりたがらない。

 素直に自動的に成果につながる仕事を欲しがる。リスクなんて取らない。

 ただそんな出来レースみたいな仕事は、いわばルーチンワークなので付加価値もないのである。

 チャレンジングな目標を立てても誰もやらない。

 結果として、コンサバな結果を集めたコンサバな組織の成果になり、最後に管理者は「なんでこんなコンサバな結果になるのだ!」と怒られる。

 だが、それはこの悪しき成果主義の必然の帰結であり、仕方ないのである。

 こんなやりすぎな成果主義が横行する中で、あえて失敗やトラブルが約束された「汚れ仕事」は誰もやりたがらないのである。いわゆる野球のお見合いのような誰も取りにいかない仕事が溢れてくるのである。

 だが、結局誰かがそれを処理しないと終わらないので、仕方なく、そうした業務が回ってくることもあるのだ。

 特に技術者は、技術に特化しているので、泥臭い労務や法務などには全くの無力であり、こうした業務が残り、誰かがやらなくてはいけなくなることが多い。結果として、貧乏くじのように誰かがやる羽目になるのである。

 そのとき、偉い人は「良きにはからえ」だし、中間管理職はババ抜きゲームであり、本社系の人々は「現場で解決してくれ」だし、最後に誰かがこうした火中の栗をあえて拾わなくてはならない。

 私もこうした「汚れ仕事」をやった経験を述べてみたい。

 だが、ここでいう「汚れ仕事」とは、総務人事がいう「汚れ仕事」とは意味を異にすることは注意を促しておきたい。彼らは、アンダーグラウンドな世界のあれやこれやなので、これは本物の世界である。

 しかし、こうした中間的な「汚れ仕事」もあるのである。

 こうした中間的な「汚れ仕事」をやるようになって実感するのは、やる側は貸しとして記憶するのだが、やらない側は目を背けるので、非対称になる。

 こちらは「貸し」と思っているのだが、相手は全く意に介していないのだ。

 まあ、本人からするとやるべきでない仕事なので、なんか”ゲテモノ食いのやつがいるな”程度の感覚なのかもしれないが、こちらも無形的でも報酬的なものがないときついのである。だが、実際はない。

 そんな私が社会人生活で経験した「汚れ仕事」を以下に列記してみる。

◆空気を読めない他組織の新参者がKY発言を連発した会議のあとで、自組織の偉い人から言われた「あいつを次回から排除しろ」→仕方ないのでその上司にネゴするが、基本的に他人の組織に手を突っ込むのはご法度なので非常に交渉が難しい。

◆トップの意思がぶれている場合、そのブレを下位層に知らせると結果的に皆二転三転になり信頼関係が薄れる場合、あえてそのトップの「ブレ」を伝えず、握り潰す。どうせもう少し時間が経てばトップの意思も変わるはずと信じて、あえて「伝えない」。いわゆる高周波成分をカットするローパスフィルタのような役割であるが、最悪、伝えなかったことに起因する責任は全部自分が負うという覚悟込みなので、その間、眠れぬ日々が続く。

◆合意ができていないが、とりあえず話だけは進めなくてはいけない場合の、その後の交渉。結果として言った言わないや、最終的に落とし所をどうするか、など長い交渉が必要になる。

◆最終的に、相手に敗北を認めてもらうためのメンツを立てるためだけの謝罪や裏工作。とりあえず「(全然そうは思っていないですけど)誤解を招いてしまい、申し訳ありません!」と謝るところから。

◆ルールは決まっているが、そのルールの運用を曖昧にした結果生まれる玉虫色な状態。結果としてどこかでそれを白黒決着させなくてはならないが、それを誰も言いたくない場合に、あえて反論や不満が返ってくることがわかって告知する役目。「ルールで決まってるから!」と言い切るしか答えはなく、妥協の余地などないのだが、それを当人にいう役目は誰もやりたがらないのである。

◆トップ同士で「決まったことだから」と呼ばれたが、実は何も決まっていないが、トップ同士で自分に都合の良いように相互解釈している業務のフロントラインにいることがわかった時。まさに板挟みである。成果を出せば、どちらかの利益に相反するし、何もしないニュートラルな回答だと自分の無能さを曝け出すというまさにチェックメイト状態である。

 結果として、若い衆からは「あの人の言うことは信用できない」と言われ、周りからは「あいつマネジメント下手くそだな」と言われ、まさに汚れ仕事。何も良いことないのである。

 まさに隠密同心「死して屍拾うものなし」(by 大江戸捜査網)の心境なのである。

 

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【書評】川田利明「開業から3年以内に8割が潰れるラーメン屋を失敗を重ねながら10年も続けてきたプロレスラーが伝える「してはいけない」逆説ビジネス学」–不器用をブランディングした器用なレスラーの、やはり不器用な生き方に痺れる

 先日読んだ吉田豪のインタビュー集「超人間コク宝」(コアマガジン)で、プロレスラー川田利明との対談を読んだ。

 プロレスラーをセミリタイヤした後、現在成城学園前駅でラーメン屋のような居酒屋のような少々迷走した店を経営していることはネット界隈では知られており、少々偏屈な経営をしていると言われていたのである。

 しかし、このインタビューを読んで少々認識が変わったのである。ものすごく常識人でもあり、プロレスラーには似合わず社会性もあるのであった。

 そこで興味を持って対談の中でも言及されていた著書、川田利明「開業から3年以内に8割が潰れるラーメン屋を失敗を重ねながら10年も続けてきたプロレスラーが伝える「してはいけない」逆説ビジネス学」(ワニブックス)を購入、読んでみた。

 この本は間違いなく面白く良書である。フリーランスとサラリーマンの対比としても読める。個人事業主のビジネス本としても面白いし、個人営業のラーメン開業の苦労話としても面白い。 

 この本でも言及されているように川田のプロレスラーとしての印象は「不器用」、「無骨」であるが、本人の発言として、それは自分のプロレスラーとしてのブランディングであって実際には「器用」であることが語られる。確かに実際にこうした体験や料理へのこだわりなど、非常に繊細で細かい。

 実際には社交性もあり、かつ、社会性もあるのであろう。私のこれまでの認識も訂正が必要なことがわかり、この本によって川田のイメージは確かに大きく変化したのであった。これは成功であろう。

 また、ネットで言われていたシステムの複雑さ、お客へ要求する張り紙の多さなどは、川田に起因するのではなく、むしろプロレス ファンの無神経さ、もっと言えば幼稚さ、社会性の無さの方に起因することも十分よくわかったのである。

 この認識を理解した上で、読了した後に改めて思うことは、皮肉にも”やはり不器用だ”ということであった。

 プロレスラーがラーメン屋を経営する際に、そのブランドを利用するとしたら、やはりこうした飲食店にとって客単価が低く回転率も悪い”質の悪い客”が押し寄せてくることは、通常の飲食店経営者は理解しているはずである。そうしたことがないように、ある種の「敷居」を設定するのであろう。最初からそうした客は足切りするのである。

 だが川田自身はそうしない。その解決策として過剰なまでの張り紙になるのである。

 プロレスファンにとっては理解できないことであろう。チケットを購入し、CM付きのTV番組を見ていれば応援になったのだ。その意識はラーメン屋になった川田に対してもおそらく全く変化しないのであろう。これはプロレスファンが持つ幼児性であり、この幼児性を理解した上で「切り捨てる」選択をしない、あるいはできない経営者は「不器用」であろう。

 またそんな低レベルの客を前提とした場合、もうひとつの方法として、料理のこだわりなどを示す必要もなく、名義貸しや料理の質を落とすことも考えられる。しかし、それも川田はせず、ひたすら自分の時間を犠牲にしてラーメンや料理にこだわりを示すのである。

 洗浄などや効率のよい缶ビールや瓶ビールの提供に切り替えることなく、生ビールにこだわるのである。

 まさに「不器用」そのもの。

 本書で、川田に対するこれまでの見方は良い方向に変わったのは間違いない。確かに料理人としても、実際のレスラーとしても「器用」なのである。

 しかし、ブランディングとしての「不器用」と語る川田の生き方そのものは、この本を読むとやはり「不器用」なのだ、と思う。その不器用さには、ブランディングとは異なる説得力がものすごくあり、敬意を評したくなる。

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【書評】楠木新「左遷論 組織の論理、個人の心理」–”個人的な経験”となる「左遷」に対する体系的な良書

 楠木新「左遷論 組織の論理、個人の心理」(中公新書)を読んだ。

 生命保険会社を定年まで勤め上げ、MBAも取得している著者によって書かれた本書は、「左遷」という概念を真正面から取り扱っている良書である。

 本書で言及されているように、「左遷」そのものは、個人的な心理、すなわち主観的な部分に多くを依存し、社会科学的に捉える客観的な事象として捨象することが困難な側面を持っている。よって、既存の経営学的な視点で取り扱いう対象として難しい。一方、小説やドラマなどでは、劇中の大きなインパクト要因(例えば主人公の受難)として使用されるが、こちらは現実との乖離が大きい。

 社会人生活、特に組織に属する個人の経験として、「左遷」(自分の望まぬ、かつ、今より待遇の悪いポジションへの異動)は、自分にも周囲にも経験がある。自分に降りかかった際にはストレスになるし、他人の人事異動は正直言って野次馬的な興味があるのは否定しがたい。本書で言及したように、電子化される前に、定期辞令が紙で各部署単位で配布された際には、その冊子が回覧されて来るのを今か今かと楽しみにしていた自分がいたのも事実である。

 本書は、こうした言及しにくい「左遷」について、コンパクトであるが体系的に記述した良書である。

 著者は人部部門のキャリアもあることから、通常伺い知ることのできない、人事部門目線での記述もある。

 たしかに人事異動の担当者の仕事は、詰まるところ空いているポストに社員を当てはめる業務であり、実際にはそれほど大きな裁量はない。また会社組織の建前としても恣意性は公式には認めないであろう。
 私が若手社員だった時には、「家を建てると転勤の辞令が出る」と社内で良く言われていたが、実際に人事部で働くようになると、それが俗説であることがよく分かった。そんな理由で異動を決定する裁量は持ち合わせていないし、人事担当者も人の子で、嫌われたくないのが本音である。

楠木新「左遷論 組織の論理、個人の心理」(中公新書)p.17

 こうした客観的な事象ではなく、主観的な事象、いわば”個人的な経験”として記述されることの多い「左遷」について、著者は更に思考を推し進めて、戦後の日本経済が保有し、高度経済成長でその優位性を獲得した人事システムについて言及する。

 新卒の一括採用により同質化した社員を一列に並べ競争させる。ピラミッド型の役職体系により、キャリアとともにポストは少なくなる。成果主義ではなく”能力平等主義”により、専門性やスキルのみを重視しない。組織内の内部序列を作る。

 こうしたシステムのもとで、誰もが読むべき均質化した「空気」を持った環境を、その構成員の同意を持って自然に作りあげてきた「共同体」意識があるとする。これは高度経済成長時代には確かに有効なスキームであった。

 このような考え方は、中根千枝「タテ社会の人間関係」(講談社現代新書)でも既に言及されている、”根強い能力平等観”による日本の社会構造が抱えている課題そのものである。

 そうした共同体の中では、構成員は排除されることを恐れ、周囲の序列を常に確認しつつ、自らを照らしてその処遇を主観的な意識=「左遷」として意識するのである。

 そして著者は、その克服もまた自己の意識にあるとする。「挫折」をある種の契機として、すなわち「価値」として認識することを提示する。

 「左遷」は、個人の中にその根拠の多くを担っている。

 個人は個人として、社内とは別に自身の「物語」を作っている。その自分の「物語」と、社会生活は矛盾することが多い。大なり小なりこうした矛盾に折り合いをつけつつ、我々は日々生きている。しかし、その個人の「物語」に社会の方から看過し得ない大きな変更を加えられたとき、それは一面として「左遷」体験となるのであろう。

 そしてそれは直接的には他者の力によって解消されることでしか解決できない構図になっているとも言える。本書でも、「40歳以降では自力による敗者復活はない」という記述がある。では他力にすがるしかないのであろうか。

 本書では、そうではないとする。

 本質的に克服することができるのも、「物語」の作者である自分以外にないのである。そうした経験は、誰しも持っている。おそらくエリートでさえも。こうしたことを読後に考えさせてくれる良書であった。

 ちなみに本書では、「左遷」の実例として、菅原道真、森鴎外などを挙げている。私としては、鄧小平をあげたい。3度の失脚、そして3度の復活。本書の記述通り、復活は自力ではなく他力である。だが、毛沢東が「あいつはまだ使える」として、粛清手前で踏みとどまった運命には、何らかのわずかな自力が見える。この点には興味があり、私自身が苦境に陥るたびにwikipediaを見て勇気づけられるのである。

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【書評】辻井啓作「独立開業マニュアル これだけは知っといてや」(岩波アクティブ新書)–軽妙な関西弁で書かれた、非常に実際的な独立本!

 辻井啓作「独立開業マニュアル これだけは知っといてや」(岩波アクティブ新書)を読んだ。

 全編関西弁の語り口で面白く読め、かつ、その中身も2003年発行であるが、古びておらず、著者の実感に基づく役に立つことが書かれている。さすがにスマホが登場していないが、それ以外は事務機器などのツール的にも問題なく読める。

 やはり形式的なフリーランス本とは異なり、血肉化された経験に基づく”独立本”は面白い。

 独立開業(会社経営や個人事業主含む)というのは、サラリーマンと異なり、”精神の独立性、自立性”が強いと思う。そうした中での”経験”というのは、やはりこれもサラリーマンとは異なり、深く刮目する内容が多かった。

 独立することの例えを、以下のようなグッとくる例えで述べている。

 独立するゆうのはある意味、、無名校でレギュラーになるみたいなもんや。名門校(大企業)にいるより伸びやすいのわかるやろ。けど、無名校のレギュラーがどれほど成長しても、名門校のエースにはなかなか勝たれへん。そのことも忘れたらあかんで。

辻井啓作「独立開業マニュアル これだけは知っといてや」(岩波アクティブ新書)p.9

 また実用的なTipsも沢山あり「電話は家庭用のコードレスホンの子機を事務所内で投げて渡せばOK」とか「個人の名刺は不要(悪影響)」とか「某新興生命保険の営業マンは人脈のキーマンになるかも」といったノウハウ系から、会社の作り方、仕事の拡大方法、経費処理などの法務・税務と言った内容も充実しており、非常に面白い本であった。

 著者は文化系だが、理科系だと、以前読んだ森田裕之「技術士 独立・自営のススメ」(早月堂書房)も同様の面白さがある。

 ちなみに両者は開業した際に事務所をどう構えるか?(自宅と別にすべきか否か)という問いに、全く正反対の回答をしているのが興味深い。どちらもその根拠は納得できる。

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