【書評】ラズウェル細木『酒のほそ道』50巻–記念すべき50巻でも岩間の結婚ネタはモヤモヤさせられる

 先日発売された、ラズウェル細木『酒のほそ道』50巻を入手。連載27年、ついに50巻に到達ということでおめでたい感じの表紙である。

 考えてみれば酒ネタだけでこの長期持たせるというのは、すごい。絵柄としてのスタイリッシュさも古びておらず、素直に敬服するのである。

 表紙には私の気になる麗ちゃんもフォーマルな衣装で参加。

 すっかり岩間の結婚エピソードの当事者は、かすみちゃんと松島さんで進行しているが、麗ちゃんはこのまま登場してこないのだろうか。気になる。

 まえがきでも、このように「作者もわからない」と書かれている始末で、このストーリーの行方はまだヤキモキさせられるのである。

 めちゃくちゃ失礼な言い方をさせてもらうと、酒うんちくマンガなので、このエピソード自体はあまりメインではないはず(?)。

 以前も書いたが酒と恋愛はあまり相性が良くない組合せである。何やら恋愛ストーリーマンガばりに「キャラが一人歩きを始める」状態が、このような酒マンガで現れるとは・・・(ある意味感心)。しかし、どうなるのであろうか(やはり興味は深々)。

 50巻でも、そんな恋愛(というか結婚)モヤモヤエピソード(+お節介課長の松島さん推し)があるが、当然のことながら結論が出ていない。

 一体どうなるのであろうか。

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【書評】うおやま「ヤンキー君と白杖ガール」–ゆるゆるな世界から、我々に真っ直ぐに送るメッセージとは。

 2021年10月にドラマ化された、うおやま「ヤンキー君と白杖ガール」(メディアファクトリー)の1-6巻を読んだ。

 今時の絵柄でヤンキーと弱視の主人公の恋を描くコメディであるが、さまざまなバリアフリーの問題だけでなく健常と障がいの間の連続性について、ハードな内容も含まれている。

 ただ限界もあって、現段階での登場人物は全て最終的には根本に「善」がある。これは絵柄としても絶対的な悪を描ききれないこともあって、やむをえないことであろう。むしろ物語全体としての安心感を保持してくれているとも言える。

 物語空間の中で、主人公とその周辺における「万能性」あるいは「全能性」ともいえる読者への心理的安全性が担保されているのは、読み続ける意味で確かな魅力のひとつではある。

 だが、この作品において特筆すべき志向としては、こうした単純な「万能性」、「全能性」をもつ主人公カップル同士の”ほのぼの”、あるいは、”のどか”な日常では済ませない展開を暗示的に秘めているところであろう。

 特に4巻以降の主人公ユキコが外部世界に出る展開から、物語は少しずつ社会的な普遍性を帯びはじめる。世界において生きる「価値」の議論にさらされる。「価値」の議論とはある意味一つの尺度においては”フラットな基準”(公平でも公正でもないけど)で決められる世界である。そこでは評価される側は、その時点での外部環境に対して完全に防御なしで暴露されるという状態になる。

 ハンディキャップを抱えたユキコも同様にその評価に曝されるのである。

 善人しか現れないという、一種のあえていうと”偽善性”についてはさておいて、それでもなお、”自分とは異なる何かを許容する世界はどうありうるのか”というハードな問いを投げかけてきていることに率直に驚かさせられる。

 それを、殺伐とした全ての「費用対効果」「付加価値」で還元する<資本主義>世界においても、自立的な解答として提示しようとした作者の強い意思を感じる。

 自分と異なるものとそうでないもの、そしてその区別意識について、我々の境界線をアナログ的に把握させようとする。

 違い、とは何か?

 ハンデキャップとはいったい何を意味するのか?

 より具体的に何と何のハンデキャップなのか?

 とどのつまり、お前と自分の差異とは何か?と。

 そして、その差異を認めたうえで、我々の多数が今この瞬間において、徹底的にこだわっている「付加価値」とはいったい何なのか?と。

 繰り返しになるが、このマンガは、確かに完全な善人しか出てこない極めて安全極まりない物語なのである。リアリズム的な描写であれば現れてきてもおかしくない生々しい悪意の塊のようなものは、この物語世界には決して登場しない(これから出てくるかもしれないが)。

 そのことを作品の瑕疵として捉えるべきではないし、そんなものは最初から本質的ではないとするモーメンタムが、4巻以降のエピソードからは、読者にとって聞こえてくるのである。

 絵柄は、ほのぼのかつ安定しない感じで、正直、技術的にはうまいとは言い難い(失礼)。だが、この作品には明らかなメッセージ性がある。

 それは、バリアフリーや多様性といった人口に膾炙したバズワードに染まったものではない、我々に真っ直ぐに突っ込んでくる率直な強いメッセージをもっているのである。

 2024.01.27 追記

 2022年に8巻で堂々完結。最後まで安心感のあるマンガであったが、上記記事に述べたハードな問題意識は最後まで通底していた。

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【書評】卯月妙子「鬱くしき人々のうた 実録・閉鎖病棟」–単純かつ当たり前と思っている”自分を維持すること”の尊さを実感する

 待望の新作である、卯月妙子「鬱くしき人々のうた 実録・閉鎖病棟」(太田出版)を読んだ。「人間仮免中」「人間仮免中 つづき」の時代から、更に遡って20歳代の頃のエピソードが満載である。

 この作品(のみならず作者の創作力)のすごいところは、様々な精神を病んだ人々(作者自身を含めて)を語っているにもかかわらず、その視座に客観性があるところである。自殺願望や幻聴など、”病んだ人”への描写は、自他問わず極めて客観的に描かれる。誤解を恐れずに言えば、常識的な多数の人間と同じ視座なのである。その結果、ここで描かれる”病んだ人々”は生き生きと、むしろ”少し違った人”として描かれている。

 その一方で、この”病気”の恐ろしさも正確かつ実感的に描かれる。

 人間が、自らの「人格」を維持することの難しさとそれが崩壊するという恐怖。

 単純かつ当たり前と思っている”自分の人格を維持すること”とは、これほどまでに困難かつ大切なものだったのか、ということを改めて実感させてくれる。尊さ、といってもよい。

 稀有な人生を背負ってきた著者の人生そのものを、こうした表現作品として久しぶりに見ることができたことは非常に貴重な読書経験であった。

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【書評】谷川ニコ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』20巻–真の”ぼっち”であるキバ子がメインの、10周年で原点回帰した傑作巻!

 連載10年、20巻に到達した谷川ニコ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』20巻を読んだ。特装版付きの記念巻である。

 今回は最近の黒木リア充路線の停滞感を脱しており、非常に面白かった。

 それはやはり表紙にもなっている「キバ子」フォーカス路線だったからであろう。ある意味、読者からもヘイトを買うヒールキャラで、主人公の黒木さん(もこっち)より、真の意味で”ぼっち”なのである。

 さらに初期のもこっちを彷彿させる孤高のぼっちであり、ストロングメンタルの”二木さん”との交流もあり、これが本巻の中で、非常に質の良い青春ドラマになっているのである。

 そして脇を固める形となってしまった、もこっちの所々出てくる下ネタも良いし、もこっちストーカーの”ウッチー”がいつの間にか少しだけ成長しているエピソードもある。各キャラもそれぞれ個性を出して登場しており、オールスター風である(特装版では”きーちゃん”も出てくる)。

 10周年で改めて原点回帰したような”ぼっち”路線であり、非常に面白く読めた。最近の「わたモテ」の中でも白眉となる巻であろう。

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【書評】ラズウェル細木『酒のほそ道』49巻–コロナが「ない」世界線

「酒のほそ道」最新刊49巻を読んだ。酒飲み的には新型コロナによる緊急事態宣言からの流れで、首都圏の居酒屋は休業だったり、営業しても酒を出せない、制限がある、だったりと、かなり風景やリテラシーが変わっている。

 最近は「電車飲み」のような、通勤電車(帰宅)でキオスクでお酒を購入、車内で飲む、という昔の常磐線上野発で良くあった光景すら通常に見るようになってしまった。

 また都市によってはあえて「酒あります」という看板を掲げて客を誘うが焼き鳥屋など、囚人のジレンマのような様相すら見えている。どうしたものか。悩ましい。

 そんなこのマンガの世界線は実はコロナの影響はない。作者が本書の前書きに述べているように「酒のほそ道の世界には、コロナは存在しない」のである。まあ、キャラクタがマスクをされて飲食するのも味気ないし、マンガの世界くらいコロナを忘れることも「あり」なのである(ただ、羨ましいが)。

 そしてもう一方の注目ポイント、主人公・岩間宗達の恋愛ラブコメの方向性であるが、ここ数巻での動きはない。

 正月に、岩間が松島さんとかすみちゃんとの結婚生活を妄想するシーンや、タラコ唇の課長が相変わらず、松島さんを推す上に、あまつさえ飲み屋の席で2人を前に「いつでも仲人の準備はできてる」という昭和の時代のセクハラ発言をしれっとかますシーンが見どころである。

 コロナのない世界というifだけでなく、恋愛要素的にもそういう意味では超・現実、すなわち別の世界線に突入しているような気がしてきて、もしやSF要素も入ってきたのか?と思うのであった。SF恋愛サラリーマン酒マンガ・・・なかなか味わい深い。

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【書評】萩尾望都「一度きりの大泉の話」–いま造られつつある”歴史”への全面的拒絶宣言、および、自己肯定と自己否定の埋められない溝

 前記事で竹宮惠子の著書「少年の名はジルベール」を読んだ後に、萩尾望都「一度きりの大泉の話」(河出書房新社)を読んだ。

 参考記事:【書評】竹宮惠子「少年の名はジルベール」”大泉サロン”に集った少女マンガ家たちの青春と先駆者たちの苦闘、そして。

 竹宮惠子の著書が、それなりに悩みは抱えつつ基本的には明るく、懐古的(色々あったけど、今振り返ってみると良かったね!的な)だったにもかかわらず、とんでもなく火の玉ストレートな拒否のメッセージを萩尾望都が、ぶちかましているのである。もはやある時点から竹宮惠子の作品は一切読んでいない、と宣言するくらいにである。

 この話題はもうこれきりにしたい、という覚悟で、自分視点での”大泉サロン”のアナザーサイドストーリーを振り返る。そして、そこには萩尾望都にとって、許せない一線を超えられてしまった恩讐のような思いが根底にある。それこそ竹宮惠子と同列に語られてしまう少女マンガ家の「花の24年組」という歴史的解釈すら拒否するほどの。

 本書では、こうした非常に重い記述が続く。受傷した萩尾サイドの視点からの、真っ暗な部屋で一人孤独に苦しむ人の告白を聴いているような、息詰まるような緊張感で横溢しているのである。

 竹宮惠子としては「色々あったけど、私が若さゆえの一人相撲だった。ゴメンね(一応謝る)、そんな時代もあったねと〜♪」という感じで、良い思い出に包んで”大泉サロン”の歴史を総括をしようとしたものの、萩尾望都としては100%拒否の姿勢で、その献呈された著書(「少年の名はジルベール」のこと)を読まずにマネージャーが送り返すほどの状態であり、今回のこの著書によって竹宮サイドの記述を全てゼロにされるくらいの攻撃力を持っているのである。

 更に事態を悪化させたこととして、当事者以外の外野も巻き込んだのも悲劇の一端というべきのようだ。変なイベント企画屋みたいな人もこの話題に絡んできており、受傷した側の萩尾望都にとってはまさしくアイデンティティの「危機」であったのだろうと思う。

 お互い創作者として鋭くナイーブな感性を持っていながら、最終的なギリギリの局面において、「自己に対する肯定性」を持つことのできた竹宮惠子と、一貫して「自己に対する否定性」を持ち続けてしまった萩尾望都の二人は、やはり噛み合うことは難しいように思う。

 更に、萩尾がこの著書で振り返った歴史的解釈において、創作者にとってのオリジナリティに対する意識の違いが、竹宮のプロデューサー的役割、かつ、この”大泉サロン”のキーパーソンの一人への評価の違いとして描かれ、これは萩尾視点では決して埋められない溝として描かれている。

 そして、これは拡大解釈だと思うが、当時竹宮たちが同世代としてシンパシーを覚えていたであろう70年代の学生運動の高まり、すなわち「革命」に対する、萩尾からの強烈なアンチテーゼとも思えてしまう。

 ”あなた(竹宮)の総括は、歴史を権力によって都合よく事後改変しようとして批判された(学生運動の当事者が批判していた)スターリニズムのそれと同じではないか”と。

 まさに歴史がどう造られるのか、それを目の当たりにしているようだ。

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【書評】竹宮惠子「少年の名はジルベール」”大泉サロン”に集った少女マンガ家たちの青春と先駆者たちの苦闘、そして。

 竹宮惠子「少年の名はジルベール」(小学館)を読んだ。今話題の本である。 

 2016年出版のこの本が、今現在話題になっているのには理由がある。本書は竹宮惠子の自伝的エッセイなのであるが、最近になって出版された萩尾望都「一度きりの大泉の話」によって話題となった。この2つの回想を、竹宮→萩尾の順で読んでみた。

 竹宮惠子と萩尾望都がともに漫画家を目指して地方から上京してくる。そこで、ある一時期に練馬区大泉のオンボロ長屋で同居生活を行った。ここに当時の少女漫画家の卵たちが集ったという。

 これを”大泉サロン”と呼ばれることがあり、女性版トキワ荘のようなイメージとともに、ある種の成功伝説のようになっている。この女性版トキワ荘の主役の一人は、この竹宮惠子であり、そしてもう一人は萩尾望都であった。

 どちらも有名なマンガ家である。彼女たちは、新しいマンガ形式を模索するために、議論し悩んでいく。そこには熱気があった。

 この”大泉サロン”は約2年で自然に解散してしまう。それぞれが別々の生活を見つけていく。

 当時から、この解散の経緯には色々な噂があったようだ。具体的にいえば、竹宮恵子と萩尾望都の間に、何かしらの”衝突”があったらしいということが囁かれていたらしい。

 このいわば、出会いと別れからなる青春生活を、本書で竹宮惠子は自分の目線で綴っている。そして、萩尾望都との別れについて、自分から「距離を置きたい」と切り出したと記述している(p.178)。そこには、灼熱の太陽に照らされ続ける焦りにも似た、萩尾望都の才能に対する「嫉妬」の感情があったとする。

 当時はタブーであった「少年愛」をマンガによって描く、そのために固定観念に縛られた出版社の商業主義と戦うために竹宮は苦労する。まさに先駆者の苦しみである。ライフワークともいえる「風と木の詩」を掲載・出版させるための様々な戦略的苦闘も描かれるが、竹宮惠子にとって萩尾望都はそうした苦しみすらも、誰もが認める才能によって易々と乗り越えてしまうような”恐怖”を覚えているようだ。

 竹宮惠子自身も一流のマンガ家であり、何もそこまで、と読者は思う。

 私も大学生時代に読んで驚愕した名作「風と木の詩」や、社会人になって読んだSFコメディ「私を月まで連れてって」など、全く卑下する必要すらない作品群を生み出していると思うのだが、萩尾への当時の出版社の対応ー当時から描きたいものの掲載が確約された対応、やファンからの声の違い、さらに表現者・創作者としていちばん目の当たりにしたであろう萩尾のホンモノの「才能」に、本人も記載している通り「自家中毒」(p.177)になってしまったようなのである。

 この本は一貫して竹宮惠子が愚直に悩む姿が描かれているものの、全体としては明るい懐古風のトーンとなっている。ラストには改めて萩尾望都らへの感謝も記載されている。

 読後感は悪くない。振り返って様々な苦労をともにした”戦友”あるいは”同志”への”総括”メッセージとも取れる。

 だが、人間関係というものは複雑であり、2021年に出版された萩尾望都の著書「一度きりの大泉の話」によって、再びこのイメージはひっくり返される。芥川の「藪の中」と同様、それぞれの視点によって見える現実が異なっているのである。

 竹宮惠子にとっての「総括」を、萩尾望都は全面的に否定するのである。

 萩尾望都「一度きりの大泉の話」の読後感については別記事で記載したいと思う。

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【書評】白鳥千夏雄「『ガロ』に人生を捧げた男 全身編集者の告白」まさにリアル「藪の中」!編集者魂が炸裂している多重構造

 白鳥千夏雄「『ガロ』に人生を捧げた男 全身編集者の告白」(興陽館)を読んだ。2019年に「全身編集者」として少部数で出版されたものの改題再販である。

 マンガ雑誌として特異な位置を占めていた「ガロ」を発行していた青林堂の編集者であり、かつ、その休刊までを見届けた関係者としての貴重な証言が満載である。

 出版界の有名人であった青林堂・長井勝一社長の下で、商業的な成功よりもマンガ表現としての面白さ(それは世間より”尖った”才能発掘となる)を最優先とした雑誌づくり(ただ商業的成功を否定していた訳ではない)にこだわった著者のポリシーが豊富に描かれる。

 まさにサブカル全盛の時代の情勢とも相まって、「ガロ」の独自路線は王道ではないが、最先端の雰囲気を漂わせていた。

 私がたまたま持っているのは、1987年6月号。価格は430円。表紙は湯村輝彦で、まさにヘタウマでポップな感じ。連載陣もすごい。

 みうらじゅん、内田春菊(「南くんの恋人」は本号で最終回)、泉昌之、森下裕美、蛭子能収、根本敬、杉作J太郎、やまだ紫、といった、錚々たる面々なのである。

1967年9月号もあった。こちらは白土三平、水木しげるの名前が・・・

 本書は、こうした作家を支えた有能な編集者である著者のロジカルな編集論だけでなく、経営的な問題によって編集者が大量退職したガロ分裂騒動の経緯、結婚したやまだ紫との思い出やその死、さらには本人が難病に冒される闘病生活などが描かれている。

 編集道を突き詰めたとも言える白鳥の生涯の中で、その最期に自分自身もその創造対象とし、コンテンツの材料を自分の”弟子”により編集させて完成させたのが、この本である。

 この書籍の出自たる「編集」自体も非常に仕掛けが施されており、連城三紀彦のミステリー小説さながらのリアル「藪の中」的などんでん返しがある。ただ、ここで記述されたものはミステリーすなわちフィクションではない。現実の出来事なのである。

 リアルな現実に起こった出来事として、事実の集積が真実の解明に繋がらないという、われわれの現実のもつ本質的な多重構造を目の当たりにさせてくれるという、スケールが大きく、読み手にとって想像力を働かさせてくれる本となった。

 おまけ:1987年6月号の編集後記に白鳥と思しき文章があった。

(文中敬称略)

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【書評】谷川ニコ「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」19巻–ヤンキーが夏休みに免許を取って”煽り運転”

 谷川ニコ「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」19巻を読んだ。

 季節は3年生の夏休みである。

 ここから卒業まで時間軸がまだストレッチしそうな予感もありつつ、今巻ではコミケやヤンキー吉田さんの免許取得+ドライブなどのエピソードが収録されている。

 この作品世界ではコロナの影響がないので、その点はほのぼのとする。

 作品世界では、やはりヤンキーが免許を取ったらこれでしょ、という形で「あおり運転」というフレーズが。まさかの加害者側にもこっちが。

 今回はそれ以外にも下ネタ満載でなかなか楽しめた(?)。

 この巻で、一番受けたのは、もこっちがKY鉄面皮な田村さんと自宅で二人で映画を見ながら勉強の回で、田村さんが持ってきた映画が「ダンサー・イン・ザ・ダーク」というチョイス。

 まさかの救いの無い映画とは・・・。

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懐かしのマンガ雑誌「COMICばく」(日本文芸社)の思い出

 年末の大掃除で見つかった「COMICばく」(日本文芸社)。

 No.11,12,14,15の4冊である。

 この雑誌は1987年の通刊15巻目で休刊となっているので、当時私は最終巻も含む後半を読んでいたことになる。

 もともと、つげ義春の復活に合わせて発刊された経緯をもつ「COMICばく」は、名作「無能の人」が連載されていた初出誌である。

 最終号はそのつげが原稿を落としてしまい、代わりのインタビューが掲載されている(このインタビューも「無能の人」の単行本に掲載されている)。

 そんな「COMICばく」の当時の連載陣は何だったかというと、つげ義春、つげ忠男、やまだ紫、近藤ようこ、末永史、林静一、ユズキカズ、花輪和一、菅野修、津山週三、三橋乙椰など。

 つげ忠男は、これも名作「けもの記」も連載しており、この雑誌の休刊と共に「第一部完」となっている(参考記事:【書評】つげ忠男『けもの記』の続きが読みたい

 最終巻の発行は1987年。やまだ紫や末永史は既に亡くなっている。

 やまだ紫はこの雑誌ではないが「しんきらり」という名作もあった。

 花輪和一は、古代日本の姿をリアリティかつイマジネーションあふれるビジュアルで描いた「更級日記」を原作としたマンガもこの雑誌で発表している。

 そして私的にはいわゆる日本マンガの極北of極北と言える悪夢シュール系マンガ家(?)菅野修を掲載する幅広さがあったのである。「夜行」(北冬書房)しか読めない作家だと思っていたが。

 この雑誌を立上げ、最後まで看取った編集長、夜久弘も2015年には亡くなっている。

 時代は遠くなってしまった。

 この雑誌によって、私はガロ系の劇画系マンガの系譜と出会えた訳で、マンガ表現の奥深さを、ほんの少しであるが理解できたように思える。

 

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