【書評】岩井俊憲「人間関係が楽になるアドラーの教え」によるビジネスシーンでの負のスパイラルからの脱却のヒント

 岩井俊憲「人間関係が楽になるアドラーの教え」(だいわ文庫)を読んだ。

 ベストセラー「嫌われる勇気」などでアドラー心理学が話題になっていた。ただ、これをビジネス文脈まで拡張されると少々牽強付会というか、自己啓発チックな香りが漂うので敬遠していたのだが、この度必要に迫られ、読んでみた。

 ビジネスでもなんでも、うまくいっているうちは、好循環が回っているので少々の課題があっても勢いで何とかなるが、いったんそれが厳しい方向、退潮方向に進み始めると、今度は悪循環、すなわち負のスパイラルに陥る。そうなると、どんどん悪い方向に加速をつけて転がっていくことになる。

 組織もイナーシャ(慣性)があるので、いったん悪循環になると、その回転速度を遅らせ・停止させ・逆方向に回すということには非常なエネルギーを伴う。人間もそして組織も現状維持バイアスがあり、なかなか方針転換などもできないものである。

 具体的に、部門最適(個別最適)思考、部門間の壁による蛸壺思考、モチベーションの低下、足の引っ張り合いなどが起こり、いかに高性能エンジンを搭載しても、駆動伝達系の摩擦抵抗が大きいので、ほとんど摩擦熱に変わってしまい、有効な駆動力として使用されるのはほんのわずか。非常に効率(燃費)の悪いクルマのようなものなのである。

 しかし、再建・改善・改革という行為は、その経営者や一部の旗振り人間だけが偉そうに理想論を言っても効果はない。そもそもそれがわかっていれば、自力で改善できるのである。個々の人間も理解しているが、結果的には組織としては負のスパイラルになる。個人行動的に効用を重視した結果、全く意味のない結果を産んでいるのである。

 よって構成メンバの意識を、一つの目標に向かってベクトルを揃える必要がある。各自のベクトルが揃っていないということは、気体分子運動論のように、運動の方向を平均すると相殺してゼロ、マクロ的には「その場から動いていない」ということになってしまう。

 こうした目的から、再建のために構成員のマインドをまず変えることは非常に重要であり、こうした心理学的知見も援用する必要があるであろう。

 本書は「人間関係」に注目しているが、ビジネスシーンでも読み換えることができる。

 アドラー心理学では、外部環境は変えることができない前提条件とし、変えることができるのは「自分」「自分の行動」であるとする(自己決定性)。できない理由をつくり出す「原因論」ではなく、目標を決めて現在から未来への行動を建設的に考える「目的論」が重要であるとする(目的志向)。

 ビジネスシーンにおいても、

 「できない理由から入り、次から次へとできない理由を述べ続ける。また、自分でコントロールできない(環境要因)と、自分でコントロールできる要因の区別をせず議論する。そして、自分でコントロールできない要因を前提条件とせず、あくまでそれが目的を達成できない理由だと主張する」

 「過去の経緯(しかも属人的な理由が多い。権威のある誰々さんがこういった、など)を意思決定の材料とし、現在を起点に未来を考えることを避けたがる」

 「自己の既得権益にこだわるが、他人の既得権益については鈍感」

 などの例を想起し、これらは負のスパイラルのイナーシャそのものである。

 こうした事例からの脱却の直接的なヒントとして、アドラー心理学の示唆する「自己決定性」や「目的論」は有効であろう。

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【書評】白鳥千夏雄「『ガロ』に人生を捧げた男 全身編集者の告白」まさにリアル「藪の中」!編集者魂が炸裂している多重構造

 白鳥千夏雄「『ガロ』に人生を捧げた男 全身編集者の告白」(興陽館)を読んだ。2019年に「全身編集者」として少部数で出版されたものの改題再販である。

 マンガ雑誌として特異な位置を占めていた「ガロ」を発行していた青林堂の編集者であり、かつ、その休刊までを見届けた関係者としての貴重な証言が満載である。

 出版界の有名人であった青林堂・長井勝一社長の下で、商業的な成功よりもマンガ表現としての面白さ(それは世間より”尖った”才能発掘となる)を最優先とした雑誌づくり(ただ商業的成功を否定していた訳ではない)にこだわった著者のポリシーが豊富に描かれる。

 まさにサブカル全盛の時代の情勢とも相まって、「ガロ」の独自路線は王道ではないが、最先端の雰囲気を漂わせていた。

 私がたまたま持っているのは、1987年6月号。価格は430円。表紙は湯村輝彦で、まさにヘタウマでポップな感じ。連載陣もすごい。

 みうらじゅん、内田春菊(「南くんの恋人」は本号で最終回)、泉昌之、森下裕美、蛭子能収、根本敬、杉作J太郎、やまだ紫、といった、錚々たる面々なのである。

1967年9月号もあった。こちらは白土三平、水木しげるの名前が・・・

 本書は、こうした作家を支えた有能な編集者である著者のロジカルな編集論だけでなく、経営的な問題によって編集者が大量退職したガロ分裂騒動の経緯、結婚したやまだ紫との思い出やその死、さらには本人が難病に冒される闘病生活などが描かれている。

 編集道を突き詰めたとも言える白鳥の生涯の中で、その最期に自分自身もその創造対象とし、コンテンツの材料を自分の”弟子”により編集させて完成させたのが、この本である。

 この書籍の出自たる「編集」自体も非常に仕掛けが施されており、連城三紀彦のミステリー小説さながらのリアル「藪の中」的などんでん返しがある。ただ、ここで記述されたものはミステリーすなわちフィクションではない。現実の出来事なのである。

 リアルな現実に起こった出来事として、事実の集積が真実の解明に繋がらないという、われわれの現実のもつ本質的な多重構造を目の当たりにさせてくれるという、スケールが大きく、読み手にとって想像力を働かさせてくれる本となった。

 おまけ:1987年6月号の編集後記に白鳥と思しき文章があった。

(文中敬称略)

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【書評】連城三紀彦「白光」–人間心理の論理ゲームの集大成のようなミステリ

 連城三紀彦「白光」(光文社文庫)を読んだ。

 連城作品の特徴である、人間心理を重層的に捉えて一つの主張が次の段階では異なる様相を示すような展開が続き、ラストの驚天動地の展開に至る傑作である。

 ただ、物語自体は非常に暗い内容である。戦争体験や人々の憎悪、裏切りなどの負の要素が渦巻く。こうした不幸や嫉妬など、人間の業としか思えない感情による心理劇がひたすら続くという展開なのであるが、ラストに至るまでにそれを覆すスペクタクルな展開が待っている。

 その謎を紡ぐ登場人物もこうした複雑な構成であれば単純化したいところだが、そんなことはなく、前記事で紹介した作品「青き犠牲」と比較しても倍以上の人数が登場し、その一人一人の心理のエゴと犠牲の両面を論理的に組合せていく構成となっている。

 結末に至るまでには読者は何度も論理の転回を経験し、ラストまでこの強い「白光」を浴び、幻惑させ続けられるのである。

 こうした極めて複雑な論理の束を破綻させることなく、読者をラストまで連れていく著者の剛腕に唸らされるばかりである。

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【書評】連城三紀彦「青き犠牲」–現実離れした事件なのに、何故か現実的に読めてしまう荘厳なミステリ

 連城三紀彦「青き犠牲」(文春文庫)を読んだ。ギリシャ悲劇である「オイディプス王」をモチーフとしたミステリーである。

 著者が得意とする、”内と外の構造の相対性”の発想も盛り込まれており、物語の構造がダイナミックに転換していき、息もつかせぬ展開である。

 「オイディプス王」の持つ”父殺し”や”母との不適切な関係”などの要素が効果的に使われると同時に、それだけではない重層的な謎を盛り込み、またミステリとしてのトリックも十分に仕込まれている。

 読了したのちに、少し冷静になって考えてみると、実はこの事件自体はリアリズム的には決して”ありえない”構造なのである。

 しかし、このギリシャ悲劇の普遍的なモチーフを用いた著者の強力な語りによって読者自身も幻惑されてしまい、この現実離れした事件を”ありそう”と思わせるのはさすがとしか言いようがない。

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【書評】乙骨淑子「ピラミッド帽子よ、さようなら」–絶筆に終わった”生き生きとした”SF小説

 乙骨淑子(おっこつ よしこ)「ピラミッド帽子よ、さようなら」(理論社)を読んだ。

 著者の死によって絶筆となった作品であるが、1981年発行のこの初版では理論社社長の小宮山量平によってラストが追加されている。最近の復刻版では、乙骨淑子が発表した部分のみの形が流通しているようだ。

 中学2年の主人公・洋平の生き生きとした語りで進んで行くこのSF小説は、キャラクターの豊富さ、地球空洞説、失われた文明、オーパーツなどの謎解き要素もあり、かなり荒削りなのだが、まさに主人公と一緒に大冒険をしている感覚になる。

 前述の通り、終盤間際の著者の逝去によって、この冒険自体は未完となった。魅力的な謎は謎のままで放り出されるような状態であり、もやもやする。今回読んだ初期出版バージョンでは、小宮山量平によって書かれた終章が入っており、一応の決着があるが、やはり苦しい部分がある。必ずしも悪くはないと思うが、やはり性急に解釈をつけていった感が否めないのである。

 個人的な感想であるが、まだこの冒険の結末にはかなりの枚数が必要だったのではないかと思う(小宮山量平によればそうではない、とのことだが)。

 私が感じたこの作品の魅力は、主人公であり語り手の森川洋平の素直さである。とにかくまっすぐなのである。そしてミステリアスなヒロイン。ヒロイン自身や、作品のテーマである”もう一つの世界”は、いずれも「死」のイメージを纏っているが、そのイメージと対照的に明るく、生き生きとしているのである。

 最終的には病に倒れた著者が書き継いだ、この「生」へのイメージ、すなわち”子どもの生命力そのもの”のイメージは、この未完に終わった物語の重要なファクターであったはずである。そして、この冒険の中断は、我々読者にとって様々な問いとして投げかけられる。逆に謎が謎のままで残されたことも含めて、豊穣な物語になったという言い方もできる。

 この「生」のイメージは、実は現代的でもあり普遍的な課題であろう。

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【書評】小松左京「青い宇宙の冒険」ジュブナイルでありながら、ハードSF王道要素たっぷりの読み応え

 先日行きつけの古本屋にあった小松左京「青い宇宙の冒険」(角川文庫)を手に取った。懐かしい。高校生くらいで読んだ記憶がある。早速再読。

 なかなかの時代めいた表紙とデザイン。1976年発行の初版であった。イラストは長尾みのるである。 

 「量子的秩序のゆがみ」「超空間から見た宇宙」「四次元空間における三次元空間の鏡が合わせ鏡のように置かれたら?」といった、SFのもつイマジネーション満載な概念が、平易な文体の中で普通に描かれる。

 ジュブナイルでありながら、小松の科学的アイディアが大量に詰め込まれており、大人になった今でもまさに心躍る読書体験であった。

 

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【書評】菊池秀行「魔界都市〈新宿〉」–魔物が渦巻く新宿を舞台としたSFホラー活劇の名作

 先日古本屋で発見した、菊地秀行のデビュー作、1982年発行の「魔界都市〈新宿〉」(朝日ソノラマ)を見つけた。

 表紙がなかなかの時代を感じさせるテイストである。

 どことなく剣を構えた主人公や立ち向かうヒロインの姿は「スター・ウォーズ」を思わせる雰囲気もある表紙である。

 著者自身があとがきで記載しているように、永井豪「バイオレンス・ジャック」のような、大地震によって都市が壊滅した後のアナーキーな「新宿」を舞台に、魔界の要素を入れたホラー+スペクタクル活劇となっており、一気読みである。

 デビュー作ではあるが、著者の三人称的な「語り」は上手く、様々な魔界の姿や犯罪者やサイボーグが混在する魔界=新宿の姿を物語性強く描いている。

 単純なバトルの連続(それはそれで面白い)だけでなく、物語の縦糸としての「神話的要素」(これは不完全にしか語られない)も、きちんと織り込まれており、サーガ的な読後感もある。

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【書評】藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」私小説のリアリズムの極限に生まれた、SFのようなファンタジーのようなイマジネーションのある豊穣な物語空間

 藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」(講談社文芸文庫)を読んだ。

 いわゆる私小説であるが、藤枝静男は、リアリズム的に自分の心理を中心に描き想像力の対極にあると思われた私小説がその極限まで突き抜けると、SFあるいはファンタジーのような異世界空間に到達してしまう、という稀有な作品世界を作り上げた。私小説に怨念を持っている筒井康隆が「みだれ撃ち涜書ノート 」で、藤枝の作品群に仰天していたのも記憶している。

 妻の死を描いた連作「悲しいだけ」はまだそれほどでもないが、作者を投影したと思しき主人公「章」による連作「欣求浄土」は、読み進めていくと、いつの間にか読者は不思議な感覚に襲われる。

 ラスト2作「厭離穢土」および「一家団欒」で、それは明確になる。

 「厭離穢土」では、これまで主人公であった「章」が死ぬところから唐突に始まる。そして、ここまで読み進めて初めて、語り手である「私」が実はいたことが判明するのだ。

 人を食ったような冒頭のシーンを引用する。

 とうとう章が死んだ。告別式がすんでひと月ばかりしてやや落ちついたころ、章の細君が一冊の大学ノートを持ってきて私に手渡し「お読みになったらそのままお手元に置いてやって下さい」と云って帰った。

藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」(講談社文芸文庫)「厭離穢土」p.121

 つまり、唐突に章=私ではなく、章と私が分離されるのである。そして章の「手記」が語られ、死期の姿が描写されていく。

 そして最終話(これが実は一番先に書かれた作品のようだが)「一家団欒」では、私小説のリアリズムなどはもはや関係なく、死んだ章が自分の先祖(親や早世した兄弟)の眠る墓の中で、彼らと再会し霊魂となって祭りに参加する様がユーモラスに描かれる。

 このイメージは、まさに作者の想像力によって作られたもので、私小説の作品作成の極限の到達としてこのような豊穣な物語空間が生み出されたということは、物語の力よって鼓舞されたいと日々思っている私のような読者にとって、勇気づけられる読書経験であった。

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【書評】村松友視「トニー谷、ざんす」–まるで”ひとりエレパレ”のような戦後に現れた大スターの「謎」

 村松友視「トニー谷、ざんす」(毎日新聞社)を読んだ。

 戦後すぐに現れた芸人であり、”大スター”トニー谷についてのエッセイである。

 永六輔やトニーの妻など、関係者の証言も多く載せられている。

 トニー谷という存在は、日本の芸能史において特異な地位を占めている。

 太平洋戦争終戦後の混乱期に現れた、日本人のアメリカ文化へのコンプレックスをカリカチュアした、いわば「植民地芸人」と呼ばれるような露悪的な芸風(トニー・イングリッシュと言われるカタコト英語)や、本人の態度(マスコミへの敵意、同業者への不遜な態度)もあり、その真実の姿は見えない。

 本書においても、やはりその実像は見えないのである。

 太平洋戦争中に何をしていたかは、やはり「謎」のままであるし、トニー自身の悪評を産んだ行動の理由自体もまだ不透明である。ただし唯一の手がかりとして、トニーの複雑な家庭環境、不幸があったことは間違いなさそうだ。

 先日YouTubeで視聴した「ザ・エレクトリカル・パレーズ」という芸人のイケイケサークルについてのドキュメンタリーを見た際と同様のモヤモヤ感が残っている。「ザ・エレクトリカル・パレーズ」も非常に「謎」が多い動画なのだが、ここでトニー谷との類似性があるように思える。

 「エレパレ」では、吉本芸人の卵たちのカースト上位のエリート軍団が、その情熱と裏腹に生まれた排他性や党派性により、逆にプロの芸人集団の中では”原罪”のようになってしまう皮肉な結果を産んでいる姿が描かれる。

 トニー谷は、たった一人だが「エレパレ」であったように思える。

 当然のことながら、その排他的・独善的な態度は、結果的に周囲からは徹底的に浮き上がっていった。その運命を最後まで引き受けていった。

 そうした排他的な行動の原因として、芸人になる前の前半生での極めて「不幸な生い立ち」があったことが示唆される。本人がその過去を全く明らかにしなかったほどの。

 そして「エレパレ」でも明示的には描かれていないが、こうしたイケイケメンバーの「不幸な生い立ち」、そしてその遅れてきたスポットライトを取り戻すために足掻く様が、残された「謎」として提示されている。

 自己の生涯に対して幸福の収支決算を貪欲に追い求めること、それ自体は何ら非難されるべき行為ではないが、そこに乾いた焦りのようなものが随伴し、結果としてルサンチマンにまで増大してしまうケースもある。そうなると、周囲への極端な排他性を生み出すのであろうか。

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【書評】連城三紀彦「離婚しない女」–同心円状の外と内がひっくりかえるような感覚の恋愛ミステリ

 連城三紀彦「離婚しない女」(文春文庫)を読んだ。中編の表題作と、「写し絵の女」および「植民地の女」の短編2編で構成されている。

 名作「恋文」や本格ミステリ「人間動物園」で描かれた、心理劇+どんでん返しを味わうことができる佳品である。

 連城三紀彦の小説は女性の心理の機微に説得力のある(納得感がある)ように感じてきたが、最近、これは読者である私=男性的な視点なのではないかとも思えてきている。個人的な感覚として、男性ファンは多いが女性ファンの声をあまり見かけないような気もする(私見です)。

 それはさておき、今回の作品3編どれも、連城三紀彦の恋愛ミステリとしてのウマさが出ており、ラストに何らかの仕掛けがある。

 それも物理的な”トリック”に心理的な要素を付加しており、いわば同心円状になった多重構造の構図となり重層的になっている。

 名作「人間動物園」でもそうであったように、最後に、こうした物理的(フィジカルな)視点の転回と、心理的な視点の転回がある。これまで正しかった(と思われた)構図–それは物理的・心理的双方にある–が全く別の構図に転回される。

 連城三紀彦の作品では、通常のミステリでは描かれにくい男女の心理的関係などを”深く”掘り下げており、これが付加されることで、読後感は通常のミステリとは違った独特なものとなっているように思える。

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