【書評】平井和正「狼よ、故郷を見よ」–”狼男”の失われた”母”をめぐる傑作

 平井和正「狼よ、故郷を見よ」(ハヤカワ文庫)を読んだ。表紙や挿画は、生頼範義であり、なかなかの雰囲気である。

 本書には「地底の狼男」および「狼よ、故郷を見よ」の中編2編が収められ、いわゆるアダルト・ウルフガイ、30歳台のルポライター”犬神明”の冒険が描かれた別巻の第2作目にあたる。

 表題作「狼よ、故郷を見よ」がやはり面白い。毎回CIAなどの追手に追われ、過酷なピンチの状況に追い込まれる主人公、狼男である犬神明が、その母の故郷である紀州の隠れ里に追い込まれる場面から始まる。

 その隠れ里には自らの一族は不在であり、犬神明は、追手である密猟マタギとの死闘を演じる。そしてその窮地を助ける女性が、彼の伴侶でありつつ、それ以上の愛情、いわば超人的な「愛」を注ぐ。

 超自然的な何かに誓願をかけ、その見返りとして得られた超人的な力によって彼を助ける。そしてその誓願を達成する見返りとして自らの命を交換するという、自己犠牲が描かれる。

 これはまさしく伴侶というより、東京大空襲のなか、彼を守った血も分けた「母」の姿と重なるのである。そのことは明示的でないのだが、はっきりと浮かび上がってくる。

 狼男自体はアウトサイダーであり、主人公は同時にその一族からも追放された二重のアウトサイダーであり、寄る辺ない存在である。

 そうした孤立した宿命が前提された上で、自身は不在のままなお彼を守護する「母」の姿は、これもまた超自然的な壮大さのイメージとともに読み手に感動を呼び起こすのである。

Share

【書評】矢野徹「カムイの剣」–日本SF第一世代による幕末を舞台にしたSF大冒険活劇

 矢野徹「カムイの剣」(角川文庫)を読んだ。いわゆる旧版の1巻本で、1975年発行の初版本である。

 アイヌと和人の間に生まれた主人公が、自身、そしてその親をめぐる大いなる謎を解くべく、東北、北海道、オホーツク、ベーリング海峡、アメリカ、そして幕末の日本を舞台に駆け巡る。そして、彼の敵となる忍者軍団との戦い。

 とにかく大量の”材料”が仕込まれている。上記のストーリーラインだけでなく、アイヌ文化、漢籍、隠れキリシタン、安藤昌益、マークトウェイン、ネイティブアメリカン、西郷隆盛など、SFが持つ特徴の、異種結合タームも大量に駆使され、一気に読んでしまう。

 奇しくも解説の星新一が、彼らしくクールにサラッと指摘しているように、本作はデュマ「モンテ・クリスト伯」と小説構造は相似している。

 度重なる苦境、閉塞した空間での師匠による教育と成長、秘宝の探索、秘宝の秘匿、超越性を身につけた「変身」、強大な力による復讐、と言った時系列構造がまさに「モンテ・クリスト伯」を読んだ際のドキドキ感とそっくりなのである。

 だが、それが特に本作の瑕疵にはなっておらず、むしろより大きなスケール、テーマを与えた点に、矢野徹のオリジナリティがあると思われる。

Share

【書評】田中光二「異星の人」人類の「発展の限界」を描く、叙情性に貫かれたSF

 田中光二「異星の人」(ハヤカワ文庫)を読んだ。昭和52年発行のハヤカワ文庫の初版である(どうでもいい情報)。

 SF第二世代にあたる著者であるが、読んだのは初めてである。

 表題通り、いわゆる異星人の視点で人類の”種としての文明”を客観的に捉え、その”進化”について問いかける内容である。それ自体は、小松左京「明日泥棒」のようなSFの持つ、人類の文明や歴史を俯瞰的に捉える文学的課題と同じであるが、本書はそれとは異なる特質もある。

 それはこの観察者、ジョン・エナリーのキャラクタ造形、そして彼自身の意思決定に至るプロセスの特色でもあり、また本書に収められた8本の中編それぞれに現れる極限的状況におけるカウンターパーソンたちの極めてリアリティのある造形である。

 我々人類が持つ「矛盾」、ヒューマニズムと残虐さ、知性と本能といった二律背反的な特質に、超・人類的存在であるエナリー自身が悩み、また、そのカオスさそのものを理解しようとする。しかし、それは超・人類的存在的な観点からは、文明としてのレベルアップがこれ以上望むべくもない「発展の限界」とも言える。

 その「限界」に直面するエアリー自身の運命がラストに描かれ、全編が叙情的な雰囲気に貫かれている。

Share

【書評】ジョーン・ロビンソン「思い出のマーニー」(岩波少年文庫)–自らの中にある<過去>との対話による救済とは

  先日ジブリ映画を地上波放映していたのか、周囲で「思い出のマーニーが良かった。泣けた」という声を聞いた。さいきん精神的な疲労なのか、長めの動画を見るのが億劫になっている。特に序盤がきつい。小説だって似たようなものだと思うが、そうでもない。

 そんなこともあり購入はしていたが積読状態であったジョーン・ロビンソン「思い出のマーニー」(岩波少年文庫)、上下巻を読んでみた。翻訳は松野正子である。

 両親と祖母を亡くし養女として育てられた、心に大きな孤独感を抱える主人公アンナの心の中の問題が、海辺の村で出会ったマーニーという少女との「友情」によって解消されていく物語である。

 物語の舞台はイギリスの海辺の村、そして時代は原書の出版された1967年という設定である(のちに発見されるマーニーの日記は第一次世界大戦の期間、1914年から18年に書かれたことが示唆され、それを読んだミセス・リンゼーが”50年くらいは昔”のことと発言することから)。

 名作「トムは真夜中の庭で」のような時間SFチックな構造かと思いきや、ある種のファンタジーであった。主人公アンナ自身が、空想世界と現実世界を行き来するように、小説を読む地の文も”どちらが現実なのか”ということを定めないような記述をしているようだ。

 全37章からなるこの小説で、重要な登場人物であるマーニーは8章から21章まで”存在”する。1/3である。そして後半は、マーニーの日記の発見から、その存在の謎が明らかにされる。

 結局、アンナとマーニーは実際には何回”出会った”ことになるのか。アンナが両親を交通事故で亡くした後の短い期間、そして、この物語における海辺の村で「友情」を結ぶ期間の2回とするのが自然であろうか。ただ、いずれにせよ金髪の少女として現れたマーニーは、何を契機によってアンナと出会ったのであろうか。

 アンナが子供の頃ずっと見ていたとされる絵葉書の「しめっ地やしき」のイメージが、この土地に来たことで呼び起こされたと考えるべきであろうか。だが、ジプシーの花売り娘のエピソード、シーラベンダーを思い出すシーンは空想では解消できないと思われる。よって、この問題は物語の中で解消されていないのである。

 その一方で物語の主題であるアンナの心の中の孤独、寂しさが解消される重要なプロセスとして、マーニーとの以下のような会話が描かれる。

 アンナは、涙を流さずに、すすり泣きました。それから、怒りをこめて、つづけました。「あたしを、ひとりぼっちにして行ったから、おばあちゃんなんかきらい。あたしの世話をしてくれるために生きててくれなかったから、きらい。あたしをおいてきぼりにするなんて、ひどい。ぜったい、ぜったいゆるせない。おばあちゃんなんか、きらい」

「それはほんとにそうだけれど……」と、なぐさめるようにマーニーはいいました。

ジョーン・ロビンソン「思い出のマーニー」上巻、p.198

 この中盤での会話は、単純には友情的な少女同士のやり取りにすぎない。しかし、最終的に物語の最後まで読み進み改めてこの部分を眺めると、もう少し深い意味として解釈できることがわかる。

 いわば、本来解消できないはずの過去の事件の当事者と、本来できないはずの直接対峙をしているのである。

 それは我々が取り返せない経験として描かれる「後悔」のような経験を、救済する「奇跡」とも言える。

 金髪の少女として現れているマーニーは、アンナの心の中での対話であり、アンナの空想と解釈することが自然なのかもしれない。

 だが、あえてそのように描かれた対話は、何と対話したと言えるのか。

 それは、自らの中にあり、折り畳まれている歴史(生物としての歴史)との対話であり、それは現実における他者との体験と何ら相違がないということを示していると私は考える。

(補足)どうでもいいことだが、アンナが「アッケシソウの酢漬けを作るので、海辺にあるアッケシソウを積んでくる」という記述がある。アッケシソウは、塩生植物で、通常の植物は生息できない塩分が多い土壌において、むしろ成長できる。そして、その味わいは塩辛い、という海の近くに生きる人間にとって最適な植物でもあるのである。ぜひどこかのタイミングで食べてみたいと思っている。

Share

【書評】アイザック・アシモフ「ファウンデーション」–文明の歴史そのものを対象としたSF叙事詩の第1作

 アイザック・アシモフ「ファウンデーション」を読んだ。1942年から継続発表された「銀河帝国興亡史」シリーズの第1作である。

 遠い未来。人類は宇宙の広域に進出し、巨大な科学文明を築き、「一千兆の人間」を抱え「一万二千年」の長い期間にわたり、栄華を尽くしてきた。この「銀河帝国」を舞台とした壮大なSF叙事詩である。

 この「ファウンデーション」では、その銀河帝国の崩壊(の予兆)から始まる。

 心理歴史学という架空の学問が設定される。これは統計力学における気体分子と物理量のように、文明というマクロな社会現象を対象として、その未来を高精度に予測することを可能にしたとする。いわば、科学的な意味での「預言」を可能にしている。

 この心理歴史学の確立者であるハリ・セルダンは、銀河帝国が近い将来に不可避的に崩壊することを、心理歴史学のモデルから預言した。そして崩壊後には、無政府状態、野蛮と破壊のフェーズが訪れ、その期間は「3万年」に及ぶ停滞が存在することも同時に預言した。そして、人類のために、この停滞時間を1000年に短縮するプロジェクトを立ち上げるところから始まる。

 その解決手段の「ひとつ」が、来るべき無政府状態において人類の知的遺産を散逸させず保存する組織「ファウンデーション」であった。

 この小説では、ファウンデーションを舞台として、文明の発展段階において直面する固有の「危機」(セルダン危機と呼ばれる)と、その超克が描かれる。

 そして、それは我々が知っている人類の文明の発展をなぞるかのように、発展段階において解決手段が異なる。つまり、歴史の発展によって、その都度、乗り越えるべき課題がより高位となり、歴史的役割を担う人間も変わる。

 いわば、旧世代の権力者は、新世代には抵抗勢力となり、新世代によって乗り越えられる運命にある。こうした歴史のダイナミクスが物語の中心となっている。

 本書は壮大な歴史の流れ自体を小説の対象とし、こうした文明の転換点における「セルダン危機」に対する、文明の成長を描いている。ここから、SF的な対象を除去すると、この小説自体は、文明の発展と衰退の物語、歴史そのものが対象となっている。パワーバランス、宗教、交易、技術主導の国家運営など、人類の歴史を対象として予想したものともいえる。

 時代的には第二次世界大戦前から書かれたものであるが、こうした状況が小説の世界観に直接的に反映されているとは見えず、現代的に見て全く古びた要素がないのは非常に驚かされる。

Share

【書評】アイザック・アシモフ「はだかの太陽」前作に続くSFミステリの傑作!開放空間恐怖症からの解放とは

 アイザック・アシモフ「はだかの太陽」を読んだ。

 SFとミステリを見事に融合させた古典的名作「鋼鉄都市」の続編となっている。関連記事:【書評】アイザック・アシモフ「鋼鉄都市」–SFの王道でありつつ、実は「青春熱血小説」としても読める構造

 通常、第2作目というものはハードルが上がるが、この作品は前作にも増して充分面白い。前提条件として説明的になりがちなSF的世界観の記述が前作で十分準備されているので、本作ではストーリーそのものの謎に真正面から取り組むことができるからであろうか。

 前作と同様、地球人の刑事イライジャと、宇宙人を似せた人間そっくりなロボット・ダニールのコンビが、惑星ソラリアで起こったソラリア人の殺人事件-不可能犯罪-を捜査する。

 前作でジェリゲル博士に与えた「開放空間恐怖症」は、今度は(なぜか)主人公イライジャに強く投影されている。

 この恐怖症は、前作で記述された地球文明=”鋼鉄の閉空間(ドーム)”としてシンボライズされていると同時に、作者自身の持つ個人的性質でもあったようで、全編を通じて開放空間=自然への畏怖が生理学的に執拗に描かれる。そして、それ自身が、物語の核心にもつながる重要なファクターを占めている。

 何しろ屋根や壁の無い空間、要するに空の下に立っただけで、惑星の運動、宇宙まで広がる不安定さをイメージするのだから大変だ。アシモフ自身の体験でもあるのだろう、このあたりの記述はしつこい。

 本書の舞台である惑星ソラリアは、人間の関係性を徹底的に排除した上でロボットによってその経済的基盤を支配する超・個人主義の文明として描かれる。

 そこでは高度な遺伝子操作の繰り返しによる人間の精製・純化の結果として、”個人”は直接的接触を徹底的に排除する文化となっている。

 すなわち、生殖、しつけ、ふれあい、暴力、といった肉体的関係によって起こる事象、親子の情愛ですらも排除され、原理的に起こりえないとされる。

 この設定、および、前作から踏襲される「ロボット工学三原則」によって、この惑星サマリアにおける「殺人」は原理的に不可能、すなわち不可能犯罪の様相を呈するのである。

 こうした設定の中で、相変わらずエネルギッシュな主人公イライジャが、時にはロボットを出し抜き、自らの任務として”犯人”を探して行く。それは必然として、フーダニットだけでなく、ハウダニットを解明しなくてはならない事になる。

 ロボット工学三原則と究極の個人主義であるサマリア文明という、2つの制約条件のもとで、論理を駆使して謎を解明する。

 それは、まさに戦略ゲームであると同時に、イライジャがもつ地球人のアイデンティティである開放空間恐怖症の意味を、文明的に意味付けることでもある。これはSFが持つ文学的課題そのもの、つまり、一つの文明の行方の議論でもある。

 こうした、<個人>と<文明>、<ミクロ>から<マクロ>、<ローカル>から<グローバル>といった時空のスケールを自由自在に動かしたダイナミックなSFとなっており、なにより非常に面白い小説であった。

Share

【書評】アイザック・アシモフ「鋼鉄都市」–SFの王道でありつつ、実は「青春熱血小説」としても読める構造

 ロボットものの古典的SFミステリである、アイザック・アシモフ「鋼鉄都市」を読んだ。

 地球は人口爆発して、テクノロジーによる管理された文明を築いていた。 表題の”鋼鉄都市” (The Caves of Steel)とは、技術によって管理社会のもとで、自然から隔絶する形で作られた巨大なドーム都市を指す。この環境制御されたドーム都市で生活する地球人は、極めて内向きに閉じた思考様式になっており、自然や社会に対して怯えるようにして生きている。

 原題通り、かつての人類が自然に対してそうであったように”cave =洞窟”のなかにいるのである。

 この閉じた地球文明と、かつての宇宙移民の末裔である「宇宙人」とがコンタクトしているが、この宇宙人の文明は、地球のそれを更に凌駕した高度な科学技術を持っている。一方で宇宙人の文明自体も成熟が極まっており停滞し、文明としては衰退しつつある。

 ただ、地球人と宇宙人の接触において、科学技術的(武力的)には、宇宙人が圧倒的優位にあり、両者の交流はほとんど進展せず、不信が横たわっている。宇宙人に適わないストレスと、 ロボットに仕事を奪われ不満を募らせる地球人たちは「懐古主義者」と呼ばれる反機械運動の地下組織を作り、 暴動が何時起こってもおかしくない緊張状態になっていた。

 そんな中で、宇宙人の殺害事件が発生する。

 そして、その容疑者は明確に地球人であり、 地球人の責任において犯人を捜す必要に迫られる。

 その捜査担当に選ばれたのが、主人公イライジャ・ベイリである。そして、彼は宇宙人から派遣された人間そっくりな姿のロボット(R・ダニール)とパートナーを組むことを求められる。仕事を奪うロボットへの反感は、イライジャ自身も持っており、こうした心理も合わせて描かれる。

 1953年の作品であるが、ガジェット自体もあまり古びておらず、現代的に十分読むことができる。むしろ、未だに機械と人間の関係において、我々自身が解決できていない課題を改めて考える機会にもなる。

 捜査の過程で二転三転する仮説や事件の連鎖など、推理小説としての謎と解決の構成も素晴らしい。

 また、SFが持つ問題意識、すなわち文明の成熟、異文明の対立、その超克の方法についても、アシモフは真正面から解決シナリオを描いている。そこで問題となるであろう、人類とロボットの拠って立つ法的問題(ロボット工学3原則)、共存のための科学的概念( C/Fe )など、新たな概念も多く提示している。

 さらに旧約、新約の聖書を縦糸とした、SFというフロンティアが産み出す課題に対して、人類にとって普遍的な深さを与える効果も上げている(ラストまでつながる重要なモチーフになっている)。 

 そして、この重層的な物語としての魅力のうちで最大のものは、この小説の持つ”若々しい青春熱血小説”としての側面ではないかと思っている。

  イライジャ自身は43歳(続編の「はだかの太陽」で言及)で、決して若いとはいえない年齢であるが、それでも熱意は物語の中で常に変わらず、いろいろな方向に衝突し、エネルギーを放散している。そしてそれは時に誤りだらけで、あちこちでエネルギーロスを起こしている。

 しかし、最終的にその熱意こそが、最後のカギになるのである。 

 その傍らにいる、冷静そのもののロボットR・ダニールとの会話も良いコントラストを生んでいる。 

 主人公の熱意は最終的に、機械であるR・ダニール自体にも変化をもたらすことを予感させる。

 主人公は「熱血」そのもので、こうした若々しいエネルギーに溢れた面白い小説である。

Share

【書評】小松左京「氷の下の暗い顔」SFが持つ叙情性–”大いなる別れ”を描いた作品群

 前回記事の「結晶星団」と同じく実家の本棚から発掘してきた小松SF作品。角川文庫版で、1982年発行。

 角川文庫版小松左京作品の装丁は、生頼範義(おおらいのりよし)によるものが多かった。特に「復活の日」の表紙は、すごく印象に残っている。バタ臭さと格調高さが入り混じったデコデコしいルネッサンス風装丁が、小松SFの雰囲気と非常にマッチしていた。

 今回の「氷の下の暗い顔」は4編の作品からなっているが、「結晶星団」と異なり、それぞれが叙情性あふれる壮大なSFになっている。

 「歩み去る」は、世界各地(宇宙も含む)を旅して”何か”を探す老いることのない不思議な若者たちの”人類としての成長”を、我々と同様置いてゆく世代の主人公を対比する形で描く。

 「劇場」は、ある惑星に降り立った地球人が、その惑星に林立し、惑星の住人たちが熱狂する歴史的スペクタクル「劇場」の謎について探るもの。

 「雨と、風と、夕映えの彼方へ」は、この作品群でもっとも叙情性と映像的イメージの高い作品である。雨、風、夕映えといった、いわば我々の持つ精神的故郷の「風景」が目まぐるしく変わってゆく不思議な環境において、人工受精によって生まれた「精神的故郷を持たない」主人公の思いを描く。

 最後の表題作「氷の下の暗い顔」は、ファーストコンタクトもののハード SFでもあり、異世界の生物相を科学的知識をてんこ盛りで描き切った傑作。ビーバーのような外見の異星人、辺境の惑星に存在する巨大な人類の「顔」(自然物である)、長い記憶を継承し無形物と会話できる生物たち、それらの魅力的なキャラクターは、最終的にこの「惑星」そのものが謎として含まれてくる。惑星自体の運命、あるいは、最期という壮大なテーマであり、スペクタクル感満載なクライマックスも圧巻である(この点、この文庫では生頼の装丁が、ある意味ネタバレチックでもあるが)。ユーモラスな描写もあるが、内容は非常にハードである。

 こうした4編の作品群に共通するのは、SF視点で捉えたマクロな対象(たとえば惑星そのものや歴史そのもの)にとっての運命の行方、そして、別れであろう。それを叙情性豊かに描いており、まさに”SFを読んだ”実感が胸に迫る作品群である。

 (おまけ)この角川文庫版の解説は新井素子で、1982年出版なのでおそらく22歳くらいの文章になる。なかなかのポジティブ&ハイテンション文体(常にそうではあるが)、現時点から見るとちょっと切ないところもある。

 

Share

【書評】スタニスワフ・レム「砂漠の惑星」–ファースト・コンタクトにおいて人間側の都合の良いように世界を解釈することの本質的な無意味さについて

 ハードSFの古典、スタニスワフ・レム「砂漠の惑星」(ハヤカワ文庫)を読んだ。

ハヤカワ文庫の旧版(1977年)と新装版(2006年)の比較。
イラストは旧版の方が良い気がする

 やはりレムは良い。SFが持つ独特の発想、すなわち、我々が持っている常識的価値体系を破壊し、その上位概念に向けたイメージを想起させてくれる小説群ばかりである。

 ファーストコンタクトものである、この「砂漠の惑星」であるが、 ハードSFの真骨頂らしく、もはや有機物がほとんど出てこない。

 訪れた惑星は陸地は砂ばかりだし、海にいる生物もほとんど登場しない(これには理由がある)。

 登場するメインキャラ(?)は、”砂漠”と”謎の無機物(金属)”である。

 謎の無機物、動く「ミクロな金属要素からなる黒雲」と静止した「植物のような金属」、そして砂漠を中心とした、無味乾燥な風景が支配するこの惑星を舞台に、宇宙船 <無敵号>は、遭難した前任部隊を探索する。

 彼らは、なぜ遭難したのか?

 この星では何が起こっているのか?

 「黒雲」と「植物のような金属」と「砂漠」は何なのか?

 こうした謎そのものが、小説中で、仮説として提示される。

 仮説の提示そのものがストーリー進行となるという意味では、 J.P.ホーガンの「星を継ぐもの」と似ているが、ホーガンの作品よりもその結論は明快ではない。

 むしろ謎自体は、不明なまま、異なる何かの論理があるような、ぼんやりとした状態のまま、結末を迎えている。

 この小説では、惑星の無生物と人類との激しい戦いの描写などを通じて、 ファーストコンタクトものでありながら、むしろ両者が完全にすれ違い、最後までコミュニケーションという意味で交わることのなさを徹底的に描いている。

 スペースオペラにありがちな、人類と類似している宇宙人が登場して、人類と類似した形式のコミュニケーションをしているようなご都合主義的図式を否定して、我々に一方的に都合の良いコンタクトの方が、この宇宙ではむしろ例外であることを痛烈に示しているともいえる。

 この宇宙で我々に類似した通信形式、コミュニケーションを前提としてくれている保証はどこにもない。むしろ、全く異なる直観の形式が存在していると考える方が自然である。我々の想像力がそれに追いつけておらず、結果として、自らを鏡に写したような「宇宙人」を求めてしまっているだけなのだ。

 原題である「無敵」が意味するように、この小説のメインテーマは、 ”われわれの理性の形式で理解できないもの”との対峙、対決である。

 ここで描かれる有機物生命である我々人類は、この星の”先住生命”に対して「敗北」を繰り返す。それは、物理的破壊としての敗北でもあり、コミュニケーション不可能という意味での敗北でもある。

 この惑星で人類と、支配者である「黒雲」は、物体としては同じ空間に存在しているものの、その認識(直観)の形式としては全く重なっていない。完全に異なるレイヤーにいるようだ。 主人公ロハンが最後に「黒雲」によって自らを鏡のように投影されるという神秘的な体験をしたのちに、こう呟く。

 この宇宙のすべてがわれわれ人間のために存在しているように考えるのはまちがいだ–

「砂漠の惑星」(p.299-300)

 ルール自体が異なる敵との間で、われわれの論理は何も役に立たず、無効化される。この惑星で「黒雲」に襲われた人間がそうなったように「リセット」されてしまうしかない。

  最終章「無敵」の最後に、作者レムはロハンを生還させる。

 これが原題の意味する勝利的な要素なのだろうか。とてもそうとは思えない。 誰も救出できず、装備は破壊され、ただ身一つでロケットに帰還しただけである。

 このエピソードで「勝利」と言えるものは何であろうか。

 「黒雲」がロハンに見せた鏡=ロハンの姿の投影による、ある種のコミュニケーションの”成功”であろうか。だが、それは、われわれ自身の尺度で宇宙を解釈する行為自体が、本質的に無意味なものであることを同時に了解することも意味しているのである。

Share

【書評】小松左京「結晶星団」(角川文庫版)小松左京の才能の幅広さに改めて驚く小説群とハードSFの傑作!

 小松左京「結晶星団」(角川文庫)を読んだ。 先日実家に帰った際に、昔の自分の本棚から再発掘したものである。

 当時は、角川文庫で多くの小松作品が読めた。本屋で上記の緑の背表紙がずらっと並んでいたのである。ちなみにこの文庫本の値段は380円。1980年代だからね。

 ちょっと思い出すだけでも、「エスパイ」「日本アパッチ族」「果てしなき流れの果に」「明日泥棒」「こちらニッポン…」「復活の日」など、傑作揃いで、中学生から高校生のココロをときめかしたのである。幸せな時代であった。

 この1980年出版の角川文庫版「結晶星団」には、4編の作品が収められている。 そしてこれがまた、ものすごい広いスペクトルというか振れ幅を持った作品群で、今回読んであらためて驚嘆した。

「HAPPY BIRTHDAY TO …」は、冒頭から純文学を思わせる重厚な文体から始まる。しかし徐々に視点が変わってゆき、最終的には誰が正しくて、誰が正しくないのか、誰が狂っていて、誰がそうでないのかが全くわからなくなる状態に読者が追い込まれる。

 我々の日常が持つ堅牢さ、確かさに、一度亀裂が入ると、日常の風景は崩れ、実際に頼るべきよすがとなるものの不確実さに直面する。

「失われた結末」は、ジュブナイル設定で良くある、突然心と肉体が入れ替わる話である。戦時中の家族の風景から、次第にSF的な要素が入り、最後は若干の楽屋落ちになる。しかし、”ある日突然、家に帰ると、母親が自分を知らなくなっている恐怖”という子供特有の琴線に触れる要素があり、読ませる。

「タイムジャック」は、小松の「日本沈没」に対してパロディ「日本以外全部沈没」を書いた筒井康隆に対する更にアンサーとなっているスラップスティック短編で、小松自身や筒井、 星新一などを模した登場人物が出てくる倫理無視のドタバタ作品である。現代目線からすると、かなり危険な要素も含まれている。

 小説としては、筒井の作風をパロディ化しているのであるが、自分(小松)をモデルに、○○から ○○されるのを実況するというとんでもない(書けない)ギャグ(p.168)まである。クレイジーとしか言いようがない(褒め言葉)。

 そんな目まぐるしい3編の最後に、ハードSF「結晶星団」がある。

 宇宙の辺境に位置する恒星系を舞台に、「結晶星団」という水晶の結晶構造(六方晶)と同じ14個からなる恒星群の天文物理的な謎(精密に配置された恒星群の中心の空間に、生成・消滅を繰り返す巨大な質量がある)について、人類が様々な側面から仮説を組み立ててゆく。さらにその探索の前進基地である惑星に住む原住民が保有する宗教に対する民俗学的な謎もシンクロし、最終的には宇宙開關の謎にまで至るという壮大かつダイナミックなSFなのである。

 そして、そこに至るまでに動員される膨大な自然科学、社会科学的知識もあり、ラストには小松自身の文学的メインテーマも直接的に響きあう。

 小松左京のメインテーマとは、デビュー作の「地には平和を」でも既に描かれた「可能性選択としての歴史」そして「失われた可能性の持つ意味」 である。

 この小説では、真正面からこの問いに主人公に対時させ、ある種の謎を残したまま、物語は終わる。しかし、その終わりは新たな壮大な叙事詩の始まりすら予感させるのである。

 文庫にして130ページたらずの中編であるが、極めて高密度のハードSFの名作である。

Share