【書評】遠藤周作「わたしが・棄てた・女」-通俗的な世界に立ち現れる他人の苦しみと連帯するキリストの姿

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 遠藤周作「わたしが・棄てた・女」(講談社文庫)を読んだ。1963年発表の作品であり、50年以上前の作品になる。

 遠藤の”通俗的”小説に位置づけられる作品であり、内容も当時の世相に沿った”わかりやすい”悲劇である。しかしながら、その持つテーマは重い。

 舞台は終戦から3年経った東京。貧しい大学生の吉岡と、文通欄で知り合った少女森田ミツとの邂逅、そして森田ミツを中心とした悲劇が描かれる。

 遠藤はこの小説で、昭和20年代の世相を反映しその当時の言語や風俗を極めて具体的に描いた。

 森田ミツたちが憧れる映画スターは「若山セツ子」「鶴田浩二」「高峰秀子」「石浜朗」、街に流れる歌は「笠置シヅ子」「ディック・ミネ」、吉岡と森田ミツが初めてデートするのは歌声喫茶で、ロシア民謡を手風琴(アコーディオン)で伴奏する。そこで女性を酔わせるためのサイダーの焼酎割りが「カクテル」という名で売られている。社会人になった吉岡が苦労するのは「そろばん」で、会社の旅行はバス旅行。赤線やトルコ風呂がまだ存在している。

 以上のように列記した固有名詞は、すでに現在から遠く離れた言葉になってしまっている。しかし、逆にその歴史的に遠く離れてしまったことによる断絶によって”手垢のついた”性質がロンダリングされているため、今読むことに耐えうる状態とも言える。

 また、更に遠藤は小説の中で、この時代をより具体的に規定するために”臭い”の表現を使っている。吉岡の「下宿の万年床の臭気」と「芋雑炊の甘い臭い」が混じっている様や、森田ミツと初めて待合せをする下北沢の駅では、公衆便所からのアンモニアの臭いが漂う。これも小説世界を構成する重要なアイテムとして機能する。

 こうして描かれた小説の舞台は極めて通俗的な形で規定される。その一方で、この小説の持つ思想性は舞台が通俗的であるが故に、より引き立って迫ってくる。

 それは、人々の苦しみに同伴し、常にそれ以上の苦しみを自ら受容するイエス・キリストの姿であり、遠藤が追求した文学的テーマそのものであった。

 森田ミツは、他人の不幸を自らに引き寄せ、自分を犠牲にできる性格として描かれる。その行動原理は生得的で、本人の最終的な意思とも無関係に、むしろ自己犠牲のもとで行動しないと自分が我慢がならないとする、”非合理的な”性格として描かれている。

 吉岡は自分の欲望のみで森田ミツを奪おうとする。森田ミツは拒否するが、吉岡の悲しみ、劣等感、具体的には生れながらの不具の表明を受けて、彼女はみずからの純潔を差し出すことを決意する。そこには何の等価交換もない。ただのお人好しが、騙されただけとも言える。しかし、本人の中の論理として、その犠牲は自分をめぐる<世界>が良きものとしてあるために必然な行為として解釈されるのである。

 森田ミツは吉岡のために事務仕事を増やし給金を貯める。その目的は洋品店で見つけた1,000円のカーディガンを手に入れ、吉岡と再会することである。しかし吉岡の心はすでに森田ミツからは離れており連絡はない。ようやく給金は貯まるが、その場で森田ミツは、同僚の男(田口)がギャンブルにより給料の前借りを会社から断られ、その妻子が困っている場面を目撃する。

 そしてここで森田ミツの自己犠牲の意思が発現すると同時に、彼女の前に「イエス」の姿が「くたびれた顔」として現れる。

風がミツの眼にゴミを入れる。風がミツの心を吹き抜ける。それはミツではない別の声を運んでくる。赤坊の泣声。駄々をこねる男の子。それを叱る母の声。吉岡さんと行った渋谷の旅館、湿った布団、坂道をだるそうに登る女。雨。それらの人間の人生を悲しそうにじっと眺めている一つのくたびれた顔がミツに囁くのだ。
 (ねえ、引き返してくれないか・・・お前が持っているそのお金が、あの子と母親とを助けるんだよ)
 (でも。)とミツは一生懸命、その声に抗う。(でも、あたしは毎晩、働いたんだもん。一生懸命、働いたんだもん。)
 (わかってるよ。)と悲しそうに言う。(わかっている。わたしはお前がどんなにカーディガンがほしいか、どんなに働いたかもみんな知っているよ。だからそのお前に頼むのだ。カーディガンのかわりに、あの子と母親とにお前がその千円を使ってくれるようにたのむのだよ。)(イヤだなア。だってこれは田口さんの責任でしょ。)(責任なんかより、もっと大切なことがあるよ。この人生で必要なのはお前の悲しみを他人の悲しみに結びあわすことなのだ。そして私の十字架はそのためにある。)

前掲書 p.88-89

 この心的問答の末に「だれかが不倖せなのは悲しい。地上の誰かが辛がっているのは悲しい」(前掲書p.89)と考え、彼女はお金を渡すのである。

 物語後半で、ハンセン病病院での同室のピアニストの不幸を見て、ふたたびミツの心は動き、自分の一生をそこに注ぐことを決心する。それは、全くの自然なこころの動きとして描かれる。

 森田ミツの自己犠牲の精神を更に突き詰めると、幸せの門があり最終的に皆くぐることができるとしたなら、自らが人類のいちばん最後にくぐるという意思を見ることができる。すなわちそれが遠藤が描くキリストの姿と一致するのであろう。

 森田ミツには、宗教に帰依する意思や信仰心はない。むしろ自分の周囲のハンセン病患者を奪う運命に対して、神への呪詛すらもつ。

 しかしながら、キリストはその彼女の前に現れるのである。彼女に向かって、私はそのためにある、と、伝えるためだけに。

 宗教とは、個人と超自然、すなわち個人と<神>との一対一の関係であり、そのようにして森田ミツの前に現れることは至極当然であろう。そうした苦しみの連帯の心的経験と、そのことが信仰の動機になりうるか、ということとは別の次元の問題だと遠藤は言いたいのだと思う。

 このような疑問も当然想起されるであろう。なぜ苦しむものが、更に苦しむ必要があるのか。それがたとえより苦しいものを助けるものだとしても。なぜ己が犠牲になる必然があるのか。

 その必然を遠藤はこの小説で描いている。

 もし我々の現実の苦しみを救済することに思いを馳せたとき、一見には愚鈍で要領が悪いが、自分の利益を最後に考えることのできる人々の存在と同時に、その人々の苦しみと連帯することを通じて救済される超自然的なものが必要なのであろう。

 しかし、これは正統的なキリスト教の正義のもとでは許されない考えであろう。日本的な自然宗教と混合された救済の概念ではないかと思われる。

 遠藤がその純文学作品「沈黙」で描いたように、日本における弾圧の肉体的・精神的苦しみのなかで、神を裏切り棄教したものすらも、その苦しみゆえに許される。殉教したのちに正統に評価される列福者だけでなく、裏切り、転んだ人々をも救済する意思があるとする。その苦しみ自体を連帯し、ともに受け止める存在としてのキリスト像は思想的に大きな地平を持つ。

 転んだものたちが、苦しまなかったといえるのだろうか。苦しむためのものたちにとって、イエスはある。その信仰が確かだとすれば、彼らもまた救済されるべきであろう、と遠藤は主張していると思われる。

 いちばん最後にその門をくぐる覚悟をした存在は、換言すると、無限遠からの視座をもつものであり、その無限遠からの距離計測においては、全ての民衆の苦しみは等価であると言いたいのだと思う。

 常に苦しむ人々と共にあり他者の苦しみを無限に受容し連帯する神、そしてみずからが全人類の最後に苦しみから解放される門をくぐるという覚悟を持っている神の姿。

 遠藤の描くキリストの救済の描像およびその地平は非常に広く、また日本固有の自然宗教の影響をうけながら、日本の読者の感覚にとって、非常に近しいものとして理解できる。

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