ビジネスシーンにおける北斗神拳究極奥義「無想転生」

ビジネスシーンにおいて、人から仕事を振られる場面はよくある。

力関係で受け取らざるを得ないものもあるし、いやいやちょっと待ってよ、という保留状態、調整フェーズがある場合もあるし、勘弁してつかあさい、負荷パンパンです、という拒否もある。

Win-Winであれば、喜んでやらしてもらうが、そんなことは現実には非常に稀で、だいたいの場合には先方との交渉、条件闘争が入り、次第に消耗していく。

自分が実行する主体であれば、まだ少しだけ、心が軽い。最悪、自分のタスク内のやりくりだけなので、仕方ないかという諦めもつく。

しかし、これが相手方と別の相手方との間を繋ぐ場合は、きつい。要求側だけでなく、実行する側の文句もこちらにくる。要求側と実行側、両方から責められ、自分がボールを抱えたまま、時間だけが過ぎていく…つ、つらい。つらすぎる。

それが会社間だったりしたら・・・(白目をむいて口から泡を吹いて後ろ向きに倒れながら)

とはいえ、世の中、最後は時間が解決することも多い(そうでないこともある)ので、最後はお互い納得しないまま、仲介したこちらも気分悪いまま、落着することが多い。三方一両損である。

これにしたって、みんなハッピーなシナリオだってあるはずだが、ビジネス本の外の現実世界には中々ない。

交渉する立場としては、やはり自分がボールを持っている状態が一番きつい。その内ボールが、火のついたダイナマイトのように見えてくる。時間が経てば経つほど導火線が短くなる…

ビジネスパーソンとして、解決策は何か考えてみた。

そこで、北斗神拳究極奥義 「無想転生」である。

wikipediaより

無想転生(究極奥義)

北斗神拳究極奥義。哀しみを背負うことで修得できる。「無から転じて生を拾う」という意味合いを持つ。実体を空に消し去り、敵の攻撃を「透明無敵化」にしてかわし、一撃を与える。これを発動されると回避も攻撃も無効になる。

引用終わり

哀しみを知った者しか会得できないこの究極奥義こそ、身につけたい。

これさえあれば、相手の攻撃は無効化されるので、まさに仕事がシームレスに流れていくはずだ。究極の戦いとは、戦い自体しないことだ、という合気道の極意(だったか?)にも通じる。

ただ、これは現実では苦しいのである。

哀しみを背負ったつもりでも、相手の攻めは直撃する。全然無想転生になってない。

「どうするんですか!もう外注に発注してるのに!」

「これ以上予算オーバーできません!」

「いつまでグダグダやっているんだ!」

など。

既に聞き飽きているのである。世情は既にこんな罵声にあふれているのである。

しかし、無想転生は究極奥義であるが、実は、ビジネスの世界では、既にそれを会得したような人も結構見かける。

「どうするんですか!」の北斗剛掌波を、するりとスルー。僕は知りません攻撃である

本人は知らんふり。蛙の面になんとやらの状態である。

一見、私は衝撃を受けた。

こんな現実世界に、北斗神拳究極奥義「無想転生」を体得した方がいるのかと。

しかし、実はそれは周りの目からは違った。

ただ、仕事をスルーしていただけだと、認識されているのである。

その証拠にその人の背中は煤けていた。まるで業火に焼かれたように。ラオウの北斗剛掌波が掠めたように。いやかすめていない。

「アイツは仕事をスルーする当事者意識のないヤツだ」というレッテルがついている。

見透かされているのである。世の中恐るべし。

仕事のスルーと無想転生の違い、心に刻みつけている。

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【日本酒】佐渡地酒 「金鶴 風和」をゲット

新潟方面への出張の楽しみは日本酒である。

色々買って飲んでいるが、今回は縁あって佐渡の地酒を入手した。佐渡には造り酒屋が5軒しかなく、その内の1つ加藤酒造店の純米酒「金鶴 風和」(きんつる かぜやわらか)である。製造は29年2月のものである。

本日は良いことがあったので(前記事の追記参照)、ほっこりした雰囲気で飲むことにした。

懸念事項である、健康診断も終わった。あとは運を天に任せるだけだ…って話が逸れたが(←逸れてない気もする)、まあ、今日だけは飲もうかな、という雰囲気なのである(←毎日飲んでるだろ、という声が雨霰と降り注ぐが、ガン無視して)。

私のポリシー、冷や(常温)でいただく。

…飲みやすい。私は新潟地酒では「朝日山」を基準にするのだが、朝日山の延長線で、クセを無くして更に高級にした感じである。グイグイ飲めてしまう。

…今日がまだ木曜日なので、少しブレーキかけつつ、本日閉店を宣言する。

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プレゼン資料の刈り込みとせめぎ合い、そして高橋メソッドの誘惑

私が社会人になった頃、まだプレゼンではOHPに手書きでやっていたのが主流だった。

それが徐々に、OHP+ワープロ、OHP+パワーポイントなどの専用ツールになり、現在のプロジェクタ+パワーポイントとなっている。

私はパワーポイントを代表するプレゼンソフトには功罪があると思っている。

特にプレゼンソフトを使う際の動機として、あるプロジェクトの成果に対して

①プレゼンというビジュアルで観衆に直感的に理解させる側面

②最終成果物として内容を読者に正確に読み込ませるという側面

この二つの側面を同時に持たせようとしたことに大きな問題があると思っている。

特にプレゼンソフトの効率的利用として、この二つを同時に持たせるような資料作りを推奨するような(要するに二度手間を省く)言い方もされたことがある。

これは大きな問題で、上記の二つは全く相違する。

その結果として、①方向に振った場合には、②を作るために大きな手間をかけるか、②の正確さを犠牲にするし、②方向に振った場合には、はっきり言ってわかりにくいプレゼンを聞かされることになる。

特に②はきつく、コンサル系に良くありがちなのだがとにかく活字を入れようとする。コンサル系は変に美映えのするフォーマットは沢山持っているので、それを基本的に流用しようとするので、その枠の中にがっつり活字が入ることがある。中身がアレなので枚数で稼ぐ、というようなケースが加わったプロジェクトの資料なんかはっきり言ってきつい。それならいっそ成果物はワープロソフトを使って文書で作成してくれた方が、まだ論理を追えるのに、と思うこともある。

また、技術系のプレゼンは基本的に自分の領域を、あの苦労もこの実験も何でもかんでも喋りたくて仕方ないので、枝葉末節を付け加えたくなる。注記な説明や但し書きなどを大量に加えた結果、これまた小さい活字の多い論理が追えないプレゼン資料になる。

他人のプレゼン資料をチェックすることが結構ある。どうするかというと、結局、著者が言いたい基本的な論理構造を残して、それ以外のノイズを「消す」作業が大半だ。要するにダイナミックレンジを上げる作業である。

短時間のプレゼンなんて、聞く側からしてみたら、全部理解できるわけはない。極端な話「できたのか」「できなかったのか」だけ聞きたいのだ。つまり、相手の短期記憶に残す勝負なのだから、せいぜい「できたけど課題がある、それはコレコレ」くらいだろう。

作る側の気持ちも良くわかる。これが時間がたっぷりある読者対象だったらね、というのもある。ただ、プレゼンの場合には、繰り返しになるが、聞き手の感想としては単純に「わかった」「わからない」なので、「わからない」イコール成果の価値も下がってしまうことになる。

そういう意味で、盆栽を刈り込むように、「ここまでは省略してもいいかな、どうかな」とギリギリを追求しながら、他人のプレゼン資料を刈り込む作業をしているが、10年くらい前に「高橋メソッド」というものを知った。

高橋メソッド(wikipediaのリンク)は、②の方向性を真逆にしたもので、

・文字だけ

・シンプルに

・とにかく活字をでかくする

というもの。

例えば、上記で2枚を使う。

正直ギャグなのかどうかわからない(未だにわからない)が、私は上記のようなことを考えていたので、それを知った時には、心にグッときた。こうきたか、と。

プレゼン資料を刈り込む際に、その対極からいくようなもので、盆栽で行ったら枝しか残っていない状態だ。こちらが五分刈りとスポーツ刈りで、どのあたりで妥協するかせめぎあっているのに、いきなり安全カミソリでスキンヘッドにするようなものだ

さすがに怖いのでここ一番ではやらないが、小規模の集まりで時間もない時などは、2,3回トライしたことはある。もともと図やグラフがないことを前提としたプレゼンだったので、全く違和感がなかった。ただ、「わかりやすかった」とは言われていない。

でも、話しやすいといえば話しやすいし、資料作成も始めから丸坊主前提なので、結構大胆に作れるのでプレゼン者の時間的負担は少ないと思う。

人に薦められるかと言われると微妙だが。

参考リンク:

困ったときのプレゼンテーションにオススメ!! 高橋メソッド

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「ビアードパパの飲むシュークリーム」を見つけた

昨日の夜に、電車を一駅乗り越した隣駅のホームの自動販売機にて発見。売り切れマークが点灯…

…チクショー残念!という訳ではなく、最後の1つをゲットした(ニッコリ)。

で、飲んでみた。

味は、ダイドードリンコのミルクセーキですな(身もふたもない)。

ご本尊のイメージは店の周囲に広がるカスタードの匂いなんだから、もっとそちらに寄せてコッテリしてればいいのに、意外とアッサリでビックリ。

 

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【年度末】この時期に、一つの電話番号を眺めながら

出会いと別れのシーズンである。

特に別れはいつになってもセンチメンタルになってしまう(バラを咥えて窓辺ではらはらと泣きながら)。

今、私の目の前には1つの電話番号があって、今日一日結局この番号にかけることができなかったのである。

別の会社にいる知合いで、彼が退職するという(転職)。その退職挨拶がすれ違ってしまった。やはり電話で挨拶したかったのだが、もう有給消化に入ってしまったとのこと。

もう会社にかけても連絡はできない。

ということで、挨拶メールに記載の携帯電話番号にかけようとして、そのまま、今日一日悩んでしまった。

 

何を悩んでいたのか。

 

急に、その電話番号の持つ、かつては確かであったはずの関係性が、陽炎のようにユラユラ揺れて不確かになってきたような気がしている。

会社の用件であれば、比較的時間帯はこだわらず、どうもどうも申し訳ないね、今何してたの?ゴメン、ちょっといいかな、みたいな感じでかけられる。向こうが仮に酔ってたとしても、なんとなく仕事を理由にして、話せそうだ。

しかし、今の彼との関係性には、仕事の繋がりは薄い。何故ならその会社を辞めるわけで。でも、電話をする理由は、確かに仕事関係でスタートした人間関係が根拠だから、それが無くなるという目的で、電話をかける理由にはなりそうだ。

でも、今の会社を辞めてしまうことで、関係性は少し揺らいでいるのも確かだ。特に酔っている時に電話したら、まずいんじゃないかとも思う。

ただ、わざわざ電話で話したいと私がこうして思っているということは、私はその人との関係に、仕事ではなく、対人間、つまり彼個人との関係、いわば友情のようなものを認め、これからもそれを維持したいと思っているに違いない。…自分の感情なのに、何でこんなに理屈が必要なんだろうか。

・・・まあ、よろしい。

とにかく私は電話をしたい訳で、屁理屈こねていても何も進展しないのだ。

・・・といいつつ、

午前中は休みなんだから寝てるかもしれない、と判断し保留。

昼には、今は春休みだし、家族で団欒しているだろうから、という理由で保留。

午後には、もしかしたら久々の休みで外出していて電話とりにくいかも、と推察して保留。

5時くらいになったら、ひょっとしたら折角の休みだしもう酒を飲み始めてるかも、だとしたらその平穏を邪魔してはいけないという遠慮で本日終了、となった。

「日本全国酒飲み音頭」じゃあるまいし、このままでは、この”病んでるロジック”により、私は永久に電話できない。ソリューションはないのか。いい年して。

2つ解決策を考えた。

案1. SMSで、私だけど今から電話してもいい?と許可をもとめる

案2. 黙って適当な時間(真夜中は避けるべきであろう)に電話してサクッと喋って切る

案1は、そこまでするのは気のつかいすぎだろうとも思う。

でも、私の電話番号を相手が知らない場合、まず知らない番号からはとらないだろう。だとしたら、ますます、今から電話するのは私ですけど、という前振りは必要だ。そもそも私の電話番号を知っているかどうかもわからない。そういや、あまり携帯からはかけてなかったなあ、会社電話からはかけたけど、じゃあ、個人携帯同士の電話番号交換してないかもなあ、ということに思い至った。

つまり案2はもしかすると、向こうが出ないパターンがあるかもしれない。とすると、解決策は案1しかない。

じゃあ二段構えでSMSからの電話コンボが最適解ということでよろしいか。誰に確認しているのか。

でもなあ…(四つ葉のクローバーを探しながら現実逃避)

2017.03.30 追記

あれから逡巡を繰り返し、ようやく電話した。あれだけ検討して、案2で。

話ができた。心残りの部分も正直に伝えることができ、非常に嬉しい。

 

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ジャイアント馬場のビジネスパーソンへの教えー出張続きで疲れている自分に捧げる

国内の日帰り出張が多い。色々な場所へ足を運んで(一人が多い)打合せをしたり、調整をしたり、折衝をしたり、話をつないだりしている。

住まいは東京なので、基本的に新幹線か飛行機を使って、比較的日帰りが可能になってしまう。

やはり悩みは移動中の車内やその待ち時間など。

移動を除く外出先に到着した後に進める仕事は”正味の仕事”であり、これはいいとして、”無駄な”移動時間をどう使うか?は悩みのタネだった。

一人で行動していることが多いので会話する相手もいないが、もともと道中一緒に行動するのが嫌いなのでこれは選択肢に入らない(複数人の場合には、基本的に現地集合・現地解散にしている)。

行きに関しては、事前に資料を見てイメトレなどの準備などをすれば、とも思っていた時期もあったが、ある程度慣れてくるとそうした、直前のインプットが情報過剰になってしまい逆に失敗する場合もあることがわかってきた。要するに適度な情報量でいけるようになる(別に自慢しているのではなく、慣れると誰でもそうなる)。さらに車中などで資料を広げること自体も、情報漏えいというほどではないが、あまり周囲にパワポのドン!とした大型活字を見せたくないし恥ずかしい。

帰りは、まあ、基本的には疲れているし夜なので駅弁で一杯ということで良いが、以前は私も意識高い系の感じで、移動中の時間を有効に使うべくガジェットを集めようとしたこともあった。帰りの新幹線でノートパソコンやポメラで議事メモをすぐさま作成、なんて。ノマドワークも興味があったのでそうした観点での、移動時間の業務化も考えて見たことがある。

しかしながらそれも今は諦めた。要するに隙間時間を効率で埋めることに疲れてきたのである。

やる気になればそうした隙間時間を埋められるし、自分の生産性を上げられるのもわかっている。私が生産性を上げれば、それは全体にとっても意味があるはずだ。

しかしながらそれも今は諦めた(2度目)。疲れてきたのである(2度目)。

ノマドワーカーのガジェットを見るのは楽しいが、実際に実行すると非常に疲れる(3度目)。そもそもの移動自体が私にとっては疲れる(4度目)。できれば自分の机が一番ストレスがない。ここで仕事をしていたい。

ノマドの人々は移動することをあまり負担とは思わず、むしろ旅のように捉えているようだが、私個人としては移動すること自体がストレスなのである。もちろん私の性格の問題で、向いていないのである。

移動がストレスだというのは、自分で決めていないからだと思う。そもそも移動していること自体が、相手の都合に自分が合わせている。自分のエゴだけで言えば、先方からこちらに来れば、その分私は移動時間がなくなるので正味の仕事の時間が増えるのである(注1) 。だからそうしたい。でもそうならないのは何故か。

トータルで考えて、先方が来ずに私が移動する方が、費用対効果が高いからである。

向こうがこちらに来ることによるコスト、機会損失と比較して、私が一人で移動した方が費用対効果で有利だからだ。それは私も納得している。だから、行くのである。しかし、疲れるのである(5度目)。

単純に言えば向こうが大人数だし、そもそもの議題がその現場だったりすれば、こちらが行くのが当然だ。

ただし、自分の生産性だけを考えた場合、自分が相手側の都合に合わせるのではなく、相手側を自分の都合に合わせる方が絶対に良い。虫が良すぎることは承知だが。

相手との力関係や地位のことを考慮に入れる必要があるが、私が見た中で優秀な人−限られた時間の中で他者より優れた質・量のアウトプットを出せる人−は、交渉フェーズで相手を無意識的に自分の都合に引き込んでいたことが多い。つまり、知らず知らずにこちらが相手のスケジュールに合わせているのである。そして、そうした人は驚くほどのマルチタスクをこなしていた。

つまり、仕事自体の処理能力に加え、相手を自分の土俵(都合)に引き込む力(オーラや雰囲気も含め)を持っていたと思う。

私が好きなプロレスで例えると、ジャイアント馬場は後継者と目していたジャンボ鶴田に、プロレスにおける帝王学を伝授していた。これは必殺技を教えたのではなく、相手に対して優位に見せる技術であった。

ジャンボ鶴田と長州力の60分シングルマッチで鶴田はそれを実行し、結果は60分フルタイム戦った末に両者引き分けであった。しかし、その試合内容が観客にジャンボ鶴田の強さ、格上さを強く意識させられたものとして知られている。

私も当時TVで試合中継を見てショックだった(注2)。当時は長州の方が人気があり、鶴田自身もあまり強さを前面に出していないこともあり「長州が勝つ、勝たないまでも圧倒する」と思っていたが、後半になると次第に長州が攻め込まれるシーンが多くなり、終わってみると鶴田の強さを認めざるを得ない結果になった。

wikipeda ジャンボ鶴田から引用

 リング中央でどっしりと構え、自身の周りを長州が動き回るようにファイトする(中略)。

  これは馬場がエース候補生たちに必ず教えていた心構えであり、また、自分が格上のレスラーであると印象付けられる上にスタミナの消費も少ないという効果を狙ったもの

—引用終わり

リング中央に留まる鶴田。長州はその周りを回り始める。惑星と衛星のような動きであり、中央と周縁のようなシンボリックなイメージすら想起される。

自分のペース、時間軸に相手を引き込む。こうした”惑星”になるためにはどうしたら良いか。椅子に座ってクルクル回りながら今日も考えている。


注1:テレビ会議とか電話会議とかSkypeといった手段があることは承知の上で(必要に応じてやっている)、ツールが進化してきたがFace to Faceが必要な場合も未だに結構あると思う。やはり迫力や雰囲気は画面越しでは伝わらないのだろうか。

注2:プロレスについてのミスター高橋的な話は当然知っている(その後知った)が、そのことは今は語りたくない。

 

 

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牛乳が苦手な大人たち:蘇=コンデンスミルク説

 前にも書いたが、牛乳が苦手である。思春期の頃は背が伸びると信じてガブ飲みしていたが、良くお腹を壊していた(背も大して伸びなかった)。

 最近になって乳糖分解酵素の欠乏(乳糖不耐症→wikipediaへのリンク)が原因であることが結構知られてきており、自分だけが特別なのかと思っていたがそうではないと知って安心した。

 中尾佐助『料理の起源』(NHKブックス)の「乳製品の加工」の章においても、遊牧民であり乳を多く利用するモンゴル人が、大人が牛乳を飲まず(子供には飲ませる)、もっぱら乳加工品として摂取している実態から、上記の症状に言及している。

 大人になるにつれ、人間は乳糖を分解できなくなる(そうでない人もいる)。牛乳の成分のうち、乳糖はその固形成分の1/3を占める。乳糖のような多糖類を吸収するためには単糖類に分解するための酵素が必要で、これは赤ちゃんの頃には持っているが、少年時代を過ぎると消失してしまうという。

 そうした人間の性質、さらに加えて保存の課題から、人間は新鮮乳に対して経験から様々な処理工程を試行錯誤の中から発見し、加工品としての乳製品にしてきた。

 こうした乳製品を加工系列として図示化したものを、中尾の著書では梅棹忠夫の研究成果として紹介している。

 西欧の乳製品加工系列は、以下のようになり、まさに現代で流通しているものと等しい。

1.牛乳をクリームとスキムミルクに分離する(例えば放置していても良い)

1.1 クリームはバターやクリームチーズの原料となる

1.2 スキムミルクはカッテージチーズやスキムミルクパウダーの原料になる

2.牛乳を酵素(レンネット)によって凝集させチーズの原料にする(発酵も関与)

 西欧以外のアジア、アフリカなどでの加工系列は更に異なっており、まだ完全に体系化できてはいないようだ。しかし、モンゴルやブータンなどの調査結果では、初めて聞くような乳製品があり、興味をそそられる。

 中尾の著書で、実際に食べた感想として、賞賛しているものをあげてみる。

・ブータンの「フィルー」-柔らかいチーズ状だが弾力性があって、引きちぎると餅のように伸びる。「味は酸味がなく、非常に上等な乳製品である」「上等なフランス料理で食後に食べる多種類のチーズの中にも、これに及ぶものはないだろう」(中尾.p.164)

・モンゴルの乳酒を更に蒸留した「ホルチ」 -「非常に強い酒で、コニャックのように強い香り」「・・・このモンゴルの乳酒の一つであるホルチだけは、文明国のホテルやバーへ持ち出しても、高い評価を受けること確実」(中尾,p,182)

 どちらも調べてもなかなか手に入りそうな感じではないが、一度は味わってみたい。

また、以前の記事で言及した中国、日本での乳製品(蘇,酥)についても言及がある(中尾.p,194-195)。

 蘇(酥)がどのようなものであったか、中尾自身も決定できていないが、可能性として

・モンゴルの「べとべとウルム」(生乳を静置させ脂肪分を煮詰めたもの)

・インドの「コヤ」(生乳を攪拌しながら煮立て水分量が30-40%くらいまで濃縮したもの。コンデンスミルク)

が類似例として挙げられ、中尾はウルムよりコヤに近かったのでは、と推定している。

これも蘇=コンデンスミルク説であり、wikipedia先生とは対立している。

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【書評】矢作俊彦・谷口ジロー『サムライ・ノングラータ』かっこいいフリーランスの姿

 矢作俊彦・原作 谷口ジロー・作画『サムライ・ノングラータ』(フリースタイル)は、フリーランスのかっこいい生き方を描いて、何度も繰り返し読み返したくなるマンガである。

 主人公二人(個人の商社マン・ホンゴーと元傭兵・ノリミズ)が世界中を股にかける冒険。

 主人公二人とも、組織には属しておらず、フリーランスである。

 彼らの主な行動原理はカネで、友情で結ばれている訳ではない。一方が一方に協力する際も、真剣にコスト交渉をする(経費込みで)。命を狙われている場面でも。

 ある意味、行為の対価の交渉こそに、人生の意味があるのかもしれない、と思わせる。

 1990年連載ということであるが、中に描かれているガジェットや政治背景(コンピュータハッキング、中東と欧米の緊張関係)などの現代性も十分だ。

 加えて、武器や格闘技(関節技)の異常に正確な描写や、更には細かいところで最近話題になった、ウォーターボーディング(水拷問)が何故か異常に正確極まりなく(えげつなく)描写されており、その拷問の被害者の心が折れるところまで、説得力を持って迫ってくる。

(襲撃したが、逆に主人公に捕らわれ、拷問を受けて泣くヤクザに)

ホンゴー「くよくよするなよ、こいつは拷問のプロなんだ」

ヤクザ「しく、しく」(←泣いている 引用者注)

ノリミズ「拷問?外人部隊じゃ ありゃあ蓄膿症の治療だ」

また、別のシーンで

ホンゴー「何もここまでやらなくったって」

ノリミズ「後方がない以上敵は殲滅するしかない」

(中略)

ノリミズ「おれたちゃ二人きりだ。捕虜にとるわけにはいかない。

今度やったら殺されるって思い込ませるしかないんだよ。

本当に殺すのが一番いいんだけどな」

ホンゴー「・・・・・」

—–引用終わり

と言った暴力の描写の後に非常に冷徹な会話が。

 怖いが、ある意味、徹底的な個人主義、フリーランスの心得と言えなくもない。

 敵に対峙した際に、「後方がない」という覚悟。団体戦で処理できない場合、目の前に迫る緊急性の高いタスクをどのように処理するか。

 自分にはもう後工程がない、と仮定した場合の覚悟。

 まさに個人、フリーランスとして、誰もが持っているであろう心理だと思う。

 組織という団体戦に対する個人の非対称性を明確に描き、その上で個人戦で真っ向勝負する2人、まさにかっこいいフリーランスの姿として惚れ惚れとしてしまう。

 表紙の女性は全くストーリーに絡まず、不自然なくらいのゲストキャラ。

 ちなみに表題は、外交用語であるペルソナ・ノングラータ(好ましからざる人物)のもじりである。

 最後のストーリーである、アルジェリアでの砂漠の戦い「百円の孤独」のラストはしびれます。

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できない言訳だけが上手くなって

仕事はどうしても景気に左右される宿命にある。

設備投資は景気を測るバロメーターのようで、どうしても景気が悪く自社の経営数値が悪いときには、設備投資などは減価償却費の枠内に抑えて、といった形で縮小することになりがちだ。

ただ、将来に向けての投資については、景気や自社の経営とは無関係に「やるべきときに速やかにやる」という意思決定が必要なのではないかと思う。

近頃は昔より、景気や顧客の判断が急激に変化するようになった気がする。突然、生産計画を急激に変化させることが求められるようになったり、急に品種を切り替えてみたりと。

内部の生産性が旧態然としたまま、急激に増産が必要になって追いつかず、思うような成果が得られないことがある。折角の生産量増大なのに、うまく生産性が上がらず、成果の刈り取りができない。機会損失にもつながる。まずい。どうしてこんなチャンスに利益があげられないんだ・・・。

そんな場合の言訳として、”忙しくて改善に手が回らない”というものがある。

でも、こういう言訳はあまり信用できない。

なぜなら、この手の安易な言訳をする人は、逆に暇だった時期には、”お金がないので改善に手が回らない”という言い訳をしているはずだからだ。

-暇なときはお金がないからできない

-忙しいときは人がいないからできない

なんのことはない、どのみちやる気がないということを吐露しているに過ぎないのだ。


「で、こんな訳のわからないレポートを読ませて、何が言いたい訳?」

私「だから、今説明したでしょう。給料が少ないとか、家計が厳しいとか、そんな外部環境は言い訳にならなくて、やりたい時がやり時ってこと。だから、買っていい?一眼レフ」

「却下」

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面白い科学:「覆水盆に返る?」ーそんな液体がある!

本日紹介するのは、「覆水盆に返らず」ならぬ、「覆水盆に返る液体」について。

本日の論文

(1)岡小天「生物流体物理」日本物理学会誌.23(1968)p.828-837

著者はレオロジーの理論物理学者。シュレーディンガーの『生命とは何か』(岩波新書)の翻訳者でもある。

レオロジーとは複雑な液体や固体(例えばマヨネーズや歯磨き粉のようなネバネバしたりねっとりしたりするものとか)を対象として、その流動や変形を取り扱うジャンルである。

この具体的対象としては生物などに多く存在し、こうした”流れ”は通常の液体(例えば空気とか水とか)の範疇としては捉えきれない。

この論文(紹介記事か)でも、そうした例として

・ 細胞原形質の流動

・アメーバや白血球の運動

・血液、リンパ液の流れ

・関節液

・気管支分泌液

・眼の中の前眼房水

・カイコの絹糸、クモの巣の原料となるタンパク溶液

・ヤツメウナギの表皮分泌液

・植物内の樹液の流動

などが挙げられている。

それぞれ興味深いが、その中でも、著者自身がその文章で「覆水盆に返るである」と紹介する粘弾性液体がある。

パラフィンを主要液として、5%アルミニウムラウリン酸と1.5%のキシレノールからなる液体は、弾性(ワンピースのルフィみたいにゴムのように伸び縮みする性質)が強い液体だそうだ。

その様子を示した写真が掲載されており、コトバで説明すると、

①ビーカーからお皿に液体を注いでいる

②その途中に、ビーカーとお皿の間にある液体をハサミで切る

③すると、切られた残りはまだビーカーとつながっているが、お皿の上にある

④しかし、その残りの液体は落下せず、バネのようにビーカーの中に飛び上がってビヨーンと戻る。

日本語で説明したのでわかりにくくてすいません。原論文にはその動きがわかる写真がある(文献(1)の第13図)ので、興味がある方は参照されたい。

 

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