自粛期間中の酒飲みは、家の裏庭でひっそりと「チェアリング」

 新型コロナの自粛要請で、テレワークしている平日は当然だが、休日も家から出られない、というか出づらい。かと言って、家の中で昼から酒を飲むのも気が引ける(まあ、別によさそうだけど・・・)。

 家の庭でBBQしたって良さそうだが、それはそれで何か世間に対して過剰に挑戦的な気もする。そんなこんなで家の裏の人目につかない狭いエリアがあり、そこで「チェアリング」呑みをすることに。

 釣り用でホームセンターで1,800円くらいで購入していたColemanの「アクションチェア」を持っていた。これはドリンクホルダーが2つ付いており、これだけでも結構機能性が高くて良いのだが、今回ネットで「Mozambique(モザンビーク) キャンプ テーブル」を買ってみた。約4,000円したが、高さが低すぎず、ちょうど良い。折りたたみもでき、テーブル部分も剛性があるので結構いい感じである。

 100円均で買っていた「S字フック」とコンビニ袋を使用してゴミ入れに。また虫が多いので「蚊取り線香」は必須アイテムである。

 偶然であるが、家は行き止まり(雪隠詰め)の場所で、田舎のため周囲に接している家は1件、あとは畑だったので、このエリアは狭いが完全に近所の目から死角になっている。どん詰まりの閉塞空間であるが、こんな時に有効活用できるとは思わなかった。その上、日当たりも悪いのだが、チェアリングの場合、日差しが厳しいとイマイチなのでこれも結果良かった。

 このような豪華メニュー、と言っても乾き物と安ワイン。ビールは貰い物。それでも休日の昼下がりにリラックスして一杯でき、かつ、そのまま1時間ほど居眠りもでき、なかなか快適であった。

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在宅勤務で拘禁反応が出る前に、PC内のパンダ画像を放出(2018年の成都パンダ繁殖研究基地で撮影)

 在宅勤務で溜まるストレスはなかなか解消しにくい。酒に溺れるのも危険であり、早いところ定常運転のペースを作りたい。

 自分の意思ではない状態で閉じ込められているような、いわゆる拘禁反応のようなストレスを受けているような気もしている。まあ自宅を監獄にしても仕方なく、ここは自分の心の持ちようのはずなので、なんとか平穏に過ごしたい。

 そんなこともあって、2年前に行ってきた中国・成都にある「パンダ繁殖研究基地」の映像をPCから掘り返すことにした。

 こんな感じで基本寝転がって、竹を食べている。そしてその姿に中国人も日本人(我々)も釘付け。ただのグータラな風景だが、アイドル並の人気である。まあ、なんか絵になるのは確かである。金が取れるグータラというか。プロのグータラというか。

 この基地の中は広くて歩いても2時間くらいかかる。そんな中、何やら違和感のある風景が。

 パンダが木に引っかかっているのである。

 ぬいぐるみかと思うほど動かないが、要するに木の上で子パンダが寝ているのである。しかも、あんな嵌まり込み姿勢で。足が完全に脱力している。

 結構な高さで7,8mはあるが、わざわざ登って爆睡の様子。

 別のパンダもいた。これは寝相が変わっており、横になっている。

 樹上で寝る習性があるのだろうか。やはりただ地上にいると容易に敵から襲われやすそうだし・・・。でもどっちみち機動力も戦闘力もないから関係ない気もするけど・・・。

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ぼくの在宅勤務(テレワーク)あるある

 今回の「新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言による」テレワークを始めて、試行錯誤的に数日が経過した。相変わらず慣れないし、ストレスも溜まっている。だが、やはりやってみるもので、少しずつ改善はしてきているようでもある。

 そんな中でいくつか”在宅勤務(テレワーク)あるある”をリストアップしてみたい。

”新型コロナ感染拡大に伴う緊急事態宣言による”という枕詞の定型文を書きすぎて、自動的に書けるようになってしまう:今回の一連の騒動のあるある。辞書登録する間も無く、指が覚えてしまった。この手の定型文は微妙に文書で違っていると気分が悪いので、一度決めてしまうのがキモチ良い。

他人の反応に飢えてしまいがち:やはり他人との接触がないことが堪える。会社だと自分の業務に関係ない人の話し声や、雑談などが結構な気分転換にもなっていた。在宅勤務の場合には、メールを送信した後の反応を待っている時間が結構なストレスになることに気づいた。仕事の主導権が自分ではない場合、反応待ちに困るし、逆に反応に即レスする態勢にもあり、少々ガツガツ感が出て、自分でもちょっと気持ちが悪い。

PCの前の席にいること=勤務時間と定義してしまいがちで運動ゼロ:全く運動しない。仕事の切り分けが難しいので、まずはPCの前の席にいること=勤務時間と定義してしまいがちである。そうなるとトイレやコーヒーなどの気分転換すらもやりにくく、ストレスになるのである。その結果、運動不足によるストレスも溜まる。私はこれを解消するために、始業前に30分ほど散歩をすることにした。これでスイッチを切り替えるようにすると中々いい感じである。

トイレが汚くなったと怒られる:これは男性のみであろうか。自宅のトイレを使う頻度が多くなり、自然とトイレマナーの悪さが顕在化するのである。その結果、トイレが汚くなったという苦情に繋がり、掃除する役割が増える。

食生活乱れがち:昼食はカップラーメンのみ。ストレスや空き時間の多さに摂る間食で、お菓子などを食べてしまい、食生活が乱れがちである。また先ほどの”拘禁反応的ストレス”もあって、業務終了後には解放されたという思いから散歩もかねて外に出てしまい、お酒を買い、居酒屋のテイクアウトを買い、といった散財の行動に出てしまい、結果、酒量も増え、お金も使ってしまっている。一応少し気を使って、私は、マルチビタミンのサプリ剤で補っている。また、小腹が空く時のおやつとしてはビーフジャーキーが低カロリーで良い。

飲み物を入れるタイミングが図れない:台所に行くと、プライベート空間をビジネス空間にしてしまうようになるし、先ほどのPCの前にいないと勤務時間ではない、というような脅迫観念もあるので、飲み物について少し戸惑っている。今回は、お茶も入れるのも面倒くさいので、500mlのペットボトルお茶を箱買いしてみた。一応これで何とかなりそうである。

オールフリー(ノンアルコールビール)飲んでいいか悩みがち:今までオフィスでは人目の問題もあり無理っぽかったが、テレワークであれば気にせず飲める。しかし、やはり・・・・微妙なのである。

烏龍茶と何が違うんだ!と言う声もあるが、ためらう自分もいる。
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テレワークによる在宅勤務が開始!慣れていないので、なかなかのストレスについての感想

 新型コロナ感染防止に伴う様々な施策の影響で、ついに私もテレワークによる在宅勤務の状況になってしまった。これまではBCP対応で、公共交通を使わず車で長距離を通勤していたが、ついに出社数そのものを下げる意味でそれもNGとなった。(関連記事: 新型コロナ拡大に伴う緊急事態宣言から、終末、じゃなかった週末を迎えた現時点までで起こった私的出来事とその感想:安全確保と最低限の事業継続との相反、そしてポスト・コロナで起こる業務トリアージの予感

 先日、ついに1日テレワークによる在宅勤務を実施したものの、やはり仕事のやり方が異なり、かなりストレスが溜まる結果となった。

 慣れの問題もあるのであろうが、少し記録として残しておきたい。

 私の仕事は、いわゆるバックオフィスの事務方であるが、調整系窓口系の業務である(要するに人事や総務といったような、この場合フル回転になるような業務ではない)。

 自宅書斎に会社支給のノートPCをセットし、自宅のネット環境を利用して会社のシステムに接続する。これはまあ何とかなり、これまでも海外出張の際にも行ったことのある作業であり、一応朝には準備が整った。

 基本的には会社のシステムが使用できメールが閲覧できれば、まずは何とか自分の業務は継続できるはずである。ただ、内線電話はない(当たり前)や当事者が近くにいない(当たり前)ので、今までとは仕事のやり方が異なってくることが気になった。

 調整系の事務方業務としては、やはりできればオーラル(口頭)、できればリアル対面での情報伝達が必要であり、メールだけ打ちっぱなしでは進まないことが多い。

 特に私のような調整系の仕事だと、最終的に「首に鈴をつける」という重要な業務がある。

 ある程度の組織だと、利害関係が入り乱れるので、誰もが少しずつ不満を持つ形で実行計画を落着させることになるのが一般的である。全員ハッピーになることはない。

 自分(の組織)にとって思い通りにならない不満を抱きつつも、この案を”呑んでもらう”という作業。

 そして、それはその当人だけが損しているわけではなく、みんな少しずつ損しているので、利害関係者全員にその説得作業が必要なのである。だが、みな「自分だけが損をした」と思うものなので、極めて労力がかかる割りに報われない業務なのである。

 そんな時は、こちらの板挟み感を対面して理解してもらう、面と向かって長い沈黙に耐える粘りも必要なアナログ作業なのである。

 これができないのが、テレワーク業務的にきついが、なかなかこれを火急の業務だと世間一般に理解してもらうのも困難な気がして、悩ましい。そのためだけに出社するのか、と言われそうで。確かに自分でも変なことを言っている気がする。

 特に今回のような事業継続モードで、実行するリソースも限られている中で優先順位を判断して実行要否が決まるような状態だと尚更である。

 時間の使い方も、より緊急性の高い、つまり現場(フロントライン)に近い相手の都合に合わせることになるため、どうしても手持ち無沙汰な状況が出てしまう。平時であれば、色々な手段でプッシュしたりできるのだが、非常時にはそのような手段も使えない。自分の優先順位が常にトップであれば良いが、そうとも限らないので判断が難しいのである。

 そんなこんなで細々と在宅でも業務を回し始めた。まあ、平時とは違うことが大前提なので、スピードが遅くなるのは致し方ないし、緊急的措置も準備してあるので、こちらの方は正直何とかなりそうである。

 元々引きこもり系かつインドアであったので、結構イケる、というか、これは私にとって理想的な環境ではないかと思っていた。しかし、そうではなく、結構ストレスが溜まることがわかり、この反応は自分でも意外であった。

 問題は個人的なもので、やはり「在宅」という業務形態がサラリーマン人生の中で初めてであり、これが非常に戸惑う。そして、精神的なストレスになっているようであった。

 これまでの通常業務でも一人完結で仕事をしていると思っており、在宅で一人なんて問題ないと思っていた。確かに一面からはそうであった。実際にこの状況下だから細々なのは仕方ないが、進めることはできている。しかし、会社という場所、リアルな人間がいる場所というのは、意外と色々と見えない別の「機能」があったのだと改めて気づいた。

 例えば飲み物一つでも、小休憩で自販機でカップコーヒーやお茶を買う。または自分でインスタントコーヒーを入れて給湯室で入れる。こうした一手間、少しの歩きと少しの場面転換が、意外に気分転換になっていたのだ。

 在宅勤務の場合、自分で台所へ行きお湯を沸かしてコーヒーを入れる。同じ様に見えるが、精神的には何か変な落ち着かなさを感じるのである。一旦日常に戻って、直ぐにビジネスに切り替わるような、あるいは日常のはずの台所にビジネスを持ち込んでしまったような精神内部の混乱があった。

 要するに、プライベートの空間とビジネスの空間がまだ混ざり合っているので、自分の中でおかしな切替の混乱が発生しているのである。どちらかといいうと、ビジネスの心理的空間が日常を侵犯、侵食しはじめているのである。それはそのはずで、プライベートのはずの書斎の一角で、ある意味「勤務」をしているのだから当然であろう。このあたりがまだ自分の中で消化・整理できていない。

 在宅でも外出して近くの自販機にジュースを買いに行くのも別に時間、移動距離共に、会社におけるそれと変わらないような気がするが、心理的な距離というものは大きい。慣れるものなのか。

 そんな状態の中でも、昼の休憩には、まるで休日のような家族での昼食があり、またそれが終わると、わずか数秒でビジネスモードに入る。これはなかなか切り替えが難しい。

 また運動不足も結構堪える。

 自宅だとほぼ運動ゼロになってしまう。

 会社の場合、少ないにせよ通勤、会社内での歩行など運動があった。在宅だと何もしなければほぼゼロである。これも結構ストレスになる。

 結局在宅業務が終わると、散歩がてら近くのコンビニまで歩き、安いワインを買って帰宅。晩酌をすることで少し運動不足とストレス解消にはなった。

 もうひとつ気になるのは、「結構アルコールに依存しそう」ということである。上記の散歩がてらの気分転換などストレス解消のキーパーツに「アルコール」が入ってしまっているのである。

 立ち飲み屋巡りが趣味であったが、この緊急事態宣言以来自宅で飲む酒量は、立ち飲み屋巡りをしていた時よりも多くなっている。しかも、ストレス解消の名目が加わっている。これは由々しき事態であり、少し在宅勤務長期化を見越して、スケジュールを再構築する必要があると思っている。

フワちゃんのようなYou Tuberはどうやってストレス解消しているのであろうか。
好きなとこで生きてゆけたら・・・

 

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新型コロナ拡大に伴う緊急事態宣言から、終末、じゃなかった週末を迎えた現時点までで起こった私的出来事とその感想:安全確保と最低限の事業継続との相反、そしてポスト・コロナで起こる業務トリアージの予感

 2020年4月7日に発せられた新型コロナ感染拡大に対する「緊急事態宣言」から約1週間。ようやく週末を迎えられた。終末を迎えられなくて良かった。

 この期間、主に仕事関係で非常にバタバタした。はっきり言ってヘトヘトである。終末を迎え、また間違えた、週末を迎えた今少し思うところを書いておきたい。

 会社の勤務地が首都圏にあるため、4/7から自主的に在宅・待機モードに入る情報が前日の4/6に流れ始めた。予告はあったものの、実態はわからず、どのようにするかの情報も混乱する状況の中で、この時点で決まったことは「基本的にBCP(事業継続)に必要な要員を残して、4/7から当面出社を見合わせること」だけであった。

 製造業とはいえ、どちらかというとインフラ系ではなく第三次産業系のメーカーのため、社会的なインフラ維持のための事業継続ではない。だからといってビジネス的には完全停止はできないため、まさに不要不急な業務の停止を実行することになる。

 私自身は実は不要不急な仕事であろうと思い、自宅で巣篭もり業務かな、と踏んでいた。しかし何故か?BCP要員に選択されてしまった。意外であるが、これは私の今の仕事が他社との窓口的な役割もあり、他社のBCPの動向を見極める必要があるから、というものであった。

 まあ電車も空いているし、と思っていると「公共交通機関での出社は禁止だから」とのこと。しかし、私の自宅から勤務地までの距離は片道約50km。徒歩や自転車はとても無理である。結局、自動車通勤になってしまった。しかもそのルートには結構な渋滞ポイントが複数ある。どう考えても1.5時間、あるいはそれ以上はかかるであろう。

 初日(4/7)は、もはや腹を括って朝4時に起床(というかほとんど眠れず)、5時には車で出発。流石にこの時間帯ならいつも空いているということで6時30分には到着。実質一番乗りであった。この時点ではまだ正式には緊急事態宣言は出ていない。車の流れも通常の感じであった。店も普通に開店している。

 会社でもまだ状況把握ができておらず、出社してきた幹部は現状の部門の業務の棚卸しと選別を始めている。要するに今後長期化も見越して、不要不急の業務は停止し、緊急性のあるもの、つまり事業継続に最低限必要な業務を優先的に実施するいわば業務の選別を行っているのである。

 しかも自社かつ首都圏だけのこの状態で、首都圏以外の支部や他社、海外拠点の一部は平常に動いている訳で、そことの調整もある。

 ただ、本社機能は首都圏にあるので、機能は危機管理的には稼働しているが、そのリソースはいわば停止、あるいは、低下している。つまり意思決定などは可能だが、平時であれば処理できる機能が大幅に低下しているのが実情なのである。バックオフィス的な業務が特にそれにあたる。この状態が意外に厳しい。購買、法務、経理、IT、施設管理など、これらは事業継続に必要だが、この状況下では大幅に組織的パフォーマンスが低下しており、いわばセーフモードで最低限のパフォーマンスしかないのである。

 事業継続判断のため必要最低限の活動を行う。また、その必要最低限という意味は「火急」である。つまり緊急性があるということである。その一方で感染拡大防止、すなわち従業員の安全管理もあるので不要不急の業務はすべきでない。

 この両者、安全管理と事業継続は一種の相反関係、トレードオフになっている。

 そこでまず実施すべきは「緊急避難的処置」を考えることであった。つまり平時の際のルール通りに動かすことは、平時の組織であれば可能だが、この非常時のパフォーマンスでは時間軸的に難しいものがある。不要不急なものは停止(ホールド)するが、BCP的に必要と判断されたものは通常通りに継続実行しなくてはいけないのである。それをどうするかを判断しなくてはならず、まずはそこを関係部門と調整する必要があった。つまり、通常なら関係部門の承認が必要だが、この緊急的な場合ではその承認をすることが事業継続にとって障害となる場合には、その部門承認は事後処理にする、などの承認を事前にその組織と行っておく必要があるのである。これは後々責任問題というか、後日”犠牲者”が出ることの防止でもある。要するにフロントラインシンドロームで、現場が暴走して自己判断した場合の個々の責任問題を、ある程度回避するための予防処置でもあった。

 次に情報統制を行う必要があり、情報ハブを作っておく必要があった。とかくこの手の混乱状態というか見切り発車的な動きの場合には、情報が錯綜しやすく余計な仕事が増えるので、まずは情報ハブを決めて、そこから一元的に下ろすような動きというか、まず関係者に「宣言」する必要があった。

 そして、何よりまずは事業継続観点で何を残し、何を止めるかという決定に従うべき、という認識を全体で共有する必要があった。個々の個別判断で実行と停止が決まると、必ず軋みが出るからである。そしてこの場合、忘れがちなのは、個々の生命の安全が全てに優越する第一優先であり、この前提を同時に理解させることであった。

 順番は前後するが

①安全が第一優先である前提の上で、事業継続観点から継続すべきもの、停止すべきものを選別するという方針を内部で理解させ、何を継続/停止するか経営的に合意をとること。

②その上で平時のパフォーマンスが低下している中でも事業継続するための緊急避難処置を考え、関係部門と事前に合意すること

③情報ハブをできるだけ早急に決める、あるいは宣言してしまい、一元管理と統制を取り戻すこと

 この3点をできるだけ速やかに(まだ機能が多少残っているうちに)する必要があり、そのための動きを実施してきた。非常に疲れたのである。

 とはいえ、リアルタイムで動く話なので、情報はやはり錯綜し、福島第一原発で誤解?として起こったような現場での勝手な「撤退宣言」が出たりして、統制が一時的に狂ったりもした。まさに情報の混乱に起因するものであり、これを整理するのにも余計な時間と労力がかかった。

 やはり事業継続するとはいえ、最終的には「新型コロナのこともあるが、ここは事情を理解して可能であれば出勤して欲しい」という判断を個々の従業員に迫ることにもなるので、単純な話ではない。個人にも家庭の都合や不安もあるのは当然のことである、第一優先は生命であり、その前提で、最低限何ができるかを判断することが求められていた。原発事故と違って、今回は究極の究極手段である”じじいの決死隊”もできない。むしろ高齢者の方が危険であるからである。

 これらの対応を行ってきたのが4/7,4/8であった。混乱はあるものの、ようやく整理ができてきた。その後4/9,4/10では少し事後的な動き、緊急避難処置をした後に、平常時復帰後のすべき残務の整理など少し落ち着いた仕事モードになってきた。

 車通勤はきついが、確かに自宅から車で出勤し、閑散としたオフィスで一人で仕事(ほとんど電話とメールとTV会議で仕事なので接触はない)、食事も持ち込み(カップ麺がメイン)なので確かに人との接触はほとんどないのも事実であった。

 4/7は緊急事態宣言が発令された当日でもあり、大渋滞で3時間かかり、前日眠れていないこともあり、流石に安全を見て、翌日は多少遅めに出ることに。

 宣言後の4/8朝は、さすが日本人、ほとんど車の渋滞はなく、1時間強で到着。幹線道路沿いの店も閉まり始めていた。やはり平時ではないことを実感する。

 特に今回は、一旦企業活動をストップした上で、事業継続すべきものを選択復活させる、というステップを踏んでいるので、急ブレーキの直後の急発進になっている。その結果、いろいろなところで「社会的な鞭打ち症」が発生している。もちろん普段から危機管理の準備はしていたはずであるが、結局、組織というものは多重の情報伝達経路を含んでおり、意思決定が即時に伝わる訳もなく、ある種のイナーシャ(慣性)が存在し、それによって末端までのタイムラグや伝達遅れが生じるのである。まさにその点に振り回された1週間であった。

 長期化を見越して在宅、リモートなどの環境を整えつつあるが、おそらくこう考えている。

 新型コロナの影響は長期化ないしその影響で経済活動は低下するであろう。つまりコロナ前の業務と同じようには戻らない、ということである。

 仮にワクチンが開発されて安全確保されても、である。

 それはいわば経済活動が低下した結果「その業務そのものがなくなる、あるいは、元々不要なものだったと判断される」からである。

 つまり無用の用ではないが、以前なら「よくわからないけどあった業務」とそこに割り当てられた人がいたが、これが今回の急停止によって「この人がいなくても(戻って来なくても)別に組織としては困らない」ことが改めて浮き彫りになってしまっているのである。

 今後順次、優先順位に従って企業活動はそのペースや業務形態はまちまちであろうが、次第に元の状態に復帰してくるであろう。しかし、その戻り方には優先順位があるのである。

 そしてそれは個々の個人によって異なる。

 いわば「戻すべき価値がある人」から順番に戻す。そして周囲は順次お呼びがかかっているのに、いつまでも声がかからない「自宅待機組」が出てくる。彼らの心中はどうなのかと思うと残酷な光景が目に浮かぶ。

 これは患者の重症度に応じて治療の優先順位を決めると同様の「業務のトリアージ」である。そして死亡者を意味する「黒タグ」を付けられた人は、もはやその場に置かれ、一番最後に収容されるのである。

 ポスト・コロナの光景はまさしく業務トリアージの後の光景であろう。

 それはまだどうなるかはわからないが、不可逆であり、かつての光景と同じでないことは確実であると思われる。

 またこうしてこのドタバタ(まだ続く)を振り返ると、平時モードの人間とカオスモードの人間で得意分野が違うというか、人間性が浮き彫りにもなる。平時では優秀な司令官が、いざ非常時には指示待ち人間(指示くれ、他人に決めてくれ)になってみたりと、なかなか人間模様も多々見えてくるのである。

 やはりこうしたカオスな状態になると、何を優先に考え、判断すべきかが試されているとも言える。

 まあ、偉そうに言っているが私自身はある意味BCP対応とはいえ一つの「駒」に過ぎないので、ただ黙々と仕事をするだけであった。今週の終盤には若干不謹慎だが「普段より静かな環境で、他からの業務インタラプトもなく、黙々と一人完結で仕事ができるので意外にこの環境は良いかも」とすら思えてきた。

 とはいえ、電車通勤なら途中の立ち飲みで一杯もできるが、それも今やできず、楽しみといえば帰宅途中に自宅近くのコンビニに立ち寄り、アイスを食べ明日の朝食と昼食のカップ麺を購入しつつ、晩酌用の500円くらいのワインを買って自宅で飲むだけであった。車通勤は明らかに運動不足であり、少しずつストレスは溜まっているようである。

 東日本大震災の時と比較すると物資に関しては十分あったのでこの点は心理的にも助かる(紙マスクは見かけないが、布マスクを自作したので安心)。やはりフロントラインを維持するためには十分な兵站(ロジスティクス)が必須であり、現時点では何とかこの点では心理的なパニック感は抑えられているような気がする。

 ただ我々のような後方にとっては一応安心かもしれないが、現時点における「フロントライン」は医療現場がまさにそれに当たる。

 実は今回の自粛措置はその最前線(フロントライン)に向けて補給線を造り豊富な物資を優先的に供給する、あるいは、そのフロントラインを維持するための感染ピークのブロード化ということが求められているのであろう。だが、その割には、後方での議論の方が、大きくクローズアップされていることが少々気になるところである。

暗い気分なので「日めくりフワちゃん」でゲン直しである
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【書評】村松秀「論文捏造」-ベル研究所の世紀の大捏造事件と”発見”の栄誉の正統な帰属とは

 村松秀「論文捏造」(中公新書ラクレ)を読んだ。アメリカにおける最先端研究所であるベル研究所で、2000年から起こった「世紀の大発見」と、それが研究者による不正行為(データの捏造)であったことが判明するまでのドキュメンタリーである。

 実は我々はこれを他山の石とはできなかった。

 考古学における旧石器捏造事件、そしてSTAP細胞事件、そしてそれらがあまりに大事件故に隠れてしまった様々な不正事件群をこの日本でも発生させている。

 このベル研究所で起きた問題は、上記の事例と同じくいくつかの現代科学とそのコミュニティが抱える課題を内包している。

 最先端にあるがゆえの境界領域や専門領域の細分化により、部門横断的な成果に対して専門家が非常に少なくチェック機能が働きにくい構造になっていること。ただこれは一方で、イノベーションの本質でもありブレークスルーはこうした常識外あるいは既存の発想外によって生まれる事実もある。したがって、大発見は本質として「今までそこに材料は転がっていたが、それを気づいていないだけ」という側面を持っている。

 今回も「高温超伝導」、「有機材料」、「酸化物の薄膜スパッタ」、「半導体プロセス」という最先端かつ異分野融合という側面があった。特に発想そのものは「有機半導体」「有機エレクトロニクス」という極めて現代的なテーマなのである。

 そこに先行者の「権威」という要素が加わる。これもバイアスとして存在することが本書でも指摘されているが、権威とはそれ自体悪いものではなく、要するに「専門性」であり「信頼性」と言い換えても良いであろう。この構図も、旧石器捏造事件、STAP細胞事件、常温核融合フィーバーでも起こった。

 今回の捏造の主犯とされた研究者は、最後まで「自分はその現象を確かに確認した。ただそのデータやサンプルは全て持っていない。捨ててしまった。再現は確かにできていないが、その理由はわからない」という主張をしている。世界各地での追試でも現象は再現されず、成功したとする実験装置は彼だけが独占した「マジックマシン」であり、最終的にその装置を使っても再現はされなかった。

 確かに不誠実な態度であり、証言に信用性はないと判断されるであろう。私もそう思う。だが、彼が「見た」と主張する以上、本当にそうであった可能性を完全消去することもできないのである。

 今回の事件における疑義のきっかけは、彼が論文で主張した「有機物に酸化アルミニウム薄膜を形成することにより高温超伝導体となる仮説の実験的検証」が再現できないというものである。

 この仮説自体はシリコンを対象とした電界効果トランジスタの原理そのものである。従って、物理仮説としては一定の妥当性がある。

 また、ここで登場したスパッタリングなどの成膜技術は、半導体製造技術(薄膜形成工程)として既に産業界で実際に高度に実用化・応用されているものであった。

 例えば、ハードディスクの高集積化を実現した巨大磁気抵抗効果は、まさしくスパッタリングによる薄膜形成技術によって実現できた。既に数原子層レベルといったミクロの世界で精密なコントロールが現実的に可能である。そこには製造技術として様々な手法の開発が必要であり、そこにもまたブレークスルーがあった。確かに製造技術として容易にマネのできない「レシピ」や「装置技術」は存在する。そして、それを秘匿する意味も確かに産業界の先行者利益として理解できる。

 この「マジックマシン」もその実態が不明な時点ではリアリティがあった。実際に高度になった半導体製造の現場ではそれに近いことが起こっているのである(ただ、彼の「マジックマシン」の形状は、いわゆる旧来型ベルジャータイプであり、むしろ非常に原始的な構成である。この例からも信憑性に大いに疑念が湧くのは当然であろう)。

 私自身、かつてある噂話を聞いたことがある。伝聞に伝聞を重ねているので本当かどうかはわからないが。

 ある電子部品を製造するために巨大な投資をしたメーカがあり、製造装置を作ったがどうしてもうまく生産できない。歩留まりが悪く、いつまで経っても大量生産に移行できないのである。製品計画は遅延し、製造装置メーカも手離れの悪い装置となり、疲弊していた。採算が取れず、撤退するメーカも現れた。

 そんな中、ある電子部品メーカのトップの前で製造装置の動きを見せろ、という場面(これもよくあるテコ入れ策で)があった。要するにうまくいっていない状況をトップ自らが視察することで鼓舞する意味があるので、労力をかけてリハーサルもするが、やはり当日まで装置は立ち上がっていない。ある意味関係者も、喝を入れられる覚悟でそのデモに臨んだ。

 しかし、その実際の場面で起こったことは、装置画面に完全に所定の性能を達成したことを意味する「数値」が出たのである。電子部品メーカのトップは当然成功と見て喜ぶ。そして、この製造装置を量産のために大量発注せよ、という指示が飛ぶ。だが、関係者は自分自身でも、なぜそうなったか理由がわからないので、半信半疑で喜べない。

 この真相は、実は装置の画面表示の「バグ」であった。

 装置はその時、別の理由の動作不良により、内部でエラーを出していた。制御的には、そのエラーが発生した時点で、画面に予め適当な表示をするようにプログラムを組んでいたが、その数値が偶然、装置の目標とする数値と一致していたというのである。つまり、装置は現実的にはエラーとして止まっていたのに、結果的に装置としての最高性能を示したように振る舞ってしまったのである。制御技術者がたまたま入れただけの数値なのだが。

 やはり実際の性能は出てなかった。しかし、もはやそうした真相は、関係者誰もが公にはできない。

 その結果、何が起こったか。

 なんと数ヶ月後には、その装置を使って所定の製品が、高い歩留まりで実際に製造できるようになったのである。

 つまり、確かにその製造装置には性能を出せるポテンシャルはあったのである。しかしその条件が見出されていなかっただけであった。

 だが、そのポテンシャルがあったということは、所詮結果論に過ぎない。運がよかっただけである。

 自然科学における実験データの再現性と同様に、結局は具体的なモノを製造して現実化しないと意味はない。しかし、上記のように、それよりも前に「できた」ように(故意ではないが)偽装してしまう状態も起こりうる。つまり、ここでは「一度はできた」(実際にはミスだが)という瞬間があり、結局最後は辻褄があって「できた」ことになる。栄誉は確かに正統な所有者の元に帰属された。

 今回の事例も、理論的な仮説としてはありうるものであり、この仮説が将来的に実験的に証明される事は起こりうるだろう。それはしかもベル研の自体と同様にアルミ酸化膜をつけるという方法かもしれない。

 その場合の栄誉は誰に与えられるのか。

 「一度はそれを見た」と証言する捏造した研究者であろうか。

 それは当然異なるであろうが、その時、もし本当にそうだったら・・・という可能性はゼロではないはずだ。これはSTAP細胞事件でも同様である。

 その場合、悲劇の研究者を産んだこととなるのであろうか。

 この点は自然科学の進歩自体にも同様の構図がある。誤りを修正しながら進歩してきた歴史があるからである。

 その時点の学会、コミュニティで承認された業績も、現時点で否定されているという事実も多い。しかし、れでもその研究者がその時点で誤っていたとは言えない。

 今起こっている正しさも、未来のフレームワークから見ると誤りの連続である可能性も十分にある。

 自分自身が今誤っている可能性を常に感じているが故に、科学者コミュニティとしても非常にナイーブな問題を含み、歯切れの悪い後味の悪さが残るのであろう。もちろん、ここで問題にしているのは、誤りと偽装(故意)・捏造との違いは存在する上で、個人の経験という要素を考慮した場合に、それを「客観的事実」として峻別することの困難さのことを指している。

 最終的には科学者としての誠実さ(どこまで自分の行動・結果を客観的に証明できるか)が問われているのであろう。

 繰り返しになるが、今回の主犯とされた研究者の態度が不誠実である事は間違いない。

 だが、彼個人はこれからも自分自身のストーリーを信じ続けるであろう。そして、もし将来に彼とは別の人間により偶然仮説が検証されたとしたら「悲劇の犠牲者」というストーリーが新たに彼の中で開幕するであろう。さらに世間と彼のギャップは広がり、そのことを想像するとやるせない気持ちになってしまう。

 

 

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【書評】ジョナサン・ラティマー「処刑6日前」(創元推理文庫)カウントダウン・サスペンスの傑作だが、惜しむらくはポリティカル・コレクトネスが気になる

 ジョナサン・ラティマー「処刑6日前」(創元推理文庫)を読んだ。1965年発行で、文庫の装丁は司修である。

 死刑を6日前に控えた死刑囚である主人公ウェストランドが自らの無実を晴らすことを決心する。限られた時間、死刑判決を受け身柄は刑務所にある。その限られた制約の中で、知恵を絞り、犯人を探してゆくストーリーである。

 しかし彼が陥った「妻殺し」の事件は密室殺人であり、アリバイも含め全ての証拠がウェストランドに不利な状況であった。こうした極めて制限のある環境下で、弁護士や探偵を雇い、自らの事件を調査していく。

 ウェストランドは刑務所に収監されているので実質的には探偵であるクレーンとウィリアムズのコンビが物語を進行させ、謎を解いてゆく。

 こうした骨太な構成に加え、酒ばかり飲んでいる探偵クレーンのキャラクターも加え、更には昔のアメリカの風俗状況も加わり、飽きさせない構成となっている。章立ても時々刻々と処刑までのカウントダウンとして設定され、緊迫感を与える。

 密室の謎解き、アリバイ崩し、論理的な予測による凶器の発見、犯人探しなどミステリーとしても盛り沢山である。

 ただ惜しむらくは古典的作品であるが故の、当時のアメリカの風潮が過剰に入っていることで、いわゆる「人種差別」的な要素も満載になっていることは指摘しておきたい。下働きをするキャラクターは漏れなく非アメリカ人(非白人)であり、暴力表現もそうした人間に与えられている。日本人もその例外ではない(比較的軽微だが、軽微だから良いというものでもない)。いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」の観点からは、完全アウトな作品であろう。

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【書評】ジョーン・ロビンソン「思い出のマーニー」(岩波少年文庫)–自らの中にある<過去>との対話による救済とは

  先日ジブリ映画を地上波放映していたのか、周囲で「思い出のマーニーが良かった。泣けた」という声を聞いた。さいきん精神的な疲労なのか、長めの動画を見るのが億劫になっている。特に序盤がきつい。小説だって似たようなものだと思うが、そうでもない。

 そんなこともあり購入はしていたが積読状態であったジョーン・ロビンソン「思い出のマーニー」(岩波少年文庫)、上下巻を読んでみた。翻訳は松野正子である。

 両親と祖母を亡くし養女として育てられた、心に大きな孤独感を抱える主人公アンナの心の中の問題が、海辺の村で出会ったマーニーという少女との「友情」によって解消されていく物語である。

 物語の舞台はイギリスの海辺の村、そして時代は原書の出版された1967年という設定である(のちに発見されるマーニーの日記は第一次世界大戦の期間、1914年から18年に書かれたことが示唆され、それを読んだミセス・リンゼーが”50年くらいは昔”のことと発言することから)。

 名作「トムは真夜中の庭で」のような時間SFチックな構造かと思いきや、ある種のファンタジーであった。主人公アンナ自身が、空想世界と現実世界を行き来するように、小説を読む地の文も”どちらが現実なのか”ということを定めないような記述をしているようだ。

 全37章からなるこの小説で、重要な登場人物であるマーニーは8章から21章まで”存在”する。1/3である。そして後半は、マーニーの日記の発見から、その存在の謎が明らかにされる。

 結局、アンナとマーニーは実際には何回”出会った”ことになるのか。アンナが両親を交通事故で亡くした後の短い期間、そして、この物語における海辺の村で「友情」を結ぶ期間の2回とするのが自然であろうか。ただ、いずれにせよ金髪の少女として現れたマーニーは、何を契機によってアンナと出会ったのであろうか。

 アンナが子供の頃ずっと見ていたとされる絵葉書の「しめっ地やしき」のイメージが、この土地に来たことで呼び起こされたと考えるべきであろうか。だが、ジプシーの花売り娘のエピソード、シーラベンダーを思い出すシーンは空想では解消できないと思われる。よって、この問題は物語の中で解消されていないのである。

 その一方で物語の主題であるアンナの心の中の孤独、寂しさが解消される重要なプロセスとして、マーニーとの以下のような会話が描かれる。

 アンナは、涙を流さずに、すすり泣きました。それから、怒りをこめて、つづけました。「あたしを、ひとりぼっちにして行ったから、おばあちゃんなんかきらい。あたしの世話をしてくれるために生きててくれなかったから、きらい。あたしをおいてきぼりにするなんて、ひどい。ぜったい、ぜったいゆるせない。おばあちゃんなんか、きらい」

「それはほんとにそうだけれど……」と、なぐさめるようにマーニーはいいました。

ジョーン・ロビンソン「思い出のマーニー」上巻、p.198

 この中盤での会話は、単純には友情的な少女同士のやり取りにすぎない。しかし、最終的に物語の最後まで読み進み改めてこの部分を眺めると、もう少し深い意味として解釈できることがわかる。

 いわば、本来解消できないはずの過去の事件の当事者と、本来できないはずの直接対峙をしているのである。

 それは我々が取り返せない経験として描かれる「後悔」のような経験を、救済する「奇跡」とも言える。

 金髪の少女として現れているマーニーは、アンナの心の中での対話であり、アンナの空想と解釈することが自然なのかもしれない。

 だが、あえてそのように描かれた対話は、何と対話したと言えるのか。

 それは、自らの中にあり、折り畳まれている歴史(生物としての歴史)との対話であり、それは現実における他者との体験と何ら相違がないということを示していると私は考える。

(補足)どうでもいいことだが、アンナが「アッケシソウの酢漬けを作るので、海辺にあるアッケシソウを積んでくる」という記述がある。アッケシソウは、塩生植物で、通常の植物は生息できない塩分が多い土壌において、むしろ成長できる。そして、その味わいは塩辛い、という海の近くに生きる人間にとって最適な植物でもあるのである。ぜひどこかのタイミングで食べてみたいと思っている。

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大河ドラマで盛り上がる明智光秀のご当地、滋賀県大津市の東海道名物「走り井餅」は”水滴の形?”それとも”刀の荒身”?

注意:本記事は過去のストック記事で、リアルタイムではないことを事前にお伝えしておきます。

 先日行った関西出張。滋賀県大津市付近で用事を済ませる。琵琶湖線「石山駅」に降りると、「明智光秀」ののぼりが。2020年大河ドラマ「麒麟がくる」に由来するキャンペーンである。

 用事を済ませそそくさと帰宅の準備を。新型コロナの影響で、火急の用事とはいえ出張に後めたさが残る。アルコール除菌シートなどのケアはしているつもりだが、などとこんなことを敢えて記述して言い訳しなくてはならない心理が働くのである。

 駅前の土産物屋で見つけた「走り井餅」である。”東海道名物”と謳っている。形が面白い大福である。

 ビニール包装の3個入りと箱入りの5個入りを購入し、帰りの新幹線で3個入りを食べてみた。

 形状が葉っぱのような形。これも由来が諸説ある模様。

 今回購入した「走り井餅本家」によると”ほとばしる水滴”の形とする。

この走り井餅の独特のかたちは、水量豊富な水の流れ、ほとばしる水滴を表したもので古来から東海道の大名物として全国に知られております。

走り井餅本家のHPより

 また別のメーカ「やわた走井餅老舗」よると、形状の由来は異なるようだ。

刀の荒身を模した独特の形は、平安時代に名を馳せた刀鍛冶・三條小鍛冶宗近が走井で名剣を鍛えたという故事にちなみ、剣難を逃れ、開運出世の縁起を担いだものと伝えられています

やわた走井餅老舗のHPより

 名称も「走り井餅」と「走井餅」。まさに本家と本舗の争いであろうか。

 まあそれはそれとして、もっちりとした餅とさっぱりした餡子は、普通の大福よりは遥かに美味いのであった。リピートしたくなった。

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立ち飲み屋探訪:蒲田駅「うおしゅらん」で本格焼酎とお造りで酒が進む

注意:本記事は過去のストック記事で、リアルタイムで訪問したものではないことを事前にお伝えしておきます。

 蒲田駅の東急線線路沿いの飲み屋街にある「うおしゅらん」へ入店。綺麗な店である。

 システムは後から一括方式。カウンターにはお惣菜も大皿で並んでいた。

 まずはハイボール390円。

 ツマミも結構創作系が並んでいるが、ここは名物、とメニューにある「お造り4点盛り」500円。大根のツマではなく、ワカメが添えてあるのが良い。

 本格焼酎もあるので、次の酒は”麦焼酎をソーダ割で”と頼むと、”すっきり系と香ばしい系どちらに?”と聞かれたので、”香ばしい系”をチョイス。宮崎の「麦麦 旭万年」(渡邊酒造場)が出てくる。うまい。

 続いてポテサラ250円。パンが添えてあり、リンゴの風味がある。

 「麦麦 旭万年」はしっかりとした麦の風味が良く、お代わりを重ねて、すっかりベロンベロンである。

 

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