我々の世界は本当に「循環経済」に向かうつもりなのだろうか?ただのポーズなのでは?–年末年始の牛乳消費呼びかけについて思った「個別最適」が大好きな人々のこと

 2021年の年末に少しだけニュースになった出来事があった。

 それは「年末年始に牛乳の消費量が下がるため、消費者ができるだけ消費してほしい」という呼びかけである。

 例えば、こんな記事もある。

 例えば「牛乳飲んで! 大臣が消費呼びかけ 生乳5000トン大量廃棄のおそれ」(FNNプライムオンライン/2021年12月17日)などである。

 その背景として上記サイトから引用する。

2021年は、夏場の気温が低く、牛の乳の出が良かったことで生乳の生産量が増える一方、感染拡大の影響で牛乳や乳製品の消費が落ち込んでいる。

保存がきくバターなどの加工品の製造もフル稼働で行われているものの、生乳をさばききれなくなっているという。

 これはこれで一つのナマモノの生産-消費の問題であろう。もっと言えばサプライチェーンにおいてボトルネックが存在することを示唆している。

 上記の報道に関連して複数のサイトなどで「保存の効くもの(例:バターやヨーグルト)の生産を増やせないのか」という指摘もある。これはこれで単純にはそうだが、実際にはサプライチェーンの問題なのでできない事情もあるのだろうな、と思っていた。

 この問題はフードロスなどの課題や、もっと端的には「もったいない」という感情的な問題も孕んでおり、そう簡単にはスッキリしていないようだ。

 やはり業界団体からは、こうした批判を避ける意味でも、反論記事が出ている。

 例えば「「余った生乳5000トンはバターにすれば廃棄せずに済むのに」乳業業界の回答とは?」「生乳5000トン廃棄問題、「みんなで飲む」より根本的な解決法とは」などである。

 既存サプライチェーンの処理量増加には諸問題がある(設備投資やリードタイム)ので、十分対策は打った上で、消費を増やして欲しい、というお願いなんですよ、という「説明」である。これはこれで事情としては理解はできる。

 ただ、それでもなお、私自身は釈然としないものがある。

 つまりこれらの主張全てに通じて言えることは、いわゆる「循環経済」の思考が欠落しており、部分最適な主張に止まっているということである。先進的なEUの動きを受けて、日本でもようやく「循環経済」が推進されている。これは、従来の大量生産、大量消費の一方向(動脈生産と言われる)な生産ー消費だけでなく、還流側(リサイクル、リユースなど)の思考を入れた静脈生産を実現する、というものである。日本でも経済産業省が「循環経済ビジョン2020」でこうした新たな産業の転換を提唱している。

 これをサプライチェーンに置き換えると、循環的なサプライチェーンにおいて、エネルギー最小化(=持続性を最大化)した制約条件の下で、最適化を動的に行うこと、と理解できる。要するに、これすなわち「スマート社会の実現」であろう。これはエモーショナルな「もったいない」ではなく、持続性を最大化するために、全体最適解を実行する、ということに他ならない。

 しかしながら、この牛乳廃棄をめぐる主張にはこうした意思とは全く逆行したものばかりが横行しているように思える。

 「もったいないので牛乳を飲んでくれ」という、特定商品について消費者に扇動的な形で負荷を押し付けるようなメッセージや、「業界は全てやることをやっている」という個別最適を実行したら責任がなくなるかのような自分本位の思考。さらには「牛乳の他の用途を考えるべき」みたいな消費拡大に全てを押し付ける単純思考。

 もしも「循環経済」を本当に実現したい、と考えるのであれば「全体最適解」を探すべきであり、そうした論調が見られないことに不思議な思いにとらわれている。

 特定商品の消費を、その都度の理由で扇動的にメッセージする意味は、今後も同様な事例においても同じことを繰り返すことを意味している。「〇〇が余ったので、今度はこれを消費してくれ」「次はこれ」といった、消費者を消費する機能としてしか使役しない感情すら垣間見える。

 業界団体は「自分たちは120%努力しているので、これ以上何をしろと?」という論調のみである。

 要するに当事者意識不在の状況の中で、一番単純な「消費」に全ての調整弁を押し付けるようなこの動き自体は、「循環経済」とは真っ向から矛盾していると思う。全体最適解は確かに苦しいことではある。感情論とは全く異なる解が最適である可能性もあるのだ。だが、それこそが、単なる「もったいない」からより高次な「持続性」へと探求する道筋であろう。

 こうした分裂的な主張が横行する中で、果たして我々は「循環経済」に向けて動けるのか、これは所詮ポーズにしか過ぎないのか?

 そもそも「循環経済」ということを目指していない、としてくれるならまだ納得もできるが、そうではないらしい。

 非常に暗い気持ちになるニュースであった。

 

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【書評】秦郁彦「昭和天皇五つの決断」–天皇制のもつ二重性とその対立について

 秦郁彦「昭和天皇五つの決断」(文春文庫)を読んだ。

 大日本帝国憲法と日本国憲法、皇国史観と民主主義、2つの大きな時代とその転換点を、その中心として活動した昭和天皇の「決断」についての論考である。

 大日本帝国憲法では国政や軍事の最終決定権は”元首”たる天皇にあった。しかし、国務大臣の輔弼を必要とした制限がかかっていた。また戦後の日本国憲法では「象徴」という存在として規定されている。

 いずれにしても天皇としての行動には一定の制限はあったことになる。しかしながら、様々な局面において天皇自身が政治的に行動し、決断する場面が存在したとする。

 それが本書で描かれた5つの場面であり、これは二・二六事件、終戦、新憲法、退位中止、講和をさす。

 いずれも日本という近代国家の存亡において高度な政治的行動・交渉・意思決定が必要な場面であり、天皇自身が判断する必要があった局面ともいえる。

 本書でも描かれ、また他の史実でも明らかなように、昭和天皇自身の「意思」が、常に国家の意思と同期・等価であったことはなかった。そして、いくつかの局面では、ある勢力と鋭く「対立」したことが知られている。

 何と対立したのか。

 代表的には、2つの立場−「皇国史観」および「共産主義」−との対立であろう。両者はそれ自体相反する要素をもち、それぞれが天皇および天皇制と鋭く対立する宿命を持っていた。

 皇国史観は、「国体」なる概念によって明治維新後の近代日本の国家統一イデオロギーとして機能した。しかし、その概念を先鋭化させていくと、次第に本来同伴かつ補完しあうはずの天皇自体から離れていくことになる。

 それが「君側の奸」へのテロリズムとして現れたのが、二・二六事件や宮城事件といった日本におけるクーデター未遂事件である。ここでは、個人としての天皇(の意思)を否定し、それを乗り越えるようとする動きが見える。

 つまり、概念としての「大御心」=「万世一系の天皇」という思想的シンボルの究極化において、個人としての昭和天皇すらも優越すると”論理的に”帰結されるのである。より理想化した「天皇」というイメージによって、元首=政治家=近代的個人としての「天皇」を乗り越えようとするかのようである。それは元々、同じ思想から生まれたはずなのに。

 これは極論ではなく、終戦判断においても皇国史観の提唱者・平泉澄や首相の東條英機(二・二六事件を主導した皇道派に対抗する統制派であったにもかかわらず)、軍人であれば大西瀧治郎など、こうしたインサイダーですら、天皇個人の意思を強いて変更するという行為を、国体維持の目的のもとで正当化しているのである。

 また「共産主義」は、その思想自体が天皇制とは本質的に対立することと同時に、広義の”貧富是正”あるいは”平等実現”という理想主義(その実現手段として暴力的革命を前提)として原理的に捉えると、農村の貧困を背景とした青年士官を中心とする陸軍皇道派の意識に通底していたと思われる。これもまた二・二六事件の背景であったと思われ、その収拾において昭和天皇が明確に彼らを否定したことは、本書でも描かれた歴史的な事実である。

 こうした天皇および天皇制と対立する、まさに近代そのものの「概念」(皇国史観と共産主義)がある一方で、天皇制自体についてはどのような構造であったのか。

 終戦判断の際には、昭和天皇自身が「国家元首あるいは大元帥としての天皇」と「神器を司る神職の頂点としての天皇」の2つの立場の間で、逡巡していたと思われる。つまり、天皇制の中にも2つの矛盾する側面が存在し、天皇個人として内部対立していた。天皇制はこのギリギリの局面において、内部と外部の二重の対立構造があったといえる。

 それは近代日本の政治的リーダーと神職・祭主としての宗教的リーダーの二重性と言い換えることもできる。

 この2つの側面が、昭和天皇の人格の中にあった。

 「宗教的」という部分を補足しておくと、より自然宗教的な原始的形態を指す。日本人が、初詣に行き、神社で祈る。その際に心の中で唱える「神様」のイメージである。これは教義や戒律などで規定される「宗教」のイメージではなく、むしろ我々の生活に即したものである。あるいは夏祭りに集まる村の鎮守様のような、生活に即した小規模の緩やかな「神様」のイメージの集合体のようなものである。天皇へのイメージには、この「村の神様」が集合した、その頂点としての性格があるのではないか。

 それが故に、本書の第四章において敗戦後の占領下において、その地位が危ぶまれていた昭和天皇に対して、庶民からその地位を守る多くの声(GHQへの投書)につながったといえる。この庶民の肉声–天皇への一体感は、占領軍の意思決定に一定の効果があったと著者は指摘する。

 そして、こうした自然宗教は、決して近代国家制度の中に組み込まれることはない。歴史的にも先に存在したものであり、より広い時間空間的構造の中で普遍的に存在する上位概念であろう。

 本書で描かれた決断の中で生まれた「対立」は、こうした観点から、より普遍的な要素により勝者が決まったといえる。

 皇国史観や共産主義は、ある一時代に現れた近代的なイデオロギーであり、自然宗教のもつ時間的空間的な普遍性に対して優越はできないという必然的な結果であった。

 現代の象徴(すなわちシンボル)としての天皇制は、その意味ではより両者の対立が弱まっているようだ。本書でも以下のような記述がある。いわば「象徴」の方が座りが良いとも解釈できる。

むしろ長い天皇家の歴史から見れば、明治以後の天皇制のあり方は例外で、世俗的な権力と富から超越する位置を占めた時期の方がはるかに長かった。そして、それこそ天皇家が細々ながら万世一系の血統を保って生きのびることができた秘密でもあった。

天皇家の人々は、こうした歴史的事情をよく知っていた。だからこそ敗戦の直後にあわてふためく女官たちへ、貞明皇太后が「皇室が明治維新の前に戻るだけのことでしょう」とさらりと言ってのけたのであろう。

秦郁彦「昭和天皇五つの決断」(文春文庫)p.250

 象徴という規定によって、この「対立」は一時的な折り合いがついているように見える。

 しかし、天皇制に内包されたこの2つの側面、自然宗教(神器・伝統)と近代国家(個人)との対立は依然として解消されたとは言い難く、まだふと何かの折に、先鋭的な対立として顕在化する可能性を秘めていると思われる。

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町田市立自由民権資料館「町田の民権家たち」を見て、明治初期の日本人の、同調圧力に負けないエネルギーに感服する

 マイナーな(失礼)地元の資料館「町田市立自由民権資料館」の企画展「町田の民権家たち」展示を見てきた。

 入場無料で、あまり期待はしていなかったが、なかなか面白い展示であった。

 三多摩地区出身でもあり、小学校の授業などで地元の歴史学習として自由民権運動の情報はそこそこあったのだが、改めて明治初期の日本人の「熱気」を感じることができたのである。

 明治維新後の、政治体制としての近代国家に変化、それと同期して経済システムとしては資本主義への変化が行われていく状況下で、社会変革のために当時の日本人は極めて熱い情熱で議論を闘わしている。

 この展示でもあったように、建白書を作り、同志を集め結社・政党・メディアを作り、演説会を開き意見を表明する。そして、過激な場合によっては社会騒乱事件なども起こす。

 時代の大きな構造変化に対する民衆のエネルギーの発現といえば、それまでなのだが、一応豊かになった現代の我々の中に存在する集団同調圧力とは異なり、一人一人が明確に「意見」を述べている。むしろこの時代の日本人の方がシャイではないように思える。

 もちろんこうした人物たちが資本力のあった一部の比較的高い階層を中心としていたことも事実であろうが、それでもなお、現代の我々が実名で明示的に、同調圧力に屈せず意見を表明することに大きな抵抗があることを考えると、複雑な思いをもつ。

(おまけ)関連人物として北村透谷の展示もあり、古本界隈での掘出もの事件の代表例として有名な「楚囚之詩」の複製が展示されていた。

 「楚囚之詩」は日本に4冊しかない、と言われていた希覯本(紀田順一郎「古書街を歩く」p.58)である。紀田によれば、1967年の古書即売会で80万円という値がついたという高価本でもある。

 複製といってもこの提示物は、北村透谷が町田市の友人(八木虎之助)に謹呈したもので、表紙に北村透谷の自筆の「呈進」が記載されているというもの。展示は複製であろうが、自筆の追記があるのはまさしく原本が存在するのであろう。

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私が一番好きな田中角栄のエピソード:田中角栄「(本人を目の前にして)ヨオッ、幻の山崎首班!」→二階堂進「(血が逆流するような激しい怒り)」

 田中角栄という政治家は戦後日本を代表する政治家であった。 

 アジア的な権力者としてのスケールの大きさと同時に、綴密な施政者としての実行力も合わせ持つ、稀有な才能の持ち主であったと思う。 

 田中角栄の様々なエピソードも結構世の中に広がっており、すでに虚実混在して、古典的な小話のような趣すらある。 

 豪快なカネばらまきと庶民の心情の機微を良く理解した気配り。 

 計算能力と想像力、そして実行力。 

 まだまだその全貌を理解しきれない巨大な山脈である。 

 その一方で、惜しげもなくカネを渡すなど、現代のコンプライアンス観点からすれば、田中角栄の政治手法がそのまま通用できないことも事実である。 

 盆暮に官僚に金品をばらまく行為など、現代では内部告発されて一発アウトであろう。 

 このコンブライアンス全盛時代に田中角栄は現れないのか、現れても力を発揮できないのか、ということは常々疑問ではあった。 

 そこで、”昭和の角栄的なもの”をコンブラアイアンス全盛時代に発揮しようとすると、カネの代わりに”形のない価値のあるものをばらまく”ことしかない。

 それはイメージや雰囲気といった無形なものを大衆にばらまく「ポピュリズム」そのものであり、いわばこの現代の政治状況とは、”昭和の角栄的なもの”を否定した結果として正当に導出されたものであるということもできる。 

 カネがらみの田中角栄の”義理と人情”チックなエピソードは既に色々な書物にあり、それ自体が政治家アネクドートとなっており、もはや真偽すら定かでない。 

 そんな中で、私がもっとも好きなエピソードは「二階堂擁立劇」の際に、田中が二階堂進(当時自民党副総裁)本人に放った一言である。これは後述の通り、本人が直接回想録で証言しているので、事実であろう。

 少し前後の経緯から説明すると、1976年のロッキード事件で逮捕・起訴された田中角栄は自民党を離党する。ただしその影響力は維持どころか拡大し、その後もキングメーカー・闇将軍として隠然たる権力をもっていた。 

 三木以降の大平正芳内閣・鈴木善幸内閣・中曽根康弘内閣は、いずれも田中の強い影響力下にあった。 そして自身の復権を望む田中角栄は、自派閥である田中派からの後継総理候補を出さずにいた。自身が無罪判決を勝ち取り、再度の首相登板を望んでいたからだと言われている。

 政治権力を維持するために膨張策をとる最大派閥・田中派が、政治的な後継者を指名しないことは組織内部に矛盾を抱えつつあった。自派閥から総理総裁の後継候補を出さないことによる、派内の不満が、のちの竹下・金丸による創政会・経世会の立上げにつながり、そのストレスからか田中も脳梗塞に倒れてしまう。 

 その前後にあった政治ドラマが「二階堂擁立構想」なのである。 

 二階堂進は鹿児島県を地盤とする政治家で、田中派のNo.2にあった実力者である。

 田中も後継を狙う竹下らの動きをけん制する意味で、敢えて竹下を外した後継として「二階堂、江崎、後藤田」をあげている。

 「二階堂擁立構想」とは、1984年の中曽根の再選を阻止すべく、反主流派の福田・鈴木・三木が、野党もまじえて田中派のNo.2二階堂進(当時副総裁)を首相候補として担ぎ出そうとした政治抗争である。 

 この構想は、自己の影響力を維持することを目的とした田中の中曽根再選意思が固く、田中の支持を得られない二階堂は担がれることを断念する。 

 一種のクーデター未遂のように見えるが、二階堂進の回想やその後の二階堂自身の行動を見ても、田中に反旗を翻すという意図は小さかったといわれる。それどころか、むしろ田中への尊敬、忠誠心は明確であり、二階堂なりの田中や自民党のことを考えた筋の通った誠実な行動であったとすら思える。 

 そうした薩摩出身の一本気な二階堂と田中が、終盤に直接対話する場面がある。 

 そこで、自分のことを本気で考えてくれた”大番頭”に向かって、当の田中が放ったひとことがすごい。 

 「ヨオッ!幻の山崎首班!」 

 子供がからかいはやしたてるようなこの無神経な一言に二階堂は激怒する。そして田中と喧嘩になったといわれている。

 それはそうであろう。 

 当人にとっては、自民党の副総裁の立場と田中派の大番頭の二つの立場に引き裂かれた末に、この身を犠牲にして親分を守り、閉塞した政治状況を打開しようとした行動なのであり、あくまで田中に筋を通そうとしているにもかかわらず、太平洋戦争終戦後すぐの同様の例で、GHQの横やりで幻の首相となった山崎猛になぞられたら、たまったものではない。 

 ”お前さんはピエロだ”と言われているようなものなのである。

 冗談にも程がある、というか。

 二階堂の回想録「蘭は幽山にあり 二階堂進聞書」より引用すると、 

 田中さんは事務所で待っていた。そしていきなり「ヨオッ!幻の山崎首班!」 と冷やかすように叫んだ。そのひとことに血が逆流するような激しい怒りを覚えた。 

馬場周一郎「蘭は幽山にあり 二階堂進聞書」(西日本新聞社)p.204

 二階堂、ブチ切れである。

 これは想像だが、田中は、この無神経な発言を満面の笑みでご機嫌に言い放っていそうで、怖いのだ。

 そんなことを言われた二階堂の怒りも本物のはずで、第三者から見てもそりゃ怒るだろう、という場面である。 

 ただ、この場面、何回思い出しても笑ってしまう。 

 二階堂には申し訳ないが、この田中の稚気、無邪気さ、無神経さが、非常に良い味を出している。

 自分のことを考え、様々な人間が動き回り、そして結果的に自分や国家のことを思っている味方に対して、事件の構図が面白いからという理由だけで「幻の山崎首班!」と言いたくなって、それを抑えられずに開口一番、本人を目の前にして、やっぱり言ってしまうという素直な人間性。

 しかも自分のもっとも身近なNo.2の存在に対して言い放つ無神経さ。 

 だが、その二階堂じしんも議員引退後に残した前掲書でも、そんな激烈な怒りを表明しておきながら、田中への尊敬は一貫して揺らいでいないのである。

 田中の無垢の人間性が出たすばらしいエピソードだと思う。 

 石原慎太郎「天才」(幻冬舎)では、これを鈴木善幸に対して発言したように記述しているが、本人である二階堂が証言しているように、これは本人に思いっきりぶつけているのである。

 石原慎太郎が「天才」で”憑依して”語る田中角栄は、やはり石原のもつインテリジェンスに削ぎ取られ、極めて達観された観点で語られてしまっている。

 石原の描く田中角栄像は、残念ながら田中角栄のもつ一面、氷山の一角に過ぎないと思わせる。

 この「天才」の読後感にもつ不思議な欠落感、何か言い切れていなさ、歯痒さの意味とは、田中のこうした恐るべきパーソナリティは石原のもつインテリジェンスの側面からは決して還元できない複雑な要素、すなわち<根源的な大衆性>を有していたことによるものと思わせる。

 保坂正康「続 昭和の怪物七つの謎」(講談社現代新書)において、”田中角栄は自覚せざる社会主義者であった”という刺激的な仮説がある。

 これは田中の人間性を語る意味で、非常に重要な指摘であった。

 首相時代の田中による内奏後に、あの昭和天皇が茫然として混乱していた、というエピソードである。通常は形式的・儀礼的なやりとりになるはずの内奏で、田中は、選挙民=庶民にそうするように昭和天皇に対しても、いつものパターンで”演説をぶっていた”節があるのだ。

 この意味で、田中角栄は、明治以降の近代天皇制の呪縛からも自由になったおそらく初の政治家ともいえ、その存在感は今なお際立つのである。 

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町内会の祭りは無くなり、広場の除草作業も無くなり、共同作業がなくなって楽になりそうだと思いつつ、このままだと断絶による経験知の承継問題が顕在化しそうな一抹の不安がある

 新型コロナ感染防止のための緊急事態宣言は終わったものの、まだ状況は不透明である。

 町内会も、なんだか活動自体が不透明で先が見えない状態に陥っているようで、こうした小規模の自治活動を、コロナ後にどうすべきか誰もスタンスが掴めていないような雰囲気になっている。

 月一恒例であった町内広場の除草作業も、おそらく密度問題により中止、その結果、広場はクローバーが群生している。まあ、これはこれで生物的には(蜜蜂とか)いいのかもしれない。

 そして本日、回覧板で「夏祭りの中止」の連絡も回ってきた。

 別に我々の町内会だけが祭りを中止したわけではない。周辺の町内会も同様なのである。また、密接な地域の神社の例大祭も同様に中止になっている。

 やむを得ないのは理解できるのでこの判断には文句はない。

 ただ、こうしてコロナ前後で日常活動が変化する、その際に、継承できない経験知のようなものがありそうで、これらを取りこぼしてしまう不安がある。

 個人的には高齢化の中で町内会活動は”茹でガエル”状態になっていると思ってきた。

 活動の”引き算”が必要だが、なかなか実際問題、恒例行事をやめることは難しい。

 特に理由としてリソース問題だと尚更である。

 ”頑張れ”みたいな精神論が出てきて、結局、真綿で首を締めていくような”茹でガエル状態”になってしまう。

 今回のケースは、結果としてこれまでできなかった活動の”引き算”が、コロナという外的要因によって達成できたことになる。

 特に高齢者への影響が大きく、彼らが当事者になったことが大きかったであろう。

 従来のケースでは、高齢者はむしろ当事者ではなかったが故に、”従来はできたものをやめるのはどうか。自分たちの世代ではできた”のような言説が一定の発言力を持っていたのだ。

 原因は原因としてさておき、集団で集まるような活動が制限され、過剰気味だった活動が低減される。

 めでたしめでたし・・・なのであろうか。

 今後、こうした町内会レベルであるものの発生する「リスク」(それは例えば、町内会所有の物品の老朽化、回収などもあるだろうし、予算自体の見直しもあるだろう)に対する、過去の経験知が生かせなくなるような、ここで大きな断絶が起こりそうな予感をしている。

 その承継を考える必要があるのではないか。

 アフターコロナにおいては、人々が集合することへの配慮が発生する。それは自治会活動の延長に位置する「政治」の世界も同様であろう。

 こうした地域の集まりに選挙活動として顔を出すことも機会そのものが少なくなる。そうすると従来の政治手法である”ドブ板選挙”ではなく、リモートでのドブ板選挙になるであろう(”ドブ板”という概念がなくなるわけではない)。

 そこにも「断絶」が生まれるはずだ。

 こうした生まれた社会的な断絶が、今後ゆっくりとした時定数で、我々の社会に痕跡を残すであろう。

 行動様式の変容に続く「断絶」。

 それに伴う、もう一つの「変化」。我々の社会に何らかの変化を生み出すと思われる。新型コロナの影響によって、我々の社会の継続性に傷痕を残されたという実感がある。

 そうしたことを思った夏祭りの中止の報であった。

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【書評】半藤一利他「昭和陸海軍の失敗 彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか」(文春新書)にみる日本的な組織がおちいる陥穽

 「昭和陸海軍の失敗 彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか」(文春新書)を読んだ(文中敬称略)。

 文藝春秋に2007年に掲載された座談会を元に編集されたもので、参加者は、半藤一利、秦郁彦、平間洋一、保坂政康、黒野耐、戸髙一成、戸部良一、福田和也である。昭和史研究家(半藤、秦、保坂、福田)、軍事研究家(平間、戸髙、黒野)そして「失敗の本質」の著者のひとり戸部が加わっており、なかなか重厚なメンツである。

 第一部「昭和の陸軍 日本型組織の失敗」、そして、第二部「昭和の海軍 エリート集団の栄光と失墜」の二部構成からなっている。

 いずれも明治維新の勝者である長州・薩摩などの藩閥から脱却し、高等教育機関である陸軍大学校、海軍兵学校卒のエリート教育を整備しつつ近代的な組織を作り上げたはずの陸軍・海軍が、失敗の連続により1945年の敗戦を迎える。

 陸軍は藩閥人事から民主的な組織への転換に成功したともいえるが、そこには大きな別の派閥抗争(皇道派と統制派の対立)を残した。そしてこの抗争の果てに開戦時の人材として、優秀な能吏であるが、一国の指導者としては”狭い”タイプである東條英機を迎えざるを得なかった。

 陸大エリート達は政治・経済の視野が”狭い”という指摘がなされる。その理由としては陸大は本質的に参謀教育であり、指導者としての教育機関ではなかったことが挙げられている。また、参謀の暴走を許す組織的な欠陥も抱えていたとする。

 こうした状況下で「昭和の陸軍は、持久戦をやるのか、短期決戦でいくのかという戦争を基本的なポリシーを確立しないまま、昭和十六年の開戦へなだれこんでしまった。そのため戦争の末期にいたっても、玉砕覚悟の突撃と、栗林(引用者注:硫黄島の戦いの指揮官であり名将としての評価がある)のように耐えて相手の出血を強要するという戦術が混在している。これは陸軍の作戦指導が一貫していなかったことを意味しています」(p.78 黒野の発言)とされる悲劇を生んだ。

 陸軍は200万人の人間を抱え徴兵制のもとで男性は皆そこに属する可能性のある巨大な組織であった。こうした組織が藩閥人事を脱却して民主的運営を意図したが、官僚的なエリートによって結果的に道を誤らせてしまう。

 戸部は「昭和の軍隊の逆説」(p.24)と呼び、福田は「デモクラシーの軍隊が抱える矛盾を、昭和の陸軍は最後まで克服できなかった」(p.25)と指摘している。

昭和の軍隊の逆説かもしれませんね。軍隊は、その将校の出身階層が民主的になると政治的になる、という説もあるくらいです。平民出身の将校ほど天皇を持ち出して、独善的にあらぬ方向に進んでいくような印象もある。

半藤一利他「昭和陸海軍の失敗 彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか」(文春新書)p.24 戸部の発言

 一方より小規模であった海軍はどうだったのか。

 陸軍と比較して小規模な組織であったが、いわゆる将校と一般兵の間の待遇差は大きく、文化としても大きく異なっていた。陸軍が民主主義的な性質を持っていたことと対照的に、海軍は階級制に基づくエリート主義が強かった。

 また日露戦争におけるバルチック艦隊撃破などの「成功体験」の過剰な評価や、そうした実践経験に基づく長老支配などが人事制度にあり、内輪意識になってしまい結果的に年功序列・内部の論理優先となったとする。

 また海軍は人員規模に比較して、戦艦をはじめとする物資などが必要であり、相応の予算を必要とする。こうした予算獲得において、陸軍と常に対抗してきた。

 いわば、過去の成功体験に縛られ、仲間意識の強い小規模な組織のため、人材の多様性が少なく硬直した人事システムになり、本来協力するべき陸軍への対抗意識(エリート意識)を常に持った組織であった。

 こうした過去の成功体験に縛られ、それに従って内部の論理が強くなることは、本書で指摘されているように、現代の会社組織などでも見受けられる。

 東郷平八郎のような”神格化された長老”や、伏見宮のような”人事権を持つ名誉職”などの例を、我々は今ここにあっても容易に想像もできてしまう。

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【書評】岡崎守恭「自民党秘史 過ぎ去りし政治家の面影」”調整型”政治家の裏の一面にある”凄み”

 岡崎守恭「自民党秘史 過ぎ去りし政治家の面影」(講談社現代新書)を読んだ。著者は元日経の政治部長を勤めた政治記者であり、55年体制の頃の自民党の政治家たちの”エグい”エピソードを収録している(文中敬称略)。

 田中角栄は別格として、ここで描かれる政治家たちは、私見であるが、3種類に分類できるように思える。

 リーダーシップ型、孤高型、調整型である。

 リーダーシップ型は、アクが強く自己主張が強いタイプであり、中曽根康弘、そしてその”ライバル”山中貞則、橋本龍太郎、原健三郎、宮澤喜一など。

 孤高型とは、高い教養や苦労経験などをバックボーンに自己抑制が強いタイプであるが、えてして政治の世界ではスケープゴートとして”泥を被らされる”役割が多い。自己抑制が強いので、その場合でもことさらに自己弁護をしない、あるいは他人を道連れにしないため、結果的に失意で沈黙するようなケースが多そうである。宇野宗佑、藤波孝雄、加藤紘一など。

 そして調整型とは、いわゆる寝技師でありフィクサーである。いわゆる党人派的な派閥のドンのようなタイプ。やはりここが長期に政権を維持してきた自民党の中でも人材が豊富に思える。田中六助、金丸信、小渕恵三、森喜朗、そして竹下登である。

 調整型タイプは竹下がそう言っていたように”汗は自分でかきましょう、手柄は人にあげましょう”といった人に尽くすような、低姿勢な人格であるような印象がある。しかし、実際は必ずしもそうでないような印象もあった(関連記事:竹下登のズンドコ節は何かリズムがおかしい)。

 本書でも、こうした調整型の政治家の代表格である竹下登と小渕恵三の”恨み”が述べられており、こうした政治家の「実力」というか”凄み”を感じさせる。

 ”怒らない政治家”として有名な竹下登、小渕恵三であるが、必ずしもそうではなく、心の奥底で深く”恨み”を蓄積するタイプであるとする。以下に引用してみる。

「人柄の小渕」は人口に膾炙している。

 その気配りは師匠の竹下登氏譲りだと言われる。が、竹下氏も小渕恵三氏も何でも水に流し、すぐに人を許すという意味では「人柄」は必ずしもよくなかった。

 むしろ深い恨みをずっと胸に秘めるタイプだった。

 ただ怒りを決して表には出さない。声を荒げたり、人を面罵したりはしない。

 竹下氏の場合、最大の怒りの表現はおしぼりを絞る格好をして、「あいつはキュッだな」とやることだった。(中略)、「一生、あいつは許さない」「生涯かけて成敗する」という意味なのである。

岡崎守恭「自民党秘史 過ぎ去りし政治家の面影」(講談社現代新書)p.73

 軽い口調、ジェスチャーであるが、あの竹下から繰り出される「キュッ」は、逆に恐怖がある。どこまでも許さないような凄み、そして、怖さを感じるのである。

 その竹下登が「キュッ」とした人物とは、具体的には誰か。

 著者は、竹下内閣時代のリクルート事件に襲われていた際の平成元年予算案採決に自民党から欠席した河野洋平であるとする。

 河野洋平は、自民党下野時代の自民党総裁は許されたが、政権に復帰した際に村山富市から総理を禅譲されることはできなかった。竹下登の意を汲んだ経世会の意向が河野総理を阻止したとされている。

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【書評】半藤一利「指揮官と参謀 コンビの研究」人と人の化学反応による組織的行動、そして人材マネジメントにおける”失敗の本質”

 半藤一利「指揮官と参謀 コンビの研究」(文春文庫)を読んだ。14組の指揮官と参謀の組合せと、それによる組織的行動の”失敗”を系時的に描くことにより、昭和初期の満州事変から太平洋戦争敗北に至る日本という”組織”の課題を「人事マネジメント」の側面から描いた名著である。

 個人が集まり、組織として行動することによって集団的・組織的行動を行い、組織としてのアウトプット(成果)を生み出す。そこには統制があり、状況判断と意思決定がある。

 組織論としては、最上位にリーダー=最高権力者である「司令官」が存在し、リーダーの意思決定を補佐する「参謀」と言うスタッフ的な存在がある。

 これは多くの組織において普遍的に存在するであろう。

 そして、その「司令官」と「参謀」の組合せによって、組織としてのアウトプット(成果)は大きく左右され、プロジェクトの成功・失敗を決定づける要因になる。

 本書で掲げられるプロジェクトの歴史的実例とは”戦争”であり、人間の生命や国家という巨大な存在そのものを左右する、重く大きなプロジェクトである。

 一人の人間としても「司令官」と「参謀」の特性を併せ持つ人格というものは、殆どいない。結果的に、それぞれの適性を有したものが人事マネジメントの決定結果として組織に配置され、相互補完的な関係となる。

 こうした「司令官」と「参謀」の組合せが悪い化学反応を及ぼすと、組織的行動の停滞や誤謬を生み出すことになる。本書では、こうした実例を挙げており、組織論として非常に有効な書籍である。

 いくつか概要をまとめてみた(文中敬称略)。

「板垣征四郎と石原莞爾」

 提案力に優れているが実行力に欠ける参謀(石原)と、粘り強い実行力・説得力を持った司令官(板垣)のタッグが、極めて細い成功確率を持ったラインを綱渡り的に維持し、時には挫折しながらも、「満洲事変」といういわば「軍部による独走の追証」(=一時的に統制を逸脱しても、最終的に大功を得られれば、それは遡及的に軍人としての栄誉になる)を認めさせた先駆としての前例を歴史的に作ってゆく様が描かれる。

「永田鉄山と小畑敏四郎」

 上下関係というより元々陸軍同期で、ともに理想を掲げた同志であった二人が、「統制派」と「皇道派」という陸軍を二分する派閥に分裂し、相沢事件(永田の暗殺)および2・26事件(皇道派の一掃)を経て、統制派である東條英機に権力を与えるまでの争いが描かれる。

 これも思想的には、皇道派が対ソ強硬論(対中、対米英は事を構えず)であり、統制派が対中強硬論(対中一撃論)という軍事作戦上、および国際戦略思想上の先鋭的な対立が背景にあった。

 そして、陸軍の人材マネジメントそのものが、”同じ山に性格の異なった虎を放つ”というような対立を煽るような人事を行うのである。

 いわば、この対立が、最終的に陸軍の主導権を握った統制派(対中一撃論)=東條陸軍の主導により、想定外の持久戦となる対中国戦争の泥沼に引き摺り込まれた出発点とも言える。

「河辺正三と牟田口廉也」

 有名な失敗例である「インパール作戦」において、既に歴史家から多くの非難を受けている”愚将”牟田口廉也だけでなく、現場主義で野戦志向であった牟田口の上官として”エリート”河辺が、牟田口の独走に対して如何なる掣肘も指導もできず、ただ傍観するのみであった状態が描かれる。

 そして、両者は敗戦の中で、責任を互いに持ち合う(あるいは相手に押し付け合う)補完関係という、やるせない平衡を作り出している。

「服部卓四郎と辻政信」

 前述の板垣と石原の例と類似し、個人としての作戦能力は卓越しているが組織的行動が苦手であった参謀(辻)に対して、歯止め役であり官僚的能吏として優秀な司令官(服部)が組合わされたことにより、満州事変と同じく関東軍による現場での独走(フロントライン・シンドローム)を生み、ノモンハン事件を拡大させてゆく。

 一度はその責任により左遷される二人であるが、”不可解な人事”により、再び陸軍中央(参謀本部作戦課)に戻る。そして、再びその最強硬論をリードし、対米開戦判断をさせるに至る。

「岡敬純と石川信正」

 海軍の対米強硬論・開戦論をリードしたコンビである。

 ロンドン軍縮条約における、海軍内の条約派(米内光政、山本五十六、井上成美)と艦隊派(伏見宮博恭王、加藤寛治、末次信正、岡、石川)との対立の中で、米内・山本・井上ラインに政治的に”勝利”し、陸軍と海軍が史上最も協調した状態を生み出していた。

 つまり、開戦に反対していたという後世の評価がある日本海軍も、この当時において独自の対米強硬論を持ち、対米開戦にむけて積極的に工作をしていた事実が指摘される。

 それをリードしたのが、策士・寝技師(岡)と軍事だけでなく政財界に広い情報網を持つ理論家(石川)のコンビであったとする。

「東條英機と嶋田繁太郎」

 太平洋戦争の東條内閣を支えた陸軍(東条)と海軍(嶋田)の代表であり、両者ともに戦犯となった有名な二人のコンビについて述べている。

 どちらも軍人の資質としては、能吏型であり官僚としての事務処理能力が極めて優れていた。

 コンビとして性格も補完的であり、敗戦濃厚の中、陸軍と海軍の対立が深まる状況下でも、両者は強い責任感を持って戦争継続(すなわち内閣存続)のために最後まで協力しあっている。

 そして彼らに共通しているのは天皇への敬愛であり、同時に昭和天皇からの信任も厚かったことが知られている。

 昭和天皇の東條への評価は良く知られているが、”東條の男メカケ”とまで軽蔑された嶋田への昭和天皇の評価は非常に高く、終戦後でもその評価は些かも揺らいでいないのである。

 彼らはまず第一に、物事を忠実かつ高速に処理する事務屋として、形式主義・精神主義、言い換えると「一度決めた形式に拘る真面目さ」が過剰なまでに優れていた。これは当初の戦争の目的に従い、その遂行のために最後まで努力する熱心さでもあり、そこに通底するのは天皇への忠実さ、そして強い責任感とも言える。

 それは非常にシンプルであり、プリミティブな行動様式であり、それであるが故に昭和天皇からの信任が不動であったのであろう。その一方で、戦略に消費するリソースとしての「国民の生命」や、昭和天皇が恐れた「国体」のために、この戦争そのものの遂行目的に根源的に立ち返ってその行方を判断するという選択肢は二人の中には存在せず、東條内閣と命運を共にするしかなかったと言える。

人材マネジメントの功罪

 こうしたコンビの例を見るように、やはり組織的行動のためには個人としての能力だけでなく、それを活かす環境や人間関係が重要であり、これがうまく噛み合うと、大きな組織的なアウトプット(成果)を生み出すことがわかる。

 当然のことながら、悪い方向に噛み合うと、その成果もこうした失敗に至る。

 これらは「結果論」という言い方もできる。後から好きなように言える。それは確かにその通りである。

 本書では、昭和史における失敗事例と、それを産み出したコンビの力が述べられた。その上で、その組合せ・人材配置を生み出した組織マネジメントとしての「人事」(人材配置)の問題が浮き彫りにされている。

 後世から見て「疑問」と解釈する人事や、バックにいる大物(元老とか皇族とか)の支援などの横槍などもあったであろう。しかし、それでもなお、必ずしも”人事とは、単純な正解のパターンがあってそれを決める作業ではない”と思われる。

 更に加えて言及するならば、上記に述べた昭和初期の軍の人事制度自体も、明治維新から続いていた薩長優位の明らかな藩閥人事に対するカウンターであり、より平明な人事を志向した結果の実力主義(ハンモックナンバー、士官学校の成績順位に基づく)からの帰結ということもできるのだ。

 単純に、不可解な人事が歴史を誤った方向に導いたとする解釈は誤りであろう。

 

 

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MG5(マジでギックリ5秒前)–雨予報の中で、一か八かの夏祭り開催勝負に出た結果

 先日の3連休は、恒例のわが町内会の夏祭りであった。立場は前役員であるが、なんだかんだで3日間駆り出された。

 昨年と異なる条件は、天気であった。

 昨年は6月末に梅雨明けしており、暑さが大敵であった。今年はどうかというと、まだ関東は梅雨明けしておらず、3連休も完全に雨予報なのである。

 今度は祭りの開催そのものが危ぶまれる状況なのである。

 3連休の真ん中の日のため、1日は順延の余地がある。しかし、梅雨が相手なので、順延したとしても、翌日に確実に開催できる保証はどこにもない。

 事前に準備する焼きそばや焼き鳥などの食材の保存の問題や、保冷車の確保など予約が必要なものもある。また、接待する来客への連絡もあり、本来は順延など現実的に出来はしないのである。

 前日の準備では、完全に雨。レインコートなどの完全防備で集合。テント張り、花板組立、ヤグラ組立などの力仕事をしていく。

雨宿りのテントからヤグラを見る。水たまりも結構ある。

 問題は明日である。

 テントの中で雨宿りしつつ、皆で議論するが、当然答えは出ない。

 もともと、これまでこの町内会の祭りは日程的に天気には恵まれていたようで、かなりのベテランでも「延期した記憶がない」という状態。しまいには、皆で各自スマホを見て、明日の天気予報に一喜一憂するという膠着状態に至った。「こっちのサイトだと降水確率が低い」「降水確率より、降水量だ。降水量が小さければ問題ない」などと。

 結局は開催判断は当日の朝、町会長に一任となったが、延期した場合の様々な作業を想像したのか「心配で、このところ眠れなくて」と弱音を吐露していた。本音であろう。

 そして当日。

 朝起きると、外から聞こえる雨音。

 なかなかの雨である。しかし予報的には昼から夜まで曇り時々雨になっていた。翌日もほぼ同様で、良くなる感じはない。

 ふたたびレインコートを着て会場に集まる。

 昼からの曇り予報を信じて、町会長の決断により、本日決行となった。ただ、そのあと、同じ日に予定していた近くの町内会が順延を判断したという報が来て動揺が走った。しかし、まあ、予定通りやるしか無いのである。ただ、途中で中断となると、屋台の売上が赤字になり、自転車操業の町内会予算が破綻するかもしれないというギャンブルである。

 雨があることから、例年では行わないヤグラの屋根設置や、盆踊りエリアの水たまりを砂で埋める余計な作業も発生。電気工事の際に、地絡しないか焦ったが、その間は雨が降らずセーフ。

 そして今年はひたすら焼きそば屋台で売り子である。

 時々雨は来るものの、なんと!昼過ぎから夜9時まで天気は持ち堪えてくれたのである。

 そして焼きそばも完売。これで財政破綻は免れた。

 翌日。またしても小雨である。例年、肉体労働の疲れから、ガクッと参加者が減る撤収作業。これが今回の雨の結果、汚れた机、椅子を雑巾で拭き取る作業も発生し、少ない人数で苦しい状況であった。ただテントは乾かさないと仕舞えない(カビがはえる)ため、テント撤収作業は少なく済んだ。とはいえ、3日間フル回転で持病の腰痛は警報レベルであり、あと少しでヤバかった。

 順延した町会のことを話して「今晩、大雨降らねえかな(笑)」みたいな、他の町会への軽口も叩けるくらいにはなってきた頃。

 片付けをしている最中に、1人の背広を着た男性がやってきた。

 男性「あれ?祭り延期したんじゃないの?」とトボけたことを言ってくる。

 そして内ポケットから、熨斗袋を出して「祝い金を持ってきたのにさ」と。

 町会長が「申し訳ない、予定通り開催しました。ありがとうございます」と謝る必要もないのに、社交辞令を。

 なにしろ手には祝い金がある。

 町会長が祝い金を貰える前提で、返礼を渡す。その男性は片手で受け取り、その流れで祝い金を……内ポケットへ戻し、そのまま立ち去っていった。

 これはまさしく、政治家アネクドートである田中角栄と中曽根康弘と福田赳夫の見舞いの話そのものである。みんなバカ負けして雨の中、大笑いしたのであった。下記の、中尾栄一への見舞いエピソードである。

「派閥の親方の中曽根康弘先生のところで時々軍資金を頂戴したが、いつも『政治家はかくあるべし』という類のお説教つき。差し出された封筒を引っ張っても、中曽根先生はグッと押さえて離さない。腕が疲れるころにようやくお説教は終わる」

「田中角栄先生にもあいさつに行った。新聞紙に包んだものをグッと差し出して、『中尾君まあ頑張れ』と一言だけ。後で開いたら、中曽根先生から長いお説教つきで受け取ったものの10倍も入っていた」

「病気療養している時、福田赳夫さんも見舞いに来てくれた。世間話をした後、福田さんが私の枕元に風呂敷包みを置こうとした。すぐアレだと分かり、『昔はいろいろ苦労をしたこともありますが…』と言ったら、福田さんは『ほっほー、そうかい』と言って、包みを持って帰ってしまった」

経済記者がみたエピソード 政治家とカネ、派閥…(小島 明)2014年8月

 まさか実体験でお目にかかるとは思わなんだ。

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【スケジュール管理】私が常に傘を1本置き忘れ続ける理由【スタックメモリ】

仕事上複数のタスクを処理する必要がある。

あれもやり、これもやり、と”やるべきこと”は、常時生まれ、 そして溜まってくる。

CAEとか業務支援ツールはあるものの、結局処理する主体は人間なので、物忘れを避けることはできな い。

加齢による物忘れは結構自覚しているので、実はこれは今のところ実体験としてあまり不都合は発生していないと思う。

やはり、やるべきことを思いついたら、すぐ記録し、これを常に眺めておける状況にするという原始的な手法で、当面の一定期間は乗り切れると思う。

記録するための具体的なツールとしては、私は携帯メールを良く使う。

タスクというものは、何時どこで思いつく(思い出す)かわからないことので、思いついたら直ちに記録するためにはどうしたらいいかということを追求した結果、直ちにスマホを取り 出して、自分の仕事用メールアドレスへ送信する、という動作(アクション)が一番効率が良いという状態に落ち着いている。

メモ帳とペンは、意外とカバンから取り出し、ペンを探し、などというアクションが必要になる。

また、タスク処理に関しては、スケジューラー(カレンダー形式)に、“時間未定のスケジュール”としてひ たすらタスクを箇条書きするのが良い。

その日に処理したら、その日の業務として時間を記録し、作業終了後にまだ未処理タスクとして残っていれば、翌日のスケジュールへ持ち越す。

未処理タスクは結構精神的に負担だが、勝手に消さないで、ある周期でまとめて棚卸をする。

例えば、1か月間タスクとして残っているものは、もう意味がないか、何か問題があると判断する。

この方法も、原始的ではあるが私にとって効率が良い。

更にスケジュールを関係部署に公開することにより、他人からの依頼への牽制効果もある。

スケジュールとタスク処理の結果を、あとあと見返すと、年間の業務記録にもなる。

いろいろと試した結果として、ここ5年くらいは上記のようなシンプルな方法に落ち着いている。

そして、一番の問題は、やはり自分である。

やはり、加齢による物忘れの影響は大きいのである。

自分の脳みそにあるスタックメモリの領域が1つ(か数個)しかない状態になってしまったと自覚している。

つまり、1つ入れたら1つ忘れるような状態である。

3つ覚えろ、と言われたら、確実に1つだけは記憶する自信があるものの、残りの2つは忘れても仕方ないような状態である。

そもそもタスクなんてのは短期記憶のようなもので、長く頭の中に入れておくべきではない。すぐにオモテ化して処理しなくてはいけない。本来はアタマの中で記憶してはいけないのである、と無意識に思っているのも原因 かもしれない。

先日も、ある人と打ち合わせをして1つのタスク(別の人に質問メールをすること)を宿題として記憶し、自分の机に向かって急いでいた。

その途中で、もうひとつタスク(ある実験部品の価格を調べること)を閃いてしまった。

机に着くまで1分程度、これなら2つ覚えていられると思っていたが、案の定、机についた瞬間に質問メールの件は綺麗さっぱり忘れていた。

何か新しいことを覚えたら、先に入っていた記憶が消える、先入先出(FIFO) によるメモリ運用がなされた模様だ。

メモリ空間が小さすぎる。

忘れまいとして多数のタスクを強く記憶しようとしていると、却って全ての記憶が平均してグレーになっていく。

とにかく、ままならないのである。

こんな昔のワンボードマイコン以下のスタックメモリを持った上で、これからのビジネス世界を生きていかねばならないので、事態は深刻である。

  • 帰宅する前に、本日のタスクを処理したかどうか確認する。
  • 翌日出張の場合には、持っていく資料のプリントアウトや地図などの確認をし、不在の場合の対応なども準備しておく。

これらのことを地道に実行しても、やはり、何かひとつ必ず忘れるのである。

先日もこんなことがあった。汚い話で恐縮だが、がん検診を受けるために事前に検便キットが送られてきた。検診当日までに2回採取しなくてはいけない。これはなかなかのプレッシャーなのである。常に「検便、検便・・・」と意識していた。

そんな日々の中で用事があり、外出するため玄関に向かった。何か忘れている気がする。そこで思い浮かんだのが「検便」であり、そのまま家を出た。しかし、本当に思い出すべきものは「イヤホンを持っていく」ことであった。つまり、「検便」というメモリが「イヤホン」の上にありこれを覆い隠していたのである。そして一つ思い出せば、それで事足れりとする私のプロセッサ。情けない。

そこで、私は貧相なスタックメモリを逆手に取り、逆転の発想?をすることにした。

常に「忘れても影響の少ない」ダミーのタスク を用意し、これをいつも半分本気で敢えて”忘れる”ことにしている。

一つのことは忘れてたけど傘は忘れたものの、残りのことは覚えていて処理済となった。よかった、という訳である。

軽めのタスクを常に犠牲にすることで、その結果として残りのタスクは救われる。

これが、私が常に傘を1本置き忘れ続ける理由でなのである。

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