町内会の祭りは無くなり、広場の除草作業も無くなり、共同作業がなくなって楽になりそうだと思いつつ、このままだと断絶による経験知の承継問題が顕在化しそうな一抹の不安がある

 新型コロナ感染防止のための緊急事態宣言は終わったものの、まだ状況は不透明である。

 町内会も、なんだか活動自体が不透明で先が見えない状態に陥っているようで、こうした小規模の自治活動を、コロナ後にどうすべきか誰もスタンスが掴めていないような雰囲気になっている。

 月一恒例であった町内広場の除草作業も、おそらく密度問題により中止、その結果、広場はクローバーが群生している。まあ、これはこれで生物的には(蜜蜂とか)いいのかもしれない。

 そして本日、回覧板で「夏祭りの中止」の連絡も回ってきた。

 別に我々の町内会だけが祭りを中止したわけではない。周辺の町内会も同様なのである。また、密接な地域の神社の例大祭も同様に中止になっている。

 やむを得ないのは理解できるのでこの判断には文句はない。

 ただ、こうしてコロナ前後で日常活動が変化する、その際に、継承できない経験知のようなものがありそうで、これらを取りこぼしてしまう不安がある。

 個人的には高齢化の中で町内会活動は”茹でガエル”状態になっていると思ってきた。

 活動の”引き算”が必要だが、なかなか実際問題、恒例行事をやめることは難しい。

 特に理由としてリソース問題だと尚更である。

 ”頑張れ”みたいな精神論が出てきて、結局、真綿で首を締めていくような”茹でガエル状態”になってしまう。

 今回のケースは、結果としてこれまでできなかった活動の”引き算”が、コロナという外的要因によって達成できたことになる。

 特に高齢者への影響が大きく、彼らが当事者になったことが大きかったであろう。

 従来のケースでは、高齢者はむしろ当事者ではなかったが故に、”従来はできたものをやめるのはどうか。自分たちの世代ではできた”のような言説が一定の発言力を持っていたのだ。

 原因は原因としてさておき、集団で集まるような活動が制限され、過剰気味だった活動が低減される。

 めでたしめでたし・・・なのであろうか。

 今後、こうした町内会レベルであるものの発生する「リスク」(それは例えば、町内会所有の物品の老朽化、回収などもあるだろうし、予算自体の見直しもあるだろう)に対する、過去の経験知が生かせなくなるような、ここで大きな断絶が起こりそうな予感をしている。

 その承継を考える必要があるのではないか。

 アフターコロナにおいては、人々が集合することへの配慮が発生する。それは自治会活動の延長に位置する「政治」の世界も同様であろう。

 こうした地域の集まりに選挙活動として顔を出すことも機会そのものが少なくなる。そうすると従来の政治手法である”ドブ板選挙”ではなく、リモートでのドブ板選挙になるであろう(”ドブ板”という概念がなくなるわけではない)。

 そこにも「断絶」が生まれるはずだ。

 こうした生まれた社会的な断絶が、今後ゆっくりとした時定数で、我々の社会に痕跡を残すであろう。

 行動様式の変容に続く「断絶」。

 それに伴う、もう一つの「変化」。我々の社会に何らかの変化を生み出すと思われる。新型コロナの影響によって、我々の社会の継続性に傷痕を残されたという実感がある。

 そうしたことを思った夏祭りの中止の報であった。

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MG5(マジでギックリ5秒前)–雨予報の中で、一か八かの夏祭り開催勝負に出た結果

 先日の3連休は、恒例のわが町内会の夏祭りであった。立場は前役員であるが、なんだかんだで3日間駆り出された。

 昨年と異なる条件は、天気であった。

 昨年は6月末に梅雨明けしており、暑さが大敵であった。今年はどうかというと、まだ関東は梅雨明けしておらず、3連休も完全に雨予報なのである。

 今度は祭りの開催そのものが危ぶまれる状況なのである。

 3連休の真ん中の日のため、1日は順延の余地がある。しかし、梅雨が相手なので、順延したとしても、翌日に確実に開催できる保証はどこにもない。

 事前に準備する焼きそばや焼き鳥などの食材の保存の問題や、保冷車の確保など予約が必要なものもある。また、接待する来客への連絡もあり、本来は順延など現実的に出来はしないのである。

 前日の準備では、完全に雨。レインコートなどの完全防備で集合。テント張り、花板組立、ヤグラ組立などの力仕事をしていく。

雨宿りのテントからヤグラを見る。水たまりも結構ある。

 問題は明日である。

 テントの中で雨宿りしつつ、皆で議論するが、当然答えは出ない。

 もともと、これまでこの町内会の祭りは日程的に天気には恵まれていたようで、かなりのベテランでも「延期した記憶がない」という状態。しまいには、皆で各自スマホを見て、明日の天気予報に一喜一憂するという膠着状態に至った。「こっちのサイトだと降水確率が低い」「降水確率より、降水量だ。降水量が小さければ問題ない」などと。

 結局は開催判断は当日の朝、町会長に一任となったが、延期した場合の様々な作業を想像したのか「心配で、このところ眠れなくて」と弱音を吐露していた。本音であろう。

 そして当日。

 朝起きると、外から聞こえる雨音。

 なかなかの雨である。しかし予報的には昼から夜まで曇り時々雨になっていた。翌日もほぼ同様で、良くなる感じはない。

 ふたたびレインコートを着て会場に集まる。

 昼からの曇り予報を信じて、町会長の決断により、本日決行となった。ただ、そのあと、同じ日に予定していた近くの町内会が順延を判断したという報が来て動揺が走った。しかし、まあ、予定通りやるしか無いのである。ただ、途中で中断となると、屋台の売上が赤字になり、自転車操業の町内会予算が破綻するかもしれないというギャンブルである。

 雨があることから、例年では行わないヤグラの屋根設置や、盆踊りエリアの水たまりを砂で埋める余計な作業も発生。電気工事の際に、地絡しないか焦ったが、その間は雨が降らずセーフ。

 そして今年はひたすら焼きそば屋台で売り子である。

 時々雨は来るものの、なんと!昼過ぎから夜9時まで天気は持ち堪えてくれたのである。

 そして焼きそばも完売。これで財政破綻は免れた。

 翌日。またしても小雨である。例年、肉体労働の疲れから、ガクッと参加者が減る撤収作業。これが今回の雨の結果、汚れた机、椅子を雑巾で拭き取る作業も発生し、少ない人数で苦しい状況であった。ただテントは乾かさないと仕舞えない(カビがはえる)ため、テント撤収作業は少なく済んだ。とはいえ、3日間フル回転で持病の腰痛は警報レベルであり、あと少しでヤバかった。

 順延した町会のことを話して「今晩、大雨降らねえかな(笑)」みたいな、他の町会への軽口も叩けるくらいにはなってきた頃。

 片付けをしている最中に、1人の背広を着た男性がやってきた。

 男性「あれ?祭り延期したんじゃないの?」とトボけたことを言ってくる。

 そして内ポケットから、熨斗袋を出して「祝い金を持ってきたのにさ」と。

 町会長が「申し訳ない、予定通り開催しました。ありがとうございます」と謝る必要もないのに、社交辞令を。

 なにしろ手には祝い金がある。

 町会長が祝い金を貰える前提で、返礼を渡す。その男性は片手で受け取り、その流れで祝い金を……内ポケットへ戻し、そのまま立ち去っていった。

 これはまさしく、政治家アネクドートである田中角栄と中曽根康弘と福田赳夫の見舞いの話そのものである。みんなバカ負けして雨の中、大笑いしたのであった。下記の、中尾栄一への見舞いエピソードである。

「派閥の親方の中曽根康弘先生のところで時々軍資金を頂戴したが、いつも『政治家はかくあるべし』という類のお説教つき。差し出された封筒を引っ張っても、中曽根先生はグッと押さえて離さない。腕が疲れるころにようやくお説教は終わる」

「田中角栄先生にもあいさつに行った。新聞紙に包んだものをグッと差し出して、『中尾君まあ頑張れ』と一言だけ。後で開いたら、中曽根先生から長いお説教つきで受け取ったものの10倍も入っていた」

「病気療養している時、福田赳夫さんも見舞いに来てくれた。世間話をした後、福田さんが私の枕元に風呂敷包みを置こうとした。すぐアレだと分かり、『昔はいろいろ苦労をしたこともありますが…』と言ったら、福田さんは『ほっほー、そうかい』と言って、包みを持って帰ってしまった」

経済記者がみたエピソード 政治家とカネ、派閥…(小島 明)2014年8月

 まさか実体験でお目にかかるとは思わなんだ。

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夏祭りにおける経験知、あるいは、老人の教え–キュウリ塩漬けと赤飯おにぎりは夏祭りの疲れた体にジャストする

 今この時期だからこそ「赤飯おにぎり」の思い出について書いてみたい。季節外れではあるが。

 かつてある地域のお祭りの役員が回ってきて、1年間地域の祭りのお世話をしたことがある。町内会組織から、神社の氏子を分離した結果として「お祭り」だけに特化した役割ができたのだ(これは各地域で珍しいことではないはず)。

 そこでは、基本的に毎年同じ固定メンバーである「氏子総代」が10名いる。これはお祭りを仕切る立場で地域の有力者が多い。特に祭りの場合、町内の祭りの間での付き合いや、テキ屋対応、気性の荒い神輿担ぎのプロ対応などもあり、迫力のある老人が多かった(端的には土建屋チックな感じ)。

 町内会の順送りで決まった我々役員は彼らに仕えて、まさに兵士として雑用をこなすのである。1年交代で何も申し送りもない状態の一般庶民が、何もわからない中1年対応するのはなかなかきつかった。「総代」は毎年やっているので全てを知っている。

 しかも老人なので口頭で説明するのがほとんど。毎回やっているので、説明も端折りまくりで、なおかつ、導火線も短いので、すぐ怒るのである。その結果、総代たちのあまりの理不尽さにキレて何人かは辞める人も出るという、非常に苦しい役割なのである。

 作業も過酷で、祭りの準備では前日徹夜でそのまま翌日まで作業は当たり前、神輿巡回に随行して12時間炎天下を歩く、大晦日から泊まりでおみくじを売る、神主さんを呼んだ際の祭りの接待の準備、さらに予算管理や回覧板の書類作成もあり、非常に大変であった。当時は若さがあったからできたとも言えよう。

 我々の神社の祭りでは、神輿渡御の最後に神社へ帰還し、最後に担ぎをやめるタイミングが非常に騒然となる。神輿担ぎの人たちは疲れているがクライマックスなので最後の高揚感からエネルギーが出てくるようで、担ぎ続けようとする。そこをうまいタイミングで神輿をタッチダウンする仕切りは、まさに修羅場をくぐった老人の経験が必要と感じた。

 ただうちの神社の神輿では、毎回最後に殴り合いの喧嘩が発生するまでがお約束なのだが。

 そんな感じで小規模な神社ではあったが、なかなか賑やかであった。準備で普段は入れない神社の中に入り、ご神体(依代)としての鏡を見ることができたのは役員として良い経験であった。

 もう引っ越してしまったが、時々気になる。私が役員をした際にはもう氏子総代の平均年齢は75歳くらいのはずで、トップの氏子総代長も80歳になっているはずだ。そろそろ世代交代しないとまずいが、なかなかこうした経験のある人もおらず、大変であろう。

 そんな中覚えているのは、その氏子総代長が言っていた「夏祭りの神輿巡行の際に、休憩用に”キュウリの塩漬け”と”赤飯おにぎり”を用意しろ」という指示であった。

 この二つにどうしてもこだわるのである。

 こちらは”なんでそんなものに、そこまでこだわるのだろうか?”という疑問が常にあったが、理屈が通用するような相手ではなく、そもそも迫力があったので、当時は黙って従った。

 たんにキュウリの塩漬けと言うが、購入品ではなく、数日前にキュウリを100本単位で大量に購入し、ポリバケツ2つにキュウリと塩を入れて事前に我々が作り、当日は軽トラで運ぶという面倒な手作り作業なのである。それでも毎年このようにやっているのだから今年もやれ、とうるさいので(失礼)作った。

 赤飯おにぎりも、普通のおにぎりで良いと思うのだが、赤飯にもこだわりがあるようで、「赤飯おにぎりは何個注文したのか」をチェックしてくる。当時はあんなゴマシオでしか味のついていない、しかも、もち米だし、対して美味しくもないのに、と不満たらたらであった。

 そして祭りの当日にはポリポリ食べながら「今年のキュウリは塩が少ねえなあ」とかフィードバックの感想を述べてくるのである。

 そんなことを再び思い出したのは、昨年の引越し先の夏のお祭りで山車巡行の係になった時であった。

真夏の炎天下の中、13:00から22:00まで、ところどころ休憩所で接待で出される飲食をしつつ、休むものの長時間徒歩で町中を随行するのはカラダに堪える。

 そんな中、ある町内の休憩所で「キュウリの漬物」と「赤飯おにぎり」が出たのである。

食べやすいキュウリ。我々がかつて作ったのはキュウリ1本漬けであった。
赤飯おにぎりの映像は自粛します。

 食べてみると、まさにキュウリは水分と塩分補給、おにぎりも赤飯のもち米が直接エネルギーになる感じで、炎天下で疲れた体が良い応答、要するに”体が欲して”いたのである。

 あの氏子総代長の発言は長年の経験に裏付けられた最適解だったと理解した瞬間であった。

 当時は考えもしなかったが、老人の経験知は舐めてはいけないと痛感した次第である。

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【町内会】ようやく役員の任期が終了、引き継ぎが終わった・・・ようで終わらない

 長い(といっても2年間だが)戦いが終了、本日定期総会が無事終了し、新役員への引き継ぎまで無事終了した。

 定期総会の準備段階では、委任状を集めるのが大変であった。しかし前日までに会長一任の委任状が全世帯の過半数集まってしまったので、実質これで総会が荒れることはない(仮に誰も当日出席しなくても、会長1人で総会を成立させ、かつ、全議案を承認できてしまう)。これも世帯数が少ないコンパクトな町内会の利点?でであろうか。

 総会終了後の懇親会では開放感に浸れるかと思ったが、そうでもなかった。これは今年は懇親会の後に新旧役員の引き継ぎを設定されており、心のどこかで引っかかるものがあったからであろう。

 引き継ぎでは、作成した書類、電子ファイル、引継書、印鑑、鍵なども渡して、荷を下ろしたように気持ちが楽になっているはずであるが、実際問題としてまだ楽になっていない。ゴールテープを切った感がない。

 実際のところ、まだ仕事が終わっていないのだ。

 書記の最後の仕事として「定期総会の議案書の発行」が残っており、これを終わらせないと次の年度の役員が動けない。要するに定期総会の承認結果をもとに、次年度役員の変更(代表者とか)が自治体に受理される。役員交代のエビデンスとして重要なのである。

 従って、今この時点でも、まだ議事録の署名人のハンコを求めて、町内を彷徨っているのだ。よりにもよって、慣例で署名人欄に3人もあり、しかもみんな総会が終わると自宅へ戻ってしまったため、再度自宅に訪問しなくてはいけないのだ。

 そして今、まだ最後の1人が捕まらないのである。困った。

 終わったが、やはり高齢化による世帯数減は苦しい。かなり無理がきかなくなっている。懇親会でも入院の期間の長さを競ったり、病気自慢で盛り上がる始末である。

 そして今度はPTA役員もあり、非常に苦しいのである。

 本日だけは、この12%チューハイで沈没したい。

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【衰退する町内会】新旧役員交代に加えて、新元号対応に躓く【少子高齢化】

 ようやく3月末で長く続いた町内会の役員も終了である。しかし、まだ新年度に向けて4月頭の定期総会の準備や、新役員との引き継ぎが残っている。

 2月から新役員が集まり、恒例の「自分の病気で」「配偶者の介護で」「もう何度もやったから」「土日に仕事が」などの、高齢や共稼ぎなどの諸事情による”当事者同士でできない理由を出し合って決まらない会議”が続いていたが、時間が解決して、ようやく決定。

 とはいえ高齢化の波は全く止まることなく、やはり実働部隊、現役世代は少ない。世帯数も減っていく上に、新しい家が加入することもない。

 また、事務手続きにしても、昔のような官公庁や銀行など、管理がザル時代でやっていた内容もコンプライアンス全開の時代の今では昔のようにはできない。会計の通帳管理一つとっても、会長の身分証明だ印鑑証明だ、地縁団体の会長であることの証明書だ何だと面倒になってくる。

 規制は厳しく、仕事は減らない。相変わらず厳しいのだ。

 私は書記という立場で、定例総会の資料(議案書)を作るのに忙殺されている。これにしても今年は改元を控えており、従来のコピペではできないのだ。年度は元号で記載してしまっており、4月-3月の年度で2019年4月から”平成31年度”が始まるのだが、5月に改元がある。この翌年度を何と呼称すべきか。

 議案書の原稿は3月に印刷所に入れなくてはいけないため、4月頭の既に新元号が分かっているのに、あえて”平成31年度”と書く議案書になっているのである。もちろんエクスキューズは入れるが、ただただ面倒くさい。

 「平成31年度」でも正しい。1ヶ月だけは存在するので。でもそれ以降はどうする、という話もある。「(新元号)元年度」と記載するのも少々おかしい。結局西暦表記を併記するのだが、過去の資料は元号1本なので、そこに対して全て変更が必要になってくる。結局色々事務方の手間がかかるのである。

 外部リンク:平成31年は4月30日終了!改元の影響を受けるWebサイトはどうすれば?

 こうした瑣末な厳密性が必要なのか?とも思うが、残念ながら必要なのである。

 こういう部分だけ指摘する人もいるので、それに対して理論武装する必要もあるし、地方自治体のお役所仕事ほどこうした部分で詰まると面倒で、首尾一貫した書類を流れ作業に載せないと余計な手間がかかるのである。

 こうした業務なり手間を効率化した方が良いのでは?という声も当然あるし、民間企業などでは経費削減の元に、不要なルールの削減もある。

 しかし、官公庁の内部論理からはこうした部分を緩くする方向性は出てこないと断言できる。むしろ内部統制の観点から、提出書類の整合性を、より厳しくする方向に進んでいくはずである。

 そうすると少子高齢化の中で、弱体化した1単位に向かって、各方面からますます仕事が減ることない状況は続く。

 どこかのタイミングでカタストロフィーが訪れるであろう。

 この変化は、限界集落と同じように、ある一定水準まで少子高齢化が進んだ結果、統制の取れなくなった地縁団体、実質休眠状態の地縁団体が散見するような形で顕在化してくると思われる。

 私にしても、これで町内会の荷が降りた、と安心できてはいない。

 まだPTAだってあるのである。しかもPTA役員はさらにエグくて、ポイント制まで施行されている。もういい加減、GiveUpしたい今日この頃である。

 外部リンク:PTAに蔓延!「ポイント制」という謎の罰則-負の意味づけを強化するループ化現象


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【町内会】2019年どんど焼き(左義長)が無事終了、いよいよ役員任期もあと少し

 今年も町内会のどんど焼きが無事終了した。

 昨日は初雪の降る中準備をしつつ、天候がどうなることかと思っていたが、結果的に昨年並みの快晴であった。

 年々ヤグラの規模が小さくなり、参加者も少なくなる気もする。

 これは町内会の規模縮小に加えて、街中でのファイヤーなので、灰が近隣民家に降ったりしてなかなか気を遣うイベントになってしまったことも要因の一つであろう。

 なかなか世知辛い世の中になってしまったのである。

 今年の4月から始まった私の町内会役員の任期もあと少しである。あとイベントとしては1年に1回の定期総会のみを残すこととなった。なので、その議案書の作成など、まだ業務は結構残っているので、終わった感はなく、微妙である。

 とはいえ、来年の役員もまだ選出されていない。

 やはりここ数年の傾向で

 ・高齢化して役員の仕事はできない
  →そこをなんとか、みんな同じ状況なんだから
   →じゃあ町内会から脱退する
    →それは困る

 という負のスパイラルにハマっている状況は全く好転していない。むしろ悪化の一途を辿っている。

 また、1つの町内会に規模を問わず割り当てられている各種の外部役員も、既になり手がおらず、これもまた長期化して同様の状況になっており、そうした人たちが80歳を超え出して、いよいよ誰も割り当てできなくなる状況も見えてきた。結局、そうした業務ってボランティアのようなものなので無償である。

 例えば、無償で雨の日も風の日も雪の日も月曜日から金曜日まで、踏切で小学生の見守りをしなくてはいけないのである。子どもの安全に関することだから、サボるわけにもいかない。体調が悪い日にも変わりはいない。

 そんな状態では、地域の仕事というには大義もないし、インセンティブも起こらないであろう。

 自治体としてはより上位の方針に基づき、より安全安心に力を入れる。その一方で地方行政の予算はなく、末端には全く行き渡らない。

 オリンピック対応だの、不審者からの児童の見守りだの、大地震への避難対応だの、空き家の管理だの、高齢者1人世帯の見守りだのといった”何か事件が起こるたびに不可逆的に増えて、決して減らすことはない管理の課題“の実行をどこが担うかというと、この町内会という最小単位で吸収しなくてはならないのである。

 繰り返しになるが、地方自治体としては町内会に実行レベルを委譲していく方向性があり、最小単位である町内会において、こうした少子高齢化の矛盾を直面させているのである。

 そうした町内会の負のスパイラル、長期低落傾向に関しては、役員会のたびに議論に登るようになっている。

 しかし、こうした最小単位の内部議論なんぞで結論は出ないであろう。そんなことは知っている。知っているけど、誰も助けてくれないから焦りに焦って結論の出ない会合を開くのである。

 現役世代としては、もはや若干の諦めムードすらある。いずれ結論は出る。おそらくカタストロフィーとしてであろう。それも緩慢な進み方で。

 誰も明快な回答を持っていないし、自治体側にしても明確なビジョンを持っていない。個人的には、これこそ政治の問題と思う。

 なかなかこの状況は厳しく、いわば真綿で首を絞められている状況は続くのである。

 

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真鶴にて2019年初釣り惨敗と強制的仕事初め

 今年の冬季休暇はカレンダーの関係で例年より多く、何と9連休であった。とはいえ様々なイベントや儀礼は変わらずあって、なんだかんだであまり休みらしい休みになっていない。・・・という感想自体も例年通りなので、まあ通常運転の新年なのであろう。

 久々に真鶴で釣りでもやるかという気になった。しかし、完全に勘が鈍っており、どこに行くか、何を釣るかの考えがまとまらない。ポイントの記憶もうっすらで、やはり継続していないとダメである。とりあえず過去の記憶を頼りに、コンパクトロッドによる”なんちゃってウキフカセ”で小メジナ、小ウミタナゴ狙いとすることにしてみた。

 早川港より西方向の国道135が混む事だけは、経験的にわかっているので早朝移動で8時に真鶴某所に到着。早速釣りの準備を始めるが、久々過ぎて仕掛けの作成の手もおぼつかず、ヨボヨボ状態である。

 苦闘15分でウキフカセ仕掛けができた、と思った矢先に、スピニングリールのスプールを上げていないことが最終段階で判明して一からやり直す、ロッドのガイド1本に糸を通していないことが最終段階で判明して一からやり直す、挙句の果てにコンパクトロッドを落として根元のプラスチックネジが割れてしまう、などの種々のトラブルに見舞われた。

 もういっそ帰ってしまおうかという思いもよぎったが、何とか歯を食いしばり忍耐力で耐えて、いよいよ我慢の限界に達した頃、ようやく仕掛けが完成した。

 と見ると、目指す釣り座(ポイント)に先客が。完全装備のウキフカセ師である。あれれ、どうしてかな〜。僕の方が先に到着しているのに〜。確かにちょっと離れた位置にいて仕掛けを作るのに30分くらいかかっていたけど、明らかにこのエリアで、まともに釣りができる場所ってその釣り座がベストで、その優先順位1番の場所に黙って入るかな〜。

 いきなりの場所ロストである。

 まあ相手は正統派ウキフカセ師で、こちらは”なんちゃってウキフカセ”なので、気後れもする。要するに装備的には本気度と気合が違うのである。ただハゼ釣りであろうが、ヒラメ釣りであろうが、この世界、先に来た方が優先ではなかろうか。

 実際のところ、竿の長さも半分くらい違うので、そもそも仕掛けを投入可能な距離が異なる。したがって、ポイント自体の干渉はしないのだが、釣り座が干渉するのである。

真鶴某所、テトラの向こうにポイントがある(正確には、昔はあった)

 若干の不機嫌さを感じつつ、仕方なく別の場所を探し、おかしな態勢で釣りをする。まあ結局、この世界は釣った方が勝ちなので、結果で証明させてやると覚悟を決めた。

 まずは10円玉を海へお賽銭代わりに投げて、今年の釣りの安全を祈る。

 ・・・釣れない。昔はもっと活性があった記憶があるが、その記憶は5年前。やはり時代は流れる。生体反応ゼロで釣り座も姿勢がいまいち不便なので次第に飽きてきて、釣りを一時ヤメ、後ろの方からぼーっと正統派ウキフカセ師の動きを見ていた。

 正統派ウキフカセ師も全然釣れてない(ニヤリ)。

 少し気分が晴れてきた。投げては返し、餌取りすらおらず、ひたすら”海に糸を叩きつけるスポーツ”をしている。いやぁ、素振りがお好きなようで、大変そうですな(嫌味)。自分が釣れていないと地獄であるが、他人だと楽しい(性格悪い)。

 そうしていると正統派ウキフカセ師はやはり釣れないと見たのか、場所を移動して行った。まあ、後ろでニヤニヤ見ていた壊れたコンパクトロッドの変な奴の視線に耐えられなくなったのかもしれない。

 そして。

 正義は勝つということで、目当ての釣り座に到着である。釣り座は同じでもポイントが違うのであるから大丈夫、勝算はある。

 ・・・やはり釣れないのである。そうしていると、油断したのか突然大波が。

 バスタブ1杯分くらいの海水が私の前面を覆っていった。避けることもできず、一瞬にして下着まで浸水である。一応上着はレインウェアを着ていたはずなのに、先ほど”素振り”を見ている際に、熱いコーヒーを飲んで暑くなって、上着の前を開けるという凡ミスをしていたのであった(罰が当たったとは思いたくない)。

 いきなりの1月の冠水で、一気に体感温度が下がる。真鶴で上半身裸になりバスタオルに包まる羽目に。そんな私の横を、家族連れの観光客がまゆをひそめて通っていく。正月の海で何が悲しくてこんな屈辱的な格好にならねばならないのか。当然着替えがあるわけもなく、もうダメ、ギブアップということで終了である。

 わずか1時間の初釣りであった。

 素肌に直接レインウェアを着込んで車で帰宅した。寒い。さらに海水まみれでゴワゴワである。

 家に着くと今度は自宅のシャワーが故障しており、ぬるま湯しか出ない(罰が当たったとは思いたくない)。

 仕方なく、風邪覚悟でぬるま湯シャワーを浴びて、やけ酒でも飲もうかと思ったら、今度はLINEが。

町内会からの連絡である。会員のご家族の訃報が入り、緊急で回覧板で情報回覧する必要に迫られ、強制的に町内会の仕事初めとなった。当然のことながら、この手の話は時期を読んでくれるわけではないので止むを得ないことではあるが。

 風邪気味の肉体で、PC起動、文書作成し、手渡しで班長さん達に至急回覧の文書を配布するべく町内を歩き回った。回覧途中で内容訂正が入り、再度回収、再配布というアクシデントもあったが、もうどうでもいい。非常に疲れた。今年の運勢に一抹の不安が生じるのであった。

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やはり今年も夏祭りで熱中症(2年連続)

 今年も町内会の夏祭りが終わった。ヘトヘトである。異常に暑い中、3日間働きづめで肉体疲労で倒れそうである。しかもギックリ腰の爆弾を抱えつつの肉体労働であった。

 今年度は本部役員のため全ての行事に出席する必要があり、前日、当日は1日中働きづめ、祭りの翌日も午前中いっぱい片付けである。

   この3日間は日本全国猛暑の中、炎天下の肉体労働のため、いくら水分を取っても殆どトイレに行くことがなく汗で出てしまっていた。そして昨年同様、疲れのピークと暑さで最終日の片付けの最中に指先痺れが発生し、軽い熱中症の兆候が出てきた。昨年の反省があるので塩飴、水分補給、休憩で何とか乗り切れたが、きつかった。

   今年の熱中症対策としては

  ・帽子は必須

  ・1リットルサーモスに氷水が最強

  ・塩飴は2袋必要(他人に分配用)

  ・タオルに水を染み込ませ首に巻くと良い

   といったところであろうか。

 弱小町会のくせに(だからか)、業者を頼まず、ヤグラの設営から模擬店から更にはゴミ捨てだの物品手配だのと細々とした雑用も全て少ない本部役員でやることになる。当日に至っては8:30出勤で帰宅は22:30である。なかなかのブラック企業の働かせ方である。ちなみに財政危機のため、役員であっても食事代や手当など一切出ない。全て自分の持ち出しである。

 おまけに本部役員は1年交代なので経験値が蓄積されない。前年の反省点を引き継げないので、毎年効率の悪いことをやっているのである。

 更に地元のボス連中が、やれ今年は段取りが悪い(多分毎年言ってる)だの、自分の勘違いを認めず自分たちの手配した物品を誰かが横流ししただの、自分の所に神輿が巡行しないのは失礼だの、やたらと手を動かさないのに文句の声だけはでかいので閉口する。

 こちらはペコペコしながら黙ってそれを聞いているだけで面倒臭いので反論もしないが、ただただ「町内会って面倒くさいもんだなあ」というモチベーションが下がるのである。過去にも本部役員をした翌年に「町内会を脱退する」人が出ているらしい。それもこれも、労多くて実り少ない報われないこうした状況も大きな要因なのであろう。

 ただ、そんな人ばかりではなく、老人でありながらも率先して黙々と炎天下の中で働いてくれる人も少なからずいる。こうした人がいてくれるお陰で、何とか「形だけ若手」の我々も辛うじてモチベーションを途切れさせることなく、やりきることができた。

    冷静に考えると祭りの準備、片付けの動員数も昨年に比較して、少しずつ少なくなっている。やはり高齢化の影響と新規世帯の未加入という町内会の本質的問題の現れであろう。それに伴って1人当たりの仕事負荷が徐々に多くなり、早晩危機が訪れそうで心配である。

   今年は本部席からの祭りの眺めである。

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【腰からパリッと異音が】過去最大級のギックリ腰から復帰するまでの記録

   趣味の立ち飲みも最近ご無沙汰になってしまった。これには理由がある。

中国から帰国後、やはり身体的に弱っていたのか、風邪を引いてしまった。今回は強烈で、しばらく味覚と嗅覚が無くなってしまった。こうなると何を食べても旨くない。しまいには食欲自体が無くなってしまう。その結果、体力も落ちていくという悪循環。

その状態からようやく治った頃に、アイツがやって来たのである。

そう、ギックリ腰である。

今回は過去最大級の痛みであった。

しかしこの時点で、仕事は山場(いつも山場だけど)を迎え、更に夏祭りを迎えて町内会の用事も沢山ある、というアウェイな状況の中、何とか2週間かかって回復した。しかも会社は休まずにである(威張っていうことではないが)。

従って、今でも立ちっぱなしだと腰にクルので、立ち飲みも自然敬遠気味になっている。

今回は、ギックリ腰でも会社を休めない人(褒められないけど)向けに経験を記録しておきたい。

ギックリ腰を発症したのは日曜日。町内会の草むしりの日であった。今年は本部役員なので、持ち回り制の全ての回に強制出席する必要がある。さらに本部役員には、休憩時に草むしりに参加した人へお茶などの世話をする役割がある。そこで私は町内会館へ走り、買い置きのお茶ペットボトル500ml×24本入りの段ボールを持ち上げようとした。

その瞬間である。

……パリッ

あれ?

森永「チョコモナカジャンボ」を割ったような軽快な音が、腰の付近から発生したのである。

”パリパリッ”って……(白目)

その時はまだ、腰の付近に軽い疼痛程度であり、歩くこともできた。お茶を運び、休憩後も草むしりを続けていたが、次第に増す痛み。

   あれ?ヤバイかも。

家に帰り、さらに腰の痛みは増していたが、汗だくだったので風呂に入った。後から考えるとこれは大きな判断ミスであった。

夜にはまた町内会の役員会議があるので、腰を休めようと仰向けになり、しばし布団で寝ることにした。

   仰向けで寝た姿勢では痛みがなく、安静にしていれば良いかと思いウトウトした頃に…

電気が走るような激痛が。

思わず声が出る。

激痛で思わず無意識に身体が動くと、その動きでまた激痛が連鎖する。痛みの臨界状態である。

痛みの連鎖反応の中で、今、自分は仰向けのまま動けないことに気づき、続いて物凄い恐怖感がやってきた。

痛みによって、自力で立ち上がれないどころか今の姿勢すら変えられないのである。勿論寝返りも打てない。

   家人を呼び、知恵の輪、あるいは電流ビリビリ棒ゲームのような形で、辛うじて痛みが少ない姿勢を見つけていく。その姿勢を何回か繋げて、うつ伏せになるルートを見つけることに成功した。

ここで安心感が少し生まれた。うつ伏せだと、両腕によるアシストができるので、多少自力で身体を動かせる余裕が生まれるからであろうか。

とはいえ激痛は相変わらずあり、無いポイントの方が圧倒的に少ない。また、うつ伏せの姿勢を保持していると体重による圧迫で呼吸が苦しくなってくるので、長時間この姿勢でいることもできない。

しかし、ここから立ち上がる勇気は直ぐには出なかった。直立状態の不安定さを考えると、とてもでは無いが腰に負担がかからない訳がない。

これまでの経験を超える痛みの連発によって、意識とは別に身体が本能的に痛みを忌避するように反応してしまうようになってしまっている。

  痛みの方向に身体を動かすことを無意識的に拒否してしまうのである。ここから立ち上がるのにはまた時間を要した。

まず、うつ伏せから足だけ移動し、土下座態勢になる。

続いて、土下座から腕の力で後方にお尻を移動、これにより正座態勢になった。

その後は棚などを利用して手で身体を持ち上げながらゆっくり立ち上がる。

この一連の流れに15分。

    トイレに行くのだって大変である。この時ほどウォシュレットの有り難さを感じたことは無かった。

家人が妊娠していた際の「骨盤強制コルセット」が家にあったので、これを装着するとさすが妊娠用だけあって確実な効果があり、そろりそろりとなら、なんとか歩くこともできそうな感じであった。

とはいえ、この痛みでは着替えもできない。特に靴下。明日の出社もできないだろうなあと思いつつ、どう考えても休むことによる、あとあとの混乱を考ると悩ましい。本来なら身体第一で休むべきである。しかし仕事のことを考えるとそうも行かない状況。とにかく、今できる有効な処置をする必要がある。とてもではないが、クルマに乗れる自信もないので病院にすら行けないのである(救急車は最後の手段として取っておく)。

まずはネットで調べると、やはり直後に風呂に入ったのは完全な間違いで、初期にはアイシングが必要なようである。確かに今回のパターンはパキッという音があり、これはかつてやったことのある肉離れの音に良く似ている。

氷をビニール袋に入れ、うつ伏せ状態で直接肌に当てて冷やすことにした。冷たさで肌が痛くなったら休み、またアイシング。これをひたすら繰り返した。

また寝ていた時に気づいたが、痛みを恐れて姿勢を固定していると却って状態が悪くなる、つまり痛みを感じない”身体の振れ幅”が狭くなっていくような感覚があった。むしろ痛みのない姿勢を保ち、時には痛みをあえて確認しつつ、ある程度身体を稼働させた方が良いような感じもあったのである(あくまで個人的感想です)。要するに寝たきりだと却って悪くなりそうな感じなのである。

翌日。月曜日の朝。睡眠姿勢はうつ伏せで、ほとんど眠れなかった。

   何とか起床し、ズボンは1人で履くことができた。しかし靴下は履かせてもらう。コルセットを装着して駅まで普段の倍の時間をかけて、低速で歩く。

電車通勤の際の揺れ(特に加減速)が腰に来るが、早めに出て座席に座るようにすることで負担も軽減できた。とはいえ歩く速度は通常の半分以下、会社で追い抜かれるたびに理由を説明するのが悲しい。

偶然であるが、この週は外出がなく、会社での内勤メインだったのも助かった。

会社での仕事は通勤さえしてしまえば、デスクの前で椅子に座ってできる業務がほとんどなので、あまり気にならない。トイレに行く速度が遅いので余裕を持って早めに席を立つくらいが注意点である。

オフィスの仕事は運動不足を言われるが、まさにその通りで、こうなってみるとあらためて肉体的負荷が少ないのが実感できる。その上、椅子には回転軸があるので、無理に腰を捻る動きもしなくてすむ。ある意味、軽めの実戦環境でリハビリしているようなものなのである(いま振り返ってみた際の個人的感想です)。

この期間の生活で、最もキツイのは寝ている時で、寝返りなど姿勢を動かす際に痛みで起こされてしまう。更には、寝ぼけながらも痛みの無い姿勢を探した結果、答えの無いルートに迷い込んで難儀した。つまり、この先どの態勢に移動しても激痛、では来た道を戻ろうとしたら何故か戻るルートも激痛という八方塞がりで詰んだ状態になってしまうことが良くあった。その場合はどう打開するかというと、運を天に任せて痛みを覚悟して強引にカラダを動かすしかなく、全然安眠できないのである。

会社で嫌でもギックリ腰の話をする必要があるが、意外と経験者が多いのに驚いた。経験者から非常用にロキソニンテープを教えてもらう。「効きすぎる」と言われた結果、いよいよの時に使うことにした(結果使用せず)。

また3日間は帰宅して寝る前に毎日氷で患部をアイシングし、風呂は湯船に入らずシャワーで済ませる。

1週間もすると相変わらず低速かつ、支えつき徒歩であるが、何とか普通に近い生活ができるようになってきた。しかし、そこでまた新たな敵が訪れてきた。

咳である。

気管支炎になってしまったのか、咳が止まらなくなってしまった。しかも一度出ると連続してゲホゲホとやるカタストロフィなタイプの困った咳である。

これがまた腰に来るのである。支えがない直立姿勢のとき、寝ているとき、などの状態では危機的な痛みがあり、その都度悶絶である。

とはいえ1週間後には歩く速度がほぼ元どおりに、2週間後には痛みもほとんど無くなった。めでたしである。

今回の経験から得たポイントは

・これでもかというくらいの患部アイシング(3日間)

・1週間は風呂は湯船に入らずシャワーのみ

・動ける場合には無理しない負荷環境(例:オフィス内勤)で、痛みがない範囲で、できるだけ動く

といったことであろうか。

こんな記事もあった。

ぎっくり腰は「動かして治す」…腰痛の改善と治療の新常識

 世界の多くの国の診療ガイドラインには、ぎっくり腰を代表とする腰痛が起こった場合は3日以上の安静は良くなく、痛みの範囲内で動いた方が良いとされています。様々な研究結果から、3日以上安静にした人の方が、ふだん通り動いた人よりも、その後の経過が悪いことが分かってきたのです。腰痛への認識は、以前と大きく変わってきています。(以下略)

引用終わり

私は意外に間違っていなかったのであろうか(あくまで個人的感想です)。

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【町内会】少子高齢化の結果としての縮図ー弱小町内会における”茹でガエル”状態

非常に忙しい。

例の町内会である。

中国から帰って間も無く、町内会の総会があり、今年度からついに役員へ昇格(苦笑)である。

私自身は新参者なので町会長などの名誉職は流石に年配の方にお任せし、実務的、総務的な役割を担うことに(要するに書記という奴ですな)。

先日前任者から引き継ぎをしたところ、これが異常に大変であった。

・年度替りによる役員の異動による告示事項の変更申請

・市からの回覧物の送付先の変更

・法人市民税の減免申請

・その他、認可地縁団体関連の手続き

などで早くも忙殺され、会社を休んで申請作業をする状況になっている。中国出張の報告も終わっていないのに・・・。

さらに回覧物の作成、印刷、配布や町内にある掲示板の管理もしなくてはならない。

結構ハードな仕事である。

ただ、まあ、やむを得ないと思っている。

実はこういう場合、多少面倒であっても仕事の発信寄りのポジションになる方が、実態として業務のコントロールができて自分の作業に使える正味時間が結果的に増えることになって楽になるという私の経験則から、まあなんとかなるのではと思っている(その逆で仕事の後流側になると、期日は固定され上流側の遅れも含めて対応することになるので自分のフリーハンド分が少なくなるのである)。

そんななか先日、第1回の新体制の役員、班長の会合が開かれた。

見る限り出席者8割は後期高齢者である。若者(といっても40オーバー)は仕事があったりして逆に参加しにくくなっている。そんな中で現在の置かれている状況の意見が続出した。

・年々高齢化で、役割を果たせないということで役員を辞退させて欲しい、という老世帯が出てきている。

・その結果、従来15年周期くらいであった役員が4,5年で回ってくる班が出てきた

・高齢化で脱退する世帯もあり、町内会の参加世帯数の減少に歯止めが効かない

・若い世帯はそもそも任意ということで入らない

・世帯数が少なくなり、運営資金も減少し赤字になっている

要するに「このままではヤヴァイ」という状況なのである。

意見は交わされるものの、効果的な案は出てこない。こんな感じでこの数年も経過してきたのであろう。真綿で首を絞められるような、茹でガエル状態である。

世帯数100ちょいしかいない町内会で、日常業務だけは一通り必要(なので役員負担は同じ)なのにもかかわらず、対外的には一町内会として他の大規模な町内会と同じレベルの業務・金銭的負担を強いられる状況。でも補助金は世帯数に比例するという矛盾。

これから弱小町内会がどう生き残るのかは、市政の大きなテーマであると思われるが、積極的に手を差し伸べてくれる感じもない。

じゃあ自主的に何かすれば良いのかというと、収益事業をするのはおそらく別の難しさがあるはず(確定申告とか)。あとは寄付金を募って、それでもダメなら何処かの自治会に吸収してもらうしかないが、それだって向こうの都合もあるだろう。

ある意味少子高齢化の帰結としての日本の行き詰まりの現状をミクロに体現している気がするが、解決策はあるのであろうか?

結果としてますます町内会に残ってくれる若者に負担が集中して、いつかは潰れてしまうような未来が見えてくる。

ストレスのはけ口としてぐちぐちと呟いたが、この一年頭が痛いのである。

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