【書評】森時彦+ファシリテーターの道具研究会「ファシリテーターの道具箱」–「天然モノ」のファシリテーターと「養殖モノ」のファシリテーターの区別を考える

 森時彦+ファシリテーターの道具研究会「ファシリテーターの道具箱」(ダイヤモンド社)を久々に読み返している。

 この本は2008年初版であるが、会議のファシリテートに悩む際に、パラパラと読み返すと、”道具”と呼んでいる様々な会議の活性化・整理のためのツール群(49個ある)があり、今なお新しい気づきを得られる良書である。その中には「ワールドカフェ」なども既に言及されており、先進的な内容である。

 ただ、最初にこの本を入手しようと思ったきっかけは、本書の序章にある「天然モノのファシリテーター」という言葉を見つけたことである。以下引用させていただく。

みなさんの知っている人の中に、こんな人はいませんか?

●その人が入ると、雰囲気が変わり、場が盛り上がる

●その人と話をしていると、明るい気分になり、元気になる

●質問上手で、問われるままに考えていると触発され、やる気が出てくる

ファシリテーションということを知らなくても、このような人たちはいるモノです。日本ではまだ数少ないプロのファシリテーターである青木将幸さんは、こう人たちのことを「天然モノのファシリテーター」と呼んでおられます。天然モノは希少です。養殖しないと、世の中の需要に間に合いません。

森時彦+ファシリテーターの道具研究会「ファシリテーターの道具箱」(ダイヤモンド社) p.2

 「天然モノ」、そして「養殖モノ」という表現、まさにピン!ときたのである。しかし、この表現はここまでで、これ以降はこの分類はあまり出てこない。むしろ「天然モノ」ではなく、訓練するべき「養殖モノ」が必要なツールについての記述がメインになる(それが書籍の目的だから、別に問題はない)。

 実際に、これまでの自分の経験で参加した会議は数多い。職場の会議、集合研修(社外、社内)、相手先での会議など、参加者も多種多様であった。

 成功した会議もあれば、失敗した会議もある。

 感触としては、成功した会議は1%、失敗した会議(その会議があってもなくてもどっちでも良かったという毒にも薬にもならない例も含める)が99%といったところか。

 いや、成功0.1%と表現しても良いかもしれない。1000回に1回くらいの割合であろうか。

 要するに、失敗した会議を繰り返しながら、えっちらおっちらと少しずつ前に進んでいるのが日常のイメージである。

 私が一番失敗例で思い浮かぶのは、ある会社の重要なプロジェクトで若手メンバーが複数部門から横断的に集められ、グループに分けられ、事業拡大のための中期計画を立案する会議に参加した際である。

 ここで、悪い意味で”ファシリテーション”にかぶれた人が、ファシリテーターをやってしまったのである。さらに悪いことに、その人自身が、そのメンバの職位的に最上位、つまり「オーナー」であるという構図。

 つまりファシリテーターが中立な第3者どころか、一番偉い人自らファシリテーション技法を駆使し、それこそ壁全面ホワイトボードでのブレスト、ポストイットを使った会議ごとの友情のアドバイス、マインドマップを使った見える化、アクションアイテムの見える化など、明らかに「道具」だけは先進的、でも、結果的に皆の出てきたアイディアを最後に本人が総括すると「その人の意見」に修正されてしまうという、参加者にとっては悪夢のような会議になったのである。

 オーナーの持つ見えない権力(いくら本人がオープンな意見を、と言っても)による空間支配の中で、従業員のアイディアは萎縮するばかりであり、毎週のように開かれ、議事録だけはキチンと発行されたが、数ヶ月後にはなし崩し的に消滅した。そして、そのオーナーも数年後失脚した。

 またいわゆる集合研修などでの、ある種のバイアスがかかった状態(特に選抜された同じ職位のライバル意識ギラギラ系)における、いつまで経っても溶けないアイスブレイク、我先が先行する気持ち悪い積極性など、こうした事例ではファシリテーターはいるが、あまり役には立っていない。

 こうした経験により、正直言って「ファシリテーション」「ファシリテーター」に良い印象を持っていはいなかったのだが、前述の「天然モノ」「養殖モノ」の表現を見た際に、少し腑に落ちたのである。

 ”あの人は養殖モノ、しかも、紛い物だったのだ”と。

 そして先ほどの文章にあった”その人と話すだけでアイディアがいつの間にか湧き出てくる”という経験、これも確かに自分の経験の中で少ないが、あるのである。そうした人にも少ないがあったことがある。

 その人は、言うなれば「あるスキルにしか特化しておらず、かつ、そのことを自分で理解している人」であった。

 私がテンパって、納期遅れの業務で、一生懸命書類を作っていた。

 この書類も何度も上司に提出しているが「違う。でも、何が違うかを言うと、君のためにならないから」という理由で突っ返されている書類である。

 もう納期というか、当初自分で約束していた納期からは過ぎている。

 まずい。ボクのために全体のスケジュールが狂ってしまう。でも、もう何を直していいかもわからない。直接の上司はただひたすら待っている。もはや聞くにも聞けない。

 こんな状況で、変なオッサンがふらりとボクの机の横に座ってくるのである。その人も自分のラインではないが、そこそこの職位はあるので対応はする。その様子を上司も見つめて「雑談してる場合じゃないだろ」という視線を感じつつ。

 「・・・困ったことがあって」と言う。

 こっちはそれどころではないのだが、雑談に引きずり混まれる。要するに、自分の仕事の愚痴をしたいのであった。

 しかも、結構な毒舌かつゴシップ含みである。

 あの人はバツいちだの、かつて業務で火事を起こして警察署に捕まっただの、とんでもない雑談が入っているのである。その上で、最後にはニヤニヤしながら「どう、君の部署で嫌いなやつは誰よ?上位三位まで上げてみ?」と訳のわからない質問まで、周囲に聞こえよがしにしてくるのである。

 その人の大好物は他人のゴシップとか、他人の喧嘩なのであることは知っていた。それを聞くと、もう犬がよだれを垂らす状態になって「それから、それから?」と物凄い興味を示すのである。更にたちが悪いのは、その情報を受けて、双方に「あいつ気に入らないよな」と立ち回って、焚き付けまでやるのである。そしてそれを本気でゲラゲラ笑っている恐ろしいパーソナリティを持っている人なのである。

 それはそれでまあ、通常であれば、単なる雑談であるのだが、今、ボクの置かれている状況はそんな安穏とした状況ではないのである。そこで他人の悪口を言える訳もない。

 「・・・〇〇さん、彼(ボクの名前)は今ちょっと忙しいので・・」と上司が軽めに注意してくる。「ああごめん、最近暇なんで話相手が欲しかったんでね、ごめんね!」と全く悪びれず去っていく。

 ようやく元の仕事に戻れる。

 しかし、その瞬間、私の中で”全てが整理されていた”。

 そればかりか今テンパっている書類の”正解”が、私の中に保有されていたことが分かったのである。

 そして、それは明らかにその人の会話によって起こった心的変化なのであるが、どう考えてもその会話の実態は「自分の不満」「他人のゴシップ」「何か笑えることはないか」といった、しょうもない会話なのである。その結果が何故か全く関係ない技術的な正解に到達している。

 本人は気づいていないし、ただのフラフラした一匹狼のような「仕事ができなかったら只の協調性の無い人」なのである。その人がメインストリームになることもなく、一介のスペシャリストとして会社人生を終わったはずである。

 しかし、私にとっては、これがファシリテーションの気づきであった。

 まさにこの人は「天然モノ」であった。

 どうでも良い自分の愚痴で私をリラックス(アイスブレイク)させ、今置かれている課題を客観的な課題に置き換え、その上で、全く関係ない他人のゴシップエピソードの羅列の中で、ブレインストーミングをさせて、私の中で埋もれていた回答を「私に」出させたのである。技術的ヒントも、ゴシップに紛れて人に属する技術として本質的かつ体系的に伝えてくれていた。

 「養殖モノ」と「天然モノ」の、この違い。

 そして「天然モノ」の持つ凄さ。彼らは自分がファシリテーションしている自覚すらないのである。つまりその存在自体、彼らにとっては不要なスキル、つまりファシリテーション自体が血肉化されており、もはやその名前で呼ばれることのない到達点にいるのである。

 しかし、そうした逆説的な状態、それが最もファシリテーター、あるいはコンサルタントの真の到達点なのだと思う。

 「コンサルなんて要らなかった、自分たちで全部正解を導いた」とクライアントに”本気で”思わせることが、本当のコンサルの極意なのである。

 これと同じことが「天然モノ」ファシリテーターには言える。

 それが故に、「天然モノ」は文字化された形では顕在化されないのである。

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修羅場をくぐる経験の必要性ー国産民間ロケットの開発を応援する

 今年6月末に民間ロケット打ち̅上げが失敗し、炎上した。

 このロケットの打上げ失敗は二度目でもあり、色々な報道がなされている。

 産経新聞の記事(「小型ロケットの打ち上げまた失敗 発射直後に爆発炎上 北海道大樹町のベンチャー企業」2018.06.30)から引用すると

 北海道大樹町のベンチャー企業「インターステラテクノロジズ」は30日早朝、同町の実験場で小型ロケット「MOMO(モモ)」2号機の打ち上げを行ったが、直後に落下して爆発炎上し、失敗した。同社によると、けが人はいないという。

 引用終わり

 上記のような動画映像でも流れており、ロケットが墜落、炎上する”事故”映像はなかなかインパクトがある。

 昨日(7月20日)の日経記事(有人」「費用減」両立の壁 民間ロケット「MOMO」2号機 失敗 小型衛星の需要対応急務 )で、少し背景を含めた分析がなされている。 

「将来は人を乗せて飛ばしたい」と語る高い志と、コストを抑えたいという民間ならではの 事情が、困難な挑戦をさらに難しくさせている。

モモ2号機は全長10メートル、重さは約1トン。高度100キロメートルの宇宙空間を目指していた。激しく燃える姿はロケット開発の難しさを印象づけた。

引用終わり

 上記記事に書かれているように、確かにその炎上の映像はなかなかショッキングであり、それに記者自身も引きずられたように、今回のプロジェクトの困難さと深刻さを強調した記事になっている。

 しかし、私は敢えて今回の「失敗」映像、即ちロケットが推力を失い落下して炎上する様は「美しい」と思う。急いで付け加えるならば「美しい失敗」の映像に見える。技術者として大きな「可能性」が見える映像に思えるのだ。

 新しいものを開発する経験をしたことのある人々は理解しているであろうが、数限りない試作を行い失敗を繰り返した末に完成品ができる。

 ロケットという「製品」は確かに規模が大きく、1回のリスクが大きい。

 しかし開発プロセスそのものに失敗の無いものはなく、むしろ 「良い失敗」を繰り返し、その経験を蓄積しフィードバックしたプロジェクトこそが本当に成功するのである。

 失敗を殊更にアピールして、コストだリスクだと、深刻さを表現するのが最近のビジネス環境に横溢している。失敗を恐れて挑戦しない。そのくせ、新しいチャレンジ精神がないことを危惧するという分裂気味の論調が溢れている。

 失敗を恐れるな、と言い、その同じ口から失敗を責める。

 こうした内部、外部からの一律な”正論のノック”は単純にプレーヤーを萎縮させてしまう。正論や理想論を語るベンチのコーチや観客席の観衆ばかり多くなり、グラウンドでプレーしているプレーヤーはひたすら消耗している。本当にそれで良いのだろうか。観客席はそんなに心地よいのだろうか?

 今回の「失敗」が本当に良いものかどうかは今後の検討を待つしかないが、失敗は大きな経験である。そこには汲み取るべき多大な知見が含まれている。これをひとつのデータと考えれば、今回の開発者たちは貴重な技術的経験ができたと言える。

 先に述べた「失敗」しない開発はない、という意味を掘り下げると、仮に一度も失敗が無く終了したプロジェクトよりも、失敗を繰り返したプロジェクトの方が、私の経験上信頼できる。

 製品が市場に出たあとに、新たに潜在的にあったリスクが顕在化し、トラブルに発展した場合、失敗を繰り返した経験に裏付けられたプロジェクトの方が問題把握力、解決力に優れていると思う。

 いわば”修羅場をどれ位経験したか”が、製品のライフサイクルの中で勝負になる場面は必ずあり、一度も失敗しないで辿りついたことが必ずしもアドバンテージにはならないと私は考えている。

 もちろん失敗の原因を分析し、きちんと正しい形で本質的是正処置をすることにより、恒久対策に落とし込むという管理プロセスが必要なのは言うまでもないことであるが。

 最近のIT技術の進歩により、仮想的な机̅上検証の精度が上がっている中で、こうしたリアルな失敗はショッキングな要素を含む。もっとも危惧するのは、こうしたことが開発が本来すべき「良い失敗」「正しい失敗」自体を否定する動きに加担してしまうことである。それはあってはならない。

 「フロントローティング」や「試作レス」と言った上流設計志向により、開発期間を短縮する圧力も高まっている。しかし、最後はバーチャル空間ではなく、リアルな実体で勝負することになることは変わらない。そこを忘れてはいけないと思う。

 つまり、こうしたリアルな失敗は、正しく「するべき」なのである。

 繰り返しになるが、今回の「失敗」を貴重かつ有益な経験とすべきであり、その”修羅場” から得られる経験はこの開発者たちの今後の大きな糧になると信じている。

 かくいう私だって、これほどのスケールではないが*億円する装置を、検収前の試運転で設計ミスに起因する不具合で壊してしまったこともあるのだ(威張ることではない)。

 なので1回や2回の墜落くらい気にするな!と励ましてあげたい。

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【産業機器】垂直多関節ロボットの祭礼業界への応用例

先日用事があって、八王子方面の神社へ行った際に、おみくじ売り場に変わったものが。

200円払ってボタンを押すと、獅子舞が動いて、おみくじを口に咥え、舞を踊った後に排出口から渡してくれるのである。自動化されているのである。

結構古めの装置であるが、ちゃんと獅子舞が舞い、おみくじを咥える。ただ、この動き、どこかで見覚えが。

そう、いわゆる産業用ロボットである「垂直多関節ロボット」そのものなのである。

(wikipedia 垂直多関節ロボット から転載)

これにロボットのアームに獅子舞を被せ、エンドエフェクタ(最先端の部分)は獅子舞の口の中に隠すというアイディア。

踊りの動きもまさにロボットのシーケンス制御そのものである。

なかなかの発想である。まさに応用。感心した。

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【書評】新刊『福島第一原発1号機冷却「失敗の本質」』に見る連鎖複合事故におけるマネジメントの困難さ

NHKスペシャル『メルトダウン』取材班による『福島第一原発1号機冷却「失敗の本質」』(講談社現代新書)を読んだ。

福島第一原発の1号機が、2号機、3号機と比較して、損壊の規模の大きいことは既に解析や観測により明らかになりつつある。

原発は放射線を出す核燃料を中心とする多重の放射能閉じ込め機能を有しているが、1号機は特にこの機能の損壊度合いが大きい。

具体的には、核燃料がほぼ全量溶解(メルトダウン)し、鋼鉄製の圧力容器を溶かし落下(メルトスルー)し、格納容器の床を抜け、更には基礎であるコンクリートを約2m深さまで溶かしているという実態がある。

核燃料が内部の構造体をその崩壊熱で溶かし、更にはコンクリートまでも溶かしたことによりMCCI(溶融炉心コンクリート相互作用)が発生し、279トンという大量に増大した放射性デブリ(ゴミ)が1号機の内部にあると推定されている。

そして、このことが廃炉に向けての作業を阻害し、8兆円とも言われるコストを増大させている要因となっている。

その結果として、廃炉のプログラムとしてチェルノブイリ原発のような「石棺」と呼ばれる”取り出さず、その場で閉じ込める”ような悲劇的とも言えるアイディアが出され、地元などの反対により撤回されるような騒動にも発展している(前掲書p.35)。

ただし、これは政治的な側面であって、現実的にデブリに直面する技術者の構想からは無視できない選択肢になっているのであろうと推察する(その政治的な側面自身の重要性や、そもそも石棺方式が技術的に成立するのかという議論は別にして)。

つまり、279トンという大規模な物量(元々のウラン核燃料は69トンに過ぎなかった)、そしてコンクリートと相互作用し化学的な特性が複雑かつ多様になってしまった放射性ゴミ(デブリ)という除去対象に対して、その技術的解決手段があまりにも少ないという現時点の状況が背景にあると思われる。

何故、1号機の損壊状況はこれほどまでに大きくなってしまったのだろうか。

そうした疑問を受けて、本書では2016年9月に日本原子力学会において発表されたひとつの解析結果を示す。それは

「3月23日まで1号機の原子炉に対して冷却に寄与する注水は、ほぼゼロだった」(前掲書p.162)

という内容である。

衝撃的な事実で、TV会議であれほど冷却に拘っていた努力の裏で、原子炉は非情にもいわゆる”空焚き状態”という最悪の状態を続けていたというのである。

これが1号機の損壊状況が大きくなった原因である。

ではなぜ1号機においてこのような実態が発生したのか。

良く知られているように吉田所長(当時)は、官邸の意を忖度した武黒フェロー(当時)からの「海水注入中止命令」に対し、会議ではこれを了解する姿勢を見せ、現場ではこれを強行したという”英断”があったはずである。現場では、確かに原子炉の冷却を第一優先として、あらゆる手段を考慮し実行していたはずなのである。

その理由の分析が、本書のメインテーマであり、技術的、組織的側面から整理されている。

技術的ポイントは2点あった。

  1. 生き残っていたはずの冷却装置”イソコン(非常用復水器)”が停止している認識が共有されていなかったことにより、イソコンの初動が遅れたこと。
    津波で全交流電源が喪失し、イソコンの弁がフェイルセーフ設計によりクローズし、その後、現場で再起動するために検討していた約3時間の停止の間に、核燃料は既にメルトダウンを始め、事態は決定してしまった。
  2. 消防車による注水ラインにはバイパスフローがあり、投入した水のほとんどが原子炉には届かず、別のラインから漏れてしまっていた。これは3月23日まで続いた。この事実に気づくことが遅れたこと。
    これは本書に先立つ『福島第一原発事故7つの謎』の第5章「消防車が送り込んだ400トンの水はどこに消えたのか?」に詳しいが、本書では更に分析を進め、1号機では他号機よりバイパス経路が多かったことを明らかにしている

技術的側面に加え、組織的には吉田所長(当時)と本店、吉田所長(当時)と現場(中央制御室)との間の情報の壁があったことが指摘されている。これは私も以下の記事で、2重のフロントラインシンドロームに陥っていたのではないかと考察した。

 関連記事:フロントライン・シンドロームと兵站の問題

それに加え本書での指摘として、以下がある。

隣接した複数の原子炉が連続してメルトダウンして事態が加速度的に悪化していく「複数号機同時事故」。これまで世界で起きたスリーマイルアイランド原発やチェルノブイリ原発とは全く異なる福島第一原発事故の特殊性である(p.222)

引用終わり

こうした連鎖的な災害に対するマネジメントはまだ構築されていないが、現状の状況にしても、すでに時間軸が通常の技術的な側面とは様相を異にしている。

この先数十年オーダーで設備が老朽化していった際に何が起こるか?

再び連鎖的な状況に至る可能性は存在する。

そのために今回の教訓は、その重要な検討材料として正確に理解するべきであろうし、完全な情報公開が必要であると思う。

関連記事:福島第一原発事故と安全弁

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【駅弁】駅弁設計の名作「崎陽軒シウマイ弁当」

駅弁というのは、やはりハレの食べ物である。

 参考:ハレとケ(wikipedia)

出張自体が一種の非日常であり、そこでの食べ物も、日常というより名物的なものがいい。

コスパから言えば明らかにコンビニ弁当なのだが、旅先感覚としては、明らかに割高な(←失礼)駅弁に手を出してしまう。

とはいえ駅弁には結構当たり外れがある。正直ボリューム的はイマイチだ。ハズレの場合のダメージは、購入時点の期待値との差分で効いてくるので、やはり定評のあるものwを堅実に選んで、決して失敗はしたくないのである。

そんな中で、私のイチ押しは、横浜名物「崎陽軒シウマイ弁当」である。これは非常によく設計されていると何時も感心している。

駅弁に設計ってあるのかと思うが、やはりあると思う。オカズのセレクト、味付けなど、この弁当には設計者の思想が入っていると思うのである。

オカズエリアには、オカズ能力、即ちツマミ能力の高いものがちりばめられている。特に美味いのが、タケノコの煮物で、甘辛くて絶妙である。辛めのマグロの照り焼きに対して、甘目の卵焼きとカマボコが配置。

またご飯の炊き方も独特で、適度にモッチリとしているがご飯粒としてもシッカリしている。駅弁としての必要要件である移動しながらでも食べやすいような一定の塊を形成しつつ、個々の味はキープするという、まさに技術による課題解決の見本のようなご飯である。

wikipedia シウマイ弁当より

ご飯は釜で炊いたものではなく、蒸気で蒸したものを使用しており、粒の立った堅めの食感が特徴である。弁当に用いる米を、安定した味でおいしく供給するための工夫という。

引用終わり

シューマイも5個あり、ハズレの無い旨さである。ラストには干しあんずで締める。

ご飯によし、ツマミによしと正に駅弁の王道である。

東京在住であっても時々日常で食べたくなる駅弁界の名作であろう。

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【書評】暗黙知である設計意図の言語化:北山一真『プロフィタブル・デザイン iPhoneがもうかる本当の理由』

 製造業に限らないが自らの競争力維持・獲得のために、業務プロセスの改善サイクルを常に回していく必要がある。

 特にITという手段を使って設計改善・設計改革を進める場合、本当の意味でその改革が効果を上げているのかどうか、あるいは、費用対効果は問題ないのかどうか、実行する側も、その結果を聞く側も、常に疑問に思いながら進めているように思える。

 加えて、この手の改善活動には、外部の「コンサルタント」が入ってくることもあ流。こうなると尚更、投資した結果が本当に有効だったのかどうかを正確に判断することが難しい。要するに、「高いお金を外部に払ったのだから、今更失敗なんて言えない」雰囲気が、会社経営者まで覆うような状態が起こってしまい、ますます真実の姿を見えにくくしてしまう。

 勿論、目に見えて原価低減や設計リードタイム短縮が実現される状態なら誰も問題にはしない。

 ただ実際やる側としては、常に不安がつきまとうのである。

 こうした設計改革の活動の総括を行う際には、そうした効果をあえて明示的にプレゼンする。「○○億円コストダウン達成!」なんて。

 しかし何か釈然としない。

 ところどころから、不満の声も聞こえてくるからである。

 「作業だけが増えた」

 「設計ゲートが増加して、ミーティングと管理業務が増えた」

 「設計生産システムが一気に新規更新になったため、作業ミスとストレスが増えた」

 「文書管理のための書類作成が増えて二度手間だ」

 「間接業務の専任スタッフが(一時的に)増加している」

 などなど。

 この手の話は、業務プロセスの変革には基本的に(一時的にせよ)何らかの負荷増大は避け得ないこと、および、ビジネスの撤退がバクチの負けを認められない状態と酷似してなかなか意思決定されないこととも相まって、誰もが認める成功事例は限られているように思われる。

 そんな折、読んだ本である 北山一真『プロフィタブル・デザインiPhoneがもうかる本当の理由』(日経BP社)には、設計改革におけるこうした失敗に至る原因が考察されており、首肯できる事例が多く掲載されている。

 大意要約であるが、以下のような記述がある。

  • 設計改革がうまくいかないのは、設計の直接業務(設計業務そのもの)に攻めようとしないからである
  • 社長報告しやすい間接業務中心の設計改革は‘‘改革ごっこ”に過ぎない。

 つまり、設計そのものではなく、プレゼンしやすいIT系の設計改革は、北川によれば本質的ではないという。北山は更に踏み込んで、

  • 設計標準化が失敗に終わる理由は、設計標準化=図面の標準化と解釈されるから
  • 図面標準化の推進は「大は小を兼ねる図面」になり、使いづらい仕組みになる

 と言う(要約は引用者、以下同じ)。

 まさにその通りで、設計改革が、設計そのものではなく、一見とっつきやすい図面の標準化であったり、ITツール導入であったりと、活動を矮小化させてしまいやすいことを指摘している。これは外部コンサルおよび導入する側の推進メンバー双方の一種の知的怠慢がそれをもたらしていると思う。

 成果主義の中で、手っ取り早い成果を追う姿そのものである。

 それは

  • 「設計標準化」は総論賛成、各論大反対になり失敗する

 と言う事態そのものである。

 では、本来の設計業務に踏み込むこととは、どのような行為なのだろうか。

 すでに答えはこの書籍の中にあって、”設計そのもの”である。

 実はこの”設計そのもの”が現場の設計者やマネージャークラスでも、本当に意味で理解されていることは少ないと思う。

 そこに上記の設計改革が、往々にして失敗に至る組織的問題がある。

  • 図面の標準化ではなく、設計の標準化をするためには、設計を言語化・数値化することが必要である。
  • それはCADモデルの絵のことではない。設計に言語化(名付け)が必要。
  • CADモデルの‘‘名無しの寸法に名前を付ける”こと
  • 技術の可視化ができていないので、その根拠が見えない。 

 つまり、設計者の”設計意図”を具体的な「設計情報」に盛り込むことが設計の標準化の本質なのである。

 3D-CADの履歴情報やパラメトリック情報というようなツール視点とは全く異なる。特に、言語化(形式知化)された設計意図が必要になるのである。

 これはデジタルではなく、非常にアナログな部分であると思う。そして、実はあまり我々にとって成功していない領域である。

 設計手法を工学的にアプローチする設計工学においても、設計意図の表現は難しい。今後AIなどの活用が期待されるとは思うが、将棋や囲碁のようなゲームより、もう少し複雑な要素が入っていると思う。ただ、実現できないことはないはずだ。

 北山は、製造業の設計について明快に以下のように規定する(大意)

  • 製造業=固定費回収であり、もうけが産まれる源泉は固定費のみ(ここで言う製造業としての固定費とは設備/治具/技術/現場作業)
  • この固定費をマネジメントすることが必要
  • 製品設計においては、顧客要求を満たす設計解を見つけ出す作業に、固定費を制約条件として入れてトレードオフにすることにより最適解を見つけ出す
  • その最適解を追求できる仕組みを作れば大きな競争力になる

 設計改革は、そうした最適解を見つけ出すための活動であり、そこで口当たり良く語られる様々なバスワードに惑わされず、設計の本質部分に対して切り込むことはなかなか難しい。

 本質にある「設計意図」は、属人的でもあり、思想でもあり、暗黙知でもあり、それまでの伝承(歴史)でもある。こうした部分へのアプローチは、今後注目されていくであろうが、方法論的にはまだ色々な角度からの検討が必要と思う。

 これまでの設計改善活動の欠点を的確に指摘した良書である。

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【上流設計】設計におけるクリエイティブとは:白紙に最初の点を書き込む人とそれを受け継いで育てる人

ビジネスは永続した利益創出を使命とする以上、常にイノベーションを生み出すことが必要になる。

とはいえ、イノベーションを生み出すことはそう簡単なことではない。誰もが手順を踏んでできることではないからだ。

ここではイノベーションを生み出す、という方法論では無く、そこに携わる要員配置について考察してみたい(大上段だな)。

製品のライフサイクルには、①導入期②成長期③成熟期④衰退期というサイクルがあることは良く知られていることと思う。それぞれのフェーズにおいて、企業が利益を最大化する戦略は異なる。

少しだけ例をあげると①②の状態で先行している場合には、その時点で先行者利益を十分に確保し、③のレッドオーシャン化の前に引き上げ、次の市場へ向かうという「先行逃げ切り戦略」や、②の後期までは後発で先行者の状況を十分見極めた段階で遅れて参入するも規模感を元に低価格勝負を仕掛け③で市場を支配するという「二番手戦略」などがあるであろう。実際の戦略はもっと複雑であることは言うまでもない。

ここで、①②③④のフェーズにおいて、どんな適性を持った人間にその責任を持たせるかは、経営上の大きな課題であり、これも良くケーススタディとして挙げられる問題だ。

大きな企業でありがちなのは、成功した製品があり、③④のフェーズを迎えてきて、次の新製品を探す場合に、その既存事業の責任者を次の担当としてしまう場合である。ちょうど既存製品も売り上げが落ちてきたことだし、そこのエースを次の製品のイノベーターにしよう、といった形である。

しかし、③④の成功事例と①②の成功事例は通常異なる。方法論も大きく異なる。③④では成熟した市場において、いかに利益を最大化させるかが目的であり、①②は何もないところから、新たな儲けのタネを見つけ出すということが目的であり、それぞれ得意とする適性は異なるのである。

言い方を変えると、既存製品を改善、修正することと、新たな製品を生み出すことは全く異なるパフォーマンスなのである。もちろん両者を兼ね備えたスーパーパーソンもいるだろうが、極わずかである。

「設計」という作業でも同様のことが言える。「設計」(ここでは機械設計を例にとる)というと、CADを使って図面を書くというイメージがあるが、実際の現場では全く異なる。図面を書くという行為はどちらかというと「製図」であり、設計の最終工程に位置する。それ以前に、その製図を行う前提条件を決める、数値計算、配置の検討、要求された機能を満たすための構想のフェーズがあり、この前工程が製品の性能、コストの大きな部分を占める。

機械装置を作るためには、要求元(顧客やコンシューマ)の要求仕様や法的規制があり、数値計算により必要な諸元を決定し、これらを前提条件として経済性も含めた”ざっくりとした”製品コンセプトを決め、要求元と合意する作業もある。企業によっては営業のセクションが実施するが、これも広義の設計である。これが決まらないと、いわゆる機械設計者は全く手を動かせない。高価で強力なCADツールを保有していても、何も動かせないのである。

この要求元との交渉を、仮に基本設計、概念設計、構想設計などと呼ぶが、ここで製品の性能あるいはコストの大部分が決まる。すなわち、実際にはここで要求元からのベンチマーク、いわゆるコンペがあった場合には、ここでの設計能力が、製品の競争力を決め、ひいては企業の競争力になるのである(そこで仕事を受注できなければその後の設計の仕事がなくなることは言うまでもない)。

これについても前の製品ライフサイクルと同様のことが言える。やはり、基本設計を行う設計者と、CADなどを使用した詳細設計を行う設計者には適性が異なるのである。これを間違えると大きな人事上のミスマッチになるが、この点はあまり重要視されていないと思う。

基本設計は、白紙の状態の紙に勇気を持って最初の点を打ち、線を書く人間である。その点や線は後から詳しく見ると正確な点、線でなくても良い。いわばラフスケッチである。しかし、そのラフスケッチをしない限り次の仕事に移行できないから勇気を持って実行するのである。

詳細設計は、そのラフスケッチを元により詳細、精細に絵を描いていく。

どちらも最終的な絵のクオリティに対して必須の作業である。しかし、いざ「設計」というと後者の方が世間のイメージに近く、クリティティブな仕事と思われているのではないか。基本設計というジャンルは、それより前の営業だったりマーケティングのような業務と見なされ、クリティティブとは異なる文脈で語られることが多いように思える。

私自身は、そこには異議を唱えたい。むしろクリティテブ、イノベーティブなのは白紙に最初の1筆を書く人間であると。そしてあまり重要視されていないが、その瞬間には、ものすごい勇気を持った決断力が必要なのである。

追記:私が知る限り、やはり優れた会社は、基本設計に技術のエースを置くことが多いと思う。いわばその製品技術全てに精通した人間にその仕事をさせることが多い。

追記2:そんなこともあり、個人的には設計工学でミシガン大の菊池先生が提唱された「FOA」(First Order Analysis)の考え方に非常に興味を持っている。CAEの考え方よりも重要と思うが、あまり人口に膾炙していないような気がするのが残念だ。

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