【書評】黒島伝治「渦巻ける烏の群 他三編」プロレタリア文学の枠内に収まらない物語性

 黒島伝治「渦巻ける烏の群 他三編」(岩波文庫)を読んだ。表題作「渦巻ける烏の群」は、作者じしんが参加した日本軍の「シベリア出兵」を題材とした、いわゆる”反戦文学”として名高い名作として知られている。

 ここに納められた4編の小説は、当時の日本の貧困や軍事制度に対する民衆の悲劇をリアリティ溢れる筆致で描く。いわゆるプロレタリア文学に属するものであるが、こうした文学のもつ政治性とは異なる物語性を感じさせる。

 その「階級」的に全くの対照的である志賀直哉のもつ資質と非常に近しいものを感じる。それは例えば志賀の「小僧の神様」や「清兵衛と瓢箪」のような物語性の高い部分と深く通じ合っているように感じるのである。

 ただし、その問題意識の向きは、志賀直哉のもつ”芸術性”あるいは”理想主義的”なものと黒島のそれは異なり、あくまで貧しき人々の悲劇に寄り添っているようだ。

 本人の体験にも基づくであろう「橇」や「渦巻ける烏の群」も、その三人称で語られる小説世界自体は明らかにフィクションでありながら、厳冬のシベリアの凶暴的な純白の風景、そこに存在する日本兵の異物的な存在感が説得力をもって描かれ、そして最終的な「民衆の悲劇的結末」が、作者の物語の力によって強くリアリティを与えられている。

 貧しい農村の家族を舞台にした「二銭銅貨」では、貧困のなかで二銭すら出せないことで”コマの緒”が友人より短いものを与えられた子供に訪れる悲劇であり、これもフィクションとわかっていながらもその物語性によって悲劇性は強まる名作である。

 

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【書評】福田恆存「人間・この劇的なるもの」進歩主義の欺瞞を暴いた”奴隷の思想”の瑕疵と、<部分の中にある全体>概念導入による修正

はじめに

 福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)を読んだ。1956年、戦後11年経た頃に発表された論争的な書である。

 当時の世相状況は、第二次世界大戦敗北後のサンフランシスコ講和条約が成立(1952年)したのち、冷戦構造が成立した中で、いわゆる反共的な政治状況=”逆コース”が進み、この世界状況(冷戦構造)を反映して論壇も、いわゆる進歩主義的・革新的な思想と、保守主義が先鋭的に対立していた。

 進歩主義的な主張は、いわゆる旧来の日本軍国主義に対するカウンター的な意味もあり、個人主義を旗印として、旧弊な習俗・伝統を否定し、自由を求める”解放思想”であった。

 いわば当時の進歩的文化人の主流に対して、福田は真向から反対意見を提示した。

 本書は、こうした進歩思想に対する一連の福田による論争の中で、彼らとの本質的な人間観、幸福観の違いを感じた福田が、その人間観に基づいて”個人主義的ヒューマニズム、あるいは、自由思想は人間を幸福にするか?“という問題を設定し、その論拠の自己撞着を明示することにより、反証を行なっている。

 この論点は現時点でも有効であり、今この時代に読まれるべき古典としての価値を有している。ただし当然のことながら、そこには現代的な観点からの見直しも必要であろう。

論点の整理

 以下に、福田が本書で主張している論理を筆者の責任において図示化したうえで、その反証の論理を追ってみたい。

 その上で福田自身の論理自体にも、ある種の論理矛盾があることを指摘し、それを新たに解釈しなおすことを提案する。

 表1に本書における対立構造の論点を整理したものを示す。

 表1では、進歩主義、保守主義と比較して記載した。当然のことながら、福田が拠って立つ保守主義の立場で整理されたものである。

 それぞれの立場には、より基本的な「原理」が記載され、差異が明確化されている。ここではその原理を2点とした。

 原理と称したのは、それ自体で証明ができないもので、いわば立場のようなものであり、端的には”好き嫌い”である。そして福田が攻撃する「進歩主義」との差異、すなわち論点は、本書の主題でもある「人間が幸福に生きること」である。

 これの対立する論点が、いずれの立場がより論理として優れているかを議論している。

 そして、保守主義者である福田は、有名な”奴隷の思想“による自由思想、解放思想、進歩思想のもつ自己欺瞞、自己撞着を明らかにした。その予言は事実、その後の社会主義国の弾圧、新左翼運動の粛清の歴史によって正しさの実証もされている。

 奴隷の思想とは、以下のようなものである。

自由ということ、そのことにまちがいがあるのではないか。自由とは所詮、奴隷の思想ではないか。私はそう考える。自由によって、ひとはけっして幸福にはありえない。自由というようなものが、ひとたび人の心を領するようになると、かれは際限もなくその道を歩みはじめる。方向は二つある。内に向かうものと外に向かうものと。自由を内に求めれば、彼は孤独になる。それを外に求めれば、特権階級への昇格を目ざさざるをえない。だから奴隷の思想だというのだ。奴隷は孤独であるか、特権の奪取をもくろむか、つねにその二つのうち、いずれかの道を選ぶ。

福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)p.84

 すなわち自由主義に基づく進歩主義は、自由を求めながら決してその目的を達成しえない、つまり自己矛盾を生じているとする。

精神の自由の頂点においては、ひとは自己を証するために、自己以外のなにものも必要としなくなるだろう。かれは他人を否定し、不要物と化する。物質的自由においても、それは同様である。その極限においては、それは他人の否定を意味せざるをえない。(略)自分以外のすべての存在は、人間であろうと、組織であろうと、物質であろうと、ただ自己の快楽を保証するための媒体としてしか意味をもたなくなる。それが自由というものの正体であり、奉仕と屈従とを裏がえしにした生活原理にほかならない。

福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)p.91

論点の評価

 この”奴隷の思想”による進歩主義への福田の反証は、公平な目で見て、福田のほうが2つの点で優れていると判断できる。

優位点1:より根源的な理由に基づいていること

  ロレンスの例にもあるように、福田の論点の方がより人間にとっての生命性にまで広げた論理であり、いわば”生物としての人間”としての観点を持っていることである。

優位点2:より首尾一貫していること

 繰り返しになるが福田による”奴隷の思想”の論理は、進歩主義の拠って立つ原理に基づくと、それが論理破綻していることを示している。同時に福田の論理自体には(一見)それはなく、原理に基づき首尾一貫している。いわば、よりself-consistentな理論であると言える。

福田の論理矛盾

 ただ、急いで付言しておくならば、首尾一貫しているように見える福田の論理にも、いくつかの瑕疵が指摘できる。それを以下に検討しておきたい。

 福田の論理の優れた点としてあげた2点について、優位点1は単純に議論を生物学的な話に拡張しただけという指摘もあろう。また、優位点2については、厳密に検討すると「比較的」首尾一貫しているにとどまっていると考える。つまり、福田の論理にも、程度の差こそあれ論理矛盾を有している。以下で詳細に検討する。

 具体的な論理矛盾は、死についての思想である。

 福田は、以下のように「全体に対する部分の俯瞰」を錯覚であると否定する。

今日、私たちは、あまりにも全体を鳥瞰しすぎる。いや、全体が見えるという錯覚に甘えすぎている。そして、一方では個人が社会の部分品になりさがってしまったことに不平をいっている。私たちは全体が見とおせていて、なぜ部分でしかありえないのか。実は全体を見とおせてしまったからこそ、私たちは部分になりさがってしまったのだ。ひとびとはそのことに気づかない。

福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)p.32

 しかし、必然としての死、生を正当化するための宿命としての死と解釈する福田自身が、「全体を鳥瞰した」視点に拠っている。これは全体は鳥瞰できず不可知として捉えた福田の原理①と矛盾する。

かれらがそのために死ぬに値するものが生のなかにあったのであり、それがまたかれらに生きがいを与えていたのだ。(略)そのために死ぬに値するものは、たんなる観念やイデオロギーではない。個人が、人間が、全体に参与しえたと実感する経験そのものである。それは死の瞬間においてしか現れない。(略)私たちは死に出あうことによって飲み、私たちの生を完結しうる。逆にいえば、私たちは生を完結するために、また、それが完結しうるように死ななければならない。

福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)p.112

 つまり、福田も指摘しているように、幸福に生きることにつながる「死」とはまず自分の死であるが、われわれは他者の死しか経験できない。これに対して、全体のもとで宿命としての必然を語るとき、部分を超えた視点、いわば鳥瞰的な視点が必須になる。これは福田の原理①と矛盾する。

 また、”奴隷の思想”についてもひとつ瑕疵がある。内と外の2つの道筋があるとされ、その1つ「孤独」を否定する際に、そこに原理的な主張が存在する。

 つまり、「孤独者が全体の支えなしに生きられない」として、この選択肢を排除する客観的根拠が何も語られていないのである。福田自身も何度もこの部分は繰り返し語っているが、原理的な主張の域を出ていない。

論理矛盾の回避

 では、進歩主義と保守主義はどちらも似たようなものであるのか。そうではないであろう。より根源的である福田の論拠を自体を修正することは可能なはずである。

 それには、”部分の中にある全体”、という考えを導入すれば解決できると思われる。

 優位点1にあげた論拠である、より根源的な理由としての生物としての人間、あるいはロレンスからの言及である”性の問題”である。これは、生物学的な用語で換言すると、要するに”大脳新皮質から大脳旧皮質へ遡れ、それが幸福だ”といっているに等しい。既に述べた通り、この主張自体は、より広い概念への拡張であり、福田の論理が強力なゆえんである。

 これを更に根拠づけると、何を意味しているのか。自己のなかに、生物学的な進化の歴史があること。そして自己の生命の存在は、過去に遡る何世代のもの先祖の歴史そのものであり、これこそが「部分のなかにある全体」なのである。

 先に福田の原理的な主張であるとした「孤独者は全体に支えられないと存在できない」という主張もまた、この「部分の中にある全体」という観点を付加して拡張されなくてはならない。

 孤独者は、自己のなかにある全体によって支えることができるのである。これによって先ほど瑕疵を指摘した”奴隷の思想”も、孤独者の論理によって自己矛盾を回避される。

 無意味な死や誰にも知られることなく孤独に死んでいく例は、沢山存在する。炭鉱労働や、シベリヤ抑留の日本人もそうだった(関連記事:シベリア抑留と強制労働)。また現代のブラック労働による孤独死もそうである。彼らの「死」は福田の論理では評価できない。それを救済する必要がある。

 当然難しいことは言うまでもない。だが、そこに孤独者が生きていく幸福論の可能性があるのではないか。

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シベリア抑留と強制労働

はじめに

 1945年から1956年までの約11年にわたって行われた、ソ連による日本陸軍の捕虜約50万人に及ぶ強制労働、いわゆる「シベリア抑留」を整理した(第1章)。

 続いて、いくつかの論点を提示する。

 極寒のシベリアにおける過酷な労働環境(2.1節)、強制労働における組織統制の問題(特に日本軍が保有した「戦陣訓」の精神が、強制労働に対してどう対峙したか)(2.2節)、その後の「民主化運動」における組織分裂(2.3節)、更に捕虜労働の国際法的是非(2.4節)、そして底流としてのシベリア出兵の記憶(2.5節)を整理した。

 それらの論点を受けて、3章で「戦陣訓」に代表される戦前の日本軍の精神を敗北させた「強制労働」を再度概念的に検討しなおし、労働という概念が本質的に「強制」という概念を持っていることを論じる。

 4章では、労働にとって「強制」が不可避であり、他者との関係において「支配」が逃れられないとする前提のもとで、その「支配」を乗り越えるための方法を提示する。

(文中敬称略)

1.事実関係

 いわゆる「シベリア抑留」と称されている事件は、それ自体が様々な様相を持ち、現代にまでその影響を残す歴史的事象である。

 ここで”様々な様相”と記述した理由は、本事象が社会的に重層的な側面を持っていることによる。

 すなわち、簡単に思いつくだけでも

  •  国際政治権力のパワーゲームとしての側面
  •  戦前の日本軍あるいは帝国主義の精神的イデオロギーの側面
  •  国家の敗北に対する日本人の心情の反応
  •  捕虜を他国の労働力として行使する強制労働のもつ意味

 などが挙げられる。まず、事態がどのように進んでいったのかを理解する意味で、事実関係を以下に時系列にまとめた。

 表1 シベリア抑留に伴う時系列

日時出来事
1945年4月5日相互不可侵を謳った日ソ中立条約の延長非継続をソ連が通達
8月8日ソ連、ポツダム宣言参加表明、同時に対日参戦
8月15日日本、ポツダム宣言受諾および降伏を国民に発表
8月16日日本 即時停戦命令
 ソ連 侵攻継続 樺太占領
8月18日ソ連 千島占領
 関東軍山田大将とソ連軍極東司令官ヴァシレフスキー元帥による停戦交渉
8月23日スターリン「国家防衛委員会決定No.9898」により日本軍捕虜のソ連内収容所への移送・強制労働の決定
8月26日関東軍総司令部「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」ソ連へ送付
 大本営「関東軍方面停戦状況ニ関スル実状報告」ソ連へ送付
 停戦終了
9月2日降伏文書調印(ソ連も参加)
 日本人のソ連国内収容所70箇所へ収容、過酷な環境下で強制労働に従事。強制労働に従事した日本人は57万5,000人、死者5万5,000人(日本側推定)
1946年12月19日在ソ日本人捕虜の引揚げに関する米ソ暫定協定
1946〜49年47万人が順次引揚げ
1950年4月ソ連タス通信「日本人捕虜の送還完了」ただし政治犯(残留戦犯受刑者)は含まれず
1956年10月日ソ共同宣言、国交回復
1956年12月26日ソ連引揚船第11次興安丸(最終引揚船)で1,025人(遺骨24柱)が帰還

 「シベリア抑留」とは、第二次世界大戦で連合国に敗北した際に、満洲に駐留していた日本陸軍(関東軍)およびその軍属が、参戦したソ連によって、捕虜として長期に渡り強制的な労働力として使役された事件を指す。

 実際には表1に示したように、1945年の日本のポツダム宣言受諾、武装解除から、1956年の最終引揚までの11年の間、ソ連各地の収容所で約50万人の日本人捕虜がソ連の地で抑留され、労働を強いられたことになる。

 そうしたマクロに粗く捉えた見方であるが、より詳細には様々な問題が発生している。

 様々な事情で日本に帰れずソ連に定住した人々、ソ連から政治犯と認定され、更に拘束され続けた人々も存在する。

 また労働に対する補償問題もその後も残り、現在でも完全解決には至っていない「賃金未払い問題」として残った。

 極寒の過酷な地で捕虜として自由を奪われた日本人にとって、この「労働」とは、現代的にどのような意味を持っているのか。

 次章から、こうした歴史的事象に対していくつかの論点を定義して、議論をしてみたい。

2.論点

 前章で整理した事実関係に対する論点として、以下の5点にフォーカスする。

2.1 過酷な「労働」環境

 日本人が送られた土地は、「労働」環境としてはあまりに過酷な自然環境であった。その形態は、ソ連による強制労働であり、そこに労働者の意思が反映されることはなかった。

 もともとソ連(ロシア)は、囚人を過酷な労働に使役することを計算に入れていたと思われる。栗原俊雄は、それをソ連が元々持っている「強制労働依存体質」と呼んでいる(栗原俊雄、p.32)。シベリアも元々ソ連の囚人らによる強制労働で開発されたものである。

 後述するように、当時のソ連指導者スターリンはもともと参戦の条件として、北海道を占領する意思があったという。しかしながら、アメリカ大統領トルーマンにより、これを拒否されたことを受けて、満洲にいる関東軍の捕虜を自国の労働力として使役することに方針転換したとも言われている(坂本龍彦、p.270)。この意味では、日本の国土占領と引き換えに犠牲になったという側面もある。

 シベリアの自然環境は、-60度の極寒の環境であり、既に敗戦の段階で、装備はソ連軍に簒奪され尽くした中で、極めて過酷な労働環境であり、日本側の推定値だけでも55,000人が死亡したといわれている。

 労働者として以前に捕虜としての待遇であり、その労働は強制で行われた。十分な栄養などを与えられない中で、日本人は多く倒れていった。こうした痛ましい事例は、様々な著書で実際の体験として記述されている。

 その自然環境は現在の我々では想像できないかもしれない。以下のような”吐く息がその場で凍結する”ような現象が起こる。

やがて十二月、街を流れるアンガラ川に水を汲みにいくと、吐く息がすぐに凍りついて、サラサラと音をたてた。ヤクート人が「星のささやき」と呼ぶ零下六十度の現象だった。

(2)坂本龍彦、p.122

 そのような過酷な自然の中で、更に労働自体も過酷なものであった。前述のように、通常の労働環境より厳しい地域に囚人労働を配置するソ連の方針そのものが、捕虜としての日本軍に与えられることになった。炭鉱、鉱山、未開の地の開拓などである。

「チャバンボルガの作業は原石を掘り出すことから石灰を製品にするまでの一貫作業であった。(中略)毎朝七時、全員集合の上、各自の作業が告げられ、仕事に取りかかることになる。(中略)二名の石積み、三名の採石、二十五名の運搬班に分かれ三十五立方米の石積みを完成するのである。これが達成出来なければ食事も就寝も休養もとることが出来ない。(中略)石灰がウランバートルを初めモンゴル各地で行われた建築に使用される必需資材であったということである。毎日トラックが五台から十台石灰を引き取りに来た。これは国策であり是が非でも需要に供給せねばならなかったのである。我々がそのためにいかに生贄になったことか」

(2)坂本龍彦、p.119 林隆氏の「ウランバートルを偲びて」の再引用

コリマは金の産地だが、大島さんたちは鉛の鉱山で働いた。地下五百メートルの地底で一日十二時間労働。囚人たちはみな青くどす黒い顔をしていた。冬、一月下旬は零下六十度以下で一日中陽は上がらない。午後一時ごろ、空がほんのり白くなるだけでまた暗くなってゆく。(中略)地下五百メートルの地底では横穴を掘って鉛の鉱石をツルハシで掘った。食糧は冬季、飛行機が運ぶしかなく、一週間、輸送が途絶えたこともあった。馬糧の腐った塊り(燕麦)をも焼き、むさぼるように寝床で食べた。

(2)坂本龍彦、p.122 抑留軍人である大島英雄氏の「惨!極北コルィマの労働」より再引用

 更に収容所では、食糧も乏しく衛生状況も極めて悪く、人々は生存すること自体で苦しみを味わっていた。馬糞や自らの排泄物すらも再度食べるような、人間の尊厳という観点など遠い彼方に追いやられ、生存そのものに直面させられている体験は身につまされる。

零下三十度の寒さである。本来なら体の内部でエネルギーを燃やさなければならない。しかし、収容所で一日に支給されるのは、こぶしより小さい黒パン一個と、のぞきこんだ目玉が映るほど薄いスープのみ。カエルをつかまえ、ドックに浮かぶ死んだ魚をすくって食べた。残飯をあさっていた猫を捕まえて食べたこともある。

(1)栗原俊雄、p.49 軽野相之助氏の回想

コウリャンは消化が悪く大便の中にそのまま出てくる。これを布で包んで河で洗い、コウリャンだけ取り出し、缶詰めの空き缶に入れて火で炊いて食べた

(1)栗原俊雄、p.51 「読者の手記 シベリア強制収容所」からの再引用

「作業に行く途中、路上に落ちている『馬糞』、その中には、消化されていない麦の粒が残っている。ただ食うこと以外は頭にない。この兵は両手で馬糞を掬いあげ、中にある麦の粒を拾い出してうまそうに食べている。(中略)放心状態で、子供がお握りでも食べるように、無心になって馬糞を食べている有様を、この兵の親や兄弟などが見たら、どんな気持ちであろうか」

(1)栗原俊雄、p.51 「読者の手記 シベリア強制収容所」からの再引用

 更には、本来であれば同胞であり助け合うはずの日本人同士でも、奪い合いや盗みなどが起こるようになった。

最初の冬に黄疸で倒れた。食欲がなくなり、粥を残した。それを見た周りの男たちが「大勢でわあっと奪い合いになった」誰も看病しようとはしなかった。

(1)栗原俊雄、p.53

元大谷大学学長、廣瀬杲は、コムソモリスク周辺でなけなしのパンを盗まれた。すでに僧籍にあった廣瀬は「あきらめるのではなく『よし、こんどは俺が盗んでやる』と思ってしまった。結局盗みはしませんでしたが、私は餓鬼道に落ちた。信仰は壊れてしまったんです」。シベリアの飢えは抑留者の身体だけでなく、人間性をも砕いてしまったのである。

(1)栗原俊雄、p.54

 この廣瀬の発言にあるように、「人間性」自体も砕かれてしまったのである。

 だが、その際に、一つの疑問が湧く。彼らを支えているべき「支柱」は、その間何をしていたのであろうか。ただ過酷な運命を傍観していたのであろうか。

 ここでいう「支柱」とは、物理的には、当時の日本軍のもつ組織であり、精神的には天皇制のイデオロギーである。これらは戦前の日本を支えてきたものであり、敗戦と言えど一定の効力はありうべきと思われる。

 なぜならば、”1945年の敗戦”とは、まず第一に「軍事力」の敗戦と認識されていたはずであって、国家およびその精神の敗北との認識を当時の捕虜たちが持つ術はなかったはずである(国家およびその精神が、真に敗北したのかどうかという点も含めて)。

 更にはあくまで日本は連合国、あるいは中国と戦争をしていたのであって、ソ連と直接に戦闘し、敗北した事実はほとんどない。それにもかかわらず、何故その行為に対してある種の受容がなされるのであろうか。次節で日本軍が、ソ連に対してどのように対峙したかを検討してみたい。

2.2 日本軍の組織的・精神的問題

 捕虜集団を管理する上で、ソ連軍は当初日本軍の組織構造を残存させた。これは将校団と一般の兵の組織を残したことになる。つまり、一時的に日本軍の制度はそのままシベリアの強制労働においても維持されたことになる。ただし、その最上位にソ連がいることは言うまでもないが。

 その将校団は、日本軍の代表としてその環境を改善するために動いたのであろうか。また、その精神的な支柱となり得たのであろうか。

 以下に引用する事例からは、むしろ否定的な実態が浮かび上がる。

(将校団は)「俺たちは陛下の命令で停戦に応じただけで捕虜ではない」と公然と胸を張って言う始末だった。兵たち厳しい寒さと飢えに耐えながら悪戦苦闘を続けていたとき、彼等は兵食の上前を撥ねた特別食で将校室のストーブを囲み談笑するのが日常だった(略)

(2)坂本龍彦、p.69

 本来捕虜を代表して一般兵を守るべき将校たちは機能せず、むしろ一般兵の待遇と引き換えに自らの生存を図る妥協を行っているかのようだ。こうした将校団と一般兵の対立は根深い。

 また、日本が戦前その精神の精華として掲げた「イデオロギー」は一般兵を救ったのであろうか。その精神を誰よりも持っているはずの将校たちの振る舞いからは、その精神すらも機能していないように見える。

 例を挙げると、日本軍の精神的根拠となった”生きて虜囚の辱めをうけることなかれ”とある「戦陣訓」は、シベリア抑留の兵たちに、どのように機能したのか。そして、この「戦陣訓」は、軍部だけの手によるものではない。その成立において、島崎藤村、土井晩翠らの文学者、井上哲次郎などの哲学者の手が入っている(坂本、p.182)。まさに当時の日本の「精神文化」であった。

 1941年1月8日に布告された「戦陣訓」において、前述の”捕虜の全面否定”が入る。つまり捕虜は日本軍において存在しないことになる。よって、シベリア抑留において将校たちは何をどう振る舞って良いかすらわからない無力な存在となり、自らの生存のために取引をすることになる。

 全抑協会長の斎藤六郎は、怒りを持って以下のように語る。

こうした捕虜の人権無視に、天皇制軍隊のゆがみがさらに拍車をかけた。

国際法の基本が解っていないから、天皇陛下が捕虜に非ずといえば、それが世界に通用すると思っていた。関東軍高級参謀の中にはシベリアの抑留中最後まで「俺は捕虜ではない」との信念を通した呆れ果てた将校すらいた。彼らは自分に託された、国際法上の捕虜代表権を放棄し、恥じることがなかった。これら高級将校は捕虜大衆を擁護すべき人道上の義務を理解できなかったのである。

全く救いがない。なにゆえ天皇は「お前たちは捕虜である。捕虜の地位を自覚し生命をまっとうせよ」とまっとうな命令をしなかったのか。私はそれが残念でたまらない。私はシベリア抑留の悲劇はこの辺からはじまったと思っている。

(2)坂本龍彦、p.138 斎藤六郎の証言

 翻ってみると、他国の捕虜の振舞いは日本人のそれとは異なっていたことも示される(ただし、そこにはドイツ人のソ連に対する差別意識も明らかに存在している。全力に服従する日本人、支配される側を明確に差別するドイツ人、どちらが良いのかは議論の余地があろう)。

(ドイツ人捕虜は;引用者注)ソ連におもねることなく毅然としていた。日本人以上にノルマ以上に働いてノルマを引き上げ、自らの首をしめるようなことはしなかった。ソ連の監視兵の目を盗んでさぼる。国際法の規定で将校は労働を免除されている、日本人捕虜は半ば強制されて「自主的労働」を申し出るが、ドイツ人はそんなことをしない。赤旗は掲げないし、労働歌も歌わない。個人は別として、日本人のように集団で「民主化」されることはない。末端の兵までもが国際法を熟知し、主張すべきことはきちんと主張する。そもそも文化的に自分たちの方が優れていると確信しており、ソ連兵を見下していた–といったものだ。

(1)栗原俊雄、p.91

 そもそも、このシベリア抑留を産んだ原因として、ソ連の意思だけでなく、日本軍(関東軍)上層が、自らの労働力を交渉のカードとしてソ連と密約を結んだのではないか、という問題は「関東軍密約説」として今なお謎として残っている。

 日本軍が自主的に申し入れた可能性として、1993年に発見された、関東軍首脳の労働力提供申入れ「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」(栗原俊雄、p.156)などが存在し、この説を裏付けるものとして扱われている一方、その真贋についてはまだ決着を見ていない。

 しかしながら、当時の日本軍が持っていた精神は、強制労働の前に明確に敗北している。軍事力の敗戦ののちに、精神としての敗北を、将校団自らが体現しているのである。高杉一郎は、以下のように語っている。

懲罰大隊は、あたかも「着物が人間をつくる」とか「人間は環境の動物である」という古い諺を証明する実験管のようであった。この実験管は、人間という脆弱な動物のさまざまな化学変化を悲しいほどはっきりとみせてくれた。

ここに送られてきた当初は、藤田東湖の「正気歌」や吉田松蔭の憂国の和歌を声高らかに吟じて「サムライ」的な気骨を誇示していた将校が、一ヶ月の労働ののちには、円匙を握って作業場からひそかに脱け出し、近くにある畑で馬鈴薯を拾う姿が見られた。

(4) 高杉一郎 p.221

 そしてその生きて虜囚の辱めを受けた「敗北意識」は、将校団だけでなくシベリヤ抑留を経験した全ての人々が共有している。それは、生き残ったものさえも同胞への加害意識、贖罪意識としても現れる。

「生還した戦友に『シベリアでは何をしてた?』と聞くと、食料係とか医務室とか通訳などですよ。うまく立ち回って、重労働を逃れた。誰かが代わりにその仕事をさせられたんです」。

「そうだったととしても、生き残るために、仕方がなかったのでは」私(栗原、引用者注)はそう問うた。佐藤は長い間だまったあと、うめくように言った。「我々生き残った者はね、加害者なんですよ」。

(1)栗原俊雄、p.201 佐藤清氏の回想

 フランクルの発言とも類似するこのような贖罪意識は、本来第一義的には、強制労働をさせた側(ここではソ連)にその責任を帰するべきであるにもかかわらず、生まれてしまう。被害を受けたにもかかわらず、ある種の「後ろめたさ」を感じてしまう。これもシベリア抑留による精神的な敗北が生んだ産物であろう。

 高杉はその有名な一節で、以下のような「後ろめたさ」を感じる。

(前略)私はやはりひとたび虜囚の辱めを受けた者の心の傷みを感じないわけにはいかない。私は決して夜になって自分の家の裏口からこっそり入って行こうとは思わないが、もし父や妻や子供たちに再び顔を合わせる機会があるならば、そのとき思わず彼らの前に目を伏せるような心の淋しさを感じることであろう。

(4) 高杉一郎 p.138

 また、政治犯として11年獄中にいた内村剛介は、帰って来なかった人との対比でこう語る。

筆者(引用者注;内村自身のこと)のような臆病卑小な者ではなくて果敢に高く頭を下げて真実をその肩に担おうとしたものはみずからあらかじめ死者の運命を選んだというべきであって、その声はついに地下へ消えざるをえなかったのだ(たとえばわれわれ日本人は、ヴォルグタで東を向いたまま一言も発せず食を絶って死んでいった同胞を知っている)

(3) 内村剛介 p.225

 当然のことながら戦前の日本がもっていたイデオロギーは何一つ彼らの「後ろめたさ」を救済することはなかった。むしろ、シベリアからの帰還者をソ連のスパイ扱いするなどの差別意識で迎える態度すらとった。その原因には、もう一つのシベリアで起こった精神的敗北が背景にある。

 旧軍制度が支柱として敗北した状態から、さらに時間が進むと、冷戦構造を背景とした「民主化運動」と呼ばれるもう一つのイデオロギー闘争が内部で仕掛けられる。

 日本人たちは更に分裂する状況に追い込まれる。次節で詳細に述べる。

2.3 「民主化運動」に伴う組織のさらなる分裂

 前述したように、抑留当初は、旧日本軍の将校団が捕虜集団を「指導」してきたが、次第に共産主義化を目的とした「民主化グループ」に、その主導権の移行が行われてきたという。

 坂本の著書で、”日本に帰らなかった人”として、瀬島龍三の次の日本人捕虜団長である吉田氏の事例が紹介されている。彼は、1955年10月の日本人抑留者の集団的対ソ抗議運動として注目されたハバロフスク事件では、日本人の同胞から罷免を要求されている。つまり、彼はソ連寄りの人間と見なされていた(坂本龍彦、p.78)。

この民主化運動にも収容所の支配権を握ろう、ソ連当局に取り入ろう、といった権力志向がからんで、ドロドロとした抑留史の側面をのぞかせている。

(2)坂本龍彦、p.146

 こうした新たな権力構造-あくまでソ連の支配下限定でしかないのだが-は、最終的に”シベリア天皇”と呼ばれる新たな特権階級を生み出す。

 収容所における情報メディアを支配した「日本新聞」の日本側編集責任者:浅原正基などが代表的事例で、「自分たちを不当に連れ去り、強制労働させた国をほめたたえ、その指導者スターリンを礼賛している」(栗原俊雄、p.84)、そこでは日本軍のソ連参戦は、日本人民を解放したものと解釈される(栗原俊雄、p.85)。

 さらに、民主化運動が最高潮に達しつつあった1949年には、「スターリンに対する感謝署名運動」という(グロテスクな)運動が起こった。この決議文には6万6,434人が署名したという(栗原俊雄、p.99)。

理不尽な旧軍秩序への反発を引きがねとして始まったこの運動は、日本人が日本人を集団でリンチする「吊し上げ」や「アクチブ」と呼ばれた民主化運動のメンバーと反対派が帰国後までいがみあう悲劇につながった。

(1)栗原俊雄、p.73

 こうした民主化運動は、前節の旧日本軍の将校たちへの批判が根底にあった。

 軍人から知識人への権力移行という側面から、ある種の価値転換=”革命”運動として支持を得た。更に段階は進み、知識人(インテリ)層から労働者層への主体の移行も進んでいき、権力構造は変転していった。

 高杉は、こうした状況を以下のように分析する。

ソヴィエト・ロシアの全地域に散らばっている日本人俘虜収容所で、反ファシズム民主主義委員会の確立が叫ばれているとき、民主運動の啓蒙時代には大きな役割を果たした、頭脳は明晰だが、理論と饒舌のほかにはなんのなすところもないインテリゲンチヤ出身の指導者は、もう必要なくなったのではあるまいか。労働者農民出身の若い指導者で、自ら生産労働の先頭に立って働き、民主化運動の成果を収容所の作業成績の昂揚のなかに直接示すことのできる指導者があたらしくもとめられているのではあるまいか。

(4) 高杉一郎 p.204-5

 この民主化運動においても、旧日本軍の制度の「敗北」を見ることができる。第一段階の移行においては、ある時間が経過したのちに、彼ら=旧日本軍の将校たちは、もはや管理制度としても不要の存在であると、ソ連から見做されているのである。

 しかし、この民主化運動の新たな指導者も、同時に新たな権力者として、同胞の恨みを買っている。まさに我々がかつて新左翼運動や、中国の文化大革命で見たり経験したものと同様の思想矯正の姿を見ることができる。

 こうした二重、三重の対立構造はさらなる悲劇を産み、最終的な引き揚げの際に、ナホトカで乗船した人数と比べ、舞鶴上陸時の人数が減っている=民主化運動の権力者が海に放り込まれた(栗原俊雄、p.110)という事例も起こっている。

 つまり、最終的に逆コースを歩んだ日本に帰還するに際し、再度価値の転換が起こっている。

 その結果として、もはや”日本に帰らないことを選択せざるを得なかった”人々も生んでいる。

民主化運動の指導者の中にも、シベリアで彼らが「反動」として吊し上げ、批判した者たちの報復を遅れて帰国しなかった人々がいる、と言われている。

(1)栗原俊雄、p.132

 こうした対立自体も、第一義的には不当な強制労働に起因する問題である。しかし、その実態としては個人レベルの苦悩にまで落とし込まれ、決して個々の人生は救済されることはないという悲劇的な構図になっている。

2.4 捕虜労働の国際法的問題

 本節では、この「労働」における国際法的問題を整理する。

 シベリア抑留を「労働」の問題と捉えた場合、この「労働」とは一般に理解されている「労働」とは、明らかにかけ離れたものであった。

 つまり、労働者が自らの意思のもとに労働に従事し、対価と交換するような契約形態ではなく、自由を制限された上での強制であったという事実である。そもそも、依然として「賃金未払い」の問題は解決していないのだ。

 このソ連による捕虜の強制労働・使役が、国際法的に正当なものであったのかどうかという議論がある。ポツダム宣言との関連では、以下のような国際法違反の指摘がある。

ソ連も参加したポツダム宣言が、日本の軍隊は武装解除されたあと「各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会」を与えられると記している。にもかかわらず、ソ連による抑留は最長11年にも及んだ。明確な国際法違反である。

(1)栗原俊雄、p.38

 また、捕虜の処遇については、日本と当時の帝政ロシアは「陸戦慣習ヲ明確ニ規程スルヲ目的」とする、1907年の「ハーグ条約」は批准、調印している(坂本龍彦、p.178)。

 ハーグ条約の「陸戦の法規に関する条約」では「平和克後ノ後ハ、成ルベク速ニ俘虜ヲ基ノ本国ニ帰還セシムヘシ」とされ、この条約には帝政ロシア、日本政府も署名している。帝政ロシアの締結した条約の多くをソ連は継承しており、ハーグ条約にも拘束されている(栗原俊雄、p.161)。

 しかし、ハーグ条約の人道基準を明確にしたジュネーヴ条約(1929年)は、日本も批准したがソ連は批准していない。

 ジュネーブ条約によれば「捕虜の労賃は捕虜の所属国が支払わねばならない」とされる。すなわち使役する国が発行した「労働証明書」に基づき、これまでオーストラリア、ニュージーランド、東南アジア地域などで米英、オランダの捕虜になった人々には支払われた(栗原俊雄、p.139)

 結果として、敗戦を迎えた場所、捕虜になった地域によってその後の対応・待遇に差異が生じていることになった。

米英蘭などの捕虜となった日本人将兵には、行政措置として日本政府が未払い賃金を支払った経緯がある。(略)労働証明書が発行されており、帰国後、これに基づいて未払い労賃が支払われたのである。しかし、スターリン統治以来のソ連政府は労働証明書を発行しなかった。

(2)坂本龍彦、p.135

 斎藤六郎会長の「全抑協」裁判は、1989年に地裁で敗訴する。ジュネーブ条約が日ソ間で発効する以前に帰国していたことがその理由である。その判決で出てきた”受忍論”では「原告等の損害は、国民が等しく負担すべき戦争被害であり、これに対する補償は憲法の予想しないところである」(栗原俊雄、p.140)とされていた。

 その後のソ連崩壊後の1992年1月、ロシア共和国政府は労働証明書を発行・交付し、新たな裁判に展望を開いた。

 しかし、依然としてこの問題に対する結論は出ていない。労働としての補償すら結論が出ていないのである。

2.5 シベリア出兵の記憶

 前節でシベリア抑留における「労働」の国際法的な不法性を示した。そもそもソ連の第二次世界大戦への参戦自体が、日ソ中立条約の破棄に関する明確な違反であると考えることが一般的である(ソ連自体は、当然のことながら正当性を主張しているが)。

 この問題は、条約の解釈論という論点ではなく、全く別の論理の帰結であることは明白である。

 すなわち、枢軸国敗戦後の世界のパワーバランスを協議したヤルタ会談において、既に勝利者としての連合国(ソ連も含む)は、次なる世界の覇権に向けた権力闘争を開始していた。つまり、ソ連参戦の正当性には、軍事力の勝者であるが故に正しい、とする以上の根拠は存在しないと判断できる。

 ソ連側にとっては、勝者(後から参戦という不合理にもかかわらず)の権利としてのシベリア抑留であり、もしも公正な視点が可能であれば、そこに利と呼ばれるものは何一つない。

 シベリア抑留は、ソ連による非道と断言するしかないのである。

 しかしその背景として、ソ連の人々の当時の感情について、その公正のために一言することも必要であろうと思われる。

 それは、1918年の「シベリア出兵」の記憶である。

 日本は、米英とともにロシア革命に対し、反革命を支持するためにロシア領内へ出兵(軍事的な内政干渉)を行った。日本軍の派兵は他国に比較してずば抜けて多く、3ヶ月で7万3,000人、「ソ連にとってもっとも苦しい時期に干渉戦争をいどんだ日本への恨みは、深く残っていた」(栗原俊雄、p.27)という。

 黒島伝治「渦巻ける烏の群」「橇」といった小説でも描かれているように、シベリアという土地に日本軍が”侵略”し、ロシア人と戦闘する。そこでは、戦闘だけでなく非戦闘員であるシベリアの住民の労働力を強制し、物資を強制的に調達する描写が描かれる。公平な視点からしても、まさしく「侵略」なのである。

 つまり、シベリア出兵まで歴史の範囲を広げてみた場合、これはロシア革命に内政干渉をした「報復」である、という見方もできる。

しかし、江戸時代から続いている日露敵対と報復の歴史は、もう絶たねばならない、と思っている。シベリア抑留が生んだ学者(引用者注;加藤九祚創価大教授)はこういうのだ。「シベリア抑留も、考えてみれば七十余年前の日本のシベリア出兵の報復だったのではないのか。日本軍がシベリアの民や赤軍兵士を殺傷し、シベリアを破壊した歴史を償ったのだ、とも思います」

(2)坂本龍彦、p.139

3.労働の本質とは

 前章までのいくつかの論点において、戦前の日本が持っていた「戦陣訓」に代表されるような精神が、強制労働とそのシステムによって容易く思想的に敗北した経過を見てきた。

 本章では、このシベリア抑留を題材として、労働がもつ本質的性質について議論をしていきたい。

 強制労働とは、強制+労働というように、労働に強制的な制約を付与した用語と理解されている。しかし、そもそも「労働」という概念自体に強制的な性質が内在していないのであろうか、という問いを議論したい。

 労働というものの本質は、自然の人工化(疎外)である。すなわち主体たる人間が、自然に働きかけて、自然から客体として認識される対象を取り出す作業(客体化)である。

 ここまで見てきた一つの極端な類型としてのシベリア抑留における強制労働とは、支配関係の同心円的多重構造といえる。具体的には、最外周にソ連の管理層による支配構造がある。その1層内側には(ある時期において)旧日本軍の支配構造があり、その更に内部には、人間関係としての支配構造があるという連環的な多重支配関係がある。その連環の中心にまで突き詰めると、自己と他者という単純な基本要素にまで還元されるであろう。

 そして、この最終的な基本要素においても、なお「他者」自体を客体化、人工化することは原理的に可能である。そして他者の客体化とは「支配」のことである。

 労働自体がその概念を突き詰めると「支配すること」を定性的には含み、その支配対象が”自己でない「他者」”に直接的に対して向けられた時、それは「強制」になる。

 つまり労働の本質に「強制」があり、労働とは強制労働に他ならないと結論づけることができる。

 シベリア抑留の過酷な労働においても、また同様に過酷な炭鉱労働でも、労働自体を数値化する仕組みの中で効率化を見出し、これを達成する「喜び」はあったという。

 ビジネスをスポーツのように理解し、他人をプレイヤーとして尊重し、あくまでゲームのルールにおいて独占を目指すような労働観の議論もある。

 しかしながら、それらは労働がもつある種の側面に過ぎないのであって、その概念において本質的に「強制」が潜む。労働という概念はニュートラルなものではなく、良い労働と悪い労働がある訳ではない。言い換えると、あらゆる労働は、強制労働に変わりうる潜在的な可能性を、その萌芽=基本要素として秘めているのである。 

 このことが、現代においても、労働問題がその環境や法的整備を進めた上でもなお人々にとって不幸な問題を生み出し続ける要因となっているのではないだろうか。

4.強制労働を乗り越えるために

 前章で、労働の本質は強制的であり、条件が揃うと強制労働に転化しうると主張した。では、この「強制労働」を回避するためにはどうすれば良いのであろうか。

 つまり、「支配」は存在することを前提として、それを回避するためにはどうしたら良いのであろうか。

 「支配」を少数から多数に広げていくという進歩主義的な解決方法は、既に我々が経験した新左翼運動の粛清の歴史を見るように、誤りである。

 残された道は、「個人」のなかに強制関係を無効化する、絶え間ない斥力をもつことであろう。「BがAをして、〜をなさしめる」という使役の構造を、「Aが〜する」という形で、Bを無効化する方法を探るしかないと思われる。言い換えると、他者による自己への解釈を拒否する姿勢をもつことであろう。しかし、それは非常に困難な道を歩むことは間違いない。だが、それしか道は残されていないと思われる。

 確かに個人としての人間は、弱く、はかない。福田恆存が「人間・この劇的なるもの」(関連記事:【書評】福田恆存「人間・この劇的なるもの」進歩主義の欺瞞を暴いた”奴隷の思想”の瑕疵と、<部分の中にある全体>概念導入による修正)で、以下に述べたように、個人が支えなしに全体としての流れに逆らって存在することはできないであろう。

 (前略)精神の自由こそ、唯一の拠りどころであるとしても、そういうはかないものによって自己の正当さを信じうるほどに、ひとはみずからを強者となしうるであろうか。ひとびとは節操などと安易に口にするが、時代に背く自己を基準にして、逆にその時代を裁くことが、どうしてできるだろうか。そんなことは不可能だと思う。なんびとも孤立した自己を信じることができない。信じるに足る自己とは、何かに支えられた自己である。私たちは、そのなにものかを信じているからこそ、それに支えられた自己を信じるのだ。

福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)p.90-91

 福田は、支えられるべきものとして、自然の周期を形式化した祭儀的な伝統を全体とするが、これもシベリア抑留の現実の前に有効な言説となっているとは言い難い。福田が選択肢から、敗北必至として消去したであろう「孤独者」の生き方、そしてそれを「奴隷の哲学」としないために何を拠り所とすべきなのか。

 そのヒントとなる、これまで見てきた文献の中から、いくつかの引用を行い、本論を閉じたいと思う。

 高杉一郎は「教養」として語る。

私は命令と鞭とびんたで行われた軍隊教育がいかに脆いものであるかを、ここで痛感させられた。誰にとってもおなじように過酷な条件を、堪えがたい現実であったが、結局その条件に堪え抜いたものは-たとえ受け身の弱々しい方法であったにしても-少数の将校服のなかにかくされていた市民的な背広の人間の教養であった。

(4) 高杉一郎 p.222

 外交官中村茂は、精神的な意思の力として語る。

「このような非道な屈辱的な生活に満足しているように自ら思いこむことは(中略)自分の尊厳を不当な圧迫の奴隷にすることである。豚になって豚小屋に飼われることに満足することである

(2)坂本龍彦、p.15 外交官 中村茂の手記より再引用

 11年間政治犯として収容所で過ごし、最終引揚船で帰国した内村剛介もまた同様に精神の糧、ことばの力として、こう書いた。

ラーゲリや監獄に拘禁されている者はその肉体が奴隷なのであり、逆にそれを監視する者はその精神が奴隷なのである。(略)肉体の奴隷の中には精神を奴隷にしてはならぬという不断のたたかいがあった。(略)衰え果てた肉体を養うところの物理的な糧は絶対的に乏しく、その不足を補うものは無限の精神の糧である。(略)当局の審問は判決があったのちも続く。それは拘禁の全期間にわたる。この審問は精神の糧を奪い、かくしてついにみずから進んで隷従するところの「奴隷の心性」をつちかうことを目的としている。だから囚人は自らの精神の糧を守り養い、これを当局に向けざるを得ない。この精神の糧をめぐるたたかいは、ことばにはじまり、ことばに終わる。

(3) 内村剛介、p.226

 個人が内部に持つ論理、言葉、知識、意志、こうしたものへの言及であるが、更に突きつめると、極限において個人が孤独の果てにこうしたものを媒介として、何を「支え」として取り出したのか。

 それは、「自己の中にある全体性」であろう。これは福田の文脈における「全体性」、「戦陣訓」に代表される戦前日本のメンタリズム、自然宗教的な日本人としての自覚、こうしたものいずれとも異なる。

「自己の中にある全体性」とは、いわば、ひとりの人間が存在するために連綿と続く生物としての必然性であり、これこそが我々にとって強制と孤独に抗する最後の支えとなると思われる。

参考文献:

  • (1)栗原俊雄「シベリア抑留-未完の悲劇」(岩波新書)
  • (2)坂本龍彦「シベリアの生と死 歴史の中の抑留者」(岩波同時代ライブラリー)
  • (3)内村剛介「スターリン獄の日本人 生き急ぐ」(中公文庫)
  • (4)高杉一郎「極光のかげに」(岩波文庫)
  • (5)黒島伝治「渦巻ける烏の群 他三編」(岩波文庫)
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ビジネスで「ライフハック」を求めて彷徨う人々に、かけるアドバイスが無くて悩ましい

 最近、組織の若いメンバーからの相談内容が変化してきた気がする。

 何か仕事上の悩みがあったとして、

 ○○を実行したら、こんな困難があって、そこをうまく解決するにはどうしたらいいですか?

 ではなく、

  ○○をうまくやるために、貴方が実践しているやり方を教えてください

という担当直入な言い振りなのである。

 一方、「○○をどれくらい実行してみたの?」聞くと、まだ実行は(ほとんど)していないことが多い。

 つまり、経験時間は非常に少ないのだが、危機感だけはMAXなのである。 やる前、あるいは、それほど経験を積んでいない段階にしては唐突感を感じる質問である。

 それを受けての私のアドバイスとして、そこで「実践による訓練あるのみ」なんて回答を返すと、明らかに不満顔である。

 そう、彼らはそんなことを聞きたいのではないのである。

 ○○を実行するために、自分は遠回りしている

 ○○を実行している貴方は、近道を知っている

 だからその近道を教えてください

と言う三段論法を言っているのだ。

 極端な例えであるが、

 エベレストに無酸素で登る方法を教えてください

 と言っておいて、

 本人は高尾山にロープウェーでしか登ったことがない、登山道具も買い揃えていない

 といった状況なのである。

 せめて登る意思くらいは欲しいのだが、本人は大真面目である。登ってみて時間ががかかったら何時までも成果が出なくて、自分の評価が落ちる、だからやる前に最初から聞くのである、という感じである。

 こちらは「近道なんてなくて、少しでも速度を上げるように場数を踏むしかない、自分もそうやって訓練したんだよ」という回答を返しても「そんなはずはない」と思っているのである。

 つまり「実はエベレスト無酸素登頂にはね、ヘリコプターに乗るという裏技があってね」 というライフハックのような回答が存在し、それを大真面目に探索している節があるのである。エベレストの例でもわかるように、実際にはそんな裏技自体が存在しないにも関わらずである。

 結局、その質問の背後には

 裏技を自分だけで秘匿して既得権益化しないで、もったいぶらずに教えてください

 という感情が潜んでいるようだ。

  ・・・そんなに信頼がないのであろうか。

 わかっていれば最初から教えるのである。

 そこまでケチではないつもりだし、 そもそも知っているかどうかでスキル差があるようなところで勝負はしていない(つもりだ)。

 むしろ無駄な時間は他人のそれであっても気分が悪いので、 知っているか知っていないかで何とかなるものは惜しみなく放出しているつもりなのである。 しかるに、この仕打ち。全く信用されていない。

 何なのであろうか。

  思い当たる節があるとすれば、このところの労働を巡る環境の変化であろうか。

 仕事の教育のやり方がシステマチックになり、「文書化できる体系化されたもの」のみが明示的な教育の範疇になりやすく、そうではない依然として暗黙的な非体系化された「スキル」が埋もれて伝承できなくなった結果、ある段階で個人の能力差として顕在化してしまっているのではないだろうか。

 取りこぼされた「スキル」を生得的に持っている”天然モノ”と、これからそれを意識的に獲得する必要のある”養殖モノ”との間には当然差ができる。そして”養殖モノ”としては、それを教えてもらっていないのだ。教えてもらっていないので、当然苦労する。でも周囲では、できている人もいる。不思議だ。何か裏技、テクニックがあるに違いない、というロジックである。

 いわば、装備すれば誰でもパラメータアップができる伝説の財宝があって、そのダンジョン攻略に注力しているようなものである。ダンジョン攻略という目的を計画に組み込めば、その期間は「何かをしている」訳で、計画上は立派に仕事をしているように見える。ただ、当然のことながら、そこに財宝は無いので、こちらからすると無駄な時間を費やして実行に移す時間を伸ばし、貴重な経験が積めるはずの正味の仕事をする時間の方を消費しているだけにしか見えないのだ。

 こうした「スキル」不足に起因する質問が、最近になって出てきた理由は何だろうか。

 前述した教育体系の明示化に伴う、そこから取りこぼされた「スキル」伝承の断絶があると思われる。

 20年くらい前までは、 言葉は悪いが、徒弟制度的なマインドで「背中を見て覚えろ」のような、アナクロニズムな世界がホワイトカラーの世界でも普通に存在した。

 労務管理の徹底や、そもそも徒弟制度が持つパワハラ的側面のクローズアップにより、それが次第になくなっていった結果、本来伝承すべきスキルが取りこぼされている、という構図ではなかろうか。

 では、暗黙的な「スキル」が、完全にオモテ化、明示化され、教育体系が完成しているのかというと、そうではないようだ。 こうした「スキル」に関連するであろうワードを思いつくままに挙げてみる。

 例えば

  • 交渉力
  • ファシリテーション力
  • 傾聴力
  • 質問力
  • ロジカル・シンキング
  • ナレッジ・マネジメント

 など、これらは既に体系化、講座化までされている。 しかし、それでもなお、取りこぼされている何かがありそうだ、というのが私の実感である。

 加えて、多くの企業で導入されている成果主義における「成果」とは、インプット(リソース)とアウトプット(結果の質と量)の関係から決まる。端的にはリソースである「時間」を少なくすることが、成果の評価にとって有効なのは間違いない。よって、できる限り「時間」を小さくすることが望ましい。学習する時間も、できる限り少なくする対象になるはずである。

 その結果として、ライフハックやTipsのような効率化を求めがちになり、それが業務遂行の全てであると理解してしまうのであろう。

 労務管理は徹底すべきであるし、徒弟制度が良いとは決して思わない。 意味のない無駄な”学習”時間に縛られる必要はないと心から思う。

 しかしながら、その結果として生まれてきたであろう、 こうしたライフハックを求めて彷徨う人々に、今更、かけるアドバイスがないのである。

 私自身すでに「黙って俺についてこい」「背中を見て覚えろ」というような発言は、この先誰にもしない覚悟を決めている。

 残念ながら、そんなことを言えない社会・時代になっているし、その意味を正しく理解できる後進もいないであろうから。

 「少子高齢化」「労働力人口の減少」を背景とした、「スマート社会」「匠のデジタル化」といった響きの良い言葉とは無関係に、製造現場ではこうした小さなディスコミニケーションが生まれつつある。

 色々な意味でまことに不幸なことである。

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【書評】田嶋雅巳「炭坑美人 闇を灯す女たち」(築地書店)–明治、大正生まれの女性たちが生きた過酷な炭坑労働の聞き書き

 最近、笑いを提供するはずの職業の人々に関して、見る人間の気持ちをかき乱すような情報を見たくなくても目にするようになり、いたたまれない気持ちになっている。

 そんな中、過酷な炭坑(炭鉱)労働に従事してきた女性の聞き書きを収録した田嶋雅巳「炭坑美人」(築地書店)を読んだ。

収録されているのは、明治、大正生まれの九州の女性46人。氏名を名乗ってポートレートとともに経験を話す人もいれば、匿名で話す人もいる。九州弁そのままの語り口で、今から見えれば”過酷な”労働を、時にユーモラスに語る。

 本の表紙も、こんな良い笑顔の写真であり、炭鉱労働のもつ危険かつ過酷な側面だけでなく、より広い意味で働き、生きていく意味とは何かということを考えさせてくれる。

 以前の記事(【炭鉱労働】あまりにも過酷な労働と記憶の遺産【書評】)で記載したように、公には昭和初期の時点で女性の炭鉱労働は禁止されていた。しかし、実際には第二次世界大戦期の労働力不足による規制自体の無効化や、戦後においても生きるために規制をかいくぐり過酷な地底の労働に従事してきた経験がいくつも掲載されている。

 先に述べたように、“過酷な労働に女性が従事した”という単純な側面だけでなく、口減らしとしての就労年齢以下からの児童労働という側面、家庭を持った後の配偶者との苦労談、安全性を無視した労働、戦中の朝鮮からの労働者への差別、といった多面的な事実がそこには含まれる。また、そんな過酷な労働でありながら炭鉱労働自体に堂々と愛着を持つ人もいる。

 興味深いエピソードは多々あるが、ここでは別の角度から一つ引用したい。

  炭鉱の中、地底の中の“馬”の話である。大手の炭鉱の坑内は生産量も多く、エレベータなどの機械化の手段を使って地底に降りていく。しかし、次第に先端に近づくにつれて空間的な制約などから機械化、自動化は進まず、人手の作業中心になっていく。

 そんな中で、坑内で荷を輸送するための労働力としての”馬”がいたというのである。この馬は、人間と異なり、交代して地上に上がることはない。基本、地中での生活である。

 明治40年(1907年)生まれの倉谷タマキさんの話として、以下のようなエピソードが語られている。

 その当時から三坑(福岡県田川市の三井炭鉱 伊田坑のこと;引用者注)には竪坑があってケージに乗って下がりよった。今で言うたらエレベーターたい。何十尺とかいいよったが・・・そんなにはかからんよ。二、三分やないかと?それからは人車に乗ってまた下がる。人車ちゃあ電車のこーまいげなもんたい。アンタ!地の底に電車が走っちょるんばい。たまがったぁ!そいで人車を降りたら今度はしばらく歩かなならん。そうすると今度は馬がおる!それを見たときはなおたまがったぁ!いつまで馬が坑内で炭を引きよったんやろうか?ウチが下がりたって、まだ二、三年はおったきねぇ。
 坑内に使わるる馬ちゃあ可哀想なもんたい。ずーっと地の底におって、お天道さんを拝むことは一切でけん。そいで使われんごとなって初めて上さへ上げられる。坑内の暗い中に何年もおって、弱ってから上げられたっちゃぁ目もなんもわからんごとなっちょるとたい。

田嶋雅巳「炭鉱美人」(築地書店) p.170

 著者のあとがき「おわりに」によれば、ここで描かれた人々は、すでにこの本が刊行されようとした2000年時点でも6割の人がこの世を去っている。現時点では、更に時間が経過している。著者が本書の結びで述べたように、過酷な人生の終盤に笑いとともに人生を振り返ることができた方々と同じように我々もまた、後に振り返ることができるのであろうか。 

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【人口ピラミッド】「定年退職の挨拶」ラッシュが起こり始めているような気がする

 最近ふと感じたことであるが、以前よりも「定年(退職)の挨拶」メールが届く周期・数が多くなってきたようだ。

 特に今年に入ってから、結構怒涛のように来ている。体感的には今まではせいぜい月1程度のペースで受けていたものが、月3,4くらいのペースで来るようになってきたのである。そんな人間関係が急激に変化する訳ではないので全体的な傾向ではなかろうか。その証拠に、社内報や通達に出る「お疲れ様でした(定年を迎えた方々)」の欄も拡大する一方である。

 もちろん、私の身の回りだけのローカルな感覚であって偶然なのかもしれない。ただ2018年の日本の人口ピラミッドをみる限り、ちょうど2018年時点での60歳付近では、59-55歳<54-50歳<49-45歳(第二次ベビーブーム世代)という急激な増加が起こっており、この増加は感覚とは合っている。

 ただこの母集団全てがサラリーマンであるとは限らない訳で、本来は現在の日本のサラリーマン全体のピラミッドを見ないとはっきりしたことは言えないはずである。しかしちょっと調べて見たものの、そうしたデータを見つけることができなかった。

 そこで、ある程度の推定から考察してみたい。

 2018年に一般の会社でサラリーマンの定年を60歳とする。そうすると生まれは1958年生まれとなる。仮に大卒(浪人を考えないとして)の場合、入社年度は1981年、高卒の場合1977年となる。

 この1980年近辺には何があったのか。

 1978年 イラン革命

 1980年 イラン・イラク戦争、第二次オイルショック

 という象徴的な出来事があった。

 第一次オイルショックと同様、に石油価格の上昇により世界的に経済への影響を受けていた。ただし、その一方で”日本では比較的影響が少なかった”と内閣府の資料(「1970年代以降の日本経済 の動向と重要なトピックス」)では総括している。一部引用する。

日本では緊縮的な財政金融政策でインフレを克服し、また、ミクロ的 にも、省エネルギー型の産業構造への転換や、商品・サービスの省エネルギー 化にある程度成功していたことから、短期的な引き締めによって、比較的容易に 石油価格の再上昇の影響を吸収し、むしろ他の主要国に比べて良好なパフォー マンスと国際競争力の強化を実現した。

引用終わり

 こうした中で、ドル安・円高傾向が進み、日本の国際競争力が高まっていた時代と見ることができるとすると、生産高の増加に伴い、この時期の労働者の雇用は比較的良好、つまり大量雇用が進み、それはバブル崩壊の1990年代まで続いたと思われる。

 いわば2018年の人口ピラミッドにおける59-55歳<54-50歳<49-45歳(第二次ベビーブーム世代)という人口増加を、1980年代においてうまく労働力(雇用)として飲み込むことに成功したと言える。

 そうすると、それから38年経過した現時点は、これから起こる怒涛の退職ラッシュの序章に過ぎず、それはバブル入社世代(1991年入社くらいか)まで、さらに増加を迎えるのであろう。その中で、役職定年、新しい働き方、第二の人生、早期退職などなど、人間の生活の変化と移動を伴うイベントが起こり、嫌がおうにでも我々は巻き込まれて行くことが予想される。

 この変化は何か我々の意識も含めて変えるのであろうか。まだ良くわからないが、送る立場としては送別会・慰労会の費用が(相対的に)嵩む事だけは間違いないのである。

おまけ:日本の人口ピラミッドのイメージ。wikipedia「人口ピラミッド」より。

 製造業で企画の仕事をしていると、将来計画などは結局こういったマクロ的な指標に頼ることが多いが、日本のこれを見るといつも何とも言えない切なさを感じる。今、この形を変えたいと思っても、もはやいかなる政策によっても短期的に修正することは不可能なのである。これはある意味、過去の施策によって約束された未来のようなもので、0歳の出生数を変え続けない限り、この形は変わらない。

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【書評】谷川雁という捉えにくく矛盾を孕んだ存在–「連帯を求めて孤立を恐れず」には”原典が存在する”

全共闘のスローガン「連帯を求めて孤立を恐れず」の出典

 今この時代で、ほとんど忘れられている存在となっている谷川雁のことが気になっている。

 先日読んだ、松本輝夫「谷川雁 永久工作者の言霊」(平凡社新書)は、複雑で捉えにくい谷川雁の軌跡を明快に描き、非常に思うところ大であった。

 かつての全共闘のスローガンとも言える「連帯を求めて孤立を恐れず」は、好きな言葉の一つである。しかしながら、その出典、もともと誰がどんな文脈で語った言葉なのかを、これまで私は知ろうとしてこなかった。

 全共闘の文脈で語られるとき、この言葉には続きがあるらしい。

連帯求めて孤立恐れず力及ばずして倒れること辞さないが、力尽くさずして 挫けること拒否する

 この出どころは、東大全共闘が安田講堂に立てこもった際に、壁に書かれたものであるらしい。引用した先のページには画像もある。

 私はいつもこの文章の後段、「力及ばずして〜」からの部分に違和感を覚えてきた。

 前段の持つ高い思想性に対して、あまりに日常的かつ教条的な硬直化した文章が後段に接続されているように思えるのである。一つの文章でありながら、別々の上半身と下半身をつなぎ合わせたキメラのような座りの悪い文章。更に前段の思想性が後段の俗物性によって打ち消されている。

 要するに、これを「力及ばずして〜」までの文章として真面目に捉えたとしたら、この文章は1人の人格から書かれたとは到底思えないのである。

 前段の「連帯を求めて孤立を恐れず」自体が谷川雁によるものであることは、ほぼ確定であろう。

 まずは、そこに拘ることとして、その文章が述べられた原典を探すことにした。

 リファレンス情報などによると、この文章は、谷川雁の評論集「原点が存在する」の中の「工作者の死体に萌えるもの」に記載されていることがわかった(なお、実際の初出は1958年6月「文学」に掲載されたもの;評論集「原点が存在する」(現代思潮社版)の記述より)。

 さっそく古本屋で入手した、評論集「原点が存在する」(現代思潮社版)から、実際の部分を引用してみることにする。

 「連帯を求めて孤立を恐れず」は、まさにこの工作者(=社会主義運動の扇動者、オルガナイザーを指す)が、大衆を組織する方法論について論じている評論「工作者の死体に萌えるもの」の最終部分にあった。

大衆と知識人のどちらにもはげしく対立する工作者の群・・・・・・双頭の怪獣のような媒体を作らねばならぬ。彼等はどこからの援助を受ける見込みはない遊撃隊として、大衆の沈黙を内的に破壊し、知識人の翻訳法を拒否しなければならぬ。すなわち大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であるところの偽善の道をつらぬく工作者のしかばねの上に萌えるものを、それだけを私は支持する。そして今日、連帯を求めて孤立を恐れないメディアたちの会話があるならば、それこそ明日のために死ぬ言葉であろう。

 谷川雁「原点が存在する」(現代思潮社版)p.57

引用終わり

 良い文章である。

 そして後段の部分は明らかに第三者の付け足しであろう。

 この文章を書いた頃の谷川は、炭鉱労働者の支援のため福岡県中間市に移住し、労働者の生活の中に入り、工作者として労働者の文化的サークルを水平的に組織する活動(「サークル村」)を組織しようとしていた。

 この文章では、まさにその「大衆」=「労働者」の生活圏の中に入った「知識人」である「工作者」=谷川たちの姿勢を直截的に表明しているといえる。知識人=前衛という直線的な道筋ではなく、工作者のあり方として「知識人」でもなく、「大衆」でもなく、という矛盾に満ちた道筋が描かれる。

 その道筋とは「偽善」に満ちたものであり、その言説は「明日死ぬ言葉」になる宿命を持つものだというのである。あるいは、コウモリのようなどっち付かずの裏切り者であり、居場所はどちらにもない。永続性すら断ち切られ、明日死ぬことが預言されている。

 逆説と矛盾に満ちている。

 しかし、こうした逆説と矛盾に満ちた場にこそ、工作者のメディア(媒体)が唯一存在する意味がある、という谷川雁の強烈な宣言となっているのである。

現実の双貌性=矛盾を武器とした「コピー」の恐るべき切れ味

 谷川雁は、コピーライターとして抜群の文章力を持っている。「連帯を求めて孤立を恐れず」だけでなく、この文章が収められている論文のタイトル「工作者の死体に萌えるもの」も、この記事を執筆している2018年においても全く古びていないフレーズである。

 また谷川雁は詩人でもあった。

 彼の詩には、平易なようで、読者にとって容易な理解を拒む難解な面も多くある。

(前略)

つまづき こみあげる鉄道のはて

ほしよりもしずかな草刈場で

虚無のからすを追い払え

あさはこわれやすいがらすだから

東京へゆくな ふるさとを創れ

「東京へゆくな」(現代詩文庫 谷川雁詩集 p.26)

引用終わり

おれは大地の商人になろう

きのこを売ろう あくまでにがい茶を

色のひとつ足らぬ虹を

夕暮れにむずがゆくなる草を

わびしいたてがみを ひずめの青を

蜘蛛の巣を そいつらみんなで

狂った麦を買おう

古びておおきな共和国をひとつ

それがおれの不幸の全部なら

〔後略〕

「商人」(現代詩文庫 谷川雁詩集 p.18)

引用終わり

 谷川は、逆説を用い、両義性のある言葉を使い、矛盾を以って現象を切断することを意図的に行なっている。単一の意味の解釈を拒否し、言葉の意味は対立し分散する。多義性すなわち矛盾を直視する。総じて、矛盾=現実の持つ双貌性をイメージによって打開する意思が強く表現されている。

 先に引用した「連帯を求めて孤立を恐れず」を導き出す文章がまさしくそうであるように、こうした戦略を散りばめたイメージを意図的に読者の前に展開しているようだ。それがために、谷川が発した「言葉」の断片(散文ではなく)は、切れ味の鋭い活きた「コピー」として、現代でも価値を有する言葉となりえている。

 俯瞰した視点で捉えると、創造する側の思考様式としては、これはいわゆる弁証法的唯物論の思想(否定の否定)の一形態である。弁証法的唯物論そのものが矛盾を扱う理論として、共産党員でもあった谷川自身も言わずもがなとして、当然理解しているはずであったであろう。

 ただ、ここではさらにその部分に大衆の「生活」の視点を強く付加している点を指摘しておきたい。理論あるいは形式知とは相容れない部分としての日本固有の土着の匂いを強く感じるのである。

工作者=オルガナイザーの宿命ー他者の人生を変えること

 松本輝夫「谷川雁 永久工作者の言霊」(平凡社新書)によれば、谷川雁の福岡県への移住、炭鉱労働者との共闘は結局失敗し、同志たちとも決別し、本人は逃亡さながらで東京に戻ってくることになる。

 炭鉱産業自体がエネルギー革命によって縮小していく中で、「しんがり戦」を戦い、闘争の成果としては一定の形が整ったのちに、かつて一枚岩であった組織には「血縁集団」と「思想集団」(谷川は当然こちらに属していた)との分裂が起こったという(松本輝夫「谷川雁 永久工作者の言霊」p.114)。

 著者の松本が1963年に谷川の福岡県の住居を訪ねた際のエピソードとして、柳田国男と折口信夫の著書が谷川の家にあったことを、驚きをもって記載している。

 (前略)書棚をみると、柳田国男と折口信夫の本がやたらと目立っていたこと。(中略)

 そこで、「谷川さんは、この二人の書いたものをもとに大正闘争に関わっているのですか」といった問いを発したこともまちがいない。そして「これらが闘争の武器となっているということは無論ないが、この二人の著作には炭鉱の若い者たちや女たちとつきあっていく上での知恵やヒントが無尽蔵にある。とくに柳田は参考になる」との返答をもらったことにまた度肝を抜かれた。

 松本輝夫「谷川雁 永久工作者の言霊」p.15-16

引用終わり

 こうした日本人の心性の基礎部分に、民俗学の知識までも積極的に用いたうえで周到に注意を払っていた谷川でさえも日本的社会構造=「血縁集団」の中で排除されてしまう現実。

 工作者として他者の生活を変化させることはできなかった。

 その結果は「失敗」と総括すべきであろう。

   しかしながら、谷川雁のこれまでの言説を辿ってきた限りにおいて、その総括を単純な「敗北」として受容する必要はないのではないか、そうした心理が働くことを否定できないのである。

   他者の人生を変えること、すなわち精神まで含めた生活の中で「人間を変化させること」の結末が、その集団からの自らの「排除」であったとしても、谷川にとって、その事実をほんとうの意味で「敗北」だと解釈して良いのであろうか。

 谷川自身でさえもそれを「逃げた」と告白したにも関わらずである。

 いわば「裏切り者」「偽善を貫く者」こそが、現実に存在する矛盾の解決のために必要であって、今日発せられ明日には死んでゆく言葉こそが工作者の本義と信じた谷川にとって、自分が否定され排除された事実を、その工作が他者に影響を与え変化を促した成果として正統に解釈することは許されることではなかろうか。

   急いで付け加えると、それは意図して「偽善」を働き、対立概念の”どちらでもないもの”を介在して産まれた成果こそが時代を進めるための新たな付加価値を与え、それを生み出す契機を与えた自らは双方の立場から裏切者として断罪され否定される、という<生成のダイナミクス>を信じていたはずの谷川にだけ許される言説である。

 こうした思いを抱くことは、谷川に肩入れしすぎであろうか。

終わりに 〜しかばねの上に萌えるもの

 谷川雁が発した両義性豊かな「言葉」の断片はこうして、まだ生命力を保っている。

 そして、その「生命」とはガラスの保存箱に入れられたような静止したものではなく、個々の生死を繰り返しつつ種として永続する植物のような動的な統一体に例えられるものである。

 その”しかばね”は、単純な生を否定した形式ではない。その内部に次の生命の種を宿している。

 こうした「しかばねの上に萌えるもの」が、今なお我々にメッセージ性を持って届いているということは、素直に驚嘆に値することであろう。

(文中敬称略)

参考文献:

 谷川雁「原点が存在する」(現代思潮社)

 谷川雁「現代詩文庫 谷川雁詩集」(思潮社)

 松本輝夫「谷川雁 永久工作者の言霊」(平凡社新書)

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【炭鉱労働】あまりにも過酷な労働と記憶の遺産【書評】

   以前の記事:【炭鉱労働】上野英信と山本作兵衛を読んでブラック労働を考える【書評】

   に引き続き、

・真尾悦子『地底の青春 女あと山の記』(ちくまブックス)

・鎌田慧『去るも地獄残るも地獄 三池炭鉱労働者の20年』(ちくまブックス)

   を読んだ。

   日本の近代化を進めるにあたり、明治から昭和30年代まで、当時のエネルギー戦略によって振り回されつつも、炭鉱という産業が存在し、その現場に過酷な労働が存在したことは歴史的事実として確かなことである。

   そしてその過酷な労働自体は、自動化や機械化などの手段で解消されることなく、全く別の論理である”石油への転換”という「エネルギー政策」の帰結によって産業自体が消滅することで労働自体が消滅するという皮肉な運命を辿った。

   炭鉱には大企業が経営する大ヤマ、そして中小企業が経営する中ヤマ、小ヤマ、そして個人経営レベルの”ムジナ掘り””狸掘り”と呼ばれる半ば非合法な零細規模のものまで、広く存在した。

   過酷であったその炭鉱労働の法的規制とその運用はどうなっていたのだろうか。

   「鉱夫労役扶助規則」の昭和3年の改正で、原則として女子の坑内労働を禁止している。

   しかし実態は中小ヤマではそうではなかったようだ。更に戦争に入るとなし崩しになっていく。

本規則(「鉱夫労役扶助規則」引用者注)の改正が1928(昭和3)年になされ、原則として女子の坑内労働を禁止したが、実施が迫って、中小炭坑の鉱業権者から坑内労働禁止が実施されれば経営不可能に陥ると泣き言が入り、結局は省令で女子の坑内労働禁止の特例を認めた。さらに 1939(昭和14)年の戦時下には、労働力不足を補うため25歳以上の女子(妊娠中の女性除く)の坑内就業を解禁し、1943(昭和18)年にはさらにそれを20歳以上の女子にまで拡大した 。

奥貫 妃文「近現代日本の鉱山労働と労働法制 ~三重・紀州鉱山の足跡~」相模女子大学紀要. C, 社会系 77, 107-121, 2013

引用終わり

   昭和22年に制定された労働基準法で、改めて女性の坑内労働は禁止される。

   しかしながら、中小ヤマそして狸掘りのような規制から外れたところでは、依然として女性の炭鉱労働は存在したという。

   真尾の著書には炭鉱労働に仕事を求めて、戦後も昭和32年まで「あと山(掘られた石炭を坑外へ運び出す役割)」で働いた女性の証言がある。

 これ以外にも、同様の証言(【書評】田嶋雅巳「炭坑美人 闇を灯す女たち」(築地書店)–明治、大正生まれの女性たちが生きた過酷な炭坑労働の聞き書き)もいくつか見かける。

   坑内は高温、高湿度の暗黒閉鎖空間であり、そこに居るだけでも過酷な労働環境である。その状況を、真尾の著書は、マキさんという女性の思い出話として記述する。少し長くなるが引用する。

先山が切り出した石炭を、女あと山が、合砂(かつつあ)という、草けずりに似た道具で搔き寄せ、スコップでタンガラに入れる。

それは、直径五、六〇センチ、高さ七、八〇センチ、くち回りと縦骨にほそい木の枝を用い、針金で荒く編んだ背負いカゴである。

あと山たちは、豊満な乳房を丸出しにして、三〇センチ幅くらいの腰巻きと、その下に黒いパンツをつけている。稀に、一糸まとわぬ裸形の女もいた。

タンガラに石炭がいっぱいになると、素早く背負ってトロッコへ運ぶ。ダァーッと石炭を開けるが早いか、脇目も振らずにタ、タ、タ、と切羽へ戻っていく。

マキさんは、その女たちと目を合わせるのがこわかった。何ものをも寄せ付けない、憎悪とも憤怒ともつかぬ表情なのである。きッ、と目尻を吊り上げ、犬のように舌を出して、ハア、ハア、と荒く喘いでいる。やや前かがみに通り過ぎる彼女らは全身汗にまみれていた。

切羽の近くでは、天磐からしたたり落ちる水滴が、肩に当たると熱かった。湯なのである。

(真尾悦子『地底の青春 女あと山の記』p.61-62)

引用終わり

   女性は坑内から外へ出れば酒を飲み始める男性と違い、外に出ても掃除、洗濯、育児、炊事があった。妊娠、出産を控えても仕事はやめられない。陣痛が来るまで中で仕事をしているのである。「あと山たちは、臨月でも六〇キログラム余の石炭を背負い、トロッコを押した」(真尾p.118)。

   マキさんの娘千恵子さんもまた若くして炭鉱労働を始める。千恵子さんの時代の炭鉱産業は、いわゆるスクラップ・アンド・ビルドの時代であり、もはや産業が崩壊寸前のころである。彼女はこんな言葉を語っている。

「何度も言うようだけンど、俺は仕事つらいなンと思わねかった。ひもじい思いも、いやっつうほど知ってるし、ラクでカネ取れねえことくらい分かるもん。ほんとうに食えねえ人間は、何仕事でも、カネンなるところさえありゃ、文句なンと言ってらンねんでねえけ。安いとか、仕事きついとかってブツクサ言ってたら糊も舐めらンね。アタマ張っつられたって何したって、おいら、モグリだっぺ。それしか道がねっか、仕様あンめ。まず、食わねか始まんねもんな。スト、なんつうのは、あした食う米ある人でなきゃやってらンねえと思うんだよ。こんな考え、いまどきおかしかっぺか」(真尾 p.204)

引用終わり

   発言自体の問題意識についての是非は別にして、産業の底辺かつ末端であり、法すら及ばないリアルな、そして遠くない過去の日本の生活の中で、こうした「労働者の想い」があったと言うことだけはたしかな事実であると思う。

   その一方で、大ヤマと呼ばれた大企業の炭鉱はこうした状況とは異なっていたのであろうか。恵まれていたのだろうか。

   決してそんなことは無かったのである。

   鎌田の著書では、三井三池三川炭鉱の炭塵爆発事故を中心とした炭鉱労働者の悲劇が語られている。

wikipedia(三井三池三川炭鉱炭塵爆発)より引用する。

三井三池三川炭鉱炭塵爆発(みついみいけみかわたんこうたんじんばくはつ)は、1963年(昭和38年)11月9日に、福岡県大牟田市三川町の三井三池炭鉱三川坑で発生した炭塵による粉塵爆発事故である。

死者458名、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839名を出したこの事故は、戦後最悪の炭鉱事故・労災事故と言われている

引用終わり

   三井財閥では、不足する炭鉱労働者を集めるために、離島などから集団移住者を大規模に行ってきた。三池炭鉱には与論島からの移住者が多かった。彼らもまた運命に翻弄されていく。ここでも与論島移住者の差別があったという(鎌田 p.73)。また明治の頃は囚人を炭鉱労働に使役していたという(鎌田 p.89)。

   こうした労務政策はやはり徹底しており、大企業であるがゆえに、その手段は過酷かつシステマチックであったと言える。組合の分裂による人々の人間関係をも引き裂くような例や、こうした事故の対応を巡る会社との裁判なども、労働者の生活に重くのしかかった。

   この炭塵爆発事故では、仲間を救出に入った労働者が、内部で発生した一酸化炭素による中毒にかかり、重い後遺症を受けて長く補償も受けられず苦しむ姿が描かれる。その裁判の行方も、極めて長い時間をかけて行われている(1998年に最高裁で確定。実に35年かかっている)。

   こうした規模こそ違え、国家のエネルギー政策から産まれる産業、そして産業に伴う経済の流れ、それらに多く依存する生活環境のもとで、炭鉱労働者(だけではないが)は翻弄され、繰り返すが、最終的には産業自体が消滅してしまうのである。

  こうしたあまりにも過酷な「労働」とその運命の中で、彼らが何を考え、何を想っていたかということは、確実に我々が留めて置くべき「記憶の遺産」といえるものだと思う。

   そして「労働」という行為そのものについても、どうあるべきかを再度問い直す必要があろう。

関連記事:シベリア抑留と強制労働

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【書評】ビジネスパーソンは競技のプレイヤーなのだろうか:ケン・ブランチャード『社員の力で最高のチームをつくる《新版》1分間エンパワーメント』

 今さらながら言うことでもないが、ビジネスは団体戦である。

 私自身は個人の力を強く信じる立場のものであるが、団体戦の効果の優越ということは認めざるを得ない。

 団体戦には「集団知」というような、個人の能力を単純合算したよりも大きなアウトプットを産み出せる特性があると思う。

 ただし、それを実際の場面においてメンバーを組織し効率的に運営する体系的方法論はまだ確立されていない。そこで様々な組織論が生まれてくる。

 個々の人間は多様な価値観(優先順位)を持ち、多様な能力を持っている。それらを相互に補い、相乗効果を産み出せば、個人では決して得られないようなアウトプットを産み出せることは誰もが首肯されると思う。

 しかしながら、「人間が3人集まれば派閥ができる」というように、様々な思惑、利害関係など社会には様々な非対称性・非線形性があり、単純に集まればよいという訳ではない。全く異なる方向に向いた行動の修正やメンバー間の摩擦に大半のエネルギーを浪費した結果、失敗に終わるプロジェクトも多く我々は目にしている。

 本書は、メンバーが自律的に動くような組織−エンパワーされた組織−を作るための方法論について、明快な論理で示した好著である。

 前提認識として、著者は

「上司が管理し、部下は管理されるという伝統的なマネジメントスタイルはもはや効力を失っています。(中略)社員を駒のように使う指揮系統的な発想から、全社員が自らの責任感に導かれて最善を尽くせるような支援的発想に頭を切り替える」(p.4)

 必要があると説く。

 その上で、エンパワーされた組織に変化させる3段階を以下のように提示する。

(1)正確な情報を全社員と共有する

「正確な情報を持っていなければ、責任ある仕事をすることができない。正確な情報を持っていれば、責任ある仕事をせずにいられなくなる」(p.62)

(2)境界線を明確にして自律的な行動を促す

「自立した働き方を促進する6つの境界線 ①目的②価値観③イメージ④目標⑤役割⑥組織の構造とシステム」(p.74)

(3)階層組織をセルフマネジメント・チームで置き換える

「エンパワーされた組織では、職位にともなうパワーはさほど意味をもたないということです。それよりも、メンバー各自の専門的知識な能力、人間関係、責任ある行動の方が、ものごとを進めるうえで大きな意味を持つようになります」(p.138)

引用終わり

 ところで肝心の「エンパワー」とは何だろうか?

 著者は以下のように説明する。

「真のエンパワーメントは人にパワーを与えることではありません。与えてもらわなくても人はもとも とたっぷりのパワー−知識、経験、意欲− を持っていて、立派に自分の仕事ができるのです。エンパワー メントとは『社員が持っているパワーを解き放ち、それを会社の課題や成果を達成させるために発揮させること』です」(p.30)

引用終わり

 ここで著者は、大前提としてチームの構成要素である”人間”についての基本的理解を表明している。即ち、誰もが本来自分自身の中に”良い”モチベーションを内在させている、とする。

 そしてそれは適切な方法で自律させることにより、自然に合目的的な動きを形成し、集団的な集合知として発現できる、という立場に立っている。

 読者はこの描像に戸惑いを覚えるかもしれない。

 私は戸惑った。

 その戸惑いの理由のひとつは、おそらく前提としての「労働」に対する認識を単純化しすぎているからだと思われる。

 つまり、労働とは本質的に「苦しいもの」なのか「愉しいもの」なのかという問いである。

 この点を著者は明確に回答していない。

 著者はおそらく、一種の”スポーツ”、“競技”のような、ルールがあり、その勝敗指標が明確なゲームのようなイメージを労働に対して前提しているのではないかと思う。欧米系の著者のビジネス本では、比較的このような労働に対する理解があるようだ(例えば、『HIGH OUTPUT MANAGEMENT』アンドリュー・S・グローブ(日経BP社)など)。

 頭脳労働に限定する場合、一定の妥当性があるだろう。究極的な理想形態としては、そのようになるべきだ、と私も思う。

 しかしながら、現時点の日本においては、いわゆるホワイトカラーとブルーカラーの区別は欧米のそれほど明確ではなく、そのため頭脳労働と肉体労働が未だ混在している状況にある。

 そうした視点で見ると、やはりこの箇所は少し保留を念頭に置きながら、最後まで読み進むことになってしまう(この箇所がすんなり腑に落ちる人は、ある意味うらやましいとも思う)。

 実際の方法論の3段階ステップは、実用的な記述であり説得力がある。①の「正確な情報」に関する部分などは確かにその通りである。

 照会する際に質問の背景まで含めた説明をしなかったばかりに、最善のアウトプットが得られないことは良くある。

 正しい問いをしなくては正しい答えが返ってこないのは当たり前であるが、正しい問いとは、正確な情報に裏付けられていることを我々は忘れがちである。特に専門家の場合には、常にある状況の前提において「Yes」「No」を判断し回答する。この前提条件が間違っていれば、当然回答も変化するのである。

 こうした実際に”使える”ノウハウも十分に含まれており、実用的な本ではある。

 その一方で、繰り返しになるが、欧米的なスポーツ競技的な思想に裏付けられた楽観的な(これは悪い意味ではない)労働理解、人間理解に基づいた団体戦についての論考である点には注意が必要である。

 労働者が競技者(プレイヤー)とし、会社がチームとして抽象化できれば確かに成立し、説得力のある組織論である。

 私自身そうあってほしいとも思う“スポーツマンシップに則った”理想的ビジネスの姿である。

 論理構成が明快で説得力があるがゆえに、そうした抽象化したモデルでの前提を念頭に置いた上で実行に移すことが必要であろう。

 それを怠ると、現実的な場面で実行するフェーズにおいて「あれ?あれ?なんかうまくいかないぞ」という形で、足を掬われる恐れがあり、注意を払っておきたい。

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社内ニートおよび社内失業の研究

 社内ニート、社内失業という言葉を聞くようになった。

 wikipediaでは

社内ニートとは社員としてその企業に在籍しながら、十分な仕事も与えられず、机に座って終日暇をつぶしているものをいう

 と記載されている(要出典になっているが)。

 結局会社で長期的に業務が与えられない、あるいは、無い状態が出現しているということだ。利益を追求する目的の会社に、何故そうした状態が発生するのだろうか?

 ひとつの理由は、単純に要員に対する業務の量がアンバランスな状態(要員過剰)になっていることだ。固定費削減の意味では、経営者としては要員を削減するべきだが、別の理由によりできない状態(正規雇用の場合、労働者の地位が保護されている、など)によって起こるだろう。

 また、本来はやるべき業務はあるのだが、そこに至るスキルを身につけさせる教育をすることができないほど他の社員が忙殺されているような場合。

 この場合にはお互い不幸で、既存社員は業務がオーバーフローしており、それを救済するための人材採用であったはずだが、それを教育する時間すら無いということで、破綻の一歩手前のような状態であろう。いわば”詰んでいる”状態である。

 仕事が無いという状態が定常化、あるいはその改善の見通しがない、というのは非常に不幸だ。リソースを適切に活用できていない経営の重大な怠慢と言える。

 社内ニートを語る文脈として、リストラ部屋のような明確な経営の意思がある場合とは区別して語られることが多いのも特徴である。

 過重労働とは異なる一種の経営側の労働サボタージュが、現代において発生している。

 ”ニート”という現象が、現代における各家庭の豊かさにより産み出されたものと同様に、会社においても同様に剰余の存在として現れているようだ。

 ただしニートは親子関係のような極めて私的な関係性に起因するが、社内ニートは全くの公的な社会的関係性に起因する。従って同様の対策で解消できる課題ではないであろう。

 労働問題は過重労働対策を軸に考えることに我々のような世代は考えてしまいがちだ。このような人材の在庫の方が過剰になっているような局面においては、どのような考え方をすべきであろうか。

 近い将来に、会社員の副業がこれまで以上に認められる方向になると予想される。並行的な労働環境の中で流動性が上がり、この問題は少し労働者側にとって前進する方向になるのではないかと期待してはいる。

 ただし次に利益相反行為という、従来の雇用関係ではあまり重要な課題として言及されてこなかった要素に直面しそうである。

 その時、サラリーマンとフリーランスという対立軸も揺れ動くことになると思われる。

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