【書評】マーサ・ウェルズ「マーダーボット・ダイアリー」ー自己肯定感の低い警備ロボットの自分探しと人工知能同士の”愛”を描いた傑作

マーサ・ウェルズ「マーダーボット・ダイアリー」シリーズ4冊(創元SF文庫)を読んだ。

引きこもり系でコミュ障、かつ、自己肯定感のめちゃくちゃ低い主人公の1人称で綴られるこのSF小説は、SF的視点で「他者とのコミュニケーション」を真っ向から描いている。

この主人公は人ではなく、戦闘力の非常に高い「警備ロボット」。ロボットであるがゆえに、クライアントである人間を守るために、自分を犠牲にすることも厭わないようプログラムされている。過去のある事件をきっかけに、中央からの統制から自由になったこの警備ロボットは、結果的に目的がなくなり自らの運命を探る必要に迫られる。これはこれでSF的設定を差し引けば、”自分探しの物語”である。

この戦闘マシーンである「警備ロボット」は、自己卑下するあまりにへりくだって自分を”弊機”と呼ぶ(この日本語訳は素晴らしいと思う)。その自己肯定感のなさ、大量のエンタメドラマに耽溺するのが趣味というインドア思考という設定も効いていて、絶妙の現代的な物語になっているのである。

この「警備ロボット」は小説的には性別が不明で、さらに、完全にジェンダーフリーに描かれている点も面白い。日本語版のイラストも中性的に描かれている。ちなみに4冊読了後に、私は完全に女性的なイメージを描いていたが、人によっては完全に男性的なイメージを描く人もいた。

こうした警備ロボットが人間たちとふれあい、怯えながらもゆっくり自分の人生(?)を自己決定していく。人間たちから向けられる感情には敵意もあるし、好意もある。これらに戸惑いつつ、大量の内省(主に自己卑下と人間不信と現実逃避への渇望が多いが)と共に、自分探しをするモノローグ(と多くの事件とその解決)が、この小説群のメインストーリーである。

さらに、このコミカルっぽくもあるSF小説で感動すら思えたのは、SF的思考の真骨頂とも思える「人間以外とのコミュニケーション」の描写である。

それは、ある宇宙調査船の制御システム(ARTと呼んでいるが、芸術の意味ではなく、警備ロボットによるスラングによる毒づき名称)と警備ロボットとの、不器用ながらも少しづつ進む「交流」として描かれる。

このARTと警備ロボットは、時には協力したり、時には他方が危険な場面に巻き込んだりと、喧嘩しているシーンが多い。しかし、それでもなお、お互いを必要としている情景が少しづつ多くなっていく。喧嘩したり、謝罪したり、二人でドラマを見たり、と次第に関係が深まっていくのである。ただ、これはあくまで人工知能同士の交流なのである。

こうした果てに、”人工知能同士がお互いを必要とする”という感動的なシーンが描かれる。控えめな描写であるが美しい。

機械が知性のような物を持つ、という現象は既に我々にとっても生成AIなどを目の当たりにするとそう遠くない未来にありそうなイベントである。しかし、その”知性”が”人格”を持ち、さらには、その人格同士がお互いを必要としあうことはどのように起こるのか?という問いはまだ全く想像できない。この問いへの美しい見事な回答でもある。これが(あまり使いたくないが)「愛」が生成したというものなのかもしれない、と。

このARTと警備ロボットが最初に仲良く(?)なるシーンは、ドラマがそれをつないでいる。ARTはドラマは情報としてしか理解できないが、警備ロボットの「反応」を仲介することでドラマを娯楽として視聴できるという設定がある。いわば警備ロボットの肩越しにARTはドラマを「鑑賞」しているのである。人工知能同士が、あたかも人間がそうするように居間でTVの前で二人寄り添ってエンタメドラマに耽溺するシーンのように想起され、私は感動すら覚えたのであった。

Share

【書評】施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」7巻–図書委員・長谷川さんの感情発露エピソード多めの巻

施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」7巻を読んだ。帯にあるように12周年を迎えた模様。すごい。

いつもの4人メンバーの本をめぐる日常であるが、今回は図書委員の長谷川さんのリアクションが結構多いような気がしている。ホームズマニアの控えめな眼鏡っ子で、男性キャラの遠藤を慕っている。

あまり目立たたないキャラ、かつ、舞台回し兼ツッコミ系の役割なので、感情を顕にすることが少ないような気がしていた。

今回は結構、照れてみたり怒ってみたりと感情を発露するシーンが多いようにみえる。

図書委員というのは、成長期のほとばしるエネルギーがあり余って仕方ない高校生が部活に汗を流す放課後に、校舎高階にあるエアコンの効いた図書室の窓から体育会系のエネルギー消費する様子を眺めつつ、同じく自分も食欲だけはあるので内蔵したエネルギーを抱えつつ<本>に向き合い、精神エネルギーを消耗するという立場である(そうなのか?)。

ここにも青春はあるのだが、やはりちょっと汗とか肉体のぶつかり合いはない。

でもお腹は減る。

文化系高校生、かつ、吹奏楽部みたいな情熱もない読書好きというのは、そんな屈折しやすくバランスの悪い青春なのだが、本書ではこの空間を見事に成立させている。同様に窓からサッカー部を眺めていた自分の思い出が過去から照り返してきて、なんとも読後感が甘酸っぱくなるのであった。

Share

【書評】オラフ・ステープルドン「シリウス」ー知性をもつ犬の”魂の成長”を描いた美しい物語

古典SFの名作と呼ばれるオラフ・ステープルドン「シリウス」を読んだ。(注意:ややネタバレあります!)

科学者によって生み出された人間と同等の知性をもった犬(シリウス)と人間社会との交流を描く。物語の主題としては、犬の身体の中に、人間と同等の知性(成長する知性)をもったとしたら?というSF的課題を設定し、その犬の精神成長をできる限り犬の視点から描いている。

シリウスは人間社会、家族の一員として幼児から青年、そして大人へと成長してゆく。我々人間と同様の精神成長をしていくと同時に、”精神の入れ物”である肉体が大きく異なることで当然ながら悩む。さらに、シリウスは人間が生み出したものであり、同じ知性をもつ同類は存在しない(生み出せない)という悲劇的設定になっている。

社会的存在として個人が、自我を確立し、精神成長を経験すると同様にシリウスもまた、成長し悩む。人間がそうであるようにある一時期に堕落したりもする。そして人間よりもクリアな形で、生物としての荒々しい”野生の力”とも自己の中で対峙することになる。

この小説のすごいところは、そうしたSFテーマを単純に”犬の体を借りた人間”という形に単純化せず、この特異なシリウスの精神を想像力で再現し、それを格調高い筆致で描ききったところにあると思う。犬のもつ人間よりも帯域の広い嗅覚や聴覚をもとにした、この世界像の再構成やシリウスの自己探求の果てに最終的には”神”の問題も扱い、ラストでは”生まれてきた意味”や”救済”すら考えさせる壮大なテーマに昇華されるのである。

シリウス(SIRIUS)とはおおいぬ座の恒星で太陽を除くと地球上で最も明るく見える星である。中国では天狼星、欧米ではDog Starと呼ばれる。夜空で最も明るく輝くこの恒星は、またそれがゆえに孤高な存在を象徴する。そして、太陽が昇ると夜空の星々の姿はかき消される。地球上からみて、ともに存在できない太陽とシリウスはこの物語の二人のキャラクターを象徴しているかのようだ。物語でのシリウスは、夜明けの太陽の光が注ぐ美しくも悲劇的なシーンで幕を閉じる。

我々自身を宇宙の外や別次元の視点から俯瞰して眺める経験ができるSFのパワーを強く感じることができ、有意義な読書経験だった。

Share

【書評】酒寄希望「酒寄さんのぼる塾日記」–融和系お笑いカルテットの絶妙な間合いと酒寄さんの巧まざるユーモア

 年末に発売された、酒寄希望「酒寄さんのぼる塾日記」(ヨシモトブックス)を読んだ。4人組女性お笑いカルテットのリーダーかつブレーンである、育休中の「酒寄さん」が書いたエッセイである。

 発売前からnotewebエッセイで、なんとも抑制の効いた文体で、仲間であるぼる塾メンバーの面白エピソードを書いており注目していた。

 この酒寄さんが書く「田辺さん」のエピソードが非常に面白い。本当の田辺さんより面白いのではないかという感じであり、まさにプロデューサー視点である。

 ここで描かれる田辺さんのエピソードは、ある意味異常に変わった人でありつつも、同時に人情味も溢れるという多面性のある性格として描かれている。

 これはこれで読者にとっては、芸人をみつめる視線として、非常に元気づけられたり、ほっこりしたり、と良い印象を与えてくれるのであるが、そうはいっても人間としての田辺さん自身はきっとノーストレスではないはず、という点が少し気になる。

 その点はプロの芸人としては見せたくない部分であろうが、本書では、これと併せてぼる塾4人の強固な関係性が描かれることにより、そちらの心配についてもある程度安心させられもするのである。

 ちなみに本書で一番笑ったのは、相方とは親しく話している酒寄さんが、出産において自分の夫と会話する文体が、思いっきり他人行儀の「ですます」調であることであった(p.387)。田辺さんとはフランクな会話なのに・・・。酒寄さんと夫とのエピソードは本書では皆無。よって、この後の伏線回収もされていない。酒寄さん自身の変人性も垣間見えるような気もするが、解決はされていないのだ。

 こうした複雑さも込みで、”癒される”不思議な読後感であった。

Share

【書評】施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」6巻–神林さんの感情発露が多発の一冊

 施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」6巻を読んだ。

 場所は図書室やカフェが中心、登場人物は4名。このシチュエーションながら、読書あるあるを盛り込みながら、10周年を迎えた模様。

 6巻では、マニアとしては王道キャラの「神林さん(表紙の人)」が、結構感情を露にする。照れてみたり、泣いてみたりと。

 我が道を行くマイペース+クールかと思いきや、周囲の影響も受けてきたのか、感情の交流や自分感情が外部に流出する表現が多くなってきた。

 読書という趣味は、基本孤独作業なので、その結果を他者と共有できる環境は常に憧れる。むしろ心の片隅で「そうしたい」と思ってはいる。

 しかし同時に、そうした快適な環境というのは現実では「ありそうで、なさそう」、おそらく「ない」のである。まさにフィクションでしか成立しない世界なのである。

 次第に、この世界自体が、”読書好きが夢見るユートピア”のような雰囲気を強くしてきたようで、この先の行方がだんだん気になってきた。

Share

【書評】稲田将人「経営参謀」科学的アプローチによる、戦略策定におけるおそらく唯一の”真実”

 稲田将人「経営参謀」(日経ビジネス文庫)を読んだ。いわゆるビジネス小説でありながら、経営再建のための戦略策定のための知見が詰まっている。

 少々個人的に身の回りの変化(【近況】異動になってしまった)もあり、身につまされる読書体験であった。

 小説の筋自体は、経営企画の主人公がアパレル業界に中途入社し、社長からブランドの建て直しを求められる。この会社は上場会社だが同族経営で、マネジメントに偏りがある。

 主人公は、マーケティング調査により市場動向をプロファイリングし、再建に向けての戦略を作り、徐々に成果を出しつつあった。この過程で、いわゆる「戦略理論」を主人公がケーススタディから学んでいくことになる。

 それと同時に小説としても、主人公の活躍に対する”妨害”などもあり、こちらの面白さもある。そして、その結末もなんとも「現実的」なのであり、味わい深い。

 本書ではあくまでB2Cの領域であるが、これはB2BやB2Pなどでも同様であろう。ただ、よりプロファイル的にはマーケットの考えの推定は難しくなりそうだ。

 実地体験でも、こうした「戦略」を作る、ということで現場はかなり混乱している。

 戦略を作れ、と言われてひたすら終わりなき調査作業だけを行う人間や、市場調査、ベンチマーク、知財戦略、差別化、SWOTなど、網羅的な完成品の「目次」を渡され、それを全部埋めろ、と言われていつまでたっても終わらない作業をしている人間など。

 混乱の極みになっている風景を良く見かける。

 これは戦略を作れ、と指示したマネジメントすらも何をオーダーしたか、何が出てくるかを具体的にイメージしていないのである。こうした無駄な作業が現場では起こっている。

 本書はそうした点から一線を画している。

 簡単に新市場などができる戦略のフレームワークなどない、と言い切るのである。

 この考えは事実であるし、悲しいかな、迷っている人々は残念なことに「フレームワークをくれ」としか考えていないのである。

 迷っている人の苦しみは想像できる。

 いわばドストエフスキーの長編小説を渡されて、「これみたいなやつを作れ」と言われているようなものなのだ。

 そんなのできるわけがない。

 小説だって、あらすじから肉付けしていって完成させるのに、いきなり長編の完成品を持ってこいと言われるのは酷である。だが、繰り返すが、指示する側も、戦略を作った経験もそもそもないので、どう指示して完成させるかの正解を持っていないのである(そして自分も正解を持っていないことは明らかにしないものである)。

 では何をすれば良いか。本書では、その回答も示唆されている。

 ”正確な事実によって現状を把握して戦略を作る”、そして、”戦略とは精度の高い初期仮説であって、これを早いPDCAサイクルで回して検証する”というシンプルなものである。まさに科学的アプローチそのものである。

Share

【書評】奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年」”血”か”情”か、親子関係の本質を考えさせられる感動のノンフィクション

 奥野修司「ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年」(文春文庫)を読んだ。

 昭和46年に沖縄で起こった赤ちゃんの取り違え事件。その2家族、そして当事者を、長期に渡って取材したノンフィクションである。

 昭和52年に血液型の違いから産院での”取り違え”が判明し、二人の子供は血の繋がった本来あるべき家族の元に戻される。こうしたケースでは、当時から”子供の順応性を信じて、速やかに実の関係に戻す(交換する)”というのがセオリーだったようだ。環境を離してしまうことで、時間が解決する方法といえる。

 交換後、この2組の親子はともに6歳まで育てた子供と、血の繋がった子供への愛情の間で煩悶する。

 子供たち自身も、これまでの生活環境の中でできた「家族」への愛情を断ち切ることができない。

 沖縄という地縁の強い土地、そして結果的に、2つの家族が行き来できる物理的距離のある生活環境だったことで、このケースにおいては特異な様相を見せ始める。だが、家族関係に通常も特異もないので、そもそも何が通常、正常なのかはわからないのだが。

 加えて、2つの家族がもつ特殊な環境、特に母親のあり方に「対称性」があり、次第に成長する2人の子供は1方向に傾斜していくことになる。これもまたレアなケースなのであろうか。

 結果的に成人した2人の子供は、ある片方の親とのみ親密な関係を維持するのである。

 子供にとって落ち着いた地点は、親にとっては幸せの分配が非対称になっている結論となった。

 全ての関係者にとっての納得できる結論にはなっていない。

 ”奪われた”親も、まだ先の人生においてもこのままとは思っていない。

 本書は、肉親としての”愛”と育ての親の”愛”に違いはあるのか、そういった問いかけを読者に投げかける。このケースを見る限り、おそらくそこに差異はないようにみえる。

 個々のケースにおいて、個々の事例で結論が出るのであろう。だがそれにしても、ある時間軸で切り取った場合の「結論」であり、その後も人生は続き、おそらく最終結論は出ていないといえる。

 親子の”愛情”とは、という非常に重い問いかけを提示し、読者一人一人が考えさせられる感動作である。

Share

【書評】萩尾望都「一度きりの大泉の話」–いま造られつつある”歴史”への全面的拒絶宣言、および、自己肯定と自己否定の埋められない溝

 前記事で竹宮惠子の著書「少年の名はジルベール」を読んだ後に、萩尾望都「一度きりの大泉の話」(河出書房新社)を読んだ。

 参考記事:【書評】竹宮惠子「少年の名はジルベール」”大泉サロン”に集った少女マンガ家たちの青春と先駆者たちの苦闘、そして。

 竹宮惠子の著書が、それなりに悩みは抱えつつ基本的には明るく、懐古的(色々あったけど、今振り返ってみると良かったね!的な)だったにもかかわらず、とんでもなく火の玉ストレートな拒否のメッセージを萩尾望都が、ぶちかましているのである。もはやある時点から竹宮惠子の作品は一切読んでいない、と宣言するくらいにである。

 この話題はもうこれきりにしたい、という覚悟で、自分視点での”大泉サロン”のアナザーサイドストーリーを振り返る。そして、そこには萩尾望都にとって、許せない一線を超えられてしまった恩讐のような思いが根底にある。それこそ竹宮惠子と同列に語られてしまう少女マンガ家の「花の24年組」という歴史的解釈すら拒否するほどの。

 本書では、こうした非常に重い記述が続く。受傷した萩尾サイドの視点からの、真っ暗な部屋で一人孤独に苦しむ人の告白を聴いているような、息詰まるような緊張感で横溢しているのである。

 竹宮惠子としては「色々あったけど、私が若さゆえの一人相撲だった。ゴメンね(一応謝る)、そんな時代もあったねと〜♪」という感じで、良い思い出に包んで”大泉サロン”の歴史を総括をしようとしたものの、萩尾望都としては100%拒否の姿勢で、その献呈された著書(「少年の名はジルベール」のこと)を読まずにマネージャーが送り返すほどの状態であり、今回のこの著書によって竹宮サイドの記述を全てゼロにされるくらいの攻撃力を持っているのである。

 更に事態を悪化させたこととして、当事者以外の外野も巻き込んだのも悲劇の一端というべきのようだ。変なイベント企画屋みたいな人もこの話題に絡んできており、受傷した側の萩尾望都にとってはまさしくアイデンティティの「危機」であったのだろうと思う。

 お互い創作者として鋭くナイーブな感性を持っていながら、最終的なギリギリの局面において、「自己に対する肯定性」を持つことのできた竹宮惠子と、一貫して「自己に対する否定性」を持ち続けてしまった萩尾望都の二人は、やはり噛み合うことは難しいように思う。

 更に、萩尾がこの著書で振り返った歴史的解釈において、創作者にとってのオリジナリティに対する意識の違いが、竹宮のプロデューサー的役割、かつ、この”大泉サロン”のキーパーソンの一人への評価の違いとして描かれ、これは萩尾視点では決して埋められない溝として描かれている。

 そして、これは拡大解釈だと思うが、当時竹宮たちが同世代としてシンパシーを覚えていたであろう70年代の学生運動の高まり、すなわち「革命」に対する、萩尾からの強烈なアンチテーゼとも思えてしまう。

 ”あなた(竹宮)の総括は、歴史を権力によって都合よく事後改変しようとして批判された(学生運動の当事者が批判していた)スターリニズムのそれと同じではないか”と。

 まさに歴史がどう造られるのか、それを目の当たりにしているようだ。

Share

【書評】竹宮惠子「少年の名はジルベール」”大泉サロン”に集った少女マンガ家たちの青春と先駆者たちの苦闘、そして。

 竹宮惠子「少年の名はジルベール」(小学館)を読んだ。今話題の本である。 

 2016年出版のこの本が、今現在話題になっているのには理由がある。本書は竹宮惠子の自伝的エッセイなのであるが、最近になって出版された萩尾望都「一度きりの大泉の話」によって話題となった。この2つの回想を、竹宮→萩尾の順で読んでみた。

 竹宮惠子と萩尾望都がともに漫画家を目指して地方から上京してくる。そこで、ある一時期に練馬区大泉のオンボロ長屋で同居生活を行った。ここに当時の少女漫画家の卵たちが集ったという。

 これを”大泉サロン”と呼ばれることがあり、女性版トキワ荘のようなイメージとともに、ある種の成功伝説のようになっている。この女性版トキワ荘の主役の一人は、この竹宮惠子であり、そしてもう一人は萩尾望都であった。

 どちらも有名なマンガ家である。彼女たちは、新しいマンガ形式を模索するために、議論し悩んでいく。そこには熱気があった。

 この”大泉サロン”は約2年で自然に解散してしまう。それぞれが別々の生活を見つけていく。

 当時から、この解散の経緯には色々な噂があったようだ。具体的にいえば、竹宮恵子と萩尾望都の間に、何かしらの”衝突”があったらしいということが囁かれていたらしい。

 このいわば、出会いと別れからなる青春生活を、本書で竹宮惠子は自分の目線で綴っている。そして、萩尾望都との別れについて、自分から「距離を置きたい」と切り出したと記述している(p.178)。そこには、灼熱の太陽に照らされ続ける焦りにも似た、萩尾望都の才能に対する「嫉妬」の感情があったとする。

 当時はタブーであった「少年愛」をマンガによって描く、そのために固定観念に縛られた出版社の商業主義と戦うために竹宮は苦労する。まさに先駆者の苦しみである。ライフワークともいえる「風と木の詩」を掲載・出版させるための様々な戦略的苦闘も描かれるが、竹宮惠子にとって萩尾望都はそうした苦しみすらも、誰もが認める才能によって易々と乗り越えてしまうような”恐怖”を覚えているようだ。

 竹宮惠子自身も一流のマンガ家であり、何もそこまで、と読者は思う。

 私も大学生時代に読んで驚愕した名作「風と木の詩」や、社会人になって読んだSFコメディ「私を月まで連れてって」など、全く卑下する必要すらない作品群を生み出していると思うのだが、萩尾への当時の出版社の対応ー当時から描きたいものの掲載が確約された対応、やファンからの声の違い、さらに表現者・創作者としていちばん目の当たりにしたであろう萩尾のホンモノの「才能」に、本人も記載している通り「自家中毒」(p.177)になってしまったようなのである。

 この本は一貫して竹宮惠子が愚直に悩む姿が描かれているものの、全体としては明るい懐古風のトーンとなっている。ラストには改めて萩尾望都らへの感謝も記載されている。

 読後感は悪くない。振り返って様々な苦労をともにした”戦友”あるいは”同志”への”総括”メッセージとも取れる。

 だが、人間関係というものは複雑であり、2021年に出版された萩尾望都の著書「一度きりの大泉の話」によって、再びこのイメージはひっくり返される。芥川の「藪の中」と同様、それぞれの視点によって見える現実が異なっているのである。

 竹宮惠子にとっての「総括」を、萩尾望都は全面的に否定するのである。

 萩尾望都「一度きりの大泉の話」の読後感については別記事で記載したいと思う。

Share

【書評】宮川ひろ「春駒のうた」–被害者の受傷と加害者への攻撃性がロックオンし、その膠着からの再生の予感を描いた児童文学の名作

 宮川ひろ「春駒のうた」(偕成社文庫)を読んだ。1975年出版の本であり、児童文学作家であった宮川ひろの初期の名作である。

 「春駒」とは、伝統芸能である門付の一つのことで、馬の形をした人形を持った一座が村の家々を回り、歌や芝居を見せるというもので、春を告げる山村の一大イベントであった。

 ポリオ(小児麻痺)にかかって右足が不自由になった主人公の少年・圭治、その祖父・文三、そして担任の先生・園田が軸となって、群馬県の山奥の村を舞台に描かれる物語である。

 圭治はポリオにかかり、片足が不自由になる。松葉杖が必要になり、それによって今まで遊んでいた友人たちとの関係から、不登校になってしまう。友人たちも悪気はなく、またお互い、受け入れられたい/受け入れたいという感情があるものの、些細な「行き違い」によって、それはなされない。

 いまあっさりと「行き違い」と書いたが、それはあくまで多数の第三者的視点であることは言うまでもない。<傷つく少数者>と<傷つける多数者たち>との関係は、本質的に「対称」ではない。非対称なのである。

 つまり、本書で描かれたような稚気による”からかい”や”いたずら”が、少数者である圭治にとっては、決して単純な仲直りでは立ち直れない心理的な傷となるように正しく描かれる。

 そしてその傷を受けた圭治にかわって祖父・文三が、分校の教師たちを攻撃する場面を著者は描く。

 その行動は、戦争で父(文三にとっては息子)を無くした圭治への愛そのものに依拠している。攻撃することによって、圭治のハンディキャップをカバーしようとする思いも込められている。だが、その攻撃は集団にとっての無謬性の禁忌を刺激することになり、何も解決もなされず、かといって後退もしない。集団の事なかれ主義によって、ただ凍結させられている。これも、こうした事件の被害者と加害者の関係を象徴的に示している。被害者が次の加害者となることもある、と言うことを。

 文三の攻撃によって教師が定着しなくなった分校に赴任する若い女性教師・園田によって、この膠着状態は少しづつ変化を始めていく。しかし、それでも長続きはしない。やはり圭治は不登校になり、祖父・文三は攻撃性を捨ててはいない。

 これは全き正しい構図である。

 理想主義や超越的な何かを物語に導入することでは、こうした個々の傷は決して解決しないことを正しく描いているのである。そこに、この小説の凄さがあり、典型的な児童文学に堕ちていないことを示している。これは現代においてもレベルの高い視座であるといえる。

 そして、本書では最終的な救済を<自己>の中に求めた。

 他者はその契機を与えるだけであり、自己を救済するのは自己の内部に求められると。

 契機とは、圭治が見た、肢体不自由でも自力で立ち、歩こうとすることをやめない子供たちの姿であった。

 あくまで本書では解決の姿は描かれない。

 園田先生は、春駒の前の日にやってきて、まだ物語の最後でも春駒を見ていない。表題にもなった「春駒」はこの小説の初めと終わりを意味する「節目」を意味するだけのランドマークであり、本筋は違うところにある。

 だが、そこには受傷からの再生の予感が描かれており、その結末の描き方も非常に爽やかな読後感であった。

 

Share