2024年、激動の年がまた明ける

2024年も明けてしまった。業務のモードが変わってはや2年以上が過ぎた。

要求されるハードルは上がりヒリヒリとした日常は続く。さらに寄る年波、取れない疲労、増える酒量で、なんとも苦しい状況である。それに加えて、今後のキャリアプラン(要するにサラリーマンとしてのセカンドキャリアをどうどうするか問題)の悩みや高齢化する家族の問題など、悩みは尽きない。

非常に悩むところが多いのだ。サラリーマン初期も確かに悩みが多かった。だが「まだ人生長い」みたいな余裕はあったのである。要するに悩みの種類が少なかったというべきか。それはそれも苦しい状況だが、この段階での悩みのバイキング状態はこれもなかなかの苦しさである。

なんとも締まらない状況であるが、初詣のおみくじは「大吉」であった。今年は希望のある一年にしたいなぁと。

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2023年も大詰め!今年は激烈に疲れた・・・他人を巻き込むには「味方」がゼロだときついことを知る1年

2023年も終わりつつある。今年も昨年から一層苦しい日々となった。いったい何時になったら楽になるのであろうか、という感じである。

今年の前半は、仕掛けた勝負に対して連戦連敗であった。他人を含めた組織を巻き込むということの難しさに直面した。そもそも単騎勝負がポリシーなので、根回しや交渉もあまりしてこなかったのも痛い。

他者を巻き込むことは、他人も多少のリスクを負うことを意味するので、どうしても「味方」がいないと、いくら魅力的なプランを提案しても乗ってこないのである。特に「敵」に至っては、逆にその提案の価値すら認めないのである。これは大失敗であった。読みが甘かった。

結局、何も前進できず、企画案のみが増えていく状態。それはそれで意味があるはずだが、結局ビジネスの結果を突き詰めると、フェーズが前進してなんぼなのである。ゴールにより近づいたアウトプットのみを欲しているので、それ以外の結果は「停滞」であり、「停滞」はマイナスと見做される。・・・恐ろしい世界である。

こうした状況の場合、さらに苦しいのは自分の周りから人が離れていることである。つまり、負け戦に参加したい奇特な人間はおらず、みんな勝ち馬に乗りたいので、その後の交渉もやりにくくなる悪循環。

そこで後半からは方針転換を図り、ある意味「みんなの欲しいもの」を前面に出した提案にシフト。そして「権力」の一声もゲット。つまり、正統派のやり方に回帰してみた。これまでのやり方はどちらかというと、ボトムアップ的であり、組織の意識醸成を重きに置いてきた。しかしそこを一気にトップダウン方式にすることで打開を図ったのである。

その結果は「大成功」である。あっさりと企画は通り、フェーズは前進したのである。そしてそれに伴い、モーセが海を割ったように、道が拓かれていく。まあ、当然といえば当然で、企画自体が承認されること=そこに権力者の意思が付与されることを意味するわけで。去っていった人々もしれっと戻ってくるのである。

なので今年を総括すると前半はどん底、後半で華麗にリベンジである。だが、疲労感は半端ない。方針転換自体も自分の意思だが、その転換自体が本当に正しかったのか、という自省が残るのである。結局リベンジではなく、ある種の敗北なのではないかとも思う。

実際にトップダウン式は簡単極まりないことはわかっていて、それが嫌でボトムアップ式を選んだのだが、そこにこだわることをやめてしまったのも事実で、そこに至る自分の感情はまだ整理できていない。

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2023年スタート!変化に無意識に抵抗する人々を解放することが最後まで残る課題っぽい

 2023年も始まった。昨年大晦日にほとんど問題意識は書いてしまったが、「組織の中で新しいことをゼロから開始する」ということは非常に難しい。

 確かに理想的には、トップが意思決定し、そこに向けて下部組織にその実行を落とす。全体最適というポリシーの中で、各部門にとっても何も異論はないはずである。個別最適よりも全体最適の方が良いし、全体の方針に個々が従う、というのは組織論の大原則であって、誰も反対のしようがないド正論であるからだ。

 では、トップの一声で、組織内の個々の場面で、シームレスかつスムーズに適用されるものなのか?と問われた場合、現実的には「全くそんなことはない」のである。水飴の中で泳ぐような巨大な粘性抵抗があるのだ。

 人間が持つ無意識的な「現状維持バイアス」=変化に対する抵抗力というものは、非常に厄介なものである。口では「そうそう、君のいう通り」と言っても、実際にとる行動は全く異なり、なおかつ実行している本人もその矛盾に気づいていない、ということすら多々ある。

 皆が全体の方針に従うことで、調和のある形で進むのが理想であるし、美しい。言語として表現するだけであれば、単純であり、むしろ論理的な正しさを用いて全て記述できてしまう。

 そして実際にはそのように運ばない。

 いざ実行という局面になると、その動的な場面場面における複雑な「計算(打算)」が働き、やはり基本的には「様子見戦略」が最も個々の行動決定で最適になるようなのだ。つまり「当初は何もしない」そして「動きを見て後発で追従」そして「多数派が形成されたら全力で走る」という行動をとるものが多くなっていくのである。

 そこに加えて、人間としての「感情」の問題も考慮されるので、非常に厄介なのである。

 昨日の記事で書いたように、攻撃力だけがあったとしても、組織力が伴っていない場合、やはり孤立し消耗して結果としては敗北に終わる。兵站線を作るためには団体戦に移行しなくてはいけない。だが、団体戦に移行するためには、上記のような、組織論において単純ではない問題を孕むのである。

 とはいえ、この問題の解決は非常に難しい。おそらく汎用的な方法論もないであろう。

 日本電産の永守会長が、昨年の後継者問題のドタバタで「親分子分」という言い方をして世間ではアナクロだと批判されているが、やはりこの問題を最初に突破する手段としては「自分のいうことを基本的に無条件に信奉する子分」を作るという方法論が効果的だとは思う。そして、それは全くもって現代的でないことも事実である。

 現代組織の中で親分子分関係を作ることは非常に難しい(反社は除く)。かつて親分が子分にその忠誠と引き換えに提供できるとしていた「価値」も、今やコンプライアンスにほとんど引っかかってしまう。

 従ってこの「フォロワーを作る」ということが非常に難しい。

 親分子分であれば”この人についていく”であるが、これは使えないので、個人が人ではなく”何か”についていくようにするしかないであろう。自らの意思と思考で”これについていく”と強く決断しなくてはいけない(あるいはさせなくてはならない)。

 そしてその決断には、上位からの誘導や圧力があってはいけないのである。なかなかの無理ゲーであるが、今年はこんなことを考えつつトライして、サバイバルしていこうと思っているのである。

 昨日の大晦日に読んだナダル「いい人でいる必要なんてない」。コロチキのYouTubeはチャンネル登録して時々見ており、ナダルのエピソードは結構知識はある。ナダルという芸人の人格の中には、人間としての成熟さとサイコパスが混在しており、共感できそうでできない、という不思議な人格なのだ。この本を読んでもやはりその印象は変わらず。ただ、現代のサラリーマンには「刺さる」部分は確かにありそうである。

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カオスな2022年も終了した…勝負はまだつかず

 激動の2022年も終わりつつある。肉体的にもハードだった。昨年から、職場環境が大きく変わり、”ゼロから1を作り出す”ために目まぐるしく動き続けた1年であった。

 全く新しい出会いもあったし、新たな発見もあった。生活において、クライアントとサーバというか、顧客(お金を出す側)と提供者(お金をもらう側)の複雑さを身をもって学んだ。

 これは単純に言うと、ビジネスを含めた日々の生活の中で「顧客」と「提供者」の関係は固定ではなく、立場によって変化する関係性も持っている、という至極当たり前のことをあらためてしみじみと理解したのである。

 要するにお金の流れ的に「顧客」サイドは常に強いわけであるが、別の側面からは「顧客」ではなく「提供者」になることもある。単純には、我々は時にはお客様ポジションになるし、時にはお客様にモノやサービスを提供するポジションになる、ということである。

 当たり前のことだが、実は大きな組織にいると、このことに気づかないことが多いのだ。

 例えば調達部門にいる限り、常に「顧客」である立場で仕事をし続けることになる。また営業部門にいる限り常に「提供者」であるポジションである。法人を一つの人格と捉えれば当然、モノを買う立場では「顧客」、製品を売る立場では「提供者」となり、場面によってその立場は変わるわけだが、これが団体組織の中にいるとあまり理解できなかったのだ。このことが身に染みて経験できた。

 確かに「後工程はお客様」というフレーズもある。自分は結局実感できていなかったのだな、という反省もある。

 スタートアップの経営者などからは何を今更、という印象だろうが、「経験」で理解することは重要であった。それと同時に「顧客」というものが絶対的ではなく、いわば価値を巡る交渉の上に築かれる変動的な関係だったということも理解できた。要するに「顧客」と「提供者」の関係は、必ずしも王様と奴隷のような絶対的関係ではない(そう考えがちだが)ということも理解できたのだ。

 自らを振り返ると、あまり人前にも出たくないし、見ず知らずの他人と関係を作るのは苦手である。また思考するのは比較的好きだが、情報を集めるのはあまり好きではない。こんな状態であるが、今年1年は必要に迫られて、新しい業界や領域の情報を集め、そうした関係者との人脈を作る必要に迫られた。加えて、いわゆるGive&Takeで言うと、こちらがGiveできるものがない状態であり、交渉において取引材料も少ない。武器もないのに敵の領土を占領してこい、と言われているようなものなのである。

 無課金状態でゲームクリアしなくてはいけないような無理ゲープレイ状態とも言えるが、それでもなんとか今年は生き残ることができた。

 さきにスタートアップという表現を使ったが、まさにスタートアップのような少人数組織がもつ優位性とは、俊敏に分析、開発、意思決定のPDCAサイクルを高速に回すことだと思う。やはり大組織ではこんなことは不可能なのである。それと引き換えに少人数組織では、やはりリソースとしての「人」の問題もある。人材流動が激しいというのも、やはりこうしたサバイバル環境に耐えうる「素質」のようなものがある人間しか、やっていけないという事情もあるのではないか。

 要するに、初期段階というのは、その問題意識が尖っているため味方が増えず団体戦になりにくい。これは生き残るための攻撃力の増強が難しいということである。頻繁に方針も転換しなくてはいけないし、そのためには身軽である必要もある(そもそも方針転換についてこれないメンバーも出てくるはず)。

 なので、初期段階というものはえてして1点突破型の手法になりやすい。繰り返しになるが、壁を破って何か新しい価値を創造するには、既存の状況を「突破」しなくてはいけない。その突破力を高めるためには、尖った問題意識を集中させることだけで”アリのひと穴”を開けるしか手段はない。しかし、これは攻撃が面的にならないのでリソースの活用において効率が悪いという問題を抱えているのだ。

 そこで、来年の目標は攻撃力を上げることである。そのためには自分以外の味方を増やさなくてはいけない。だが、そこには「取引」がある。有形無形の何かを取引することによって、味方も参加してくるのは当然のことである。何を取引すべきか。ここが悩ましいのである。

除夜の鐘 吾が身の奈落 より聞ゆ

山口誓子

  

 

 

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他人に裏切られる、ということ。特に技術者の場合

 このところ気分が落ち込んでいる。主な原因の一つは、ある遠いところで今も進行している、ある一つの事態であることは分かっている。

 この事態は現在進行形であるが故に直接的には書くことができない。

 しかしながら、自分の今の感情を整理する意味でも、少し書き始めておきたいと思う。

 ディテールは敢えて事実とは異なるように改変したりボカしているが、事態の構図は事実である。

 事の起こりは8年前のことである。

 ある会社と、ある技術について、共同開発を開始した。もう少し詳しく書くと、その会社の製品を対象とした製造技術について、共同で検討をするプロジェクトを開始したのである。

 1年程度の技術検討の結果、ある成果が出た。

 我々が既に持つある特定技術を応用することで、その会社の製品設計品質が向上でき、結果コストダウンができることがわかったのである。

 つまり、我々の持つ先行技術や知見を水平的に応用することになるので、実行スキームとしては、我々の保有技術をその会社へ移転させることになる。

 その会社が、我々の技術を使うことにより儲けることができるようになる訳で、私自身は満足であった。

 達成感もあった。

 向こうの担当者には我々の技術を惜しむことなくオープンに提供した。

 いくつかの技術的な専門書も個人的に貸与したりした。

 それからしばらくしてのことである。

 製造業のIT系webマガジンに、一つの記事が掲載されているのを偶然見つけたのである。

 その記事ではその担当者が実名で、その技術について比較的大きな会議のスピーカーとして語っていた。

 そして、その報告された技術とは、まさに共同で我々と共同で進めていた内容そのものであったのである。

 一応本人なりに機密は考慮しているのか、我々の製品固有の情報については一切語っていない。

 だが、その考慮の結果として我々を登場させることなく開発ストーリーを進めたことにより、登場人物は報告者自身だけになる。必然的な結果として、あたかも報告者ひとりでその技術が製品応用できることを発見し、課題解決したような形で語っていることになってしまっている。そして、あろうことか、解決手段として我々が実際に使ったものとは異なるある特定会社のITツールを利用したという展開になってしまっているのである。

 いわば事実と異なることを、公の場で語っていたのだ。

 目を疑った。

 そもそも設計・製造技術とはノウハウも含め、企業の成長力の源泉であり、いくら学術的な内容であっても簡単にオープンにしてはいけないはずである。

 もちろん、こちらに発表の事前打診もない(あったら当然止めていたが)。こちらも迂闊にも信頼関係がある(同じ資本関係のグループ会社のため)と考え、厳密な縛りのある機密保持契約を結んではいなかったのは、完全にこちらの落ち度であった。

 リーガル的な意味で、契約上の機密保持違反には問えないとしても、なお残る問題もある。

 それは大きく2つある。

 ①せっかくの技術的成果を無償で公開していること。わざわざ苦労して発見した製造ノウハウに属する内容を、敢えて早々に世の中に発表しなくていいじゃない。ライバル会社も見ることができる状況で、簡単にそれを公知化して、世の中に広めてしまうことについて。これは彼の所属する会社にとっての利益相反行為ではないのかと。

 ②事実と異なること、いわば「捏造」行為があること。自分が独力で実行したとする記事の表現は完全に事実と異なる。何故なら、それは彼に我々が教えたからである。さらに加えて、特定のITツールを手段として援用した事実も異なっている。今回の結果は、我々が保有していた別のツールによる解析結果である。だが、なぜ彼がそのツールを使ったと語る必要があったのか。その理由はただ一つ。その実際には使っていないが使ったとするツールを作っている企業が、彼がスピーカーとなった会議のメインスポンサーだからであろう。

 正直どっと疲れが出たし、裏切られた、と思った。

 しかし、私は静観した。

 正直どうしていいかわからなかったと言ってもいい。

 その技術応用について、第一発見者である「名誉」を奪われたことは、実はあまり気にしていない。

 むしろ一番悲しかったのは、自分の実力でないことを、自分の実力であるように語る技術者が世の中にいる、そしてその記事がwebで一般公開される結果、関係者である我々の目に止まった際に、我々がどのような感情を持つかすら想像できない技術者が少なくともこの世の中には一人いる、という事実であった。

 我々は甘かったのか。

 性善説に立つべきではなかったのであろうか。

 だが、仮に、彼がそれで技術者として名をあげたとしても私自身は何も感情が動かないであろう。

 なぜなら、彼の実力はこちらが良く理解しているのである。そんな付け焼き刃のメッキは技術の世界ではすぐに剥がれることを知っている。

 技術の世界は甘くないのだ。

 そして、この発表を皮切りに、彼は複数のメディアで同様の報告をしだした。

 専門家気取りである。

 しかし、未だに彼とその会社からの正式な連絡はない。

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【こだまでしょうか】会議のプレゼン時に発生する「やまびこ現象」「こだま現象」「バックコーラス」の存在について【ヘイヘイホー】

 ビジネスシーンの会議室。

 ここ一番のプレゼンなどで、緊張しつつ喋っていると、後ろの方から聞こえてくる「やまびこ」の存在について論じてみたい。

 登山とビジネスシーンは異なる。そもそも会議室は音声が反響するような作りにはなっていない。ではなぜ、こんなことが起こるのか。

 かつて、こんな「やまびこ」の経験がある。

 私が従事していたチームに、後から入ってきた「先輩」がいた。年齢、経験、地位いずれも私より上である。ただしそのチームはプロジェクト的なタスクフォースだったので、直接ラインとしての上司部下ではなかった(いわゆる評価権はないパターンの”上司”である)

 私はそのチームで既に3年くらい従事しており、その「先輩」は、別の部署でキャリアがあり、リソース増強もあって入ってきたメンバーであった。

 加入当初にはこちらから資料を作成し、状況などを説明する場面を設け、本人も「ふんふん、なるほど」と素直に聞いてくれていた。

 だが、一抹の不安もあったのだ。この業務が少々特殊な面があり、技術的にマニアックな部分を理解していないと完結できない要素が含まれている。どうもわかっているとは言い難い。だが、それは本人のスキルの問題だし、もっといえば上の人間はある意味ディテール全て知る必要もない、という考え方もある。そこはただの不安であったのだ。

 そして、ある会議の席でそれは起こった。

 私が少々難しい局面の説明をしている際のこと。

 私「ここで、〇〇からこんな主張があり」

 私「それを受けてこちらで検討した結果、▲▲▲という技術で対応できるのではないかと判断し」

 とテンポを持って偉い人にプレゼンをする。

 ?「▲▲▲!▲▲▲ね!」

 私「?・・・で、予備検討を技術部門にしてもらいました、その結果がこのグラフです。予想通り□□□□現象を低減できており、予想が正しいことが検証できたと思います」

 ?「そうそう!□□□□現象!」

 ・・・後方から、「やまびこ」が聞こえるのである。

 それが「やまびこ」である証拠にこちらが沈黙すると「・・・・」と「やまびこ」は消える。そして再び話し出すと、また”こだまがかえる”のである。

 要するに、先輩が固有名詞をホストの合いの手のような感じで繰り返していたのだ。

 私「え〜まとめますと、我々の開発した■■■を提案しようと思います」

 先輩「そうそう!■■■ね!■■■ね!」

 流石に何か言いたいことがあるのかと思い、

 私「じゃ、ここから(先輩)さん、説明を代わりに引き継ぎますか?」

 すると先輩は、ニヤニヤしながら両手を振って「いやいやいやいや」と拒否。

 本人は意図があってやっていると思うが、そこに新しい情報もないので、ただのノイズでもあり聞きづらいだけのバックコーラスになっている。またこちらのプレゼンの隙間に無理くり入れてくるので、当初のテンポやリズムも狂うので、誰にとっても何一つ良いことはない行為なのである。

 結局これは何だったのであろうか。いっこく堂を二人でやったおかしなパフォーマンスにもなっているし、考えてみて、以下のような結論に至った。

 要するに「理解できていないが、俺は仕事をしているぞ」アピールなのだと。

 チームには自分も参加しており、もっといえばそのプレゼンで暗示的にマウントを取りたいという上へのアピールの結果なのだと。最大の問題はさらに本人も中身を理解できない劣等感があり、それをこのような「やまびこ」で解決しようとしたと思われる。だが、そのあまりの露骨さにそれは奏功していないのは明白であった。

 こちらもこのままだとプレゼンそのものの価値が落ちるので、まずは早急にその先輩の「成果」を手取り早く作ってあげることにした。つまり、彼の深層心理は「俺の成果がないじゃないか」という不満でもあるのだ。それを作ったことにより「やまびこ」は消えたが、どうやらこれがこの人のキャリアの基本スタイルらしく、そのうち消えていった。やはり人生甘くないのである。 

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謹賀新年2022年!勝負をしたくもないのに勝負をする年になってしまったような気がする

 2022年も明けてしまった。時間の経過するスピードはますます早くなってきた気がする。

 サラリーマンの業務というものは線形的かつ古典物理学的なところがあって、ある程度点と点を繋げて線にすることさえできれば、惰性というのは言い過ぎだが、既存路線の延長で進めていける事が多いような気がする。

 要するに計画を立てて、その進捗状況をチェックするのがメイン。その後は、いわゆるローリングという軌道修正が通常業務であって、計画そのもののゼロベース再構築といった状況は滅多に現れない。

 今回は個人的に、その20年に一度ともいうべき転換期というべき非線形な状態に陥ってしまった。

 まあそれならそれで折角の機会なのでやるしかないのだが、個人的な感情として「なんでボクが・・・」という思いはある。

 やはりサラリーマンとしては不退転というか、退路を絶つようなことはしたくないのだ。だってそんなことをしなくても安穏と生きてきた人が周りに沢山いるんだし。

 しかしながら状況の中で、今までの延長戦でなく、サラリーマンでもいわゆる「一発勝負」をする羽目になることもあるのだな、と覚悟したのが昨年。そして今年はいよいよ勝負する必要に迫られているのである。ルビコン川を渡ってしまったのである。

 勝ち目は多分ない、というか過去の経験は活かせないので、わからないというのが正しいのか。

 そんな状況の中で、ついにチップをベットすることになった。これが吸い込み方式の旧式パチスロなら確実性もあるし、コンチ4枚掛けかMUSASHIリール強制ストップのような裏ゴトが通用するならまだしも(通用しそうな気もするけど)、そんな世界でもないのである(そうでもないような気もするけど)。

 そんなこんなで今年は残念ながら勝負をかけるしかない。とはいうものの、今のこの状況でこんな目にあう人間も限られているはずなので、何がしかの「経験」を掴み取れれば良いのであるが。

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2021年も終わり!今年は激動&激動だった

 激動の2021年もようやく終わりである。

 いや〜マジで今年は肉体的・精神的に疲れた。ヘトヘトである。

 組織的な”人事異動”もあり、それに伴う”職務環境の変化”があった。

 環境的には、コロナもあったので移動することすら面倒な状況で、結構な回数の新幹線やホテル住まいをする羽目に陥った。それもまたストレスである。

 外食も多くなり、不健康極まりないのである。

 ホテルのベッドは慣れないし、いちいち荷物を持って移動しなくちゃいけないし、と。

 いや〜(2回目)マジで疲れた。良く持ち堪えたものである(自画自賛)。

 まだ語っていない肉体的なアクシデントもあった(これはまだ語りたくない)。

 職務環境の変化、ということひとつとっても、単純に自分が新しい組織にポンと整合的に嵌め込まれるという訳ではない。結局、既存組織に対して、私はどう言葉を尽くしても「異物」でしかない。

 そこで齟齬は生じるし、突き詰めると

  ・周りに自分(私)を合わせるか

  ・周りが自分(私)に合わせてもらうか

 のガチンコ勝負になるのである。

 結果的に、今回は苦闘の末に、もう「お前らがワシのスタイルに合わせるんやで」という方向性になった。

 やれ、自席でのTV会議の声がでかいから控えてくれ、とか、しょうもない(失礼)話までくる。

 まあ理由はわかるが、その結果提案されたのが、やっぱり会議はF2Fでやりましょうなので、指摘する側も結局自分達の今までのやり方にお前(私)が合わせろ、という無意識(?)の押し付け感を感じるので、こちらとしてもそんな素直に従うわけにはいかないのである。

 要するに、ボクがそちらに合わせて変化するために行く訳ではなくて、そちらを変えるために行ったのである、みたいな意識がある。

 そんな感じで今年は非常に疲れた(3回目)。

 何かを変える、特に組織を変えるというのは非常なエネルギーがいる。ビジネス本では”弾み車”の例えがあるが、最初の回転を作り出すのは、あらゆる抵抗勢力、現状維持バイアスとの戦いである。

 妥協の誘惑や感情的な同調圧力もある。そりゃ調和的な世界が一番良いのは私も重々わかるが、そうではない状況もあるのである。

 愚痴を言っても、やるべきことが明確である場合は、それを粛々と実行するしかない。逃げられないのだ。よって、アウェイの中でひとり孤独にやるしかないのである。

一人の道が暮れて来た

尾崎放哉

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我々の世界は本当に「循環経済」に向かうつもりなのだろうか?ただのポーズなのでは?–年末年始の牛乳消費呼びかけについて思った「個別最適」が大好きな人々のこと

 2021年の年末に少しだけニュースになった出来事があった。

 それは「年末年始に牛乳の消費量が下がるため、消費者ができるだけ消費してほしい」という呼びかけである。

 例えば、こんな記事もある。

 例えば「牛乳飲んで! 大臣が消費呼びかけ 生乳5000トン大量廃棄のおそれ」(FNNプライムオンライン/2021年12月17日)などである。

 その背景として上記サイトから引用する。

2021年は、夏場の気温が低く、牛の乳の出が良かったことで生乳の生産量が増える一方、感染拡大の影響で牛乳や乳製品の消費が落ち込んでいる。

保存がきくバターなどの加工品の製造もフル稼働で行われているものの、生乳をさばききれなくなっているという。

 これはこれで一つのナマモノの生産-消費の問題であろう。もっと言えばサプライチェーンにおいてボトルネックが存在することを示唆している。

 上記の報道に関連して複数のサイトなどで「保存の効くもの(例:バターやヨーグルト)の生産を増やせないのか」という指摘もある。これはこれで単純にはそうだが、実際にはサプライチェーンの問題なのでできない事情もあるのだろうな、と思っていた。

 この問題はフードロスなどの課題や、もっと端的には「もったいない」という感情的な問題も孕んでおり、そう簡単にはスッキリしていないようだ。

 やはり業界団体からは、こうした批判を避ける意味でも、反論記事が出ている。

 例えば「「余った生乳5000トンはバターにすれば廃棄せずに済むのに」乳業業界の回答とは?」「生乳5000トン廃棄問題、「みんなで飲む」より根本的な解決法とは」などである。

 既存サプライチェーンの処理量増加には諸問題がある(設備投資やリードタイム)ので、十分対策は打った上で、消費を増やして欲しい、というお願いなんですよ、という「説明」である。これはこれで事情としては理解はできる。

 ただ、それでもなお、私自身は釈然としないものがある。

 つまりこれらの主張全てに通じて言えることは、いわゆる「循環経済」の思考が欠落しており、部分最適な主張に止まっているということである。先進的なEUの動きを受けて、日本でもようやく「循環経済」が推進されている。これは、従来の大量生産、大量消費の一方向(動脈生産と言われる)な生産ー消費だけでなく、還流側(リサイクル、リユースなど)の思考を入れた静脈生産を実現する、というものである。日本でも経済産業省が「循環経済ビジョン2020」でこうした新たな産業の転換を提唱している。

 これをサプライチェーンに置き換えると、循環的なサプライチェーンにおいて、エネルギー最小化(=持続性を最大化)した制約条件の下で、最適化を動的に行うこと、と理解できる。要するに、これすなわち「スマート社会の実現」であろう。これはエモーショナルな「もったいない」ではなく、持続性を最大化するために、全体最適解を実行する、ということに他ならない。

 しかしながら、この牛乳廃棄をめぐる主張にはこうした意思とは全く逆行したものばかりが横行しているように思える。

 「もったいないので牛乳を飲んでくれ」という、特定商品について消費者に扇動的な形で負荷を押し付けるようなメッセージや、「業界は全てやることをやっている」という個別最適を実行したら責任がなくなるかのような自分本位の思考。さらには「牛乳の他の用途を考えるべき」みたいな消費拡大に全てを押し付ける単純思考。

 もしも「循環経済」を本当に実現したい、と考えるのであれば「全体最適解」を探すべきであり、そうした論調が見られないことに不思議な思いにとらわれている。

 特定商品の消費を、その都度の理由で扇動的にメッセージする意味は、今後も同様な事例においても同じことを繰り返すことを意味している。「〇〇が余ったので、今度はこれを消費してくれ」「次はこれ」といった、消費者を消費する機能としてしか使役しない感情すら垣間見える。

 業界団体は「自分たちは120%努力しているので、これ以上何をしろと?」という論調のみである。

 要するに当事者意識不在の状況の中で、一番単純な「消費」に全ての調整弁を押し付けるようなこの動き自体は、「循環経済」とは真っ向から矛盾していると思う。全体最適解は確かに苦しいことではある。感情論とは全く異なる解が最適である可能性もあるのだ。だが、それこそが、単なる「もったいない」からより高次な「持続性」へと探求する道筋であろう。

 こうした分裂的な主張が横行する中で、果たして我々は「循環経済」に向けて動けるのか、これは所詮ポーズにしか過ぎないのか?

 そもそも「循環経済」ということを目指していない、としてくれるならまだ納得もできるが、そうではないらしい。

 非常に暗い気持ちになるニュースであった。

 

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八王子市大楽寺町の陣馬街道沿いの”デカ盛り”で有名な中華屋「大進亭」の焼肉丼+小ラーメンセットにびびる

 空腹を抱えていたある昼下がり。八王子方面を車で走っていて閃いたのが、この陣馬街道沿いにある「大進亭」である。時々ネットなどで評判のあるこの店、通り過ぎるばかりで全く入ったことがなく、この機会に入店してみることに。

 店内は座敷とカウンターとテーブル。昼食どきだからか満員である。なんとかカウンターに着席できた。ちょうど厨房が目の前なので、夫婦と若者2名でキビキビと動いているのが見える。

 ただ、見ていると全てのサイズがでかい。そして、全ての皿が山盛りなのである。

 ラーメンのあんかけも山盛り、唐揚げも山のよう。ここはデカ盛りで有名なのであった。

 とはいえ空腹を抱えていたこともあり、セットメニューの焼肉丼と小ラーメンを注文。1,150円である。

 きたのはこんな感じ。小ラーメンが確かに隣の焼肉丼との比較ではそう見えるが、実際には通常のラーメンサイズ。当然ご飯はてんこ盛りである。

 一瞬びびる。

 だが、空腹でもあり、さらに味もイケる。

 普通に美味いのである。そんなこんなで結果的には、完食。

 満足度もあったが久々の炭水化物大量摂取で、体温が上がること、この上ないのであった。晩御飯は食べなくても大丈夫であった。

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