町田市民文学館ことばらんど「みつはしちかこ展ー恋と、まんがと、青春とー」を見に行ってきた

 町田市民文学館ことばらんどで、2018年10月20日から12月24日の予定で開催されている「みつはしちかこ展ー恋と、まんがと、青春と」を見に行ってきた。

 行ったのは10月27日で、ちょうど無料観覧日であった。ラッキー。

 このように、おなじみチッチとサリーがお出迎えである。改めて実物大で見ると、ものすごい身長差。

 アンケートに答えると、下のようなリーフレットがもらえ、みつはし先生の年表などお得な情報満載である。

 永遠に続くと思われていた大作「小さな恋のものがたり」は2014年の43巻で”まさかの”最終回、しかも、ちょっと予想とは異なるあまりハッピーでないエンドで、思わず購入したのを覚えている。ある意味衝撃であった。

 しかしながら今回このリーフレットによれば、2018年10月にこの”エンド”の後のエピソードが描かれる44巻が出版されたのである。上記記事から引用すると

1962年に美しい十代(学習研究社)にて連載スタートし、2014年9月に発売された第43集をもって完結を迎えたとされていた。

第44集で描かれるのは(以下43巻のネタバレなので省略;引用者注)

 引用終わり

 ちょっと期待が高まる。

 「小さな恋のものがたり」「ハーイあっこです」の原画や詩画などが展示されている。デビュー当時の原稿や高校時代のスケッチもあった。

 こうした実物大(印刷前の作画サイズ)で展示を見ていくと、改めてみつはし先生の画力の凄さに唸る。

 単純な絵柄(チッチの足なんて”線”である)でありながらデザイン画のようなファッショナブルな造形力は、やはり確かに実力に裏付けられていることを実感したのであった。

 観覧者は”オールラウンドな年齢層”の女性がメイン。母親と娘の親子連れもいた。いいオッサンである私は、少々ストレンジャーであるが、特に問題ない。

 名作は名作なのである。

 1Fにある喫茶「けやき」では、ミカドコーヒーが180円で飲める。ここでも”小恋”タイアップメニューがあった。

 コーヒーは非常に美味い。

(おまけ)

 リーフレットの一コマ。確かに「小さな恋のものがたり」では、チッチの理不尽、ジェラシー全開、束縛系な感じが確かにあり、私も読んでいて、ここに書かれているように感じることもあった。

 ”あるある”だったのね。

 

 

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八王子の辺境・恩方の旧案下道沿いにブルワリーができ、地ビールを製造しているらしい

八王子という東京都の中でも辺境で、かつ、その中でも更に辺境な「恩方」。

陣馬山のふもとであり、かつては山梨県や奥多摩との交通の要所であったらしいが、今は全くの寂れた感じである(ものすごい失礼)。きだみのるにアレなネーミングを付けられた黒歴史もある。

裏甲州街道の宿場町でもあり、小田原城攻めで落城した八王子城の出城(小田野城)(浄福寺城)があった場所付近でもある。

現在ある陣馬街道の道のほとんどは大正時代に車を通すために新設した道路で、それまで徒歩や荷車により、八王子から陣馬山まで至るルートは「案下道」(裏甲州街道)と呼ばれ、それは現在のバスが通れる二車線のルートではない。今よりもっと狭い道であった。

この昔の案下道沿いの機織り場跡に、最近になってブルワリー、すなわち、お酒の醸造所ができ、地ビールを製造しているらしく、地元民から1瓶もらった。

高尾ビール@TakaoBeerCo)「OH!MOUNTAIN」という名前の銘柄。650円。八王子産のホップや桑の葉茶を使っているペールエール(IPA)である。

高尾ビール おんがたブルワリー&ボトルショップ」で製造・販売されている模様。

開栓して飲んでみると、フルーティな香りに濃いめのホップ感でなかなか美味い。

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吉田のうどん探訪:ひばりヶ丘高校のうどん部による若者らしい先鋭的かつ荒削りなうどんに吉田のうどんの未来を見た!

 山梨県立ひばりヶ丘高校に「うどん部」なる部活動があり、吉田のうどんの観光大使に勝手に就任し、様々な情報発信をしており、注目されている。

 今年1月のスポーツ報知「全国でも珍しい山梨・ひばりが丘高「うどん部」の活動とは?」記事では、経緯が紹介されている。

富士山の湧き水を使って打つ山梨県富士吉田市の名物「吉田うどん」をPRしようと、地元の県立ひばりが丘高校(同市)で発足した「うどん部」の活動が注目を集めている。

 部員は現在7人。部の活動は2010年、顧問の大久保健教諭(43)が吉田うどんを扱う店のサイトを、商業科の授業で作成したのがきっかけ。14年にうどん部がスタートした。

 引用終わり

 更にはスーパーのフードコートで常設店を作り、自作のうどんを提供するに至っている。当然高校生なので営業は日曜だけである。

 ツイッター(@yosida_udon)などでも積極的に配信しており、メニューも試行錯誤しながら増えているようだ。

 先日山梨県からは”郷土食の調理技術を持つ「食の伝承マイスター」”にも認定されたようで、非常に頼もしい活動になってきている。

 富士吉田市にある「SELVA(セルバ)本店」で11:00から営業しており、いつかは行きたいと思いつつ、機会がようやくできたので行ってきた。

 まさにこんな感じのフードコートの一角である。厨房では6,7人の店員(部員)がうどんを作っている。ちらっと見ると11:00開店であるが、9:00前から麺の準備をしているようだ。大変だ。

 まずは「かけうどん」および「冷やしうどん」それぞれ378円。大盛無料だったので冷やしには大盛りを入れる。1杯の量がわからない状況であったが、ここはノリで行ってみた。ちなみに「5玉うどん」や「MAGMA」なるメニューもあり興味が惹かれる。

 

 冷やしの大盛り。これは私が食べた中で過去最高の「コワさ」(顎への反力、麺の剛性)であった。吉田のうどんの特徴としては、まさにツルツルシコシコとは異なる次元の「コワさ」であって、これを先鋭的かつ前衛的にしたような感じで、確かに荒削りであるが、まさに高校生の若さのパワーをそのまま感じた。ただスープにもう少しダシが濃く足してあると、もっと良いのではないかと感じた。

 続いて到着したかけうどん。これは麺の「コワさ」が暖かいスープで緩和されており、非常に美味い。

 大きめのどんぶりで1杯あたりの量は平均に比較して多めである。5玉は無理だな。

 すりだねも部活動の中で研究しており、色々なパターンのものがテーブルに。まさに部活ならではであろうか。

 

 食後にはアンケートが。これも若さであって、このPDCAサイクルを回していけば、もしかするとこの部活はもっと大化けしそう。次世代を担う前衛的な吉田のうどんを是非創造してほしい。

   吉田のうどんはこうして若い世代にうまく継承されていくようで、非常に頼もしい。

 地元の人も訪れておりリピーターも多そうだ。厨房でうどんに汗を流す彼ら彼女らを見て、「うどんに賭ける青春」というのも、なかなか良いなあ、と思った。

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吉田のうどん探訪:中央道・谷村PA(下り)は朝食で吉田のうどんが食べられる貴重なスポット

時々起こる”吉田のうどん”の発作で、いざ思い立つも肝心の店は結構営業時間が狭く(11:00-13:30なんて感じの営業時間も普通)、かつ不定休だったりして、なかなかうまくいかないことが多い。

東京から車を走らせるのもまあ何とかなるが、中央道からも渋滞があり時間設定もままならない。

そんな悩みを解決できる一つの選択肢が、この中央道・谷村PA下りのフードコートである。

小さいPAであるが、ラーメン、定食などの食事ができ、平日は7:00-19:30、土日祝は6:30-19:30まで営業をしており、そこに吉田のうどんがメニューにあるのである。

要するに「朝ごはんを吉田のうどんとする」ことができる。

これはなかなか無い。

よってここで朝食で1杯食べ、現地で昼食を食べ、というツアー設定ができるのである。

吉田のうどん系のメニューは2つ。吉田のうどん400円と吉田の天ぷらうどん550円。

今回はオープニングということで「吉田のうどん」である。

テーブルにお目当てが到着。すりだねも専用のものが付いていた。具は油揚げとキャベツ。非常にスタンダードな吉田のうどんであり、満足である。

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立ち飲み屋探訪:京急蒲田駅「立ち飲み とっちゃん 蒲田店」ー美味い肉じゃがとフローズンホッピー

 京急蒲田の商店街から少し横道にそれたところにある「立ち飲み とっちゃん 蒲田店」である。ここは人気店でいつも満員で入りにくい。何度かタイミングを見て空きを見つけてなんとか入店に成功である。

 ホッピーセット395円で、中の焼酎はキンミヤである(確認済み)。中のおかわりは190円で、ホッピー指数は3である。 

 「とっちゃん」は鶴見にもあり、ここも人気店かつ料理が美味い店である。蒲田店でも沢山メニューがあり、どれも美味い。

 関連記事:立ち飲み屋探訪:鶴見駅「立ち飲み とっちゃん」マスターの料理が激烈に美味い

 カウンターには妙齢の女性2名がいて、常連の老人たちのエグいツッコミもうまくさばいている。

 ホワイトボードにあった「ばあちゃんの肉じゃが」360円。

 カウンターに”おばんざい”方式で大量にある。温めもできるが、猫舌なので遠慮した。

 肉じゃがはまさにお袋の味という感じで、甘めのダシが非常に美味い。

 「ホウレン草のスパム玉子とじ」360円。鶴見店でもそうだったが、ここは玉子料理がイケる。これもツマミに良い。

 ホッピーの中を2杯お代わりしたのちに、「フローズンホッピー」395円。シャーベット状の焼酎にホッピーを注いだもの。しばらく放置すると泡が凍り始めるのでかき混ぜ必須である。シャリシャリの感じが非常によく、あまりアルコール感を感じないという危険なドリンクである。凍らせる焼酎の手間があるらしく、数量限定なので早めに頼むのが良いかと思われる。

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立ち飲み屋探訪:京急蒲田駅「ドラム缶 蒲田店」ーチューハイ150円、ハイボール200円という激安でコスパ最高な立ち飲み

 京急蒲田駅と蒲田駅は結構離れている。秋津駅と新秋津駅も結構離れているが、それより距離がある。その間の商店街は人の往来量が多いのか、やはり発展している。

 京急蒲田駅近くの2Fにある「ドラム缶 蒲田店」に入店。うなぎの寝床チックな店内に、複数人用のドラム缶やお一人様用のカウンターがある。

 メニューはどれも安い。生ビール250円、プレーン酎ハイは150円、ハイボール200円、サワー類200円というラインナップ。ホッピーも300円で中100円、外200円という安さ。ツマミも100円からあり、非常に助かる。

 ハイボールを注文。金属製のお皿にお金を入れてその都度精算してくれる。

 下町グラタン250円。なかなかうまい。

 かぼちゃコロッケ150円。これも甘くていい感じ。

 ハイボールの後にチューハイを2杯飲んで、ツマミと合わせて900円。や、安い。

 今回は店内満員の中、店長1人のワンオペ状態であり、結構大変な状況であった。酒飲みの性で、酒がなくなると落ち着かなくなる。誰もが同じ思いのようで、ドリンクの注文が次々と。”ごめんなさいね、順番で”という感じで腰も低く、注文を自力でさばく店長は非常に頼もしいが、やはりちょっと注文の渋滞が起こり、注文する側も気を使う。

 また前述の通り鰻の寝床状態の細長い店内なので、1端にある厨房から離れているポジションは自然オーダーが入りにくく、厨房の正面の場合にはオーダーしやすいという状況が生まれており、ポジション取りも重要になってくる。

 自発的に常連さんが手伝ったりしていたが、なかなか大変であった。

 私の今回位置取りしたポジションも若干厨房から離れている状況なので、オーダーがオンデマンドというよりは、店長の動線に合わせて注文するような若干の仕掛かりを抱えるような状況であった。

 オンデマンドでの1個流しというより、なかなか注文できないことを見越して敢えて仕掛かり在庫を持つために複数注文するような状況になる。トヨタ生産方式でいうところの在庫のムダが発生しているのである。

 本来は「必要な時に必要なだけ」という方法が美しい理想であろうが、ここは製造現場ではなく飲み屋なのでむしろこちらの方が店にとっては効用がある。つまりこの「ムダ」は製造原価に効くムダではなく客側の問題なので、店側としては注文された方がメリットになる。しかし客側にとってみれば欲しい時に酒がない、というフラストレーションを抱える事になる。

 したがって、この滞留による店側の効用とお客のストレスによる機会損失との間の均衡を見出すことが、このビジネスモデルのポイントと思われる(なんでこんな結論になったのであろうか)。

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【書評】J・P・ホーガン「星を継ぐもの」ー仮説形成そのものが小説となっているハードSF

 もはやハードSFの古典であり、誰もが認める傑作、J・P・ホーガン「星を継ぐもの」(創元推理文庫)である。

 先日再読したが、やはりエキサイティングで面白い。

 小説としては、ひとつの「謎」に注目して、それを科学的な視点でひたすら解く、というある意味非常に単純な構造である。

 しかしながら、その「謎」の設定、内容が非常に優れており、それを解明する「仮説」が、最終的にとんでもなく大スケールかつ説得力のあるものに拡大していく。「仮説」が提示されたラストを読み、読了後にはその壮大なフィクションの力に圧倒されるというSFならではの読書体験ができる。

 「謎」とは、月で発見された”宇宙飛行士”の死体の発見から始まる。その死体は分析の結果、今から5万年前のものであり、 また地球人(ホモ・サピエンス)と全く変わらないものであった。装備も明らかにオーパーツなものである。

 つまり、5万年前に高度な科学が月に存在していたのだろうか?

 地球人だとすると、如何にして月に行ったのか?

 などの疑問が湧く。

 これらを新たに発見されていく「事実」と合せ、最終的に壮大な「仮説」として解き明かしていく。まさにこのストーリーだけで小説が進行していくのである。

 ある意味、(日本の)伝統的な文学サイドが目の敵にしそうな、”アイディア先行型”、“アイディアのみ”の小説である。”人間が描かれていない”なんて批判が出そうな感じである。

 しかし、それでもなお、そのとんでもないアイディアのスケールにより導き出された「仮説」の衝撃は、我々 自身の立脚する<現実>を揺るがせるようなインパクトを与えてくるものなのである。

 ただ再読しても疑問に覚えた部分が1点ある。

 冒頭の月における”宇宙飛行士”の記述である。最初は2人で行動していたが、1人が負傷し、もう1人は彼を置いて目的地に向けた旅を続ける。負傷した1人というのが、前述の月で発見された宇宙飛行士であるが、もう1人をこの翻訳では「巨人」と描写しているのである。

 この小説では「巨人」とは、別の意味でも使われている。生物学的に異なる宇宙的な人種の違いの意味である。要するに地球人と火星人の違いのような使い方である。しかし、ここでその意味で冒頭の「巨人」を理解すると、物語のエピローグで大きな違和感を覚えるのである。つまり解釈が分かれてしまう。

 これが以前からの疑問であり、モヤモヤしたものであった。再読してもやはり理解できていない。最後に著者が残した謎、リドルストーリー的な結末なのかとも思わせつつ、それにしては最終的に到達した「仮説」に対する矛盾になってしまい、せっかくの大胆な「仮説」の疵になっているとも思えるのである。

 ネットで調べると、同様の疑問があるようで、意図的な設定説(=続編、続々編を読めばわかる説)や、ある誤訳説などがある。

 その中で、原文にあたったブログがあり、これによるとやはり誤訳(に近い)と判断せざるを得ない。

 プロローグ部分の「巨人」はやはり”大男”という意味の方であろう。

 つまり誤訳というか翻訳によるミスリーディングになる。

 ここをきちんと区別しておけば、ラストのインパクトは一義的に確定し、より衝撃的になると思われる。ある意味罪作りな翻訳である。

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【青森土産】初・青森出張でのお土産ーくぢらもち、味噌カレー牛乳鍋、いのち

 仕事で初めて青森に出張に行ってきた。とはいえ結構な弾丸ツアーのため移動に疲労している。10月の青森は結構肌寒く思えた。

 移動自体は、羽田空港から青森空港の所要は1時間ちょいなので、関東近郊の新幹線移動と対して変わらない。随分と便利になったものだが、やはりなんだかんだで飛行機は疲れる。

 今回の出張では、ほとんど時間がなかったため、ご当地のモノはほとんど食べれず、まずはお土産をいくつかゲットに留まっている。以下に紹介するが、知っている人にはポピュラーなものなのであろう。

 まずは浅虫温泉名物の「くぢらもち」である。Wikipedia「くぢらもち」によると

 くぢらもち(鯨餅、久持良餅、久慈良餅)は、山形県新庄市・最上地方、及び青森県鰺ヶ沢町・青森市浅虫温泉付近で作られている菓子である。漢字では、山形で久持良餅、青森で久慈良餅とも書かれる。

引用終わり

 とあり、山形県と青森県のスポット名物の模様である。あんこ味のういろうという感じで、クルミが中にあり、素朴な味わいで非常に美味かった。

 続いて、”青森あるある”によると「味噌カレー牛乳ラーメン」というものがあるらしい。名前からして、まさかね、という感じであったが、普通にこんな鍋の素が。

   今回購入はしていないがカップラーメンもあった。名前からしてB級グルメ臭が漂い、実際にその通りだったりするのだが、どうなのであろうか。

 豚バラ、ジャガイモ、キャベツ、マロニー、しめじ、人参を投入。・・・美味い。優しくかつスパイシーである。これはイケる。ジャガイモは溶けてしまったが、とろみになった。特にマロニーがいい感じに染みてgoodである。さらにラーメンを締めに投入して大満足であった。

 最後は、少ない時間の中で青森の地元の人に聞いた「若い女性が好みそうなお土産」である。なぜ女性かというと職場へのお土産なのである。色々と気を使うのである。

 それがこの「いのち」。教えてくれた人から”いのち”と聞いたときに、一瞬いのち=命と連想できず、戸惑ってしまった。まさしくお菓子のネーミングが「命」なのである。

 菓子の名前にそんな重い情緒的なネーミングをするからには、非常に重めの由来があるに違いない、店主の早世した娘さんの思い出とか・・・などど根拠なく想像するが、実際には全くそんなことはなく、弘前を舞台にしたNHK大河ドラマ(橋田壽賀子原作)「いのち」に着想しただけの模様。悲劇の背景があるわけではないことがわかって、よかった。

 5個入り630円を購入。

 カスタードケーキで、りんごジャムが入っている。教えてくれた人も「まあ、萩の月みたいなもんですね」と身も蓋もない紹介をしてくれたが、まあそんな感じである。

 ただスポンジはモチモチしており、カスタードとジャムもそれほど多めではないので、さっぱりとした感じで良いバランスになっている。

   冷やして食べると美味いということで冷蔵庫で冷やして食べてみると、なるほど、いい感じ。

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【書評】ロバート・シェクリー「ロボット文明」ー対称性を持った奇妙なSF小説

 ロバート・シェクリー「ロボット文明」(創元推理文庫)を読んだ。原著は1960年出版で、文庫の初版は1965年。この本自体は1970年の第10版である。そして装丁は「武器製造業者」と同様、司修である。

 読了後に、どうも表題がしっくりこない。

 ”ロボット文明”というものがメインテーマではないのである。原題を読むと”THE STATUS CIVILIZATION”とある。要するにこの小説の舞台コンセプトの一つである”階級の文明”、あるいは”地位の文明”と素直に訳せば良いようにも思えるが、当時の事情だと特に”階級”という言葉がマルクス主義のそれを連想させ、そうした配慮があったのであろうか。

 短編集「人間の手がまだ触れない」とは異なり、長編小説である。

 未来の世界における囚人の星”オメガ”に、殺人の罪により記憶を強制的に消去された主人公が地球から追放される。”オメガ”は囚人による独立社会が構成されており、そこでは地球での価値からの転倒が起こっている。すなわち、地球における「善」に対していわゆる「悪徳」が社会の価値として認められているという悪夢のような世界なのである。

    そこで主人公は生き延びるために、様々な策を講じながら、最終的に地球を目指す。しかし、その地球はまた”オメガ”と表裏対称的な世界となっていた。

 アイディア自体はシンプルで、短編と同様に比較的単純な構造をしている。ストーリーも主人公の殺人の記憶を巡ってのミステリ一要素はあるものの、一本線である。しかし、そこには”オメガ”と”地球”とを相互に対概念としたある種の対称性、美的感覚を感じさせる。

 物語の中盤で、主人公の運命を”幻視者”の女は予言する。

 「あなたは死んでおいででした。それでいて、死んではいないのです。あなたがご自分で、ご自分の死骸をさがしています。死骸は粉々になって、そのひとつひとつが、きらきらとかがやいていました。その死骸があなたなのです」(p.120)

 引用終わり

  これだけでは何を意味するか全くわからない。謎めいた予言である。

 そしてまさにこの通りの運命をたどり、最後にはピースがピタリとハマるが、そこに至る仕掛けはさすがシェクリーとしか言いようがない。

 また、この小説はいわゆるフリークスが、その意味通りに重要な役割で出てくるので、おそらく再販はされないであろう。なかなか不思議な雰囲気の小説である。その一方で、ヒロシマ、ナガサキの核爆弾投下後の、核兵器を所有した冷戦構造に対する歴史問題意識、すなわちヒロシマ、ナガサキ後の史観としての意味づけもベースになっていることも指摘しておきたい。

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【書評】アーサー・C・クラーク「地球幼年期の終わり」ー人類の論理で記述できないものを記述すること

 SFの古典的傑作として有名な、アーサー・C・クラーク「地球幼年期の終わり」(創元推理文庫版;旧版)を読んだ。

  1969年初版、1973年9版の創元推理文庫。装丁は真鍋博で、地球を真っ黒で大きな鳥(鷹であろうか)がひとつかみにしている。

 人類の種としての進化とは、どのような形になるのか?

 これがメインテーマである。

 人類の想像をはるかに超えた科学力を持った宇宙人(=<上主>(オーバーロード)と称される)によって、管理・支配された地球の運命を描く。

 この宇宙人は人類を支配するというものの、その姿勢は非常に紳士的であり、地球人の独立性を認めつつ種としての滅亡を招くような”愚かな行為”ー例えば国家、民族、宗教の対立などに限り解消していく。ある意味、人類にとっては”都合の良い神”のようなものである。しかし、その目的などは一切知らされない。

 その目的は、物語に従って明らかになっていく。そして、そこに至るまでには、様々な”喪失”や”別れ”がある。我々の進化とは、我々自身が想像しえない光景であることが描かれる。我々自身の思考の論理では決して演繹できないもの、我々が想像できないもの=すなわち「我々自身にとっての上位概念」の姿を、大きなスケールで描き出す。

 物語最終盤では、そうした我々があずかり知らぬ上位の論理、上位のルールによって、人類が新たなフェーズへと移行していく姿が映像的にもダイナミックな場面として描かれる。

 しかしもはやそれは我々の論理で理解できるそれではないのである。

   現有の論理体系では記述できないことに、それでもなお、その”真理”に少しでも接近するためにはどうするべきか。仮に薄皮一枚隔てたとしても良いので、それに触れるためにはどうすれば良いか。

   その1つの回答が、文学としてのSFが目指すものではなかろうか。

 この古典的名作の持つスケール感はSFの持つ醍醐味そのものであり、語り得ないものへの憧憬の物語なのである。

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