【書評】マーサ・ウェルズ「マーダーボット・ダイアリー」ー自己肯定感の低い警備ロボットの自分探しと人工知能同士の”愛”を描いた傑作

マーサ・ウェルズ「マーダーボット・ダイアリー」シリーズ4冊(創元SF文庫)を読んだ。

引きこもり系でコミュ障、かつ、自己肯定感のめちゃくちゃ低い主人公の1人称で綴られるこのSF小説は、SF的視点で「他者とのコミュニケーション」を真っ向から描いている。

この主人公は人ではなく、戦闘力の非常に高い「警備ロボット」。ロボットであるがゆえに、クライアントである人間を守るために、自分を犠牲にすることも厭わないようプログラムされている。過去のある事件をきっかけに、中央からの統制から自由になったこの警備ロボットは、結果的に目的がなくなり自らの運命を探る必要に迫られる。これはこれでSF的設定を差し引けば、”自分探しの物語”である。

この戦闘マシーンである「警備ロボット」は、自己卑下するあまりにへりくだって自分を”弊機”と呼ぶ(この日本語訳は素晴らしいと思う)。その自己肯定感のなさ、大量のエンタメドラマに耽溺するのが趣味というインドア思考という設定も効いていて、絶妙の現代的な物語になっているのである。

この「警備ロボット」は小説的には性別が不明で、さらに、完全にジェンダーフリーに描かれている点も面白い。日本語版のイラストも中性的に描かれている。ちなみに4冊読了後に、私は完全に女性的なイメージを描いていたが、人によっては完全に男性的なイメージを描く人もいた。

こうした警備ロボットが人間たちとふれあい、怯えながらもゆっくり歩いていく。そこには敵意もあるし、好意もある。これらに戸惑いつつ、大量の内省(主に自己卑下と人間不信が多いが)と共に、自分探しをするモノローグ(と多くの事件とその解決)が、この小説群のメインストーリーである。

さらに、このコミカルっぽくもあるSF小説で感動すら思えたのは、SF的思考の真骨頂とも思える「人間以外とのコミュニケーション」の描写である。

それは、ある宇宙調査船の制御システム(ARTと呼んでいるが、芸術の意味ではなく、警備ロボットによるスラングによる毒づき名称)と警備ロボットとの、不器用ながらも少しづつ進む「交流」として描かれる。

このARTと警備ロボットは、時には協力したり、時には他方が危険な場面に巻き込んだりと、喧嘩しているシーンが多い。しかし、それでもなお、お互いを必要としている情景が少しづつ多くなっていく。喧嘩したり、謝罪したり、二人でドラマを見たり、と次第に関係が深まっていくのである。ただ、これはあくまで人工知能同士の交流なのである。

こうした果てに、”人工知能同士がお互いを必要とする”という感動的なシーンが描かれる。控えめな描写であるが美しい。

機械が知性のような物を持つ、という現象は既に我々にとっても生成AIなどを目の当たりにするとそう遠くない未来にありそうなイベントである。しかし、その”知性”が”人格”を持ち、さらには、その人格同士がお互いを必要としあうことはどのように起こるのか?という問いはまだ全く想像できない。この問いへの美しい見事な回答でもある。これが(あまり使いたくないが)「愛」が生成したというものなのかもしれない、と。

このARTと警備ロボットが最初に仲良く(?)なるシーンは、ドラマがそれをつないでいる。ARTはドラマは情報としてしか理解できないが、警備ロボットの「反応」を仲介することでドラマを娯楽として視聴できるという設定がある。いわば警備ロボットの肩越しにARTはドラマを「鑑賞」しているのである。人工知能同士が、あたかも人間がそうするように居間でTVの前で二人寄り添ってエンタメドラマに耽溺するシーンのように想起され、私は感動すら覚えたのであった。

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【書評】オラフ・ステープルドン「シリウス」ー知性をもつ犬の”魂の成長”を描いた美しい物語

古典SFの名作と呼ばれるオラフ・ステープルドン「シリウス」を読んだ。(注意:ややネタバレあります!)

科学者によって生み出された人間と同等の知性をもった犬(シリウス)と人間社会との交流を描く。物語の主題としては、犬の身体の中に、人間と同等の知性(成長する知性)をもったとしたら?というSF的課題を設定し、その犬の精神成長をできる限り犬の視点から描いている。

シリウスは人間社会、家族の一員として幼児から青年、そして大人へと成長してゆく。我々人間と同様の精神成長をしていくと同時に、”精神の入れ物”である肉体が大きく異なることで当然ながら悩む。さらに、シリウスは人間が生み出したものであり、同じ知性をもつ同類は存在しない(生み出せない)という悲劇的設定になっている。

社会的存在として個人が、自我を確立し、精神成長を経験すると同様にシリウスもまた、成長し悩む。人間がそうであるようにある一時期に堕落したりもする。そして人間よりもクリアな形で、生物としての荒々しい”野生の力”とも自己の中で対峙することになる。

この小説のすごいところは、そうしたSFテーマを単純に”犬の体を借りた人間”という形に単純化せず、この特異なシリウスの精神を想像力で再現し、それを格調高い筆致で描ききったところにあると思う。犬のもつ人間よりも帯域の広い嗅覚や聴覚をもとにした、この世界像の再構成やシリウスの自己探求の果てに最終的には”神”の問題も扱い、ラストでは”生まれてきた意味”や”救済”すら考えさせる壮大なテーマに昇華されるのである。

シリウス(SIRIUS)とはおおいぬ座の恒星で太陽を除くと地球上で最も明るく見える星である。中国では天狼星、欧米ではDog Starと呼ばれる。夜空で最も明るく輝くこの恒星は、またそれがゆえに孤高な存在を象徴する。そして、太陽が昇ると夜空の星々の姿はかき消される。地球上からみて、ともに存在できない太陽とシリウスはこの物語の二人のキャラクターを象徴しているかのようだ。物語でのシリウスは、夜明けの太陽の光が注ぐ美しくも悲劇的なシーンで幕を閉じる。

我々自身を宇宙の外や別次元の視点から俯瞰して眺める経験ができるSFのパワーを強く感じることができ、有意義な読書経験だった。

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【書評】乙骨淑子「ピラミッド帽子よ、さようなら」–絶筆に終わった”生き生きとした”SF小説

 乙骨淑子(おっこつ よしこ)「ピラミッド帽子よ、さようなら」(理論社)を読んだ。

 著者の死によって絶筆となった作品であるが、1981年発行のこの初版では理論社社長の小宮山量平によってラストが追加されている。最近の復刻版では、乙骨淑子が発表した部分のみの形が流通しているようだ。

 中学2年の主人公・洋平の生き生きとした語りで進んで行くこのSF小説は、キャラクターの豊富さ、地球空洞説、失われた文明、オーパーツなどの謎解き要素もあり、かなり荒削りなのだが、まさに主人公と一緒に大冒険をしている感覚になる。

 前述の通り、終盤間際の著者の逝去によって、この冒険自体は未完となった。魅力的な謎は謎のままで放り出されるような状態であり、もやもやする。今回読んだ初期出版バージョンでは、小宮山量平によって書かれた終章が入っており、一応の決着があるが、やはり苦しい部分がある。必ずしも悪くはないと思うが、やはり性急に解釈をつけていった感が否めないのである。

 個人的な感想であるが、まだこの冒険の結末にはかなりの枚数が必要だったのではないかと思う(小宮山量平によればそうではない、とのことだが)。

 私が感じたこの作品の魅力は、主人公であり語り手の森川洋平の素直さである。とにかくまっすぐなのである。そしてミステリアスなヒロイン。ヒロイン自身や、作品のテーマである”もう一つの世界”は、いずれも「死」のイメージを纏っているが、そのイメージと対照的に明るく、生き生きとしているのである。

 最終的には病に倒れた著者が書き継いだ、この「生」へのイメージ、すなわち”子どもの生命力そのもの”のイメージは、この未完に終わった物語の重要なファクターであったはずである。そして、この冒険の中断は、我々読者にとって様々な問いとして投げかけられる。逆に謎が謎のままで残されたことも含めて、豊穣な物語になったという言い方もできる。

 この「生」のイメージは、実は現代的でもあり普遍的な課題であろう。

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【書評】小松左京「青い宇宙の冒険」ジュブナイルでありながら、ハードSF王道要素たっぷりの読み応え

 先日行きつけの古本屋にあった小松左京「青い宇宙の冒険」(角川文庫)を手に取った。懐かしい。高校生くらいで読んだ記憶がある。早速再読。

 なかなかの時代めいた表紙とデザイン。1976年発行の初版であった。イラストは長尾みのるである。 

 「量子的秩序のゆがみ」「超空間から見た宇宙」「四次元空間における三次元空間の鏡が合わせ鏡のように置かれたら?」といった、SFのもつイマジネーション満載な概念が、平易な文体の中で普通に描かれる。

 ジュブナイルでありながら、小松の科学的アイディアが大量に詰め込まれており、大人になった今でもまさに心躍る読書体験であった。

 

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【書評】菊池秀行「魔界都市〈新宿〉」–魔物が渦巻く新宿を舞台としたSFホラー活劇の名作

 先日古本屋で発見した、菊地秀行のデビュー作、1982年発行の「魔界都市〈新宿〉」(朝日ソノラマ)を見つけた。

 表紙がなかなかの時代を感じさせるテイストである。

 どことなく剣を構えた主人公や立ち向かうヒロインの姿は「スター・ウォーズ」を思わせる雰囲気もある表紙である。

 著者自身があとがきで記載しているように、永井豪「バイオレンス・ジャック」のような、大地震によって都市が壊滅した後のアナーキーな「新宿」を舞台に、魔界の要素を入れたホラー+スペクタクル活劇となっており、一気読みである。

 デビュー作ではあるが、著者の三人称的な「語り」は上手く、様々な魔界の姿や犯罪者やサイボーグが混在する魔界=新宿の姿を物語性強く描いている。

 単純なバトルの連続(それはそれで面白い)だけでなく、物語の縦糸としての「神話的要素」(これは不完全にしか語られない)も、きちんと織り込まれており、サーガ的な読後感もある。

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【書評】藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」私小説のリアリズムの極限に生まれた、SFのようなファンタジーのようなイマジネーションのある豊穣な物語空間

 藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」(講談社文芸文庫)を読んだ。

 いわゆる私小説であるが、藤枝静男は、リアリズム的に自分の心理を中心に描き想像力の対極にあると思われた私小説がその極限まで突き抜けると、SFあるいはファンタジーのような異世界空間に到達してしまう、という稀有な作品世界を作り上げた。私小説に怨念を持っている筒井康隆が「みだれ撃ち涜書ノート 」で、藤枝の作品群に仰天していたのも記憶している。

 妻の死を描いた連作「悲しいだけ」はまだそれほどでもないが、作者を投影したと思しき主人公「章」による連作「欣求浄土」は、読み進めていくと、いつの間にか読者は不思議な感覚に襲われる。

 ラスト2作「厭離穢土」および「一家団欒」で、それは明確になる。

 「厭離穢土」では、これまで主人公であった「章」が死ぬところから唐突に始まる。そして、ここまで読み進めて初めて、語り手である「私」が実はいたことが判明するのだ。

 人を食ったような冒頭のシーンを引用する。

 とうとう章が死んだ。告別式がすんでひと月ばかりしてやや落ちついたころ、章の細君が一冊の大学ノートを持ってきて私に手渡し「お読みになったらそのままお手元に置いてやって下さい」と云って帰った。

藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」(講談社文芸文庫)「厭離穢土」p.121

 つまり、唐突に章=私ではなく、章と私が分離されるのである。そして章の「手記」が語られ、死期の姿が描写されていく。

 そして最終話(これが実は一番先に書かれた作品のようだが)「一家団欒」では、私小説のリアリズムなどはもはや関係なく、死んだ章が自分の先祖(親や早世した兄弟)の眠る墓の中で、彼らと再会し霊魂となって祭りに参加する様がユーモラスに描かれる。

 このイメージは、まさに作者の想像力によって作られたもので、私小説の作品作成の極限の到達としてこのような豊穣な物語空間が生み出されたということは、物語の力よって鼓舞されたいと日々思っている私のような読者にとって、勇気づけられる読書経験であった。

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【書評】筒井康隆「川のほとり」(新潮2021年2月号)–生き残ってしまった老父・筒井の哀しみが伝わる感動作

 一部で話題となった筒井康隆の小説「川のほとり」(新潮2021年2月号掲載)を読んだ。

 筒井の「腹立半分日記」などでも頻繁に登場していた一人息子である「伸輔」–筒井伸輔が食道癌で51歳の若さで亡くなったことを、この小説で初めて知ったのであった。

 親にとって子供に先立たれることほどの悲劇はないであろう。

 この短い小説では、86歳の筒井が夢で死んだ息子と再会し、会話する。

 筒井自身はこの息子が自分の無意識(願望)が作り出した幻影であり、自分そのものに由来するものであることを理解している。

 自分が作り出したイメージであるならば、この会話は自問自答(モノローグ)にすぎず、全ては予測可能なはずであることも語り手の筒井は理解しているのである。

 しかし、この夢に現れた息子「伸輔」の応答はそうしたモノローグな要素ではなく、あくまで他者との対話であるダイアローグになっているようにも感じ取れてくる。

 さらに、それすら筒井は疑う。

 所詮この体験は、自分が作り出して自分で納得しようとしている行為なのだと。

 こうした諦念と希望の狭間の中で揺れうごきながら、それでもなお筒井は川のほとりで息子との物語を作ることで、自己の体験を静謐かつ荘厳な表現手段によって自ら決着をつけようとしている。

 このことは、同時に、筒井の文学的なメインテーマの一つである「無意識」の暗黙的共同性すらも我々に想起させる。

 こうして振り返って考えてみると「腹立半分日記」に登場していた筒井の作家仲間も、かなりの数が、もうこの世にいない。時代は遠くなっていく。

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【書評】平井和正「超革命的中学生集団」50年前のSFスラップスティック小説で、楽屋落ちやギャグ連発でも古びてない凄さ

 先日行きつけの古本屋で見つけた、平井和正「超革命的中学生集団」(角川文庫)を105円で入手。カバーはなかった。前から読みたいと思っていた作品である。

 初出は1970年。もはや50年前の作品。そして内容は、ジュブナイル+スラップスティック小説で、ある意味軽い文体で書かれてギャグ満載なのであるが、不思議と古びていない。

 更に当時のSFファンダム(一の日会)に集うデビュー前の横田順彌や鏡明が実名でメイン登場人物として使われると同時に、SF作家を模したキャラや作者自身も出てくる。

 要するに、物語製作として危険な手法である楽屋落ちまで多用しており、一歩間違えば「オタクの内輪受け」という最悪の事態になってしまう可能性を秘めているのだが、不思議とそれによって質が低下していないのである。

 イラストはウルフガイシリーズで重厚な絵柄を提供する生頼範義で、これも絵柄と相まって面白い。

 まさかの角川映画版「復活の日」のイラストレーターが、性転換したハチャハチャ主人公のイラストを描く羽目になるとは(時間軸が逆だが、この作品的にはあり)。

登場人物紹介が既に笑えてしまう

 軽快な文体、メタ的仕掛け、オノマトペ(擬音)だけで1ページ続く戦闘シーン、ラストにおける小説自体の解体的仕掛けなど、平井和正の先駆性がこれでもか、と出てきて非常に面白い小説であった。

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【書評】山田正紀「チョウたちの時間」–文学的・哲学的・科学的に重厚なテーマ《時間》を語りつくす、SFの力強さを感じる傑作!

  山田正紀「チョウたちの時間」を読んだ。 初出は1979年。これは角川文庫の1980年の初版。装頓は横尾和則である。

 山田正紀のSFの真骨頂であり、「時間」という重厚なテーマに対して、”表現できないものを表現する”というSF的問題意識を駆使して、これを真正面から捉えたものとなっている。

 人類がより高度な知性として成長・進化するために、「時間」意識を拡張する勢力とそれを妨害する勢力の戦いを描く。

 我々の歴史が”可能性としての未来”に対して進歩していくことができるのか、どこかの地点までで限界に到達し衰退するしかないのか、とした小松左京が有していた人類の歴史に対する問題意識を正統に継承している。

 また、1941年のニールス・ボーアとヴェルナー・ハイゼンベルグの会談 (ドイツの原爆開発をめぐって、両者の記憶が食い違っている)もある種の重要なファクターとして言及されており、 これは1998年に発表されたマイケル・プレインの戯曲「コペンハーゲン」の主題でもあり、 この問題意識を先取りしているともいえる。

 SF的イメージも多く使用されており、時間を空間的にしか把握できない人類に対して、 時間に対し別の形式で把握をしているであろう「チョウ」を対比させ、人類の進化するイメージとし て与えている。

  一方、人類の知性の進化、さらには時間のより高度な把握を妨げる役割を与えられた「 敵」には コウモリのようなイメージが与えられ、さらには「ファウスト」のメフィストフェレスそのものとしても言及され、ラストに至る直前の対決シーンでは天使と悪魔による最終戦争、黙示録的な荘厳なイメージを提示している。

 こうした「時間」に対する人間の把握、そして、人類の進化、歴史的問題意識(可能性としての未来)というSFの王道ともいえるテーマである。山田正紀の凄いところは、更にもう一段深みを持たせるべく「知識欲」「知性の目的」を重要キーワードとして記述する。

 これは古典としては前述の「ファウスト」、同時代的には諸星大二郎「孔子暗黒伝」で示された「知識への絶え間なき欲望、饕餮(とうてつ)」としてもテーマ化されている普遍的な文学的課題であるともいえる。

 まだまだそれだけではない。

 ブラックホール生命体、反物質宇宙の生命体など、想像力の限界に迫るようなアイディアがこれでもか、と詰め込まれ、ラストには、もはや読者の想像力と知性自体が試されるかのような「難解な」それでいて荘厳な美しいクライマックスに至 る。

 こうした、文学的・哲学的・科学的に重厚なテーマを語りつくす、 SFの力強さを感じる非常に素晴らしい作品である。

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【書評】菊池秀行「吸血鬼(バンパイア)ハンター”D”」–激烈に面白い超エンターテイメント!

 菊池秀行「吸血鬼(バンパイア)ハンター”D”」(ソノラマ文庫)を読んだ。

 本当に今更ながらであるが、初読である。

 1983年出版の作品で、菊池はこの作品を執筆当時33歳。

 いわゆるSF伝奇的な作品で、戦闘など胸躍るシーンも多い。吸血鬼伝説をモチーフとしつつ、遠い未来の世界(12,090年)における吸血鬼と人間の相克を描いたものである。

 この作品だけでは解けない謎(主人公”D”の出自や、謎の声の存在など)もあり、歴史スペクタクルとしても重厚であり、文体も一部講談調(弁士語り)もあるが、それが古びた感じもなく、むしろ活劇を描く意味で良い効果を出している。

 シリーズ第1作であり、主人公”D”の超人性を際立たせる部分に加え、物理的な弱点の存在や、心理的な二重性(相反する部分)などもあり、物語の造形としても非常に魅力的かつ重層的な設定となっており、一気読みである。

 今オッサンが読んでも心ときめくので、これを中高生時代に読んでいたら、きっと、どハマりしていたであろう。

 ちなみにフィジカルな本、要するに実体的な紙としての媒体で読んだ(実家から持ってきた)わけだが、今現在ではこのシリーズの初期の巻は、電子書籍と紙媒体の価格差が凄いことになっているようだ。

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