【書評】乙骨淑子「ピラミッド帽子よ、さようなら」–絶筆に終わった”生き生きとした”SF小説

 乙骨淑子(おっこつ よしこ)「ピラミッド帽子よ、さようなら」(理論社)を読んだ。

 著者の死によって絶筆となった作品であるが、1981年発行のこの初版では理論社社長の小宮山量平によってラストが追加されている。最近の復刻版では、乙骨淑子が発表した部分のみの形が流通しているようだ。

 中学2年の主人公・洋平の生き生きとした語りで進んで行くこのSF小説は、キャラクターの豊富さ、地球空洞説、失われた文明、オーパーツなどの謎解き要素もあり、かなり荒削りなのだが、まさに主人公と一緒に大冒険をしている感覚になる。

 前述の通り、終盤間際の著者の逝去によって、この冒険自体は未完となった。魅力的な謎は謎のままで放り出されるような状態であり、もやもやする。今回読んだ初期出版バージョンでは、小宮山量平によって書かれた終章が入っており、一応の決着があるが、やはり苦しい部分がある。必ずしも悪くはないと思うが、やはり性急に解釈をつけていった感が否めないのである。

 個人的な感想であるが、まだこの冒険の結末にはかなりの枚数が必要だったのではないかと思う(小宮山量平によればそうではない、とのことだが)。

 私が感じたこの作品の魅力は、主人公であり語り手の森川洋平の素直さである。とにかくまっすぐなのである。そしてミステリアスなヒロイン。ヒロイン自身や、作品のテーマである”もう一つの世界”は、いずれも「死」のイメージを纏っているが、そのイメージと対照的に明るく、生き生きとしているのである。

 最終的には病に倒れた著者が書き継いだ、この「生」へのイメージ、すなわち”子どもの生命力そのもの”のイメージは、この未完に終わった物語の重要なファクターであったはずである。そして、この冒険の中断は、我々読者にとって様々な問いとして投げかけられる。逆に謎が謎のままで残されたことも含めて、豊穣な物語になったという言い方もできる。

 この「生」のイメージは、実は現代的でもあり普遍的な課題であろう。

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【書評】小松左京「青い宇宙の冒険」ジュブナイルでありながら、ハードSF王道要素たっぷりの読み応え

 先日行きつけの古本屋にあった小松左京「青い宇宙の冒険」(角川文庫)を手に取った。懐かしい。高校生くらいで読んだ記憶がある。早速再読。

 なかなかの時代めいた表紙とデザイン。1976年発行の初版であった。イラストは長尾みのるである。 

 「量子的秩序のゆがみ」「超空間から見た宇宙」「四次元空間における三次元空間の鏡が合わせ鏡のように置かれたら?」といった、SFのもつイマジネーション満載な概念が、平易な文体の中で普通に描かれる。

 ジュブナイルでありながら、小松の科学的アイディアが大量に詰め込まれており、大人になった今でもまさに心躍る読書体験であった。

 

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【書評】菊池秀行「魔界都市〈新宿〉」–魔物が渦巻く新宿を舞台としたSFホラー活劇の名作

 先日古本屋で発見した、菊地秀行のデビュー作、1982年発行の「魔界都市〈新宿〉」(朝日ソノラマ)を見つけた。

 表紙がなかなかの時代を感じさせるテイストである。

 どことなく剣を構えた主人公や立ち向かうヒロインの姿は「スター・ウォーズ」を思わせる雰囲気もある表紙である。

 著者自身があとがきで記載しているように、永井豪「バイオレンス・ジャック」のような、大地震によって都市が壊滅した後のアナーキーな「新宿」を舞台に、魔界の要素を入れたホラー+スペクタクル活劇となっており、一気読みである。

 デビュー作ではあるが、著者の三人称的な「語り」は上手く、様々な魔界の姿や犯罪者やサイボーグが混在する魔界=新宿の姿を物語性強く描いている。

 単純なバトルの連続(それはそれで面白い)だけでなく、物語の縦糸としての「神話的要素」(これは不完全にしか語られない)も、きちんと織り込まれており、サーガ的な読後感もある。

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【書評】藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」私小説のリアリズムの極限に生まれた、SFのようなファンタジーのようなイマジネーションのある豊穣な物語空間

 藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」(講談社文芸文庫)を読んだ。

 いわゆる私小説であるが、藤枝静男は、リアリズム的に自分の心理を中心に描き想像力の対極にあると思われた私小説がその極限まで突き抜けると、SFあるいはファンタジーのような異世界空間に到達してしまう、という稀有な作品世界を作り上げた。私小説に怨念を持っている筒井康隆が「みだれ撃ち涜書ノート 」で、藤枝の作品群に仰天していたのも記憶している。

 妻の死を描いた連作「悲しいだけ」はまだそれほどでもないが、作者を投影したと思しき主人公「章」による連作「欣求浄土」は、読み進めていくと、いつの間にか読者は不思議な感覚に襲われる。

 ラスト2作「厭離穢土」および「一家団欒」で、それは明確になる。

 「厭離穢土」では、これまで主人公であった「章」が死ぬところから唐突に始まる。そして、ここまで読み進めて初めて、語り手である「私」が実はいたことが判明するのだ。

 人を食ったような冒頭のシーンを引用する。

 とうとう章が死んだ。告別式がすんでひと月ばかりしてやや落ちついたころ、章の細君が一冊の大学ノートを持ってきて私に手渡し「お読みになったらそのままお手元に置いてやって下さい」と云って帰った。

藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」(講談社文芸文庫)「厭離穢土」p.121

 つまり、唐突に章=私ではなく、章と私が分離されるのである。そして章の「手記」が語られ、死期の姿が描写されていく。

 そして最終話(これが実は一番先に書かれた作品のようだが)「一家団欒」では、私小説のリアリズムなどはもはや関係なく、死んだ章が自分の先祖(親や早世した兄弟)の眠る墓の中で、彼らと再会し霊魂となって祭りに参加する様がユーモラスに描かれる。

 このイメージは、まさに作者の想像力によって作られたもので、私小説の作品作成の極限の到達としてこのような豊穣な物語空間が生み出されたということは、物語の力よって鼓舞されたいと日々思っている私のような読者にとって、勇気づけられる読書経験であった。

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【書評】筒井康隆「川のほとり」(新潮2021年2月号)–生き残ってしまった老父・筒井の哀しみが伝わる感動作

 一部で話題となった筒井康隆の小説「川のほとり」(新潮2021年2月号掲載)を読んだ。

 筒井の「腹立半分日記」などでも頻繁に登場していた一人息子である「伸輔」–筒井伸輔が食道癌で51歳の若さで亡くなったことを、この小説で初めて知ったのであった。

 親にとって子供に先立たれることほどの悲劇はないであろう。

 この短い小説では、86歳の筒井が夢で死んだ息子と再会し、会話する。

 筒井自身はこの息子が自分の無意識(願望)が作り出した幻影であり、自分そのものに由来するものであることを理解している。

 自分が作り出したイメージであるならば、この会話は自問自答(モノローグ)にすぎず、全ては予測可能なはずであることも語り手の筒井は理解しているのである。

 しかし、この夢に現れた息子「伸輔」の応答はそうしたモノローグな要素ではなく、あくまで他者との対話であるダイアローグになっているようにも感じ取れてくる。

 さらに、それすら筒井は疑う。

 所詮この体験は、自分が作り出して自分で納得しようとしている行為なのだと。

 こうした諦念と希望の狭間の中で揺れうごきながら、それでもなお筒井は川のほとりで息子との物語を作ることで、自己の体験を静謐かつ荘厳な表現手段によって自ら決着をつけようとしている。

 このことは、同時に、筒井の文学的なメインテーマの一つである「無意識」の暗黙的共同性すらも我々に想起させる。

 こうして振り返って考えてみると「腹立半分日記」に登場していた筒井の作家仲間も、かなりの数が、もうこの世にいない。時代は遠くなっていく。

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【書評】平井和正「超革命的中学生集団」50年前のSFスラップスティック小説で、楽屋落ちやギャグ連発でも古びてない凄さ

 先日行きつけの古本屋で見つけた、平井和正「超革命的中学生集団」(角川文庫)を105円で入手。カバーはなかった。前から読みたいと思っていた作品である。

 初出は1970年。もはや50年前の作品。そして内容は、ジュブナイル+スラップスティック小説で、ある意味軽い文体で書かれてギャグ満載なのであるが、不思議と古びていない。

 更に当時のSFファンダム(一の日会)に集うデビュー前の横田順彌や鏡明が実名でメイン登場人物として使われると同時に、SF作家を模したキャラや作者自身も出てくる。

 要するに、物語製作として危険な手法である楽屋落ちまで多用しており、一歩間違えば「オタクの内輪受け」という最悪の事態になってしまう可能性を秘めているのだが、不思議とそれによって質が低下していないのである。

 イラストはウルフガイシリーズで重厚な絵柄を提供する生頼範義で、これも絵柄と相まって面白い。

 まさかの角川映画版「復活の日」のイラストレーターが、性転換したハチャハチャ主人公のイラストを描く羽目になるとは(時間軸が逆だが、この作品的にはあり)。

登場人物紹介が既に笑えてしまう

 軽快な文体、メタ的仕掛け、オノマトペ(擬音)だけで1ページ続く戦闘シーン、ラストにおける小説自体の解体的仕掛けなど、平井和正の先駆性がこれでもか、と出てきて非常に面白い小説であった。

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【書評】山田正紀「チョウたちの時間」–文学的・哲学的・科学的に重厚なテーマ《時間》を語りつくす、SFの力強さを感じる傑作!

  山田正紀「チョウたちの時間」を読んだ。 初出は1979年。これは角川文庫の1980年の初版。装頓は横尾和則である。

 山田正紀のSFの真骨頂であり、「時間」という重厚なテーマに対して、”表現できないものを表現する”というSF的問題意識を駆使して、これを真正面から捉えたものとなっている。

 人類がより高度な知性として成長・進化するために、「時間」意識を拡張する勢力とそれを妨害する勢力の戦いを描く。

 我々の歴史が”可能性としての未来”に対して進歩していくことができるのか、どこかの地点までで限界に到達し衰退するしかないのか、とした小松左京が有していた人類の歴史に対する問題意識を正統に継承している。

 また、1941年のニールス・ボーアとヴェルナー・ハイゼンベルグの会談 (ドイツの原爆開発をめぐって、両者の記憶が食い違っている)もある種の重要なファクターとして言及されており、 これは1998年に発表されたマイケル・プレインの戯曲「コペンハーゲン」の主題でもあり、 この問題意識を先取りしているともいえる。

 SF的イメージも多く使用されており、時間を空間的にしか把握できない人類に対して、 時間に対し別の形式で把握をしているであろう「チョウ」を対比させ、人類の進化するイメージとし て与えている。

  一方、人類の知性の進化、さらには時間のより高度な把握を妨げる役割を与えられた「 敵」には コウモリのようなイメージが与えられ、さらには「ファウスト」のメフィストフェレスそのものとしても言及され、ラストに至る直前の対決シーンでは天使と悪魔による最終戦争、黙示録的な荘厳なイメージを提示している。

 こうした「時間」に対する人間の把握、そして、人類の進化、歴史的問題意識(可能性としての未来)というSFの王道ともいえるテーマである。山田正紀の凄いところは、更にもう一段深みを持たせるべく「知識欲」「知性の目的」を重要キーワードとして記述する。

 これは古典としては前述の「ファウスト」、同時代的には諸星大二郎「孔子暗黒伝」で示された「知識への絶え間なき欲望、饕餮(とうてつ)」としてもテーマ化されている普遍的な文学的課題であるともいえる。

 まだまだそれだけではない。

 ブラックホール生命体、反物質宇宙の生命体など、想像力の限界に迫るようなアイディアがこれでもか、と詰め込まれ、ラストには、もはや読者の想像力と知性自体が試されるかのような「難解な」それでいて荘厳な美しいクライマックスに至 る。

 こうした、文学的・哲学的・科学的に重厚なテーマを語りつくす、 SFの力強さを感じる非常に素晴らしい作品である。

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【書評】菊池秀行「吸血鬼(バンパイア)ハンター”D”」–激烈に面白い超エンターテイメント!

 菊池秀行「吸血鬼(バンパイア)ハンター”D”」(ソノラマ文庫)を読んだ。

 本当に今更ながらであるが、初読である。

 1983年出版の作品で、菊池はこの作品を執筆当時33歳。

 いわゆるSF伝奇的な作品で、戦闘など胸躍るシーンも多い。吸血鬼伝説をモチーフとしつつ、遠い未来の世界(12,090年)における吸血鬼と人間の相克を描いたものである。

 この作品だけでは解けない謎(主人公”D”の出自や、謎の声の存在など)もあり、歴史スペクタクルとしても重厚であり、文体も一部講談調(弁士語り)もあるが、それが古びた感じもなく、むしろ活劇を描く意味で良い効果を出している。

 シリーズ第1作であり、主人公”D”の超人性を際立たせる部分に加え、物理的な弱点の存在や、心理的な二重性(相反する部分)などもあり、物語の造形としても非常に魅力的かつ重層的な設定となっており、一気読みである。

 今オッサンが読んでも心ときめくので、これを中高生時代に読んでいたら、きっと、どハマりしていたであろう。

 ちなみにフィジカルな本、要するに実体的な紙としての媒体で読んだ(実家から持ってきた)わけだが、今現在ではこのシリーズの初期の巻は、電子書籍と紙媒体の価格差が凄いことになっているようだ。

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【書評】平井和正「狼よ、故郷を見よ」–”狼男”の失われた”母”をめぐる傑作

 平井和正「狼よ、故郷を見よ」(ハヤカワ文庫)を読んだ。表紙や挿画は、生頼範義であり、なかなかの雰囲気である。

 本書には「地底の狼男」および「狼よ、故郷を見よ」の中編2編が収められ、いわゆるアダルト・ウルフガイ、30歳台のルポライター”犬神明”の冒険が描かれた別巻の第2作目にあたる。

 表題作「狼よ、故郷を見よ」がやはり面白い。毎回CIAなどの追手に追われ、過酷なピンチの状況に追い込まれる主人公、狼男である犬神明が、その母の故郷である紀州の隠れ里に追い込まれる場面から始まる。

 その隠れ里には自らの一族は不在であり、犬神明は、追手である密猟マタギとの死闘を演じる。そしてその窮地を助ける女性が、彼の伴侶でありつつ、それ以上の愛情、いわば超人的な「愛」を注ぐ。

 超自然的な何かに誓願をかけ、その見返りとして得られた超人的な力によって彼を助ける。そしてその誓願を達成する見返りとして自らの命を交換するという、自己犠牲が描かれる。

 これはまさしく伴侶というより、東京大空襲のなか、彼を守った血も分けた「母」の姿と重なるのである。そのことは明示的でないのだが、はっきりと浮かび上がってくる。

 狼男自体はアウトサイダーであり、主人公は同時にその一族からも追放された二重のアウトサイダーであり、寄る辺ない存在である。

 そうした孤立した宿命が前提された上で、自身は不在のままなお彼を守護する「母」の姿は、これもまた超自然的な壮大さのイメージとともに読み手に感動を呼び起こすのである。

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【書評】矢野徹「カムイの剣」–日本SF第一世代による幕末を舞台にしたSF大冒険活劇

 矢野徹「カムイの剣」(角川文庫)を読んだ。いわゆる旧版の1巻本で、1975年発行の初版本である。

 アイヌと和人の間に生まれた主人公が、自身、そしてその親をめぐる大いなる謎を解くべく、東北、北海道、オホーツク、ベーリング海峡、アメリカ、そして幕末の日本を舞台に駆け巡る。そして、彼の敵となる忍者軍団との戦い。

 とにかく大量の”材料”が仕込まれている。上記のストーリーラインだけでなく、アイヌ文化、漢籍、隠れキリシタン、安藤昌益、マークトウェイン、ネイティブアメリカン、西郷隆盛など、SFが持つ特徴の、異種結合タームも大量に駆使され、一気に読んでしまう。

 奇しくも解説の星新一が、彼らしくクールにサラッと指摘しているように、本作はデュマ「モンテ・クリスト伯」と小説構造は相似している。

 度重なる苦境、閉塞した空間での師匠による教育と成長、秘宝の探索、秘宝の秘匿、超越性を身につけた「変身」、強大な力による復讐、と言った時系列構造がまさに「モンテ・クリスト伯」を読んだ際のドキドキ感とそっくりなのである。

 だが、それが特に本作の瑕疵にはなっておらず、むしろより大きなスケール、テーマを与えた点に、矢野徹のオリジナリティがあると思われる。

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