緊急事態宣言解除直後から、早々にテレワークをギブアップして自ら出社を希望する層が出てきている

 2021年1月に再び発令された「緊急事態宣言」は3月21日に解除された。私もテレワークであまり会社に行くことはなかったが、少しずつ戻る方向になりつつある。

 今回の緊急事態宣言に伴うテレワーク推進あるいは行動の抑制に関して、前回のような緊張感が少し薄れているようだ。経済活動との相反も指摘されることも相まって、実感としても前回より個人に与える精神的影響が大きかったように思える。

 具体的には、早々に「テレワークだと仕事が回らない、出社したい」という声が多く出てきたことである。

 前回よりもインフラや業務ツールは充実しており、業務環境としてはよりテレワークしやすいにもかかわらずである。

 前回同様に「現場」がある部門から当然そうした声が上がるのは理解でき、こうした配慮はしているのであるが、今回は、「現場」がないはずの事務屋、管理屋から多くその声が上がってきたことが予想外であった。

 つまり本来調整や管理をする業務、つまり、テレワークにもっとも親和性のある(と思われていた)はずの部門の「ある階層」から、早々に「このままでは仕事の効率が極めて落ちますので、出社したいです」というあからさまなギブアップ宣言が相次いだのである。

 そしてこの声は、むしろデジタル化に対応できないと思われる高齢の窓際世代ではなく、実務を担う中堅層から出ているのが、更に不審であった。

 実際、皮肉なことに、窓際というか”飾り”の高齢世代は、実は意外にもテレワークを歓迎しているのである。会社にいても用事も多くないし、周囲もかまってくれないので、むしろプライベートと近い環境の方が良いというのが本音なのであろう。これはある意味Win-Winな姿であろう。

 だが、こうした歓迎される世代と裏腹に、実際に調整作業や企画管理する部門、テレビ会議などで十分それが果たせそうと思われていた世代が、実は「フェイスツーフェイスで話をしないと、仕事が進みません。業務効率が落ちます」という状況に陥っているのが印象的であった。

 確かに、権力があれば別だが、そうではない場合、他者への説得や交渉では、ある種の「迫力」「熱量」がないとダメで、テレビ会議ではやはり「情熱」や「気合」などが表現することに限界がある、ということなのであろう。やはり、そうしたアナログな要素が現実の仕事を回していたということなのであろうか。

 しかし、これまでの「常識」からすると本来「現場」とはみなされていなかった事務屋の一部に、フィジカルな世界の必要性がわかったことはダメージを受けつつも勉強にはなった。

 今でもほんまかいな、とは思っているが。

 まあ、私自身はすでにかなり「窓」に近いので、「これからも基本テレワークでお願いします」と言われたばかりなのであるが・・・・。

Share

【書評】連城三紀彦「白光」–人間心理の論理ゲームの集大成のようなミステリ

 連城三紀彦「白光」(光文社文庫)を読んだ。

 連城作品の特徴である、人間心理を重層的に捉えて一つの主張が次の段階では異なる様相を示すような展開が続き、ラストの驚天動地の展開に至る傑作である。

 ただ、物語自体は非常に暗い内容である。戦争体験や人々の憎悪、裏切りなどの負の要素が渦巻く。こうした不幸や嫉妬など、人間の業としか思えない感情による心理劇がひたすら続くという展開なのであるが、ラストに至るまでにそれを覆すスペクタクルな展開が待っている。

 その謎を紡ぐ登場人物もこうした複雑な構成であれば単純化したいところだが、そんなことはなく、前記事で紹介した作品「青き犠牲」と比較しても倍以上の人数が登場し、その一人一人の心理のエゴと犠牲の両面を論理的に組合せていく構成となっている。

 結末に至るまでには読者は何度も論理の転回を経験し、ラストまでこの強い「白光」を浴び、幻惑させ続けられるのである。

 こうした極めて複雑な論理の束を破綻させることなく、読者をラストまで連れていく著者の剛腕に唸らされるばかりである。

Share

【書評】連城三紀彦「青き犠牲」–現実離れした事件なのに、何故か現実的に読めてしまう荘厳なミステリ

 連城三紀彦「青き犠牲」(文春文庫)を読んだ。ギリシャ悲劇である「オイディプス王」をモチーフとしたミステリーである。

 著者が得意とする、”内と外の構造の相対性”の発想も盛り込まれており、物語の構造がダイナミックに転換していき、息もつかせぬ展開である。

 「オイディプス王」の持つ”父殺し”や”母との不適切な関係”などの要素が効果的に使われると同時に、それだけではない重層的な謎を盛り込み、またミステリとしてのトリックも十分に仕込まれている。

 読了したのちに、少し冷静になって考えてみると、実はこの事件自体はリアリズム的には決して”ありえない”構造なのである。

 しかし、このギリシャ悲劇の普遍的なモチーフを用いた著者の強力な語りによって読者自身も幻惑されてしまい、この現実離れした事件を”ありそう”と思わせるのはさすがとしか言いようがない。

Share

【書評】乙骨淑子「ピラミッド帽子よ、さようなら」–絶筆に終わった”生き生きとした”SF小説

 乙骨淑子(おっこつ よしこ)「ピラミッド帽子よ、さようなら」(理論社)を読んだ。

 著者の死によって絶筆となった作品であるが、1981年発行のこの初版では理論社社長の小宮山量平によってラストが追加されている。最近の復刻版では、乙骨淑子が発表した部分のみの形が流通しているようだ。

 中学2年の主人公・洋平の生き生きとした語りで進んで行くこのSF小説は、キャラクターの豊富さ、地球空洞説、失われた文明、オーパーツなどの謎解き要素もあり、かなり荒削りなのだが、まさに主人公と一緒に大冒険をしている感覚になる。

 前述の通り、終盤間際の著者の逝去によって、この冒険自体は未完となった。魅力的な謎は謎のままで放り出されるような状態であり、もやもやする。今回読んだ初期出版バージョンでは、小宮山量平によって書かれた終章が入っており、一応の決着があるが、やはり苦しい部分がある。必ずしも悪くはないと思うが、やはり性急に解釈をつけていった感が否めないのである。

 個人的な感想であるが、まだこの冒険の結末にはかなりの枚数が必要だったのではないかと思う(小宮山量平によればそうではない、とのことだが)。

 私が感じたこの作品の魅力は、主人公であり語り手の森川洋平の素直さである。とにかくまっすぐなのである。そしてミステリアスなヒロイン。ヒロイン自身や、作品のテーマである”もう一つの世界”は、いずれも「死」のイメージを纏っているが、そのイメージと対照的に明るく、生き生きとしているのである。

 最終的には病に倒れた著者が書き継いだ、この「生」へのイメージ、すなわち”子どもの生命力そのもの”のイメージは、この未完に終わった物語の重要なファクターであったはずである。そして、この冒険の中断は、我々読者にとって様々な問いとして投げかけられる。逆に謎が謎のままで残されたことも含めて、豊穣な物語になったという言い方もできる。

 この「生」のイメージは、実は現代的でもあり普遍的な課題であろう。

Share

カエシのある釣り針が指に突き刺さった際の絶望感

 老父とハゼ釣りに行った際の、帰りのことである。

 「トイレに行ってくる」と言って出た老父を、車内で待っていた。少々遅めだったが、帰ってきた。しかし何故か元気がない。

 「・・・まいった」と言っている。そして右手を見せる。良くわからない。

 「俺に糸がついてるだろ」という。目をこらすと確かに釣り糸が出ている。テナガエビ仕掛けなのでハリスが細くて良くわからないのである。

 そして苦悶の表情で「刺さって、取れないんだよ」と。良く見ると指に針が刺さっている。ハリスはそこから繋がっているのであった。

 聞くと、ハゼ釣りの際に使ったテナガエビ仕掛けの予備ハリスを不用意にポケットにしまい、トイレの際にハンカチを出そうと手を入れた瞬間に刺さってしまったようなのだ。

 その際にグイっと入れてしまった模様で、針の「カエシ」が肉に潜り込んでしまい、抜けなくなっているのである。

 テナガエビ用の極細針でありながら、なかなかどうしてすごく、押しても引いてもびくともしないのである。

 そして動かすたびに本人が激痛が走るらしく、脂汗をかいて唸っているのである。笑ってしまいそうだが、確かに恐ろしい悲劇である。

 苦闘すること10分。埒が明かないと見たのか、老父が覚悟を決めた表情で「おい、自分でやったら痛みで力が緩むから、お前一気に抜いてくれよ」と言うのである。とはいえ、こちらも魚の口から針を抜くのではなく、肉親の肉を引きちぎるわけにもいかず、少々戸惑う。ただ、そこそこ覚悟がいる。

 一応頑張ってみたが、やはり目の前で歯を食いしばっている親の顔を見ると非常になりきれない自分がいたのである。また、テナガエビ針も極小なので力が入りにくく、間違って針を折ってしまったらと躊躇する心理もあったのだ。

 この場合の対処方法は釣り人として実は知っていた。

 それは、”あえて逆方向に針を動かし、針の先端を外へ貫通させる。そして先端のカエシをペンチで潰す”というバイオレンスなものである。だが、これも実際やろうとすると難しい。

 テナガエビサイズなので、今回はまだあまり深刻ではない(?)が、かつてオカッパリでルアーをやっていた際に、開始早々でメタルジグの針が手の甲に刺さった人を見た時は、それはかわいそうであった。

 もはや戦闘不能で、ただただ唸り続けているのである。

 そして同行の釣り人は同情するものの自分の釣りを優先させたいので、自己責任なのか刺さった当人のみ放置されている光景。この絶望感。結局戦線離脱して、病院へ行ったはずだ。

 今回も同様で、ハリの大きさは相違するものの、痛みで身動き取れない状況なので、やはり大騒ぎである。病院に行くべきか検討を始め、まずは消毒用のマキロンを購入するため薬局へ移動。

 そして消毒液で少し元気が出たのか、再度気合いとともに老父が針を弄ると、「取れた」のである。

 だが、針が小さすぎて、全部摘出できたのかが確認できていない。最後は家で虫眼鏡で、摘出した針が原型をとどめていることを確認し、無事終了となった。

 「ハゼの気持ちがわかったよ・・・」と言うのが老父の感想であった。

Share

【書評】小松左京「青い宇宙の冒険」ジュブナイルでありながら、ハードSF王道要素たっぷりの読み応え

 先日行きつけの古本屋にあった小松左京「青い宇宙の冒険」(角川文庫)を手に取った。懐かしい。高校生くらいで読んだ記憶がある。早速再読。

 なかなかの時代めいた表紙とデザイン。1976年発行の初版であった。イラストは長尾みのるである。 

 「量子的秩序のゆがみ」「超空間から見た宇宙」「四次元空間における三次元空間の鏡が合わせ鏡のように置かれたら?」といった、SFのもつイマジネーション満載な概念が、平易な文体の中で普通に描かれる。

 ジュブナイルでありながら、小松の科学的アイディアが大量に詰め込まれており、大人になった今でもまさに心躍る読書体験であった。

 

Share

【書評】菊池秀行「魔界都市〈新宿〉」–魔物が渦巻く新宿を舞台としたSFホラー活劇の名作

 先日古本屋で発見した、菊地秀行のデビュー作、1982年発行の「魔界都市〈新宿〉」(朝日ソノラマ)を見つけた。

 表紙がなかなかの時代を感じさせるテイストである。

 どことなく剣を構えた主人公や立ち向かうヒロインの姿は「スター・ウォーズ」を思わせる雰囲気もある表紙である。

 著者自身があとがきで記載しているように、永井豪「バイオレンス・ジャック」のような、大地震によって都市が壊滅した後のアナーキーな「新宿」を舞台に、魔界の要素を入れたホラー+スペクタクル活劇となっており、一気読みである。

 デビュー作ではあるが、著者の三人称的な「語り」は上手く、様々な魔界の姿や犯罪者やサイボーグが混在する魔界=新宿の姿を物語性強く描いている。

 単純なバトルの連続(それはそれで面白い)だけでなく、物語の縦糸としての「神話的要素」(これは不完全にしか語られない)も、きちんと織り込まれており、サーガ的な読後感もある。

Share

【書評】藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」私小説のリアリズムの極限に生まれた、SFのようなファンタジーのようなイマジネーションのある豊穣な物語空間

 藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」(講談社文芸文庫)を読んだ。

 いわゆる私小説であるが、藤枝静男は、リアリズム的に自分の心理を中心に描き想像力の対極にあると思われた私小説がその極限まで突き抜けると、SFあるいはファンタジーのような異世界空間に到達してしまう、という稀有な作品世界を作り上げた。私小説に怨念を持っている筒井康隆が「みだれ撃ち涜書ノート 」で、藤枝の作品群に仰天していたのも記憶している。

 妻の死を描いた連作「悲しいだけ」はまだそれほどでもないが、作者を投影したと思しき主人公「章」による連作「欣求浄土」は、読み進めていくと、いつの間にか読者は不思議な感覚に襲われる。

 ラスト2作「厭離穢土」および「一家団欒」で、それは明確になる。

 「厭離穢土」では、これまで主人公であった「章」が死ぬところから唐突に始まる。そして、ここまで読み進めて初めて、語り手である「私」が実はいたことが判明するのだ。

 人を食ったような冒頭のシーンを引用する。

 とうとう章が死んだ。告別式がすんでひと月ばかりしてやや落ちついたころ、章の細君が一冊の大学ノートを持ってきて私に手渡し「お読みになったらそのままお手元に置いてやって下さい」と云って帰った。

藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」(講談社文芸文庫)「厭離穢土」p.121

 つまり、唐突に章=私ではなく、章と私が分離されるのである。そして章の「手記」が語られ、死期の姿が描写されていく。

 そして最終話(これが実は一番先に書かれた作品のようだが)「一家団欒」では、私小説のリアリズムなどはもはや関係なく、死んだ章が自分の先祖(親や早世した兄弟)の眠る墓の中で、彼らと再会し霊魂となって祭りに参加する様がユーモラスに描かれる。

 このイメージは、まさに作者の想像力によって作られたもので、私小説の作品作成の極限の到達としてこのような豊穣な物語空間が生み出されたということは、物語の力よって鼓舞されたいと日々思っている私のような読者にとって、勇気づけられる読書経験であった。

Share

【書評】村松友視「トニー谷、ざんす」–まるで”ひとりエレパレ”のような戦後に現れた大スターの「謎」

 村松友視「トニー谷、ざんす」(毎日新聞社)を読んだ。

 戦後すぐに現れた芸人であり、”大スター”トニー谷についてのエッセイである。

 永六輔やトニーの妻など、関係者の証言も多く載せられている。

 トニー谷という存在は、日本の芸能史において特異な地位を占めている。

 太平洋戦争終戦後の混乱期に現れた、日本人のアメリカ文化へのコンプレックスをカリカチュアした、いわば「植民地芸人」と呼ばれるような露悪的な芸風(トニー・イングリッシュと言われるカタコト英語)や、本人の態度(マスコミへの敵意、同業者への不遜な態度)もあり、その真実の姿は見えない。

 本書においても、やはりその実像は見えないのである。

 太平洋戦争中に何をしていたかは、やはり「謎」のままであるし、トニー自身の悪評を産んだ行動の理由自体もまだ不透明である。ただし唯一の手がかりとして、トニーの複雑な家庭環境、不幸があったことは間違いなさそうだ。

 先日YouTubeで視聴した「ザ・エレクトリカル・パレーズ」という芸人のイケイケサークルについてのドキュメンタリーを見た際と同様のモヤモヤ感が残っている。「ザ・エレクトリカル・パレーズ」も非常に「謎」が多い動画なのだが、ここでトニー谷との類似性があるように思える。

 「エレパレ」では、吉本芸人の卵たちのカースト上位のエリート軍団が、その情熱と裏腹に生まれた排他性や党派性により、逆にプロの芸人集団の中では”原罪”のようになってしまう皮肉な結果を産んでいる姿が描かれる。

 トニー谷は、たった一人だが「エレパレ」であったように思える。

 当然のことながら、その排他的・独善的な態度は、結果的に周囲からは徹底的に浮き上がっていった。その運命を最後まで引き受けていった。

 そうした排他的な行動の原因として、芸人になる前の前半生での極めて「不幸な生い立ち」があったことが示唆される。本人がその過去を全く明らかにしなかったほどの。

 そして「エレパレ」でも明示的には描かれていないが、こうしたイケイケメンバーの「不幸な生い立ち」、そしてその遅れてきたスポットライトを取り戻すために足掻く様が、残された「謎」として提示されている。

 自己の生涯に対して幸福の収支決算を貪欲に追い求めること、それ自体は何ら非難されるべき行為ではないが、そこに乾いた焦りのようなものが随伴し、結果としてルサンチマンにまで増大してしまうケースもある。そうなると、周囲への極端な排他性を生み出すのであろうか。

Share

【書評】連城三紀彦「離婚しない女」–同心円状の外と内がひっくりかえるような感覚の恋愛ミステリ

 連城三紀彦「離婚しない女」(文春文庫)を読んだ。中編の表題作と、「写し絵の女」および「植民地の女」の短編2編で構成されている。

 名作「恋文」や本格ミステリ「人間動物園」で描かれた、心理劇+どんでん返しを味わうことができる佳品である。

 連城三紀彦の小説は女性の心理の機微に説得力のある(納得感がある)ように感じてきたが、最近、これは読者である私=男性的な視点なのではないかとも思えてきている。個人的な感覚として、男性ファンは多いが女性ファンの声をあまり見かけないような気もする(私見です)。

 それはさておき、今回の作品3編どれも、連城三紀彦の恋愛ミステリとしてのウマさが出ており、ラストに何らかの仕掛けがある。

 それも物理的な”トリック”に心理的な要素を付加しており、いわば同心円状になった多重構造の構図となり重層的になっている。

 名作「人間動物園」でもそうであったように、最後に、こうした物理的(フィジカルな)視点の転回と、心理的な視点の転回がある。これまで正しかった(と思われた)構図–それは物理的・心理的双方にある–が全く別の構図に転回される。

 連城三紀彦の作品では、通常のミステリでは描かれにくい男女の心理的関係などを”深く”掘り下げており、これが付加されることで、読後感は通常のミステリとは違った独特なものとなっているように思える。

Share