Googleで「レームダック」を検索すると、ナレッジグラフに稲田元防衛大臣のアヒル口の画像が出るのは悪意を感じるw

 先日「レームダック(lame duck)」=「足が不自由なアヒル」=”死に体”を指すスラングを検索していた。もちろん(?)他人への悪口で使うために、綴りを確認する目的であるが。

 任期間際で再任の見込みがなくなった政治家を指すことが多いが、会社などでも外部の管理下に置かれてしまった経営者などを指すことが多い。

 それはそれとして、Google検索時に違和感を感じたのである。

 スクリーンショットを保存してみた。

  

 ・・・何か右端のGoogle先生がまとめてくれた「ナレッジグラフ」に違和感がある。人間の映像があるのだ。なお、上記はプライベートブラウズである。

 拡大してみる。

 アヒル口の稲田元防衛大臣の画像が。これは流石に悪意を感じる(笑)。なんでこんなことになったのか。

 どうやら画像検索「lame duck」でトップに、この画像を含むブログが来る模様だが・・・。

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2020年の相模川テナガエビ開幕!

 今年もやってきた、テナガエビのシーズン。

 これまでのセオリーからすると、雨の日のあとの干潮が狙い目である。

 関連記事:ド干潮の相模川河口で、ノベ竿でテナガエビを釣る

 まあ、そんなこんなで、今年もいつもの相模川のポイントへ行ってみたのである。

 時合は干潮で、干上がった状態に投入する超浅め仕掛け、1.5mのノベ竿で、いつもの(?)マルフジのテナガエビ仕掛けである。

 正直、この激細ラインと激ミニ針で、はっきり言って老眼にはきついのである。真昼のNAが大きい状態でも、もはや焦点が結べないのである(泣)。

 そんな状況で、今年もスタート。

 釣具屋でもソーシャルディスタンスがあったり大変であったが、いつものポイントで、例のミクロな仕掛けを投入。

 ・・・いいね。

 というかテナガエビ優勢で、例のヌマチチブはあまり出ない。

 

 当たりが出てから数分オーダーで勝負する(待機する)テナガエビとの勝負を堪能できたのである。とはいえ、結果は5匹。少ないが、まあ、ライトな釣りではヨシとすべきであろう。

 なかなかの手応えと引き(普通の魚とは形状が違うので、流体抵抗が異なる)で、堪能した。真水で洗って、日本酒で締た上で素揚げをしていただく。

 美味い。ただの素揚げなのに、プリプリとした身に凝縮した旨味があるのである。

 そんなこともあり、翌日同じポイントで追撃。今度は20匹ほど釣れた。

 時合があるようで、ヌマチチブの猛攻を避けて、テナガエビだけの猛攻タイミングがあった。

 普通の魚とは異なる甲殻類特有の独特の攻撃と、その対抗戦略を考察して面白い戦いとなったのであった。

(追記)8月の炎暑の中、再度チャレンジ。苦戦したものの、やはりテナガえびの時合があり、10匹ほど釣れた。今回は、目の前で”見釣り”もできた。仕掛けを落とすと、ヌマチチブの幼魚を追い払うように遠くから素早くやってきて、長い手で餌を掴み、移動して食べるという様を見ることができた。更にバラしても、近くにまだおり、食欲はあるのか再度投入すると追ってくる。

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【書評】施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」5巻–まさかの激烈ペシミスト、E・M・シオランまで取り扱う幅広さ!

 2020年5月出版の、施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」5巻を読んだ。

 関連記事:【書評】施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」ーセカイ系の構造を持った文化系学生の視る夢

 読書マンガであるが、ネタが良く続いていると感心する。少し神林さんが美人になっているような絵柄の表紙である。腐女子チックから変化であろうか。

 取扱う本もかなりの幅広さであり、そのチョイスがなかなかである。E・M・シオラン「生誕の災厄」まで扱われるとは思わなかった。

 シオランの筋金入りのネガティブさには痺れる。

 確か「悪しき造物主」(法政大学出版局)のラストのアフォリズムが特にカッコ良くて、”我々はみな地獄の中にいる、一瞬一瞬が奇跡である地獄の中に”のような感じだったと思う(うろ覚え)。

 ネットで調べてみたらちょっと違っていた。

 そんな感じで、神林さんの”本捨てられないあるある”など、今回も楽しく読めた。

 若干これまでの1から4巻より、今回のページ数が多いのが今後の動向を予想すると少々不安である。

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【書評】パトリック・クェンティン「二人の妻を持つ男」–高度な戦略ゲームの構造をもったサスペンスと本格ミステリが融合した、ラストまで緩みなく一直線の大傑作!

 パトリック・クェンティン「二人の妻を持つ男」(創元推理文庫)を読んだ。

 いやあ、めちゃくちゃ面白かった。

 ネタバレになりそうなので書きにくいのだが、読者には誰が真犯人かということ以外の「真実」が提示され、その真実を特徴のある(そしてそれぞれクセのある)登場人物たちが、各自の都合や他人との利害関係の中で、全く異なる「事実」に仕上げられ、主人公と一緒に翻弄させられる。

 そしてそのきっかけは、ほんの僅かな偶然から始まるが、”強固な嘘で塗り固められた虚構の方が真実よりもリアリティがある”という逆説を「真実」を知る読者自身が突き付けられるのだ。

 そのためには、個々人のキャラクタ造形とその関係性を作り込まなければいけない。作者(合作らしいが)の力量の凄さは、この関係性を強固に構築したことである。

 いわば、各自が独自の生存戦略を持った社会的戦略ゲームのルールを作り込んでいるのである。そしてそれが同時に荒唐無稽でなく、リアリティおよび必然性を保っているのである。

 そして最後まで、読者も、肝心の真犯人はわからない。

 しかし、それがラストに向かって、次第に絞り込まれてくる。

 行き詰まる戦略ゲームの進行と、全く思いもよらない結末。加えて登場人物の評価、印象すら、序盤と終盤で一気に転換させられるのである。

 さらにいえば、結末で真犯人が判明したのちに、読者はもう一度この戦略ゲームを「真犯人の視点」から読み返すことができる。

 そのとき、この小説のもつ文学的とすら思える、提示した「問題」のレベルの高さに驚かされる。大傑作であろう。

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【書評】辻井啓作「独立開業マニュアル これだけは知っといてや」(岩波アクティブ新書)–軽妙な関西弁で書かれた、非常に実際的な独立本!

 辻井啓作「独立開業マニュアル これだけは知っといてや」(岩波アクティブ新書)を読んだ。

 全編関西弁の語り口で面白く読め、かつ、その中身も2003年発行であるが、古びておらず、著者の実感に基づく役に立つことが書かれている。さすがにスマホが登場していないが、それ以外は事務機器などのツール的にも問題なく読める。

 やはり形式的なフリーランス本とは異なり、血肉化された経験に基づく”独立本”は面白い。

 独立開業(会社経営や個人事業主含む)というのは、サラリーマンと異なり、”精神の独立性、自立性”が強いと思う。そうした中での”経験”というのは、やはりこれもサラリーマンとは異なり、深く刮目する内容が多かった。

 独立することの例えを、以下のようなグッとくる例えで述べている。

 独立するゆうのはある意味、、無名校でレギュラーになるみたいなもんや。名門校(大企業)にいるより伸びやすいのわかるやろ。けど、無名校のレギュラーがどれほど成長しても、名門校のエースにはなかなか勝たれへん。そのことも忘れたらあかんで。

辻井啓作「独立開業マニュアル これだけは知っといてや」(岩波アクティブ新書)p.9

 また実用的なTipsも沢山あり「電話は家庭用のコードレスホンの子機を事務所内で投げて渡せばOK」とか「個人の名刺は不要(悪影響)」とか「某新興生命保険の営業マンは人脈のキーマンになるかも」といったノウハウ系から、会社の作り方、仕事の拡大方法、経費処理などの法務・税務と言った内容も充実しており、非常に面白い本であった。

 著者は文化系だが、理科系だと、以前読んだ森田裕之「技術士 独立・自営のススメ」(早月堂書房)も同様の面白さがある。

 ちなみに両者は開業した際に事務所をどう構えるか?(自宅と別にすべきか否か)という問いに、全く正反対の回答をしているのが興味深い。どちらもその根拠は納得できる。

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【書評】森時彦+ファシリテーターの道具研究会「ファシリテーターの道具箱」–「天然モノ」のファシリテーターと「養殖モノ」のファシリテーターの区別を考える

 森時彦+ファシリテーターの道具研究会「ファシリテーターの道具箱」(ダイヤモンド社)を久々に読み返している。

 この本は2008年初版であるが、会議のファシリテートに悩む際に、パラパラと読み返すと、”道具”と呼んでいる様々な会議の活性化・整理のためのツール群(49個ある)があり、今なお新しい気づきを得られる良書である。その中には「ワールドカフェ」なども既に言及されており、先進的な内容である。

 ただ、最初にこの本を入手しようと思ったきっかけは、本書の序章にある「天然モノのファシリテーター」という言葉を見つけたことである。以下引用させていただく。

みなさんの知っている人の中に、こんな人はいませんか?

●その人が入ると、雰囲気が変わり、場が盛り上がる

●その人と話をしていると、明るい気分になり、元気になる

●質問上手で、問われるままに考えていると触発され、やる気が出てくる

ファシリテーションということを知らなくても、このような人たちはいるモノです。日本ではまだ数少ないプロのファシリテーターである青木将幸さんは、こう人たちのことを「天然モノのファシリテーター」と呼んでおられます。天然モノは希少です。養殖しないと、世の中の需要に間に合いません。

森時彦+ファシリテーターの道具研究会「ファシリテーターの道具箱」(ダイヤモンド社) p.2

 「天然モノ」、そして「養殖モノ」という表現、まさにピン!ときたのである。しかし、この表現はここまでで、これ以降はこの分類はあまり出てこない。むしろ「天然モノ」ではなく、訓練するべき「養殖モノ」が必要なツールについての記述がメインになる(それが書籍の目的だから、別に問題はない)。

 実際に、これまでの自分の経験で参加した会議は数多い。職場の会議、集合研修(社外、社内)、相手先での会議など、参加者も多種多様であった。

 成功した会議もあれば、失敗した会議もある。

 感触としては、成功した会議は1%、失敗した会議(その会議があってもなくてもどっちでも良かったという毒にも薬にもならない例も含める)が99%といったところか。

 いや、成功0.1%と表現しても良いかもしれない。1000回に1回くらいの割合であろうか。

 要するに、失敗した会議を繰り返しながら、えっちらおっちらと少しずつ前に進んでいるのが日常のイメージである。

 私が一番失敗例で思い浮かぶのは、ある会社の重要なプロジェクトで若手メンバーが複数部門から横断的に集められ、グループに分けられ、事業拡大のための中期計画を立案する会議に参加した際である。

 ここで、悪い意味で”ファシリテーション”にかぶれた人が、ファシリテーターをやってしまったのである。さらに悪いことに、その人自身が、そのメンバの職位的に最上位、つまり「オーナー」であるという構図。

 つまりファシリテーターが中立な第3者どころか、一番偉い人自らファシリテーション技法を駆使し、それこそ壁全面ホワイトボードでのブレスト、ポストイットを使った会議ごとの友情のアドバイス、マインドマップを使った見える化、アクションアイテムの見える化など、明らかに「道具」だけは先進的、でも、結果的に皆の出てきたアイディアを最後に本人が総括すると「その人の意見」に修正されてしまうという、参加者にとっては悪夢のような会議になったのである。

 オーナーの持つ見えない権力(いくら本人がオープンな意見を、と言っても)による空間支配の中で、従業員のアイディアは萎縮するばかりであり、毎週のように開かれ、議事録だけはキチンと発行されたが、数ヶ月後にはなし崩し的に消滅した。そして、そのオーナーも数年後失脚した。

 またいわゆる集合研修などでの、ある種のバイアスがかかった状態(特に選抜された同じ職位のライバル意識ギラギラ系)における、いつまで経っても溶けないアイスブレイク、我先が先行する気持ち悪い積極性など、こうした事例ではファシリテーターはいるが、あまり役には立っていない。

 こうした経験により、正直言って「ファシリテーション」「ファシリテーター」に良い印象を持っていはいなかったのだが、前述の「天然モノ」「養殖モノ」の表現を見た際に、少し腑に落ちたのである。

 ”あの人は養殖モノ、しかも、紛い物だったのだ”と。

 そして先ほどの文章にあった”その人と話すだけでアイディアがいつの間にか湧き出てくる”という経験、これも確かに自分の経験の中で少ないが、あるのである。そうした人にも少ないがあったことがある。

 その人は、言うなれば「あるスキルにしか特化しておらず、かつ、そのことを自分で理解している人」であった。

 私がテンパって、納期遅れの業務で、一生懸命書類を作っていた。

 この書類も何度も上司に提出しているが「違う。でも、何が違うかを言うと、君のためにならないから」という理由で突っ返されている書類である。

 もう納期というか、当初自分で約束していた納期からは過ぎている。

 まずい。ボクのために全体のスケジュールが狂ってしまう。でも、もう何を直していいかもわからない。直接の上司はただひたすら待っている。もはや聞くにも聞けない。

 こんな状況で、変なオッサンがふらりとボクの机の横に座ってくるのである。その人も自分のラインではないが、そこそこの職位はあるので対応はする。その様子を上司も見つめて「雑談してる場合じゃないだろ」という視線を感じつつ。

 「・・・困ったことがあって」と言う。

 こっちはそれどころではないのだが、雑談に引きずり混まれる。要するに、自分の仕事の愚痴をしたいのであった。

 しかも、結構な毒舌かつゴシップ含みである。

 あの人はバツいちだの、かつて業務で火事を起こして警察署に捕まっただの、とんでもない雑談が入っているのである。その上で、最後にはニヤニヤしながら「どう、君の部署で嫌いなやつは誰よ?上位三位まで上げてみ?」と訳のわからない質問まで、周囲に聞こえよがしにしてくるのである。

 その人の大好物は他人のゴシップとか、他人の喧嘩なのであることは知っていた。それを聞くと、もう犬がよだれを垂らす状態になって「それから、それから?」と物凄い興味を示すのである。更にたちが悪いのは、その情報を受けて、双方に「あいつ気に入らないよな」と立ち回って、焚き付けまでやるのである。そしてそれを本気でゲラゲラ笑っている恐ろしいパーソナリティを持っている人なのである。

 それはそれでまあ、通常であれば、単なる雑談であるのだが、今、ボクの置かれている状況はそんな安穏とした状況ではないのである。そこで他人の悪口を言える訳もない。

 「・・・〇〇さん、彼(ボクの名前)は今ちょっと忙しいので・・」と上司が軽めに注意してくる。「ああごめん、最近暇なんで話相手が欲しかったんでね、ごめんね!」と全く悪びれず去っていく。

 ようやく元の仕事に戻れる。

 しかし、その瞬間、私の中で”全てが整理されていた”。

 そればかりか今テンパっている書類の”正解”が、私の中に保有されていたことが分かったのである。

 そして、それは明らかにその人の会話によって起こった心的変化なのであるが、どう考えてもその会話の実態は「自分の不満」「他人のゴシップ」「何か笑えることはないか」といった、しょうもない会話なのである。その結果が何故か全く関係ない技術的な正解に到達している。

 本人は気づいていないし、ただのフラフラした一匹狼のような「仕事ができなかったら只の協調性の無い人」なのである。その人がメインストリームになることもなく、一介のスペシャリストとして会社人生を終わったはずである。

 しかし、私にとっては、これがファシリテーションの気づきであった。

 まさにこの人は「天然モノ」であった。

 どうでも良い自分の愚痴で私をリラックス(アイスブレイク)させ、今置かれている課題を客観的な課題に置き換え、その上で、全く関係ない他人のゴシップエピソードの羅列の中で、ブレインストーミングをさせて、私の中で埋もれていた回答を「私に」出させたのである。技術的ヒントも、ゴシップに紛れて人に属する技術として本質的かつ体系的に伝えてくれていた。

 「養殖モノ」と「天然モノ」の、この違い。

 そして「天然モノ」の持つ凄さ。彼らは自分がファシリテーションしている自覚すらないのである。つまりその存在自体、彼らにとっては不要なスキル、つまりファシリテーション自体が血肉化されており、もはやその名前で呼ばれることのない到達点にいるのである。

 しかし、そうした逆説的な状態、それが最もファシリテーター、あるいはコンサルタントの真の到達点なのだと思う。

 「コンサルなんて要らなかった、自分たちで全部正解を導いた」とクライアントに”本気で”思わせることが、本当のコンサルの極意なのである。

 これと同じことが「天然モノ」ファシリテーターには言える。

 それが故に、「天然モノ」は文字化された形では顕在化されないのである。

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【書評】半藤一利他「昭和陸海軍の失敗 彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか」(文春新書)にみる日本的な組織がおちいる陥穽

 「昭和陸海軍の失敗 彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか」(文春新書)を読んだ(文中敬称略)。

 文藝春秋に2007年に掲載された座談会を元に編集されたもので、参加者は、半藤一利、秦郁彦、平間洋一、保坂政康、黒野耐、戸髙一成、戸部良一、福田和也である。昭和史研究家(半藤、秦、保坂、福田)、軍事研究家(平間、戸髙、黒野)そして「失敗の本質」の著者のひとり戸部が加わっており、なかなか重厚なメンツである。

 第一部「昭和の陸軍 日本型組織の失敗」、そして、第二部「昭和の海軍 エリート集団の栄光と失墜」の二部構成からなっている。

 いずれも明治維新の勝者である長州・薩摩などの藩閥から脱却し、高等教育機関である陸軍大学校、海軍兵学校卒のエリート教育を整備しつつ近代的な組織を作り上げたはずの陸軍・海軍が、失敗の連続により1945年の敗戦を迎える。

 陸軍は藩閥人事から民主的な組織への転換に成功したともいえるが、そこには大きな別の派閥抗争(皇道派と統制派の対立)を残した。そしてこの抗争の果てに開戦時の人材として、優秀な能吏であるが、一国の指導者としては”狭い”タイプである東條英機を迎えざるを得なかった。

 陸大エリート達は政治・経済の視野が”狭い”という指摘がなされる。その理由としては陸大は本質的に参謀教育であり、指導者としての教育機関ではなかったことが挙げられている。また、参謀の暴走を許す組織的な欠陥も抱えていたとする。

 こうした状況下で「昭和の陸軍は、持久戦をやるのか、短期決戦でいくのかという戦争を基本的なポリシーを確立しないまま、昭和十六年の開戦へなだれこんでしまった。そのため戦争の末期にいたっても、玉砕覚悟の突撃と、栗林(引用者注:硫黄島の戦いの指揮官であり名将としての評価がある)のように耐えて相手の出血を強要するという戦術が混在している。これは陸軍の作戦指導が一貫していなかったことを意味しています」(p.78 黒野の発言)とされる悲劇を生んだ。

 陸軍は200万人の人間を抱え徴兵制のもとで男性は皆そこに属する可能性のある巨大な組織であった。こうした組織が藩閥人事を脱却して民主的運営を意図したが、官僚的なエリートによって結果的に道を誤らせてしまう。

 戸部は「昭和の軍隊の逆説」(p.24)と呼び、福田は「デモクラシーの軍隊が抱える矛盾を、昭和の陸軍は最後まで克服できなかった」(p.25)と指摘している。

昭和の軍隊の逆説かもしれませんね。軍隊は、その将校の出身階層が民主的になると政治的になる、という説もあるくらいです。平民出身の将校ほど天皇を持ち出して、独善的にあらぬ方向に進んでいくような印象もある。

半藤一利他「昭和陸海軍の失敗 彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか」(文春新書)p.24 戸部の発言

 一方より小規模であった海軍はどうだったのか。

 陸軍と比較して小規模な組織であったが、いわゆる将校と一般兵の間の待遇差は大きく、文化としても大きく異なっていた。陸軍が民主主義的な性質を持っていたことと対照的に、海軍は階級制に基づくエリート主義が強かった。

 また日露戦争におけるバルチック艦隊撃破などの「成功体験」の過剰な評価や、そうした実践経験に基づく長老支配などが人事制度にあり、内輪意識になってしまい結果的に年功序列・内部の論理優先となったとする。

 また海軍は人員規模に比較して、戦艦をはじめとする物資などが必要であり、相応の予算を必要とする。こうした予算獲得において、陸軍と常に対抗してきた。

 いわば、過去の成功体験に縛られ、仲間意識の強い小規模な組織のため、人材の多様性が少なく硬直した人事システムになり、本来協力するべき陸軍への対抗意識(エリート意識)を常に持った組織であった。

 こうした過去の成功体験に縛られ、それに従って内部の論理が強くなることは、本書で指摘されているように、現代の会社組織などでも見受けられる。

 東郷平八郎のような”神格化された長老”や、伏見宮のような”人事権を持つ名誉職”などの例を、我々は今ここにあっても容易に想像もできてしまう。

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【書評】R.バックホート「目撃者の証言は信頼できるか」人間の知覚と記憶がバイアスによって容易に変換されてしまう心理学的実験例

 R.バックホート「目撃者の証言は信用できるか」(日経サイエンス社)を読んだ。ワンポイントサイエンスシリーズの1冊であり、平易な日本語で科学解説をしたシリーズである。

 著者はニューヨーク州立大学で心理学の研究者。表題の通り、心理学的な観点から、”目撃証言”が状況証拠と同様に客観的証拠たりうるか、という点について否定的な視点から論じている。その理由として、人間の知覚、記憶といったものが能動的な行為であり、それが故にバイアスがかかりやすいとする。

 例えば、端的に以下のように人間の知覚と記憶について述べている。

 ここで人間の知覚と記憶について考えてみよう。コーネル大学のアルリック・ナイサーは次のように断言している。

 「知覚と記憶は、いずれも複写過程ではない」

 ことばを変えれば、知覚と記憶は、その人間の能力、背景、態度、動機、信条の全体と、環境および記憶が再現されるときの手つづきによって大きく影響される「一つの決断過程」である。つまり目撃者とは、テープレコーダーのように一方的に刺激を受けとめ記憶するだけではなく、もっと能動的に知覚し記憶する存在なのである。

 R.バックホート「目撃者の証言は信用できるか」(日経サイエンス社) p.14-p.15

 そうした「人間の能力、背景、態度、動機、信条の全体と、環境および記憶が再現されるときの手つづき」のいったバイアスによって、過去に目撃した内容が事実と相違するかについての心理学実験的な例を著者は紹介している。

・先入観による思い込みの例①:1930年代のハーバード大のブルーナーとポストマンによる研究で、トランプのカードを数秒見せ「スペードのエースは何枚あるか」と回答させる実験。”赤い”スペードのエースが混じっており、スペードのエースは黒い、という先入観から誤った回答をするというもの(p.25)

・先入観による思い込みの例②:ハーバード大のオルポートによる実験で、地下鉄車内で、ややデフォルメされた黒人および白人の二人の男が言い争うイラストを数秒見せる。「剃刀を持っていたのは誰か」という問いに、多くの回答は「黒人」であった。しかし実際に剃刀を持っていたのは「白人」であり、偏見によるバイアスがかかっていたとする(p.27)

・時間とともに変わる記憶:ハーバード大のオルポートによる実験で、不完全な「三角形」(ある一つの辺が途切れている)を見せる。30日後、3ヶ月後にその図形を思い出して描いてもらう。すると、時間が経過するほど完全な三角形を描く回答が多くなる、というもの。「人間は記憶をより論理にかなったものに「修正」しようとする傾向がある」(p.36)

・同調による改変:スワースモア・カレッジのアッシュが1950年代に実施した実験(アッシュの同調実験)。7人の実験者に2本の線を見せ「どちらが短いか」を問う。7人のうち6人は実はサクラで、1人が真の被験者である。6人はあえて間違ったほう、つまり長い方を「短い」と回答した結果、真の被験者もそれに引きずられて長い方を短い、と回答しやすくなるというもの(p.43)これがさらに上司と部下(被験者)のような権威があると更に同調は大きくなる、という例も紹介されている。

 このような我々自身の実感としてもそうであるように、知覚・記憶はバイアスがかかりやすい。こうしたものがデマや風評被害などを引き起こす要因の一つとなっているともいえる。

 また科学による不正行為においても同様の例が挙げられる。

 例えば、統計的データに対して、本来あるべきでないパターンを先入観によって読み取ってしまう”テキサスの狙撃兵の誤謬”や”どこでも効果”などもある(関連記事:【次元の呪い】私が思う「かっこいい科学技術用語」、「響きが面白い科学技術用語」14選【オーマイゴッド粒子】)。

 また、データの解釈にしても、そのコミュニティにおける”権威”により、バイアスがかかる例もある(参考記事:【書評】村松秀「論文捏造」-ベル研究所の世紀の大捏造事件と”発見”の栄誉の正統な帰属とは)。

 こうした客観的なはずの自然科学的な現象の解釈ですらも、人間の知覚や権威が介入することにより、同様の心理的バイアスが存在するのである。

 と言っておきながら、実は自分でも不安になっている。

 この本自体ももっともらしく実験例を挙げているが、そもそもそれが事実なのか?

 「科学者が著者としてクレジットされ、良く知られた出版された本」だから、その内容が信じているだけで、全くの「嘘」かもしれない。その位の仕掛けがあってもおかしくなさそうでもある(考えすぎかな)。

 この記事を書くのも、この著者の「権威」によるバイアスがかかって、先入観的に無条件に信じて良いのかという疑問も抱き、完全ではないが、上記実例は別に存在を確認しておいた(だからと言ってそれでも正しいかと言われると厳しいが)。

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【ラーメン】京都背脂系の「魁力屋 四条烏丸店」で特製醤油九条ネギラーメン

 京都出張の夕食で烏丸駅周辺を歩いていると「魁力屋」を発見。関東でも見かけるが、入ったことはなく初である。

 店内は新型コロナ感染防止対応で、カウンターに距離をおいた形で座る。

 やはり背脂醤油の「特製醤油九条ネギラーメン」の並830円を注文。本当はもっと食べたいが、やはりまだ我慢である。麺の固さは固め、背脂は普通で。

 到着。サイズもちょうどいい感じで嬉しい(ガッツリは最近厳しいのである)。たっぷりの九条ネギと醤油ベースのスープが、硬めの細麺と合って美味い。

 背脂は多めだが、気にならなかった。これで満腹。満足である。

 ただ田舎者の悲しさ、碁盤の目のようになっている京都の道路をどうも90度位相を間違って歩いていたようで近いはずの地下鉄の入り口につかない。結果、道に迷い、もうこうなったらと、タクシーで京都駅に連れて行ってもらったのであった。とほほ。

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立ち飲み屋探訪:石山駅「餃子と唐揚げ専門店 ガッツ石山本舗」–琵琶湖線で降りた昭和の街並みにある元気な立ち飲み

 琵琶湖線石山駅周辺は、今でもルネサスセミコンダクタマニュファクチュアリング(長いな)やローム滋賀などのエレクトロニクス系の企業がある。京阪電車もあったりして比較的賑やかな感じがある。

 ルネサスセミコンダクタマニュファクチュアリングは、いろいろあったが、かつては「関西日本電気」で、NEC系であった。関西日本電気は、PC-6001などでも有名な日本電気ホームエレクトロニクス。かつての最先端デバイスであるラジオ、真空管、ブラウン管などを作っていた会社なのである。

 昭和の時代のNECは結構な繁栄を見せており、この石山周辺もかなり栄えていたようだが、今はどことなく昭和の香りが漂う街になっている。

 2020年5月15日には、ルネサスセミコンダクタマニュファクチュアリング滋賀工場の停止がニュースリリースされており、ますます雰囲気は暗くなりそう。

 そんな中で見つけた立ち飲み屋。京阪電車の踏切を渡り、国道1号線の高架下を潜ると「ガッツ石山本舗」が。

 L字カウンターの小さい店構えに、ドラム缶のテーブルが外に1つ。先客1名であり、密度も問題なさそうなので、入店してみる。カウンタからもフライヤーが見える厨房でマスターが1名でフル回転である。

 まずはチューハイ350円。

 揚げ物が名物のようで、唐揚げは5つで350円、餃子は6つ300円、10個で450円。

 6個餃子を注文。やはりできたて、美味い。満足である。

 ポテサラ150円とチューハイをお代わりし、さくっとフィニッシュである。石山駅の周辺の商人宿チックな雰囲気と小さめの飲み屋街を散策して、静かなビジネスホテルへ戻ったのであった。

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