【書評】森時彦+ファシリテーターの道具研究会「ファシリテーターの道具箱」–「天然モノ」のファシリテーターと「養殖モノ」のファシリテーターの区別を考える

 森時彦+ファシリテーターの道具研究会「ファシリテーターの道具箱」(ダイヤモンド社)を久々に読み返している。

 この本は2008年初版であるが、会議のファシリテートに悩む際に、パラパラと読み返すと、”道具”と呼んでいる様々な会議の活性化・整理のためのツール群(49個ある)があり、今なお新しい気づきを得られる良書である。その中には「ワールドカフェ」なども既に言及されており、先進的な内容である。

 ただ、最初にこの本を入手しようと思ったきっかけは、本書の序章にある「天然モノのファシリテーター」という言葉を見つけたことである。以下引用させていただく。

みなさんの知っている人の中に、こんな人はいませんか?

●その人が入ると、雰囲気が変わり、場が盛り上がる

●その人と話をしていると、明るい気分になり、元気になる

●質問上手で、問われるままに考えていると触発され、やる気が出てくる

ファシリテーションということを知らなくても、このような人たちはいるモノです。日本ではまだ数少ないプロのファシリテーターである青木将幸さんは、こう人たちのことを「天然モノのファシリテーター」と呼んでおられます。天然モノは希少です。養殖しないと、世の中の需要に間に合いません。

森時彦+ファシリテーターの道具研究会「ファシリテーターの道具箱」(ダイヤモンド社) p.2

 「天然モノ」、そして「養殖モノ」という表現、まさにピン!ときたのである。しかし、この表現はここまでで、これ以降はこの分類はあまり出てこない。むしろ「天然モノ」ではなく、訓練するべき「養殖モノ」が必要なツールについての記述がメインになる(それが書籍の目的だから、別に問題はない)。

 実際に、これまでの自分の経験で参加した会議は数多い。職場の会議、集合研修(社外、社内)、相手先での会議など、参加者も多種多様であった。

 成功した会議もあれば、失敗した会議もある。

 感触としては、成功した会議は1%、失敗した会議(その会議があってもなくてもどっちでも良かったという毒にも薬にもならない例も含める)が99%といったところか。

 いや、成功0.1%と表現しても良いかもしれない。1000回に1回くらいの割合であろうか。

 要するに、失敗した会議を繰り返しながら、えっちらおっちらと少しずつ前に進んでいるのが日常のイメージである。

 私が一番失敗例で思い浮かぶのは、ある会社の重要なプロジェクトで若手メンバーが複数部門から横断的に集められ、グループに分けられ、事業拡大のための中期計画を立案する会議に参加した際である。

 ここで、悪い意味で”ファシリテーション”にかぶれた人が、ファシリテーターをやってしまったのである。さらに悪いことに、その人自身が、そのメンバの職位的に最上位、つまり「オーナー」であるという構図。

 つまりファシリテーターが中立な第3者どころか、一番偉い人自らファシリテーション技法を駆使し、それこそ壁全面ホワイトボードでのブレスト、ポストイットを使った会議ごとの友情のアドバイス、マインドマップを使った見える化、アクションアイテムの見える化など、明らかに「道具」だけは先進的、でも、結果的に皆の出てきたアイディアを最後に本人が総括すると「その人の意見」に修正されてしまうという、参加者にとっては悪夢のような会議になったのである。

 オーナーの持つ見えない権力(いくら本人がオープンな意見を、と言っても)による空間支配の中で、従業員のアイディアは萎縮するばかりであり、毎週のように開かれ、議事録だけはキチンと発行されたが、数ヶ月後にはなし崩し的に消滅した。そして、そのオーナーも数年後失脚した。

 またいわゆる集合研修などでの、ある種のバイアスがかかった状態(特に選抜された同じ職位のライバル意識ギラギラ系)における、いつまで経っても溶けないアイスブレイク、我先が先行する気持ち悪い積極性など、こうした事例ではファシリテーターはいるが、あまり役には立っていない。

 こうした経験により、正直言って「ファシリテーション」「ファシリテーター」に良い印象を持っていはいなかったのだが、前述の「天然モノ」「養殖モノ」の表現を見た際に、少し腑に落ちたのである。

 ”あの人は養殖モノ、しかも、紛い物だったのだ”と。

 そして先ほどの文章にあった”その人と話すだけでアイディアがいつの間にか湧き出てくる”という経験、これも確かに自分の経験の中で少ないが、あるのである。そうした人にも少ないがあったことがある。

 その人は、言うなれば「あるスキルにしか特化しておらず、かつ、そのことを自分で理解している人」であった。

 私がテンパって、納期遅れの業務で、一生懸命書類を作っていた。

 この書類も何度も上司に提出しているが「違う。でも、何が違うかを言うと、君のためにならないから」という理由で突っ返されている書類である。

 もう納期というか、当初自分で約束していた納期からは過ぎている。

 まずい。ボクのために全体のスケジュールが狂ってしまう。でも、もう何を直していいかもわからない。直接の上司はただひたすら待っている。もはや聞くにも聞けない。

 こんな状況で、変なオッサンがふらりとボクの机の横に座ってくるのである。その人も自分のラインではないが、そこそこの職位はあるので対応はする。その様子を上司も見つめて「雑談してる場合じゃないだろ」という視線を感じつつ。

 「・・・困ったことがあって」と言う。

 こっちはそれどころではないのだが、雑談に引きずり混まれる。要するに、自分の仕事の愚痴をしたいのであった。

 しかも、結構な毒舌かつゴシップ含みである。

 あの人はバツいちだの、かつて業務で火事を起こして警察署に捕まっただの、とんでもない雑談が入っているのである。その上で、最後にはニヤニヤしながら「どう、君の部署で嫌いなやつは誰よ?上位三位まで上げてみ?」と訳のわからない質問まで、周囲に聞こえよがしにしてくるのである。

 その人の大好物は他人のゴシップとか、他人の喧嘩なのであることは知っていた。それを聞くと、もう犬がよだれを垂らす状態になって「それから、それから?」と物凄い興味を示すのである。更にたちが悪いのは、その情報を受けて、双方に「あいつ気に入らないよな」と立ち回って、焚き付けまでやるのである。そしてそれを本気でゲラゲラ笑っている恐ろしいパーソナリティを持っている人なのである。

 それはそれでまあ、通常であれば、単なる雑談であるのだが、今、ボクの置かれている状況はそんな安穏とした状況ではないのである。そこで他人の悪口を言える訳もない。

 「・・・〇〇さん、彼(ボクの名前)は今ちょっと忙しいので・・」と上司が軽めに注意してくる。「ああごめん、最近暇なんで話相手が欲しかったんでね、ごめんね!」と全く悪びれず去っていく。

 ようやく元の仕事に戻れる。

 しかし、その瞬間、私の中で”全てが整理されていた”。

 そればかりか今テンパっている書類の”正解”が、私の中に保有されていたことが分かったのである。

 そして、それは明らかにその人の会話によって起こった心的変化なのであるが、どう考えてもその会話の実態は「自分の不満」「他人のゴシップ」「何か笑えることはないか」といった、しょうもない会話なのである。その結果が何故か全く関係ない技術的な正解に到達している。

 本人は気づいていないし、ただのフラフラした一匹狼のような「仕事ができなかったら只の協調性の無い人」なのである。その人がメインストリームになることもなく、一介のスペシャリストとして会社人生を終わったはずである。

 しかし、私にとっては、これがファシリテーションの気づきであった。

 まさにこの人は「天然モノ」であった。

 どうでも良い自分の愚痴で私をリラックス(アイスブレイク)させ、今置かれている課題を客観的な課題に置き換え、その上で、全く関係ない他人のゴシップエピソードの羅列の中で、ブレインストーミングをさせて、私の中で埋もれていた回答を「私に」出させたのである。技術的ヒントも、ゴシップに紛れて人に属する技術として本質的かつ体系的に伝えてくれていた。

 「養殖モノ」と「天然モノ」の、この違い。

 そして「天然モノ」の持つ凄さ。彼らは自分がファシリテーションしている自覚すらないのである。つまりその存在自体、彼らにとっては不要なスキル、つまりファシリテーション自体が血肉化されており、もはやその名前で呼ばれることのない到達点にいるのである。

 しかし、そうした逆説的な状態、それが最もファシリテーター、あるいはコンサルタントの真の到達点なのだと思う。

 「コンサルなんて要らなかった、自分たちで全部正解を導いた」とクライアントに”本気で”思わせることが、本当のコンサルの極意なのである。

 これと同じことが「天然モノ」ファシリテーターには言える。

 それが故に、「天然モノ」は文字化された形では顕在化されないのである。

Share