業務の棚卸をして業務の引き算をさせて部下の思考する時間を増やそうと思ったら、業務を極限まで引き伸ばす”金箔職人”あるいは”ピザ職人”を誕生させてしまった

ロジカルな思考を体得することは、人によっては意外と難しいもののようだ。労働集約あるいは役務提供的でない「知的」業務においては、与えられた前提条件から分析や調査を行い、ロジックを作り出すことが求められる。

これが意外なことに、人によっては非常に難しいことのようなのである。

 単純に例えると、「炭素と酸素を反応させたら二酸化炭素ができる」という言い方がある。これは「炭素と酸素を反応させたら一酸化炭素ができる」という言い方もある。しかし「炭素と酸素を反応させたら、水素ができる」というのは誤りである。

求めているのは、炭素と酸素を使って、何ができるかを何パターンか考えること。そして、その先には、より効果が高い生成物はどっちなのか?という議論をしたい。だが、そうした議論を求めているコミュニティのルールを無視して(ここでは自然科学を無視して)一人だけ「いや、水素もできるかもしれないのでは?」とか「さらに、臭素もできるかもしれない」とか、さらには「私の考える未知の分子ができる」といういわば思いつきを、ひたすら考えてしまう人もいるのである(なお、この例えは”実は核種転換ができるのでは”といったルール自体をメタ的に考えることも許容すべきという反論がありそうだが、ここではロジックの例えとして化学反応を挙げただけなので注意されたい)

そして、その人たちへの説得は非常に難しい。本人も、自身のアウトプットが求めるものと異なると繰り返し注意され、肝心の求められているものをいつまでも提供できず困っているし、マネジメント側も彼らにどのような形で指示してもルールが理解されないことで消耗する。このような場合、結局は「本人の適性」のような言葉で「交代させるか」と片づけられてしまうことが多いのではないか。

今回はこうしたマネージャと部下が、求められるものと提供するもののミスマッチを起こした場合に陥る一つの事例を挙げてみたい。

 それは「部下が業務に煮詰まっていると判断して、業務量を削減して思考する時間を増やそうとしても、アウトプットの質の上昇にはつながらない」ということである。

これは「業務量をこなすことで質が上がる」という経験則と反する(いわゆる量から質への転換)。

もちろん全ての事例がそうではないが、マネジメントの立場でこうした「思考の業務」「ロジックの注文」に対して煮詰まっている部下に対峙し、その課題を分析すると

 ①業務量が多い

 ②業務量の中身に占める、正味の思考する時間が少なく、雑務のような役務が多い

という要因に帰着することが多い。つまり「正味思考時間の不足」が原因でアウトプットが出ないと両者で合意するケースがある。

それが多くの場合で誤った判断になり”金箔職人”、”ピザ職人”とあだ名されるサラリーマンを生み出していることを提言したい。

ここで言うマネジメントの本質的な誤りとは何か。

悩んでいる人は思考時間が不足してアウトプットが出ないというケースは実は少ない、ということである。

多くのケースでは深層心理的に、思考より役務の方を優先したくなるというバイアスが働く。つまり頭を働かすことより、体を動かした方が、仕事をした感は高く感じるのは人間の感覚として間違いとはいえない。しかし、その前提を自覚せぬまま、業務負荷を削減して空き時間を増やしたとしても、当事者はその空いた時間に思考時間を増やすとは限らないのである。

その結果、いくらマネージャが部下の業務を棚卸しして負荷を低減してあげても、一向に業務の質は変わらないという事象が発生する。いわば、ムダ取りをして確保した時間に、またムダな業務を入れてしまうのだ。

 しかし、それでも根気よく部下の業務の引き算を続けていくことで、ついにはほとんど雑用や役務業務がなくなるに近い状態にまで持っていくケースもある。

 そうすればようやく質が上がるのかというと、否である。

今度は「あえて役務を引き寄せてくる」という現象が起こる。進んで役務をもらってきてしまい、やはり「思考する時間が増えない」ように見えるのだ。

さらに業務を強力にグリップして、「他はやらんでいい、頼むからこれだけをやってくれ」という純度100%な状態、つまり部下に対して思考時間を100%に近づけた場合、どうなるか。

 今度はその業務を引き伸ばし始めるのである。

このあたりから”ピザ職人”のような生地を伸ばして、いわばわずかに残る小さい業務を薄く長く引き伸ばす行為になってくる。本人も気づいていないが、思考する業務の中の役務的要素(調査とか)を引き伸ばすようになるのである。

 それをさらに極限まで押し進めると、もはや職人の域に達し、常識では瞬時に終わりそうな業務を徹底的に引き伸ばしている金箔職人が誕生してしまうのである。決定せず意見集約を引きずる行為や、ダラダラとして調査名目で時間を引き伸ばす。そしてやはり本質的な思考の時間は短いままで、質の向上にはつながらないのである。

これはマネジメントの問題であり、本質的には「思考のやり方」を教えるべきであり、業務量配分というマネジメントに解釈してしまったことが誤りなのであろう。しかし、パッとみた感じでは「うーん、これじゃ論理的につながらないよね?なんで?」→「時間がなくて」→「じゃあ、少し業務配分を考えるか」という一見、間違っていないような交渉になっている。

「時間がなくて」という言い訳は非常に便利である。優先順位をつけろ、という議論を回避して、「時間がなくて」=「時間さえあれば目的のものはできる」という前提がある印象を与えるからだ。実は、その前提は既に崩れており、そのことにマネジメント側が気づいていない場合”金箔職人”を産んでしまうのであろう。

そして冒頭に戻るが、この前提とは何か。

要するに「アウトプットはロジカルであること」である。

論理的思考というものは敢えて言わずとも、無言の前提と考えられがちであるが、実は多くの人間においてそうではない。数打ちゃ当たる方式の思考をしている人間は実は多い。これは試行回数=時間に比例するので、確かにアウトプットの質が悪いことの言い訳としては「時間がない」のは正しいのである。弾を打つ時間が足りないということだ。しかし、本来論理的思考をこのスタイルで実行するのは無理があるし、そこには応用性も拡張性もない。論理的な導出プロセスも顕在化されない。つまり仮に当たりが出たとしても、本人もその導出過程を説明できないし次に活かせないのである。

昨今は、ホワイトカラーの生産性向上と叫ばれているが、ホワイトカラーであるからこそ役務提供=労働集約的な業務をしていない、とは限らないのである。実は脳みその中で、労働集約型の思考をしている人々は多くいる。この転換を図らない限り、それこそ「知的労働っぽい労働集約作業」としてAIに奪われる業務になってしまうであろう。

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2023年スタート!変化に無意識に抵抗する人々を解放することが最後まで残る課題っぽい

 2023年も始まった。昨年大晦日にほとんど問題意識は書いてしまったが、「組織の中で新しいことをゼロから開始する」ということは非常に難しい。

 確かに理想的には、トップが意思決定し、そこに向けて下部組織にその実行を落とす。全体最適というポリシーの中で、各部門にとっても何も異論はないはずである。個別最適よりも全体最適の方が良いし、全体の方針に個々が従う、というのは組織論の大原則であって、誰も反対のしようがないド正論であるからだ。

 では、トップの一声で、組織内の個々の場面で、シームレスかつスムーズに適用されるものなのか?と問われた場合、現実的には「全くそんなことはない」のである。水飴の中で泳ぐような巨大な粘性抵抗があるのだ。

 人間が持つ無意識的な「現状維持バイアス」=変化に対する抵抗力というものは、非常に厄介なものである。口では「そうそう、君のいう通り」と言っても、実際にとる行動は全く異なり、なおかつ実行している本人もその矛盾に気づいていない、ということすら多々ある。

 皆が全体の方針に従うことで、調和のある形で進むのが理想であるし、美しい。言語として表現するだけであれば、単純であり、むしろ論理的な正しさを用いて全て記述できてしまう。

 そして実際にはそのように運ばない。

 いざ実行という局面になると、その動的な場面場面における複雑な「計算(打算)」が働き、やはり基本的には「様子見戦略」が最も個々の行動決定で最適になるようなのだ。つまり「当初は何もしない」そして「動きを見て後発で追従」そして「多数派が形成されたら全力で走る」という行動をとるものが多くなっていくのである。

 そこに加えて、人間としての「感情」の問題も考慮されるので、非常に厄介なのである。

 昨日の記事で書いたように、攻撃力だけがあったとしても、組織力が伴っていない場合、やはり孤立し消耗して結果としては敗北に終わる。兵站線を作るためには団体戦に移行しなくてはいけない。だが、団体戦に移行するためには、上記のような、組織論において単純ではない問題を孕むのである。

 とはいえ、この問題の解決は非常に難しい。おそらく汎用的な方法論もないであろう。

 日本電産の永守会長が、昨年の後継者問題のドタバタで「親分子分」という言い方をして世間ではアナクロだと批判されているが、やはりこの問題を最初に突破する手段としては「自分のいうことを基本的に無条件に信奉する子分」を作るという方法論が効果的だとは思う。そして、それは全くもって現代的でないことも事実である。

 現代組織の中で親分子分関係を作ることは非常に難しい(反社は除く)。かつて親分が子分にその忠誠と引き換えに提供できるとしていた「価値」も、今やコンプライアンスにほとんど引っかかってしまう。

 従ってこの「フォロワーを作る」ということが非常に難しい。

 親分子分であれば”この人についていく”であるが、これは使えないので、個人が人ではなく”何か”についていくようにするしかないであろう。自らの意思と思考で”これについていく”と強く決断しなくてはいけない(あるいはさせなくてはならない)。

 そしてその決断には、上位からの誘導や圧力があってはいけないのである。なかなかの無理ゲーであるが、今年はこんなことを考えつつトライして、サバイバルしていこうと思っているのである。

 昨日の大晦日に読んだナダル「いい人でいる必要なんてない」。コロチキのYouTubeはチャンネル登録して時々見ており、ナダルのエピソードは結構知識はある。ナダルという芸人の人格の中には、人間としての成熟さとサイコパスが混在しており、共感できそうでできない、という不思議な人格なのだ。この本を読んでもやはりその印象は変わらず。ただ、現代のサラリーマンには「刺さる」部分は確かにありそうである。

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カオスな2022年も終了した…勝負はまだつかず

 激動の2022年も終わりつつある。肉体的にもハードだった。昨年から、職場環境が大きく変わり、”ゼロから1を作り出す”ために目まぐるしく動き続けた1年であった。

 全く新しい出会いもあったし、新たな発見もあった。生活において、クライアントとサーバというか、顧客(お金を出す側)と提供者(お金をもらう側)の複雑さを身をもって学んだ。

 これは単純に言うと、ビジネスを含めた日々の生活の中で「顧客」と「提供者」の関係は固定ではなく、立場によって変化する関係性も持っている、という至極当たり前のことをあらためてしみじみと理解したのである。

 要するにお金の流れ的に「顧客」サイドは常に強いわけであるが、別の側面からは「顧客」ではなく「提供者」になることもある。単純には、我々は時にはお客様ポジションになるし、時にはお客様にモノやサービスを提供するポジションになる、ということである。

 当たり前のことだが、実は大きな組織にいると、このことに気づかないことが多いのだ。

 例えば調達部門にいる限り、常に「顧客」である立場で仕事をし続けることになる。また営業部門にいる限り常に「提供者」であるポジションである。法人を一つの人格と捉えれば当然、モノを買う立場では「顧客」、製品を売る立場では「提供者」となり、場面によってその立場は変わるわけだが、これが団体組織の中にいるとあまり理解できなかったのだ。このことが身に染みて経験できた。

 確かに「後工程はお客様」というフレーズもある。自分は結局実感できていなかったのだな、という反省もある。

 スタートアップの経営者などからは何を今更、という印象だろうが、「経験」で理解することは重要であった。それと同時に「顧客」というものが絶対的ではなく、いわば価値を巡る交渉の上に築かれる変動的な関係だったということも理解できた。要するに「顧客」と「提供者」の関係は、必ずしも王様と奴隷のような絶対的関係ではない(そう考えがちだが)ということも理解できたのだ。

 自らを振り返ると、あまり人前にも出たくないし、見ず知らずの他人と関係を作るのは苦手である。また思考するのは比較的好きだが、情報を集めるのはあまり好きではない。こんな状態であるが、今年1年は必要に迫られて、新しい業界や領域の情報を集め、そうした関係者との人脈を作る必要に迫られた。加えて、いわゆるGive&Takeで言うと、こちらがGiveできるものがない状態であり、交渉において取引材料も少ない。武器もないのに敵の領土を占領してこい、と言われているようなものなのである。

 無課金状態でゲームクリアしなくてはいけないような無理ゲープレイ状態とも言えるが、それでもなんとか今年は生き残ることができた。

 さきにスタートアップという表現を使ったが、まさにスタートアップのような少人数組織がもつ優位性とは、俊敏に分析、開発、意思決定のPDCAサイクルを高速に回すことだと思う。やはり大組織ではこんなことは不可能なのである。それと引き換えに少人数組織では、やはりリソースとしての「人」の問題もある。人材流動が激しいというのも、やはりこうしたサバイバル環境に耐えうる「素質」のようなものがある人間しか、やっていけないという事情もあるのではないか。

 要するに、初期段階というのは、その問題意識が尖っているため味方が増えず団体戦になりにくい。これは生き残るための攻撃力の増強が難しいということである。頻繁に方針も転換しなくてはいけないし、そのためには身軽である必要もある(そもそも方針転換についてこれないメンバーも出てくるはず)。

 なので、初期段階というものはえてして1点突破型の手法になりやすい。繰り返しになるが、壁を破って何か新しい価値を創造するには、既存の状況を「突破」しなくてはいけない。その突破力を高めるためには、尖った問題意識を集中させることだけで”アリのひと穴”を開けるしか手段はない。しかし、これは攻撃が面的にならないのでリソースの活用において効率が悪いという問題を抱えているのだ。

 そこで、来年の目標は攻撃力を上げることである。そのためには自分以外の味方を増やさなくてはいけない。だが、そこには「取引」がある。有形無形の何かを取引することによって、味方も参加してくるのは当然のことである。何を取引すべきか。ここが悩ましいのである。

除夜の鐘 吾が身の奈落 より聞ゆ

山口誓子

  

 

 

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就活学生に向けた講演骨子の作成依頼に対するゴーストライト成果物を公開するーお題「学生時代の勉強は社会で役立つか?」

 先日、ある技術者から就活生(理系)向けに、「大学時代の勉強は、社会でに役立つか?」という講演をする必要があり、資料の骨子を作ってくれないかという依頼を受けた。

 正直なところ企画部門の仕事をしているとゴーストライト的な業務は結構ある。要するに会社や経営サイドの意思を自分に憑依させて(既に決定されている会社の意思を代表して)スピーチ原稿なりを作るということは良くあることなのだ。

 今回もそれに近いものの、業務ではないし特に憑依させるべき人格はいないので、軽い気持ちで、できるだけ汎用的に使えるものを作ることにした。

 休日の1時間ばかりで作成して納品したものが以下である。特に独占的排他的な権利は設定していないので、ここに公開する次第である。実際のところコピペを否定している文章なので、それはそれで再利用することも難しそうであるが。

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「大学時代の勉強は、社会で役立つか?」

結論を先に述べると「直接役立つことはない」でしょう。

稀に大学での研究テーマがそのまま配属された企業の研究テーマになるケースもありますが、それはあくまで特殊なケースです。

例えば学位を持っていてその専門性を企業とマッチングした方や、その企業と大学が産学連携などをしている場合にはそうしたケースがあるのですが、多く場合はそうではありません。

皆さんの多くは、就職後各部門に配属され、さまざまな業務を経験しながら、社会人としての長いキャリアを積んでいくことになります。当たり前のことですが社会人として仕事をして、その対価をもらう。そうした生活をこれから長い人生で続けて行かなくてはなりません。

いま、キャリアといいましたようにそれぞれ自分の道筋があるでしょう。最初は新人ですが次第に独り立ちし、キャリアを積み重ねて、今度はより上位な立場で組織を指揮する立場に変わっていく人もいるでしょうし、専門性を追求する人もいるでしょう。ある段階で全く異なる道を選ぶ方もいるでしょう。

各自同じ道筋ではなく、それぞれの皆さんの生き方、適性、企業の経営状況など内的外的要因によって変わってきます。全て同じような良いキャリアがあるわけではありません。100人いたら100人の社会人としてのキャリアがあり、自分自身のキャリアプランがあると思います。

さて、翻って社会人、企業において「仕事をする」ということは、これまでの学生生活と何か違いがあるのでしょうか?

そう考えてみると、一つ思うのは、社会人の生活では自らの「価値」を考えていく必要がある、ということです。学生生活の授業やゼミ、研究は、あくまで学問の世界です。そして皆さんはその学問を「学ぶ」立場でした。企業でキャリアを積むということには、「学ぶ」ということも当然含まれますが、大きな違いは「学びながら、価値を生み出さなければいけない」ということだと思います。

この「価値」とは直接的には「利益」という生々しい形で、要するに(比較的目先の目線で)「お金を生み出す」という側面を持っています。それはどういった意味があるのでしょうか?単純に皆さんのお給料を生み出す行為でしょうか?それだけではなく、企業活動において、価値を生み出さければ企業活動は存続できません。赤字を出せば法人税も納められず、社会に存在していながら、その社会に対して何ら価値を生み出さないことになってしまうのです。つまり、企業とは組織的に価値を生み出し続けなくてはならない存在だと言えます。そのために、価値を生み出す組織を作る、そのためにも新人を採用していくのです。そこで皆さんの世代もまた、企業に入っていくのです。

ここで「価値」ということを申し上げました。これは非常に漠然としています。では、それをどうやって作り出すのか、を考えてみましょう。

例えば、簡単なことで最近のロボットやAIを考えてみると良いでしょう。

ロボットやAIにより、人間の単純作業が奪われる、というディストピアめいた話題が最近ありますね。

ただ、これはロボットを開発し、製造したコストに対して現在作業している人間が生み出す価値を比較した結果、前者の方がより安くつく場合に「奪われる」ことになります。人件費よりロボットの方が安いし、より正確(かつ疲れない)だということを判断した結果ですね。

企業でもそうです。皆さん一人一人が、自分が業務によって付加価値を生み出すことを求められてきます。

仮にいつまでも付加価値を生み出せないとすると、それはお互い不幸なことになりますね。

で、そこで今回のテーマである「学生時代の勉強」を思い出してください。

大学で皆さんが学んだ学問には体系があり、原理から法則へと、普遍的な論理的構成になっていました。皆さんは学問の基礎を学び、それを研究テーマとしてまとめてきました。先人の知見を理解し、その上で仮説をつくり、検証してきたはずです。個々のその内容は様々ですが、そこには「論理的思考」があったと思います。

企業において業務をする際にも重要なことは、この「論理的思考」です。

学生の勉強が社会でどう活かせるか?と問われると、まさにこの「論理的思考」であるといえます。

「論理的思考」は企業活動の様々な場面で使われ、それをうまく使える人とそれをうまく使えない人には差が出ます。

「価値」を生み出すこと、の一面は、論理的な思考を使って課題に対するより良い答えを出す、ということとも言えます。

なぜか。

組織は一般的に団体戦です。つまり個人の力を組合せて大きな組織力として発現することが必要です。もちろん個人で組織に匹敵する成果を出す人もいますが、多くありませんし個人としても消耗します。

そこで、組織の中で個人と個人が交渉する、組織と個人が交渉する、組織と組織が交渉する、企業と企業が交渉する、企業と行政が交渉する、企業と消費者が交渉する、こうした広い意味での当事者間の「交渉」によって、個人や組織がコミュニケーションをとり、利害調整をした結果として組織としての合意となり、成果に繋がります。

その根底にあり他者や他組織を接着する役割が「論理的思考」です。

論理的に破綻している主張には人々は共感しません。

他人を、あるいは、組織を、あるいは、社会を動かすためには「論理」の筋道が通っていることが必要です。自分以外の他者を動かすためには、論理的整合が必須なのです。もちろん「権力」もありますが、それだけではない、という話です。

こうした首尾一貫した論理的に正しい思考、そしてそれを表現することが、これからの皆さんの社会的活動にとって重要になってきます。

そしてその基礎はすでに身についているでしょう。

ただし、蛇足として注意しておきますが、この論理的思考というのは決してコピペやパクリでは身につかないものです。

ただし、一見論理的思考のような一例をコピペして、その場をしのぐこともできてしまいます。

しかし、そのロジックの前提条件が変わったらどうするか?と問われた場合、論理で導出した場合には解答の修正ができますが、コピペで出した回答ではすぐに対応できないのです。

コピペ元を探して彷徨う人は企業の中で残念ながらたくさんいます。

前提条件が変わったら、その論理によって違ったストーリー、違った結論になります。そのストーリーをつくるのは自分の頭で考えないと無理です。決してコピペやパクリ(他人の受け売り)では小手先の対応で終わります。そうした「見掛け倒し」は、社会ではすぐにメッキが剥がれてしまいます。

どうか皆さんには、論理的思考をこれからも生かして社会人としてキャリアを積んで行って欲しいと思います。

その基礎は、皆さん各自がこれまでの大学での勉強で学んだエッセンスとして持っているはずです。

ぜひ、それを自分の本当のスキルとして磨き、血肉としてください。

そうすれば、きっと皆さんの社会生活も豊かに、価値あるものになるでしょう。

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他人に裏切られる、ということ。特に技術者の場合

 このところ気分が落ち込んでいる。主な原因の一つは、ある遠いところで今も進行している、ある一つの事態であることは分かっている。

 この事態は現在進行形であるが故に直接的には書くことができない。

 しかしながら、自分の今の感情を整理する意味でも、少し書き始めておきたいと思う。

 ディテールは敢えて事実とは異なるように改変したりボカしているが、事態の構図は事実である。

 事の起こりは8年前のことである。

 ある会社と、ある技術について、共同開発を開始した。もう少し詳しく書くと、その会社の製品を対象とした製造技術について、共同で検討をするプロジェクトを開始したのである。

 1年程度の技術検討の結果、ある成果が出た。

 我々が既に持つある特定技術を応用することで、その会社の製品設計品質が向上でき、結果コストダウンができることがわかったのである。

 つまり、我々の持つ先行技術や知見を水平的に応用することになるので、実行スキームとしては、我々の保有技術をその会社へ移転させることになる。

 その会社が、我々の技術を使うことにより儲けることができるようになる訳で、私自身は満足であった。

 達成感もあった。

 向こうの担当者には我々の技術を惜しむことなくオープンに提供した。

 いくつかの技術的な専門書も個人的に貸与したりした。

 それからしばらくしてのことである。

 製造業のIT系webマガジンに、一つの記事が掲載されているのを偶然見つけたのである。

 その記事ではその担当者が実名で、その技術について比較的大きな会議のスピーカーとして語っていた。

 そして、その報告された技術とは、まさに共同で我々と共同で進めていた内容そのものであったのである。

 一応本人なりに機密は考慮しているのか、我々の製品固有の情報については一切語っていない。

 だが、その考慮の結果として我々を登場させることなく開発ストーリーを進めたことにより、登場人物は報告者自身だけになる。必然的な結果として、あたかも報告者ひとりでその技術が製品応用できることを発見し、課題解決したような形で語っていることになってしまっている。そして、あろうことか、解決手段として我々が実際に使ったものとは異なるある特定会社のITツールを利用したという展開になってしまっているのである。

 いわば事実と異なることを、公の場で語っていたのだ。

 目を疑った。

 そもそも設計・製造技術とはノウハウも含め、企業の成長力の源泉であり、いくら学術的な内容であっても簡単にオープンにしてはいけないはずである。

 もちろん、こちらに発表の事前打診もない(あったら当然止めていたが)。こちらも迂闊にも信頼関係がある(同じ資本関係のグループ会社のため)と考え、厳密な縛りのある機密保持契約を結んではいなかったのは、完全にこちらの落ち度であった。

 リーガル的な意味で、契約上の機密保持違反には問えないとしても、なお残る問題もある。

 それは大きく2つある。

 ①せっかくの技術的成果を無償で公開していること。わざわざ苦労して発見した製造ノウハウに属する内容を、敢えて早々に世の中に発表しなくていいじゃない。ライバル会社も見ることができる状況で、簡単にそれを公知化して、世の中に広めてしまうことについて。これは彼の所属する会社にとっての利益相反行為ではないのかと。

 ②事実と異なること、いわば「捏造」行為があること。自分が独力で実行したとする記事の表現は完全に事実と異なる。何故なら、それは彼に我々が教えたからである。さらに加えて、特定のITツールを手段として援用した事実も異なっている。今回の結果は、我々が保有していた別のツールによる解析結果である。だが、なぜ彼がそのツールを使ったと語る必要があったのか。その理由はただ一つ。その実際には使っていないが使ったとするツールを作っている企業が、彼がスピーカーとなった会議のメインスポンサーだからであろう。

 正直どっと疲れが出たし、裏切られた、と思った。

 しかし、私は静観した。

 正直どうしていいかわからなかったと言ってもいい。

 その技術応用について、第一発見者である「名誉」を奪われたことは、実はあまり気にしていない。

 むしろ一番悲しかったのは、自分の実力でないことを、自分の実力であるように語る技術者が世の中にいる、そしてその記事がwebで一般公開される結果、関係者である我々の目に止まった際に、我々がどのような感情を持つかすら想像できない技術者が少なくともこの世の中には一人いる、という事実であった。

 我々は甘かったのか。

 性善説に立つべきではなかったのであろうか。

 だが、仮に、彼がそれで技術者として名をあげたとしても私自身は何も感情が動かないであろう。

 なぜなら、彼の実力はこちらが良く理解しているのである。そんな付け焼き刃のメッキは技術の世界ではすぐに剥がれることを知っている。

 技術の世界は甘くないのだ。

 そして、この発表を皮切りに、彼は複数のメディアで同様の報告をしだした。

 専門家気取りである。

 しかし、未だに彼とその会社からの正式な連絡はない。

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【こだまでしょうか】会議のプレゼン時に発生する「やまびこ現象」「こだま現象」「バックコーラス」の存在について【ヘイヘイホー】

 ビジネスシーンの会議室。

 ここ一番のプレゼンなどで、緊張しつつ喋っていると、後ろの方から聞こえてくる「やまびこ」の存在について論じてみたい。

 登山とビジネスシーンは異なる。そもそも会議室は音声が反響するような作りにはなっていない。ではなぜ、こんなことが起こるのか。

 かつて、こんな「やまびこ」の経験がある。

 私が従事していたチームに、後から入ってきた「先輩」がいた。年齢、経験、地位いずれも私より上である。ただしそのチームはプロジェクト的なタスクフォースだったので、直接ラインとしての上司部下ではなかった(いわゆる評価権はないパターンの”上司”である)

 私はそのチームで既に3年くらい従事しており、その「先輩」は、別の部署でキャリアがあり、リソース増強もあって入ってきたメンバーであった。

 加入当初にはこちらから資料を作成し、状況などを説明する場面を設け、本人も「ふんふん、なるほど」と素直に聞いてくれていた。

 だが、一抹の不安もあったのだ。この業務が少々特殊な面があり、技術的にマニアックな部分を理解していないと完結できない要素が含まれている。どうもわかっているとは言い難い。だが、それは本人のスキルの問題だし、もっといえば上の人間はある意味ディテール全て知る必要もない、という考え方もある。そこはただの不安であったのだ。

 そして、ある会議の席でそれは起こった。

 私が少々難しい局面の説明をしている際のこと。

 私「ここで、〇〇からこんな主張があり」

 私「それを受けてこちらで検討した結果、▲▲▲という技術で対応できるのではないかと判断し」

 とテンポを持って偉い人にプレゼンをする。

 ?「▲▲▲!▲▲▲ね!」

 私「?・・・で、予備検討を技術部門にしてもらいました、その結果がこのグラフです。予想通り□□□□現象を低減できており、予想が正しいことが検証できたと思います」

 ?「そうそう!□□□□現象!」

 ・・・後方から、「やまびこ」が聞こえるのである。

 それが「やまびこ」である証拠にこちらが沈黙すると「・・・・」と「やまびこ」は消える。そして再び話し出すと、また”こだまがかえる”のである。

 要するに、先輩が固有名詞をホストの合いの手のような感じで繰り返していたのだ。

 私「え〜まとめますと、我々の開発した■■■を提案しようと思います」

 先輩「そうそう!■■■ね!■■■ね!」

 流石に何か言いたいことがあるのかと思い、

 私「じゃ、ここから(先輩)さん、説明を代わりに引き継ぎますか?」

 すると先輩は、ニヤニヤしながら両手を振って「いやいやいやいや」と拒否。

 本人は意図があってやっていると思うが、そこに新しい情報もないので、ただのノイズでもあり聞きづらいだけのバックコーラスになっている。またこちらのプレゼンの隙間に無理くり入れてくるので、当初のテンポやリズムも狂うので、誰にとっても何一つ良いことはない行為なのである。

 結局これは何だったのであろうか。いっこく堂を二人でやったおかしなパフォーマンスにもなっているし、考えてみて、以下のような結論に至った。

 要するに「理解できていないが、俺は仕事をしているぞ」アピールなのだと。

 チームには自分も参加しており、もっといえばそのプレゼンで暗示的にマウントを取りたいという上へのアピールの結果なのだと。最大の問題はさらに本人も中身を理解できない劣等感があり、それをこのような「やまびこ」で解決しようとしたと思われる。だが、そのあまりの露骨さにそれは奏功していないのは明白であった。

 こちらもこのままだとプレゼンそのものの価値が落ちるので、まずは早急にその先輩の「成果」を手取り早く作ってあげることにした。つまり、彼の深層心理は「俺の成果がないじゃないか」という不満でもあるのだ。それを作ったことにより「やまびこ」は消えたが、どうやらこれがこの人のキャリアの基本スタイルらしく、そのうち消えていった。やはり人生甘くないのである。 

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我々の世界は本当に「循環経済」に向かうつもりなのだろうか?ただのポーズなのでは?–年末年始の牛乳消費呼びかけについて思った「個別最適」が大好きな人々のこと

 2021年の年末に少しだけニュースになった出来事があった。

 それは「年末年始に牛乳の消費量が下がるため、消費者ができるだけ消費してほしい」という呼びかけである。

 例えば、こんな記事もある。

 例えば「牛乳飲んで! 大臣が消費呼びかけ 生乳5000トン大量廃棄のおそれ」(FNNプライムオンライン/2021年12月17日)などである。

 その背景として上記サイトから引用する。

2021年は、夏場の気温が低く、牛の乳の出が良かったことで生乳の生産量が増える一方、感染拡大の影響で牛乳や乳製品の消費が落ち込んでいる。

保存がきくバターなどの加工品の製造もフル稼働で行われているものの、生乳をさばききれなくなっているという。

 これはこれで一つのナマモノの生産-消費の問題であろう。もっと言えばサプライチェーンにおいてボトルネックが存在することを示唆している。

 上記の報道に関連して複数のサイトなどで「保存の効くもの(例:バターやヨーグルト)の生産を増やせないのか」という指摘もある。これはこれで単純にはそうだが、実際にはサプライチェーンの問題なのでできない事情もあるのだろうな、と思っていた。

 この問題はフードロスなどの課題や、もっと端的には「もったいない」という感情的な問題も孕んでおり、そう簡単にはスッキリしていないようだ。

 やはり業界団体からは、こうした批判を避ける意味でも、反論記事が出ている。

 例えば「「余った生乳5000トンはバターにすれば廃棄せずに済むのに」乳業業界の回答とは?」「生乳5000トン廃棄問題、「みんなで飲む」より根本的な解決法とは」などである。

 既存サプライチェーンの処理量増加には諸問題がある(設備投資やリードタイム)ので、十分対策は打った上で、消費を増やして欲しい、というお願いなんですよ、という「説明」である。これはこれで事情としては理解はできる。

 ただ、それでもなお、私自身は釈然としないものがある。

 つまりこれらの主張全てに通じて言えることは、いわゆる「循環経済」の思考が欠落しており、部分最適な主張に止まっているということである。先進的なEUの動きを受けて、日本でもようやく「循環経済」が推進されている。これは、従来の大量生産、大量消費の一方向(動脈生産と言われる)な生産ー消費だけでなく、還流側(リサイクル、リユースなど)の思考を入れた静脈生産を実現する、というものである。日本でも経済産業省が「循環経済ビジョン2020」でこうした新たな産業の転換を提唱している。

 これをサプライチェーンに置き換えると、循環的なサプライチェーンにおいて、エネルギー最小化(=持続性を最大化)した制約条件の下で、最適化を動的に行うこと、と理解できる。要するに、これすなわち「スマート社会の実現」であろう。これはエモーショナルな「もったいない」ではなく、持続性を最大化するために、全体最適解を実行する、ということに他ならない。

 しかしながら、この牛乳廃棄をめぐる主張にはこうした意思とは全く逆行したものばかりが横行しているように思える。

 「もったいないので牛乳を飲んでくれ」という、特定商品について消費者に扇動的な形で負荷を押し付けるようなメッセージや、「業界は全てやることをやっている」という個別最適を実行したら責任がなくなるかのような自分本位の思考。さらには「牛乳の他の用途を考えるべき」みたいな消費拡大に全てを押し付ける単純思考。

 もしも「循環経済」を本当に実現したい、と考えるのであれば「全体最適解」を探すべきであり、そうした論調が見られないことに不思議な思いにとらわれている。

 特定商品の消費を、その都度の理由で扇動的にメッセージする意味は、今後も同様な事例においても同じことを繰り返すことを意味している。「〇〇が余ったので、今度はこれを消費してくれ」「次はこれ」といった、消費者を消費する機能としてしか使役しない感情すら垣間見える。

 業界団体は「自分たちは120%努力しているので、これ以上何をしろと?」という論調のみである。

 要するに当事者意識不在の状況の中で、一番単純な「消費」に全ての調整弁を押し付けるようなこの動き自体は、「循環経済」とは真っ向から矛盾していると思う。全体最適解は確かに苦しいことではある。感情論とは全く異なる解が最適である可能性もあるのだ。だが、それこそが、単なる「もったいない」からより高次な「持続性」へと探求する道筋であろう。

 こうした分裂的な主張が横行する中で、果たして我々は「循環経済」に向けて動けるのか、これは所詮ポーズにしか過ぎないのか?

 そもそも「循環経済」ということを目指していない、としてくれるならまだ納得もできるが、そうではないらしい。

 非常に暗い気持ちになるニュースであった。

 

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製造装置メーカやプラントメーカにとって複雑なサプライチェーンを重ね合わされた市場の”潜在ニーズ”を探るために:B2(B ^X )B2C=B2B2B2…B2Cのマーケティングとは

 先日読んだ、稲田将人「経営参謀」(日経ビジネス文庫)は、アパレル市場を舞台として経営戦略をテーマにした小説であるが、そこにおいて製品戦略のためには「マーケティング」が主な手法となることが描かれる。

 アパレルすなわちB2C市場なので、消費者の行動をヒアリングや面談などで聴取し、巧みな質問と分析によって明らかにしていく。これを感心して読んでいた。いわゆる「マーケットイン」の考え方であると理解している。

 ただ、最近のB2BあるいはB2Pと呼ばれているビジネスモデルではどうなのか?という疑問が湧いた。

 最終的には消費者(コンシューマのC)にたどり着くにせよ、その前段にある材料メーカや製造装置メーカなどサプライチェーン上流側にあるメーカにとって、同様にマーケティングをしようとした場合、非常に困難を感じる実感がある。

 特に製造装置メーカなどは、個別受注型モデルを選択することが多く、その結果として中期計画などが個々の顧客の”点”だけの繋がりになってしまう。逐次、中期計画の検証・修正をしようとしても毎年看板を掛け替えるだけになり、要するに行き当たりばったりの計画になってしまうことが多いように思える。

 身も蓋もない言い方をしてしまうと、”御用聞き”にとっては、中期計画も戦略も必要ないし、存在しないのである。

 だが、それでも会社の規模によっては経営企画部門があり、彼らは毎年一生懸命、中期計画や戦略を作ることになる。しかしこれは上記のように毎年無意味な徒労に終わることが多いようだ。

 確かに戦略自体も1次仮説であり、これを小さい範囲でPDCAを回して精度を上げれば良い。「経営参謀」に正しく書かれているように、それは理解している。

 だが、サプライチェーンが多重的に重なり、最終的な「ニーズ」や「進むべき方向」のコアがボカされた結果、目の前には”伝言ゲーム”で作られた、謎に広いニーズだけがある(以下の図式)。

 こんなものを前にして進むべき方向を作れ、と言われても厳しいのも事実なのである

 芯を食った「進むべき方向」など出てくるわけがないのである。

 ちなみに半導体業界などは巨大市場であるが故に、そんなことはなく、デバイスメーカと装置メーカが業界団体を作り、ロードマップそして規格を作ってきた。こうしたイニシアチブがある業界はむしろ例外である。

 こんな状況の中で、妥協的に考えて、経営企画的に行動すると、どうなるか。

 いわゆる「プロダクトアウト」になってしまうのである。

 強い自社技術を特定して、それを生かす市場の方を探しにいくという手法である。

 だが、これは経験上、上手く行かないことが多い。確かに上記のような目の前にある「市場」が広く、薄く、ぼんやりしている場合、唯一ロジカルに解を出したように見せられる方式である。経営層にも一応「納得」を感じさせられる、経営企画部門のテクニックとも言える。実際上手くいかなかった場合、技術力が足りなかったと技術サイドに責任転嫁できる狡い手法でもあるのだ。

 だが、B2Bにおいて「プロダクトアウト」方式は、それ自体は否定しないが、まぐれのホームラン狙いのような感じであることも確かである。そんなロジカルに解が出れば苦労しないのだ。

 実際に、その業界で勝っている(勝った)企業は、実は「プロダクトアウト」ではなく、「マーケットイン」で勝利しているように思う。やはりB2Cと同様に誰も見つけていない”真空市場”があり、”市場を作り出した”はずなのだ。そして、それは今この場でも「ある」はずなのである。

 しかし、多重に連鎖しているサプライチェーンが、B2Cでは可能だった市場分析の手法ができない、あるいは、そもそもシステムに存在する時定数の大きさ(遅れ要素)が、単純なマーケティング手法を適用できないという課題があるのである。

 ではそのB2B、あるいは、多層的B2B(B2(B ^X )B2C)において、市場の「潜在ニーズ」を特定するにはどうしたら良いのか。

 その答えはまだ私にはない。今もうんうん唸っているのである。

 

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【書評】稲田将人「経営参謀」科学的アプローチによる、戦略策定におけるおそらく唯一の”真実”

 稲田将人「経営参謀」(日経ビジネス文庫)を読んだ。いわゆるビジネス小説でありながら、経営再建のための戦略策定のための知見が詰まっている。

 少々個人的に身の回りの変化(【近況】異動になってしまった)もあり、身につまされる読書体験であった。

 小説の筋自体は、経営企画の主人公がアパレル業界に中途入社し、社長からブランドの建て直しを求められる。この会社は上場会社だが同族経営で、マネジメントに偏りがある。

 主人公は、マーケティング調査により市場動向をプロファイリングし、再建に向けての戦略を作り、徐々に成果を出しつつあった。この過程で、いわゆる「戦略理論」を主人公がケーススタディから学んでいくことになる。

 それと同時に小説としても、主人公の活躍に対する”妨害”などもあり、こちらの面白さもある。そして、その結末もなんとも「現実的」なのであり、味わい深い。

 本書ではあくまでB2Cの領域であるが、これはB2BやB2Pなどでも同様であろう。ただ、よりプロファイル的にはマーケットの考えの推定は難しくなりそうだ。

 実地体験でも、こうした「戦略」を作る、ということで現場はかなり混乱している。

 戦略を作れ、と言われてひたすら終わりなき調査作業だけを行う人間や、市場調査、ベンチマーク、知財戦略、差別化、SWOTなど、網羅的な完成品の「目次」を渡され、それを全部埋めろ、と言われていつまでたっても終わらない作業をしている人間など。

 混乱の極みになっている風景を良く見かける。

 これは戦略を作れ、と指示したマネジメントすらも何をオーダーしたか、何が出てくるかを具体的にイメージしていないのである。こうした無駄な作業が現場では起こっている。

 本書はそうした点から一線を画している。

 簡単に新市場などができる戦略のフレームワークなどない、と言い切るのである。

 この考えは事実であるし、悲しいかな、迷っている人々は残念なことに「フレームワークをくれ」としか考えていないのである。

 迷っている人の苦しみは想像できる。

 いわばドストエフスキーの長編小説を渡されて、「これみたいなやつを作れ」と言われているようなものなのだ。

 そんなのできるわけがない。

 小説だって、あらすじから肉付けしていって完成させるのに、いきなり長編の完成品を持ってこいと言われるのは酷である。だが、繰り返すが、指示する側も、戦略を作った経験もそもそもないので、どう指示して完成させるかの正解を持っていないのである(そして自分も正解を持っていないことは明らかにしないものである)。

 では何をすれば良いか。本書では、その回答も示唆されている。

 ”正確な事実によって現状を把握して戦略を作る”、そして、”戦略とは精度の高い初期仮説であって、これを早いPDCAサイクルで回して検証する”というシンプルなものである。まさに科学的アプローチそのものである。

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これは”ホテルあるある”なのか?クリーニング代370円を730円で請求されて、疑問を呈したら逆にフロントに食い下がられた話

 色々あって、最近ビジネスホテルに長期滞在していることが多くなった。

 QOLにとって問題なのは、やはり洗濯である。下着だけでなく、Yシャツなども大量に持っていく訳にもいかない。

 下着、靴下、ハンカチなどは、ホテルの部屋で洗濯し、部屋で干す。しかしアイロンが必要なYシャツはそうも行かないのでホテルのランドリーサービスに出す。

 朝出かける時にランドリーバッグに入れてフロントにお願いすると、夕方には特急でYシャツができている。割高ではあるが、これは納得である。ちなみに価格は370円である。

 実際地元で時間をかけていいなら100円台なので、割高だが当日特急ならばやむなしである。

 と思っていた。

 だが事態はなかなか更に上を行くもので、本日あった出来事はこうである。

 フロント「(Yシャツ1枚を返して、電卓を見せながら)730円です」

 ぼく「えっ」

 フロント「730円です」

 ぼく「(何かの間違いかもしれない)えーっと、たぶんその価格って違うんじゃないすかね」

 フロント「いえ、お客様、こちらが決めた料金でやらせていただいていますので」

 ぼく「(そうなんだ、でも昨日までは370円だったけど)でも、違うような」

 フロント「いえ、そうではなくて、お客様が出していただいた時点で価格はこちらで決めさせていただくので」

 ぼく「(そうなんだ、でも流石におかしいような気がする)いや、おかしいですよ」

 フロント「(向こうもちょっとキレて)伝票を見ていただければわかります通り(伝票を出す)」

 そして、そこには370円と書かれているのであった。

 おそらく超好意的に考えて、伝票を客側に見せているので、読み間違っていたのではないかと思うが。あるあるなのか?

 フロントからも謝罪されたので、まあ問題はなかった。私の財布も損はしていないので満足とすべきなのであろう。

 だが、この金額でやりとりしたこの「ラリー」のもやもやは解消されてはいない。向こうは私を「ホテルのクリーニング代は高いんですよ、発注後にそんなことを言われるのはおかしいですよ」と諌める、私は「いや、そんな議論はしてないんだけど」というすれ違い。これは、一体なんだったのであろうか。正直そこそこの格式あるホテルなのに。そんなに値切るクレーマーが多いのであろうか。

 そんなこんなで、今部屋で一人、ホテルにある「総支配人宛」の封筒を前に悩んでいるのである。フロントの実名もわかるし(思わず名札をチェックした)、どうしようかと。

 ここは関西であり、私も関西人であれば「おんどれ、支配人を呼んでこい!口だけではなく、謝罪と誠意を形でしめさんかい!何が謝罪になるのか己で考えんかい!」と交渉する流儀がデフォルトなのであろうが(スーパー偏見)、私にはそんな文化もないので、非常に悩ましいのである。

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