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 単騎でサバイバル(https://tankidesurvival.com)

 エンジニアが1人(=単騎)であれこれ生き残り(=サバイバル)のために、試行錯誤をしてみる雑記ブログです。私、ともだおれ(Mutual Destruction) が一人でコツコツと更新しています。

◆基本情報

・管理人の名前:ともだおれ(Mutual Destruction)

・アラフィフ 男性

・八王子出身、東京在住(多摩地域)

・元プラント系エンジニア

・今は技術企画系の仕事をしてます

・単騎行動が好き、1人で仕事を完結するのが好き、だが最近できなくてつらい

・紙と鉛筆で仕事をするのが好き

・日本国内の出張が多い

・転職を経験している

・中島みゆきが好き

・趣味は古本屋巡り、釣り(オカッパリが多い)

・発酵食品に興味あり

・ギャンブルは昔好きだったが最近あまりやってない(競輪が一番好き)

・SF的発想が好き

・ももクロ、Aマッソ、フワちゃんが好き

・連絡先:info☆tankidesurvival.com
 ☆ → @

◆このサイトについて

 私は基本的に仕事や遊びも、ひいては食事や酒も1人で行動するのが好きなのであるが、どうしてもそうもいかない。1人で完結することは意外に多くない。

 参考記事:【ぼっち飯こそ正義】食事は一人ですることが、人類にとっての正解である(断言)

   私を誤解して擁護する味方より、私を正しく理解して攻撃する敵の方が良いというポリシーから、味方には徹底的に不寛容、敵とは徹底的に攻撃的に戦っていたら、いつも1人になることが多くなった。

 戦力的には最初から味方の援軍なんか期待しておらず、常に単騎戦である。はじめから味方を勘定に入れていないので単騎の身軽な分、機動的遊撃的な戦略で一定の効果があるはずである。

 しかし現実は予想を裏切り、うまくいかない。よく見ると、味方だと思っていたはずが、敵方に回っていて、全員対1人の構図になってたりすることがある。とほほ。

 1人で結果やリスクも全て自分の中で責任を取りたい、その代わり自分の行動は自由になりたい、とは思うものの、様々なしがらみや制約の中で現実にはそんなことはできるはずもない。集団生活、社会生活を前提としてカスタマイズされているこの現代社会でそんなことは難しいということは、はじめからわかっていることなのである。

 我々は個々あるいは社会の大小さまざまな局面において理想と現実の矛盾に直面し、これを抱える。矛盾はその本質として解消されることを望むが、現実のさまざまな力学的平衡によって、全ての矛盾が自動的に解消されることはない。

 社会的にも、個人的にもどこかで矛盾を抱える。そして、この矛盾を我々は本能的に忌避する。直面したくない。自分がその矛盾のインターフェース面になりたくない。できれば他人にそれを、渡したいと思っている。これはストレスに対する防衛反応として備わっているものであろう。しかし、現実はそうはいかない。

 そんなときチーム戦だと、管理されることと引き換えに、ストレスも低減できることが多い。メリットである。要するにN人に自分の「遅れ」を見える化したら、全員も共犯者みたいなもので、ストレスも1/Nになると言っても良い(ざっくりすぎるけど)。

 ところが1人だと全ての自分の遅れのストレスを全て自分で背負う必要がある。自分1人がボトルネックになってしまった日には、ただでさえ大きいストレスがMAXである。

 そう考えると、やはり1人でやり切るのはきついし、限界がある。集団戦に憧れる。

 だが、これまで身につけてきた仕事のやり方は1人で進めることにカスタマイズされているので、いざ集団戦との相性が悪いという問題もあるのである。

 身も蓋もない言い方をすれば、協調性がないと言おうか。

 集団戦というのは、基本的に統制が必要なので、個々のメンバーが下手に突出すると不要な摩擦を生み、うまくいかない。同期というか協調動作が必要になることはいうまでもないが、これが、場合によっては個人レベルではストレスになってしまうこともあるのだ。

 端で他人の仕事を見ていて口を出したくなる。あるいは自分に火の粉が降ってこないようにビクビクする。なまじ自分1人でやる気概だけはあるので、他人の仕事にまで干渉したくなってしまうのである。

 結局1人でやった方が早い、というオチになる。

 しかしこれは本来的には正しくない。属人的な仕事のやり方であり、できることなら、これを集団の知識として開いた方が良い。そんなことはわかっているのである。しかし、せっかちな性分もあり、我慢ができないのである。ここで辛抱することが肝心なのはわかっているけど、口出しすることをやめられない。

 結局周りからは、協調性がない、個人プレイ、と後ろ指を指され、果てはグループから放逐される運命になる。

 集団戦の方が本質的に優越していることも経験上わかっている。だから、気持ちの上では、そちらにシフトしたい。でもできない。

 個人戦と集団戦の振れ幅の中で、揺れ動いているのだ。

 要するに、自縛してがんじがらめなのである。

 そんなジレンマの中で、せめてこのブログのミクロかつローカルな世界ではそのささやかな理想を実現すべく、試行錯誤してみたい。

 だが、この試みが負け戦だということもわかっている。組織と個人は基本的に非対称であり、常に組織の統制の前に、個人の意思を刈り取ることで対立構造が解消される運命にある。

 このブログでは、立ち飲み屋であったり、読書であったりと、基本ソロでできる活動を中心にしている。

参考記事:立ち飲み屋の自由と、立ち飲みあるある

 1人で行動する方が自由で楽チンであることは言うまでもないが、限界もある。集団戦ともうまく折り合いをつけつつ、個人と組織の非対称性を崩すような試みができないか?

 ただし、1人での行動というものはキツい。要するに、行動の過程で起こるいくつかの苦しさを、人には言えず1人で抱え込む必要がある場合だってあるのである。敢えて自分の発言によって組織を動かそうと企図する場合、自分が最後にその「恥ずかしさ」や「不快さ」や「他人からの敵意」も抱え込む必要がある。

 それは他人に分け与えることのできない自分で抱え込むことを覚悟したストレスである。人に話したら共感を得られることは確定なのだが、それをすること自体が当初の目的から外れてしまうというべきか。

 自分が敢えて組織を動かすために、厳しい主張をする場合、その結果としての「羞恥」や「他人からの敵意」を公然・非公然のシチュエーションが世の中には存在する。

 それは、酒場の共感の中に散逸させることのできない、硬質なストレスの塊なのである。

 そうしたある意味での孤独。自分が敢えて露悪となり、それ自体を抱え込むシチュエーション。歯をくいしばって、悪名や陰口で語られるであろう反応に沈黙して耐えるしかない。

 そして更に言えば、自分が相手の立場なら、自分の態度はやはり不満に思うし、不実な態度だと認識するであろう、それもすぐに想像できてしまう。

 それでも組織の目的のために沈黙する、あえて皆の輪から去って、自分への不満を利用してでも、組織を強化させるような場面が生じるのだ。

 これがいわば組織と個人の非対称性の現れ方であろう。

 個人は常に犠牲になる。しかし組織の目的は残る。個人の犠牲は、それが失敗したプロジェクト、負け戦であるとなおさら強まる。報われないストレスは溜まる一方である。

 それでもなお、個人にとって、いわば焦土の中で語るべき何かがあるのではないかと思っている。

 こうした悩みを抱えつつ、1人立ち飲み屋にフラリと現れて、沈黙しているオッさんがいるのである。

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