【書評】カート・ヴォネガット「スローターハウス5」ドレスデン爆撃の経験と精神の受動性

 カート・ヴォネガット「スローターハウス5」(ハヤカワ文庫)を読んだ。

 この小説の構造としては、常識的な世界解釈とSF的な世界解釈の2通りで読解できる。

 そのどちらが正しいかは未確定である。

 常識的解釈では、眼科医である主人公ビリー・ピルグリムが、1968年に飛行機事故で脳に損傷を負い、宇宙人に誘拐された過去という妄想を抱き、加えて、意識の時系列が不規則でバラバラになってしまったという、いわば精神分裂病者によるストーリーである。

   SF的解釈では、この”妄想”は全て事実であり、ビリーは常に時間軸を不規則に移動し、実際に宇宙人に誘拐されたという、タイムワープもののストーリーになる。

 ここで、どちらの解釈が正しいか確定させること自体にはさほど大きな意味がないと思われる。

 著者の意図は、高度な文明を持つ宇宙人であるトラルファマドール星人の小説一”始まりもなければ、中間も終わりもないし、サスペンスも、教訓も、原因も、結果もない”、”瞬間の深みを一度に見ることのできる”小説ーのように、モザイクのように断片をつなぎメインテーマを描くことにある。

 このメインテーマとは、著者自身が経験した「ドレスデン爆撃」の経験であり、戦争の記憶である。

 「ドレスデン爆撃」は、著者が言及しているように広島の原爆と同様の、連合国軍による非戦闘民への無差別破壊として知られている。

     Wikipediaより引用する。

ドレスデン爆撃(ドレスデンばくげき、英: Bombing of Dresden、独: Luftangriffe auf Dresden)は、第二次世界大戦終盤の1945年2月13日から15日にかけて連合国軍(イギリス空軍およびアメリカ陸軍航空軍)によって行われた、ドイツ東部の都市、ドレスデンへの無差別爆撃。4度におよぶ空襲にのべ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、2万5000人とも15万人とも言われる一般市民が死亡した。

 引用終わり

 東京大空襲の11万人、広島原爆の9から16万人(放射線被曝死者含まず)と比較しても、被害者数は甚大な災厄であった。

 ビリーはストーリーの中で複雑に(痙攣的に)時間を転移し、イベントとしてはこのドレスデン爆撃をひとつのクライマックスとして迎える。

 しかしながら、ドレスデン爆撃という残虐な行為がメインテーマでありながら、その記述は抑え気味であり、無辜の非戦闘員が死んでいるそのさなかに、主人公は強固に作られた生肉貯蔵庫(スローターハウス)の中で、家畜の死骸と一緒に助かる。いわば殺戮の最中の描写は全くない(語り手である作者もその生肉貯蔵庫の中にいたのだからある意味リアリティはあるのだが)。

 不規則な時間軸を持った断片によってモザイク状に表現されたビリーの生涯は、戦争における虚弱な兵士としての道化的な役割、トラルファマドール星における動物園での見世物の役割、”醜い容姿の”婚約者に対する消極的態度など、一貫して与えられた運命に対して受動的役割を常に演じている。

 ”時間の全てを見ることができる”トラルファマドール星人は、”いやな状態は無視し、楽しい時に心を集中する”、”死んだものは、この特定の瞬間には好ましからざる状態にあるが、ほかの多くの瞬間にも、良好な状態にある”という、運命に対する精神的な受動性をビリーに説く。

 避けえない自らの消滅の運命に対してさえもトラルファマドール星人は時間を操作することで対応する方法を説き、ビリーもまたこれを理解する。

  トラルファマドール星人はビリーにこう語る。

 「今日は平和だ。ほかの日には、きみが見たり読んだりした戦争に負けないくらいおそろしい戦争がある。それをどうこうすることはわれわれにはできない。ただ見ないようにするだけだ。無視するのだ。楽しい瞬間をながめながら、われわれは永遠をついやすーちょうど今日のこの動物園のように(略)」(前掲書。p.142)

 引用終わり

 語り手である著者もビリーと同様ドレスデン爆撃を経験し、この小説の中で、死に対する言及の後に「そういうものだ」という諦念を交えたフレーズを繰り返す。

 小説の中で”死”をイメージする出来事に付随的に何度も現れるこのフレーズ「そういうものだ」は、トラルファマドール星人の口癖である(前掲書 p.39)。

 本来ビリーの妄想の世界であるはずのこの言葉が、小説の上位構造の描写、即ち語り手である作者の言葉としてもその原則として使用されている。これにより、小説は更に複雑な構造になっていると言えるが、これは先にも述べたように、時間軸を空間を見るように一望させるというトラルファマドール星人の小説を志向しているという意味では正しい効果を挙げているといえよう。

 ”瞬間の深みを一度に見ることのできる”ことを企図して作られたモザイク化されたこの小説には、絶望的な運命に対する諦念と乾いたユーモアが漂う。

 低俗とも思える 「軽さ」と残虐極まりない「大爆撃」の対極なイメージを断片化し、時間という次元から自由に独立させることで得られる”分裂的な思考”は、世界戦争を経験した状況下において、全体との非対称性により極小化された個人の生存手段として最後に残された有効な態度なのかもしれない。

 しかしそれはある意味、巨大な絶望の中で立ち竦むしか術のない、我々ひとりひとりのどうしようもない無力さを突きつけられるということでもあり、やるせない気持ちになるのである。

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立ち飲み屋探訪:日野駅「立ち呑み さとちゃん」激安ホッピー290円におでん、温やっこで温まる

  中央線で立川と八王子の間にある日野駅。ここも結構ビジネスマンが多く、立ち飲みも充実している。

 駅から徒歩2分くらいのところにある立ち呑み さとちゃん」に入店。カウンターだけでなく広めの空間もあり、かなりの収容ができる。お酒やツマミも安く、1人呑みには最適と言える。

 

 生ビール300円で、同じグラスでお代わりすると2杯目以降は290円となるサービスなどもある。

 ホッピーセットは290円である。中180円、外220円で、ホッピー指数は3である。

 ポテサラ150円。

 おでんは1品100円で。ちくわぶ、こんにゃく、ウインナーである。

 冬季メニューがあり、温やっこ180円。湯豆腐であり、暖かくてうまい。

 ツマミも100円から250円で沢山あり、お酒も安い。店の雰囲気も店員さんが元気でいい感じ。カウンターには1人のみのお年寄りもいて、風情があり、なかなかの名店である。

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立ち飲み屋探訪:日野駅「まいど 日野店」安定の焼き串ともつ煮込み

 西国立、相原と続き、3件目の「まいど」は日野駅にあった。看板が同じオレンジ色なので、遠くならでもわかる。

 参考記事:

 立ち飲み屋探訪:西国立駅「まいど」で焼き鳥と冷やしトマトをいただく

 立ち飲み屋探訪:相原駅「まいど」は相原唯一の成功したビジネスモデルで不死鳥のように復活

   店内はカウンターとテーブルで、前の2軒よりも広めである。やはり焼き鳥の匂いに誘われて大盛況である。

 ホッピー(他店舗では置いていなかった気がする)。セットで320円。中は160円で、外が210円となっている。ホッピー指数は2.5である。

 もつ煮込み220円。安くてうまい。これは相原店でも名物メニューになっており、持ち帰りもある(日野店では不明)。味は相原店と同様モツ感がたっぷりで上手い。なんかレシピも同じなのだろうか。

 焼き串の白をタレで。1本120円である。これも相原店と同様の味で、ある意味安定感がすごい。

 レジと接客のお母さんも微妙に似ている気がしており、さすが「まいど」グループ(?)安定感がすごいのである。

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米沢名物の大人気駅弁「牛肉どまん中」を東京駅でようやくゲッツ

 先日福島出張で実は一つの駅弁に期待をしていた。それは米沢市の「牛肉どまん中」(新杵屋)である。

 人気が高い駅弁で、10年前に山形出張の際に食べたきりで、なかなか再会の機会がなかったのである。あれから「牛肉どまん中」の評判は上がり、ますます入手困難になっていた。まあ、入手困難と言っても駅弁なので、”自分の食べたいタイミングでそこにある”という状態が成立しなかったという言い方もできる。要するに本気ではなかったのである。

 しかし今回「牛肉どまん中」を食べたいという意思が生じ、不運にも福島駅の駅弁売り場では売り切れ(予約がベターなどという張り紙あり)という事態を受け、俄然肉体が「牛肉どまん中」をどうしても食べたい、というモードに入ってしまったのである。

 そんな中、今度は新潟出張があり、東京駅で新幹線の出発時間まちができた。東京駅には全国の駅弁が集うコーナーがあるのである。ごった返す中、行ってみると・・・

 入り口付近に大量に積まれていた。さすが人気駅弁、本屋であれば村上春樹の新刊の陳列ポジションである。

 あった〜(安心)。早速ゲット。1250円であるが、もはやブランド効果なのか、高いとすら感じられない(麻痺状態)。

 早速、新幹線の中でいただくことに。

 

 混雑している車内で、若干周りにも優越感でしばしアピールである。効果があったのかは定かではないが。

 蓋を開けると牛肉だらけ。牛肉煮とそぼろがふんだんにご飯の上に乗っている。甘辛い牛肉煮が旨味凝縮でやはり食べ応えがある。満足。そして爆睡である(これから仕事なのに)。

 惜しむらくは成人男性対象で「大盛り」が欲しいところである(欲張り)。

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立ち飲み屋探訪:町田駅「ドラム缶 町田店」雑居ビルの3Fの狭い店だが居心地最高

 2018年7月にオープンした「ドラム缶 町田店」に入店した。ラーメン「胡心房」(何故か長期休業中)の近くの雑居ビルの3Fにある(ドンキホーテの向かい側)。

 立地としては駅から近く(横浜線の線路沿い)が、少々エアポケットのような場所にある。周辺の雰囲気は、若干気後れするが、ビルに入ってしまえばエレベータもあるので楽チンである。

 とはいえ入店してしまえば「ドラム缶」の方式はそのままに、ドラム缶をテーブル代わりにキャッシュオンデリバリー方式でコスパ最高な1人のみができる。

 今回はお腹が空いていたこともあり、いくつかツマミを試してみた。

 

 ホッピーセットは300円。ホッピー指数は3である。中は100円という嬉しさ。

 ポテサラ100円。

 マグロぶつ100gで400円。

 ささみチーズカツ150円。

 出汁巻玉子200円。

 

 肉団子200円。ニンニクが付いている。

 テーブルがわりのドラム缶も4つ、坐りテーブルが1つとあまり広くはないが、大画面テレビもありのんびりできる。店長のサービス精神も他店舗と同様バッチリで、たらふく飲み食いして、満足である。

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【書評】オーウェル「1984年」と連合赤軍における”粛清”の現実

 ディストピア小説の古典的傑作ジョージ・オーウェル「1984年」(新庄哲夫訳)を読んだ。

 出版は1949年であり、科学技術の継続的発展を前提とした比較的明るい未来を描いた(誤解を恐れずに言うと、楽観的な)SF小説と異なり、“全体主義的管理社会”の悪夢を描いたディストピア(反・理想郷 =ユートピアの世界を描く)というジャンルが存在し、本書もその区分に入っていると言って良い。

 ハヤカワ文庫でもSFの枠でなく、NVの枠に入っているため、背表紙の色は白である。

 20世紀初頭に台頭してきたファシズムや共産主義などの全体主義・管理社会が覇権を得て強化していった場合に、人類の自由な生活はどうなってしまうのか?

 本書はこうした問題意識のもとに書かれた。

 ここで描かれる未来社会には個人のプライバシーはなく、常に政府から住民はテレビにより監視されている。住民同士も相互に監視し、互いを密告し合う「粛清」社会となっている。

 小説構成のうえで、こうした世界を、未来のある時点で成立させる根拠として

  1. 世界が大きな3国に分割・均衡状態となり、戦争の目的が相手の磯滅から余剰生産の消費に変化している
  2. 言語の簡潔化により複雑な思考や新たな想像力を抑止する(ニュー・スピーク)
  3. 党の無誤謬性のために歴史を日常的に修正することによる史的感覚の喪失
  4. 個人の意思を無くす考え方の奨励(ダブル・シンク)

 という仕掛けをオーウェルは作りだした。

 第二次大戦後の核戦争後の世界において、大国覇権主義が進み、ある種の均衡(囚人のジレンマ的な)状態が生まれ、同時に大国同士であるが故に、これ以上の文明の自己発展に対する駆動力が喪失されることにより”最重要課題が自らの体制の存続”となった管理社会の姿を描いている。

 そこでは、戦争自体も、体制維持のための単なる<生産一消費>のシステムの一部に組み込まれたものとなっている。

 主人公であるウィンストン・スミスは、こうした世界に対して自己の内部に少しずつ「自分のための時間・空間」を作り出し、ささやかな自由を求める。それがこの世界のルールに反すると理解しながら。

 結果として、自らが予期していたように捕縛され拷問される。その尋問では、単に異分子を排除するのではなく矯正することこそが目的であり、彼は自分自身の中で唯一侵犯されず自由であると信じていた精神の領域一心の中の特別な領域一すらも、破壊させられる局面を迎えるのである。

 彼を尋問するオブライエンは彼にこういう。

 「違うんだ!ただ自白させたり、罰したりするためばかりじゃない。ここへ君を連れてきたのはなぜか話してあげよう。君を治療するためだ!正気に立ち返らせるためだ!いいか、ウィンストン、ここへ連れて来られた人間は、完治しないうちにここから出て行くことは絶対にあり得ないのだ。われわれは、君の犯した愚かしい罪には興味がない。党は明白な犯罪行為などに関心はない。われわれが問題にしているのは、思想そのものだけだ。われわれはただ敵を破壊するばかりじゃない。彼らを改造してしまうのだ。(略)」(「1984年」p.329-330)

 引用終わり

 監視される囚人の最後の砦として自分の精神の内部が存在すると良く言われるが、「1984年」の世界では、この精神の守るべき最奥部にまで迫ってくる。

 そして政府(党)はウィンストン・スミスに対して、その目的を成功裏に達成するのである。

 これはあくまでフィクションだから、現実にはそうした事態は起こりえないのであろうか?

 そんなことはなく、この描写が現実のものとなったことを、我々は既に知っている。

 ・・・森氏(引用者註:最高幹部 森恒夫のこと)は、誰かからアイスピックを受け取って、寺岡氏(引用者註:これも幹部の寺岡恒一氏で粛清の対象者)の前に立て膝で坐り、静かな口調で、

 「お前に死刑を宣告する。最後にいい残すことはないか」といった。寺岡氏は、小さな声で、

 「革命戦士として死ねなかったのが残念です」

と答えた。(植垣康博「兵士たちの連合赤軍」p.311)

 引用終わり

 かつての新左翼による「連合赤軍事件(山岳ベース事件)」における「粛清」(同志殺し)では、仲間たちによって反革命として追い詰められた被害者が、最終的には自らを裁く論理に従い、裁かれるものじしんが自らが死刑になることを認めた。裁いた者たちが、裁かれる者のその心すらも降伏させたことが明らかになっている。

 まさに「1984年」の世界を、我々は1972年に実践したことになる。

 吉本隆明の共同幻想一対幻想一自己幻想の概念で言えば、共同幻想と自己幻想の間には互いに矛盾が生じる。そして常に共同幻想が自己幻想に対して優位に立つが、自己幻想には必ず不可侵の領域があるはずであった。

 しかしながら、この事例では、そうではなかったことになる。

 赤軍派の新左翼たちが行ったように自己幻想すらも完全消滅するレイヤーがあるのである。

 おそらくそうした彼らのイデオロギーの父祖である、スターリンによる大粛清、中国の文化大革命、カンボジアのクメール・ルージュによる大虐殺などでも、同じようなケースが多々あったのであろう。

 主人公ウィンストン・スミスは、物語終盤で自己の自由であった精神領域と引き換えに、元の生活に戻ることができる。結果として、その生活は前よりわずかに豊かになっている。自己の裏切りと体制への忠誠という奉仕によって社会のステータスが上がったかのように。

 そして彼は、もはやこの世界を愛するようになっている。 過去の自分を顧みて、銃殺されることを待ちわびながら。

 こうして「1984年」の世界には、再び体制に疑いを知らぬ人々が溢れる。本当に善良な人は戻ってくることはなく、ウィンストン・スミスのように何らかの裏切りを為したものだけが戻ってくることができるからである。

 このこともまた、我々の世界で同じことが起こった。ナチスドイツの収容所から生還したフランクルは著書「夜と霧」の中で、こう語った。

 「すなわち、もっともよき人々は帰ってこなかった」と。

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【書評】メルヴィル「幽霊船」「バートルビー」は現代性に溢れる上質なホラーと不条理で、普通に面白い

 先日読んだメルヴィル「白鯨」の重厚長大さに、いささか食あたり気味になっていたところで、続きとばかりに同じ作者の「幽霊船 他1編」(岩波文庫)を読んでみた。

 関連記事: 【書評】メルヴィル「白鯨」とモーム「世界の十大小説」の関係

 「幽霊船(原題:ベニート・セレーノ)」と「バートルビ ー」の2編が収められている。ところが、両編ともに、”陰鬱な交響楽”「白鯨」とは少し毛色が変っていて、意外と面白かったのである。

 「白鯨」の発表は1851年。「幽霊船」は1855年、「バートルピー」は1853年と、いずれも「白鯨」の後に書かれたものであるが、解説にもあるように比較的通俗的なテイストになっている。

 しかし”メルヴィル節”とも言うべき、陰鬱かつ雄大な描写は絶好調であり、ところどころ読んでいて目標をロストしそうになるが、「白鯨」ほどではない。

「幽霊船」

 「幽霊船」は、現代であればホラー+ミステリというべきジャンルの小説であり、“幽霊船”なる遭難船とその乗組員たちとの遭遇というメインの謎が呈示され、読者は推理しながら読み進む。

 伏線というか強烈なキャラクタが多く登場するので、なんとなく途中から最終的な構図は見えてくる。しかし、そこで謎解きの妙が薄れているのかというと、全くそんなことはない。

 むしろ、読者は薄々と”まさかこんな怖すぎるオチじゃないよね・・・“という想像を膨らませつつ、物凄い緊張を強いられるのである。

 最終的に、ある意味一番いや~な予想が当たってしまう。その後の謎解きの過程は淡々としている(実際の 裁判記録の羅列らしいので読みにくい)のだが、謎解きによるカタルシスよりも、その前の”謎が謎のままである状態”がものすごく怖いのである。

 幽霊船が潮に流され、乗り移ってきた主人公が一人その船に取り残される状態もきつい(その割に主人公は終始楽観的で、読み手との認識の差異も際立った効果になっている)。

 ホラーとして上質な小説である。

「バートルビー」

 「バートルビー」はメルヴィルにしては読みやすく、また随所にギャグも交えた軽妙な文体(それでもしっかりしてはいるので、「白鯨」との比較の問題ではあるが)。

 内容がこれまた現代性があり、カフカやベケットを思わせるような不条理小説なのである。

 裁判所の書記として雇用された”バートルビー”なる学士が、雇用主である語り手(=読者の常識)の制御を超えつづけ、最後まで噛み合うことはない悲喜劇である。

 他者を契約や権力により使役する行為に対して、バートルビーは、”I prefer not to〜”(ぼく、そうしないほうがいいのですが)という口癖に代表される、拒絶のようでいてそうではない、その消極的な意思によって、その権力行使の枠組み自体を無効化し続けていく。

 他者からの命令を一切拒否しながら、その一方で「といってぼく、前にも言った通り、選り好みはしませんが」という会話に象徴されるように、全てを受け入れる姿勢自体を保ちつづけて、その不思議な立場と存在感を示し続ける。

 雇用主である語り手(そして読者)は、自らの意思(常識)を悉く無効化され続けるという悪夢としか思えない光景が続く。しかし読者は、決して不快ではない。まさしく我々がいつも視る”夢”がそうであるように、その世界自体のロジックとしてはむしろバートルビーの方が正しいのではないか、とすら思わせる。

 ラストシーンにおいて、更に切ないエピソードを付け加えて、物語は締めくくられる。

 全体を通して合理的に理解可能なストーリーラインではないのだが、哀しさとユーモラスさが迫ってくる。

 シンプルな話でありながら、色々な読み解き方ができる物語の豊饒さがあり、まさにカフカの読後感に近いものがある。非常に面白く、傑作と言って良いであろう。

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貴重なオカッパリ海釣り情報誌「月刊 磯・投げ情報」の海悠出版の倒産について(2019.05追記 復刊されました!)

 Yahooニュースで知ったが、釣り情報誌「磯・投げ情報」の発行元「海悠出版」が倒産した。

 外部サイト:釣り情報誌、月刊「磯・投げ情報」を出版していた(株)海悠出版が破産開始決定
       11/7(水) 10:49配信 東京商工リサーチ

 上記記事から引用すると

 (株)海悠出版(TSR企業コード:296469319、法人番号:1010001075691、文京区湯島2-9-10、設立平成4年10月15日、資本金1000万円、福田千足社長)は10月31日、東京地裁から破産開始決定を受けた。

 引用終わり

 とある。もっと前から情報は流れていたようで「磯・投げ情報」は7月25日発行の2018年9号で最終巻となってしまった模様である。

 海悠出版のWebには「お別れとお詫び」が掲載されている。Twitterでは8月17日段階で、以下のような報告もされていた。

https://twitter.com/maru_umi/status/1030255020946599936

 海釣りを本格的に始めてから、色々と教えてくれた雑誌であった。ブラクリを知ったのもこの雑誌の記事「ブラックラー・ヤス」がきっかけであった。

   釣り場情報(堤防や磯など)のムックも購入し、色々な意味でオカッパリ釣り中心の私には役立っていたのだが・・・。

 この雑誌の名物企画で、毎月場所を変えて行われる堤防釣り場の紹介で、ずーっと掲載されている常連家族の写真があり、子供が毎月の写真で次第に成長をしていく様(最後は親離れしたのか掲載されなくなった)を密かな楽しみにしていたものだった。その家族ももう見ることができないのは残念である。

 偶然最終号になってしまった9号を購入していた。今年は全然釣りに行けなかったので、そろそろ再開をと思った矢先だったのだ。

 別の記事(釣り雑誌「磯・投げ情報」を出版していた海悠出版、破産開始)では、

東日本大震災の発生により、ポイントの多い東北地方での取材が一時困難となったことで刊行物の発刊が滞ったほか、同地域を中心とした釣り需要の縮小などから業容が徐々に低迷。紙やインク等の原材料費や印刷外注費が高値で推移したことで収益も悪化し、人件費などの固定費削減に努めていた。釣り具メーカーからの広告費収入も減少するなど、業況の回復が困難となったことから、7月25日までに事業を停止し、自己破産申請の準備に入っていた。

引用終わり

 とあり、紙の雑誌の難しさや釣り人口の縮小が影響しているようだ。

 釣り道具などレジャー用品は付加価値が高く、こうした雑誌も含め、ある意味独占的に市場を取れそうな気もしている。いくらネットに情報があるとはいえ、こうした趣味で紙媒体の必要性はあると思っており、私自身も未だに「磯・投げ情報」は購入している。つまり一定の固定読者はいたはずと思っていた。

   それでもこのように立ち行かなくなるということは、既存の出版業界の構造的変化も相まっていたのであろうか。

   確かに船釣り専門誌のようなスポンサータイアップが強いものと違って、オカッパリの場合は太いスポンサーがつきにくい。ただそうしたスポンサータイアップがあるとイマイチ雑誌の質が違ってくる。その意味で「磯・投げ情報」は遊び心あふれた絶妙な雑誌であった。

 貴重なオカッパリ系のなんでもあり釣り雑誌がなくなるのは痛い。

 ぜひ何らかの形での復活を期待する。ブラクリ専門誌とか。無理か。

追記:出版社を変えて、2019年5月に復刊することが明らかになった。めでたい。

 オカッパリ海釣り情報誌「月刊 磯・投げ情報」の2019年5月20日復刊について

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【書評】メルヴィル「白鯨」とモーム「世界の十大小説」の関係

 「バーナード嬢曰く。」2巻で、その長大さに対して、何故かヘミングウェイにとばっちりの怒りがぶつけられている、メルヴィル「白鯨」(岩波文庫版)の阿部知二訳を読んだ。

 学生時代にも読んだような記憶があるが、今回の再読で内容の記憶を呼び覚まされることがあまりなかった。ということは、当時は、おそらく中高生向けのもので読んだのであろう。何故なら、今回わかったことだが、かなり通読がしんどい小説で、こんな内容だったら、若いうちには”時間の無駄だ”と判断して放り出しそうだからである。

 「バーナード嬢曰く。」の主人公の怒りも実は的を射ている。

 この「白鯨」という小説は、とにかく脱線というか蘊蓄が多いのである。

 本筋だけであれば、それこそ「老人と海」と同じような単純なプロット(白鯨を追う話)なのである。しかしそれを幻惑させるようにデコレーションしているのが、鯨や捕鯨に関するあらゆる角度からの知識群なのである。これらをメインストーリーの途中で、ゴテゴテとつけていく。昔からある古い温泉旅館のように、後追いで部屋の増設を繰り返した結果、迷路、迷宮のようになってしまう光景に似ている。そう、まさに迷路のような小説なのである。

 これがサマセット・モームが選ぶ”世界の十大小説”の一つなのだから、またすごい。ただ、モーム自身もこの「白鯨」の特殊性は十分理解しており、「白鯨」は、読者の楽しみを主眼とした古来からの物語の系譜につながる”小説の王道”とは明らかに異なる系譜にある、と述べている。

 そこで述べている”小説の王道”に属していない小説群、すなわち「白鯨」が帰属するもう一つの小説の系譜とは、モームの十大小説のチョイスに含まれる「嵐が丘」「カラマーゾフの兄弟」、そしてジョイスやカフカの作品などである、としている(W.S.モーム「世界の十大小説 (下)」(岩波新書)p.59)。いわゆる不条理、不安、閉塞感をメインテーマとした小説群であり、ある意味現代小説にとっては正統な小説の系譜である。

 モームは、「白鯨」を「陰鬱な交響楽とも言うべき、異様な、しかし力強い作品」(前掲書p.99)と評した。まさしく、その内容は海洋小説の持つ冒険性というよりも、閉塞感が横溢する絶望的な悲劇としか描かれていない。そしてその絶望性を代表的に象徴する”鯨それ自体の不可解な巨大さ”を、小説自身がその閉塞感たっぷりの迷路のような構造により表現しているとも言える。

 読者は、鯨の巨大さ、複雑さを、非体系化されたまま放り出されたこの過剰かつ大量な情報により体験することになる。ある意味、苦しい読書体験である。

 しかし、モームはそうは考えなかったようで、そうした脱線を作者メルヴィルがなぜしたのか「よくわからない」「非常識千万な話」「その知識をひけらかしたいという誘惑に抵抗することができなかったからであるにすぎない」「本筋から外れた章であって、緊張を甚だしくそこねていることは否定できない」とボロクソに語っている。

 そこまで言うなら”十大小説”にランクインさせなければいいのに、例えば先ほどの系譜としてカフカをあげているなら、カフカの長編「城」とか「審判」を「白鯨」に代わって候補に上げた方がもっと良いのに、と思うのだが・・・。

 とはいえ、モーム自身はこの”陰鬱な交響楽”を「興味深く」読めた、と評している。「白鯨」と言う小説を何度も読むと、作者であるメルヴィルの生涯を良く読み解ける、としているのである。

   モームはこの暗い小説を書いたメルヴィルを、以下のような挫折した複雑な人間として記載した。

すぐれた天賦の才に恵まれながら、そのせっかくの才能も悪霊の冒すところとなり、ためにちょうど竜舌蘭のように、すばらしい花を咲かせたかと思うと、たちまちその才能を枯らしてしまった男、嫌悪の念からつねに近づくまいとして、かえって本能に苦しめられた、陰鬱で不幸な男、男としての気力がすでに失われてしまったことを自ら意識し、失敗と貧困とのために世の中を白眼視するにいたった男、友情を切に求めながら、けっきょく友情もまた空なるものであることを知った心やさしい男(後略) 前掲書 p.110

 モームはメルヴィルの内部にこうした葛藤、ジレンマを見た。それはこの「白鯨」を紹介する章の中で、別の角度からも明らかにしている。「白鯨」の中にある同性愛志向への指摘である。これはモーム自身が己自身を見た姿でもあったであろう。

   「白鯨」という小説は、その巨大さと複雑さゆえに、自らの内部にジレンマを持つ読者自身を強く引き寄せる力があるのである。

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【福島土産】若桃の甘露煮が爽快で美味い!(ままどおる、薄皮饅頭、芋鼓も紹介)【スイーツ】

 先日福島へ日帰り出張に行ってきた。意外にも仕事では初めて行く土地である。

 東京から福島まで新幹線で1時間30分なので、問題ない日帰り出張圏内。

 仕事はまあ何とか終了し、さて何かお土産を、ということでまずはスイーツ関連で調べてみた。

 福島駅西口にある「福島県観光物産館」でいくつか購入したので紹介する。

   

 まずは今回の収穫である、若桃の甘露煮「ピチピチピーチ」。

 シロップと一緒に入っており、値段は648円。ベビーホタテと同様、桃の生育のために間引きされた”若桃”を甘く煮たものである。

 このような感じ。見た目は梅の実のような感じ。

 シャクっと食べる。柔らかい。爽やかな果肉の風味は桃とリンゴが合わさったような感じ、そして種まで柔らかくなっており、丸々食べることができる。若干シロップ甘めであるが、非常にうまいのである。2袋買ったが、もう少し買っておけばよかったと後悔。

 あとは定番の「ままどおる」(三万石)「薄皮饅頭」(柏屋)も購入。

 

 あと目についたのは「芋鼓」(菓子処まつもと)であり、これはサツマイモのスライスでリンゴペーストを挟んだお菓子で、アップルパイ的な味がある。サツマイモとリンゴペーストの比率がなかなか。

 

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