就活学生に向けた講演骨子の作成依頼に対するゴーストライト成果物を公開するーお題「学生時代の勉強は社会で役立つか?」

 先日、ある技術者から就活生(理系)向けに、「大学時代の勉強は、社会でに役立つか?」という講演をする必要があり、資料の骨子を作ってくれないかという依頼を受けた。

 正直なところ企画部門の仕事をしているとゴーストライト的な業務は結構ある。要するに会社や経営サイドの意思を自分に憑依させて(既に決定されている会社の意思を代表して)スピーチ原稿なりを作るということは良くあることなのだ。

 今回もそれに近いものの、業務ではないし特に憑依させるべき人格はいないので、軽い気持ちで、できるだけ汎用的に使えるものを作ることにした。

 休日の1時間ばかりで作成して納品したものが以下である。特に独占的排他的な権利は設定していないので、ここに公開する次第である。実際のところコピペを否定している文章なので、それはそれで再利用することも難しそうであるが。

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「大学時代の勉強は、社会で役立つか?」

結論を先に述べると「直接役立つことはない」でしょう。

稀に大学での研究テーマがそのまま配属された企業の研究テーマになるケースもありますが、それはあくまで特殊なケースです。

例えば学位を持っていてその専門性を企業とマッチングした方や、その企業と大学が産学連携などをしている場合にはそうしたケースがあるのですが、多く場合はそうではありません。

皆さんの多くは、就職後各部門に配属され、さまざまな業務を経験しながら、社会人としての長いキャリアを積んでいくことになります。当たり前のことですが社会人として仕事をして、その対価をもらう。そうした生活をこれから長い人生で続けて行かなくてはなりません。

いま、キャリアといいましたようにそれぞれ自分の道筋があるでしょう。最初は新人ですが次第に独り立ちし、キャリアを積み重ねて、今度はより上位な立場で組織を指揮する立場に変わっていく人もいるでしょうし、専門性を追求する人もいるでしょう。ある段階で全く異なる道を選ぶ方もいるでしょう。

各自同じ道筋ではなく、それぞれの皆さんの生き方、適性、企業の経営状況など内的外的要因によって変わってきます。全て同じような良いキャリアがあるわけではありません。100人いたら100人の社会人としてのキャリアがあり、自分自身のキャリアプランがあると思います。

さて、翻って社会人、企業において「仕事をする」ということは、これまでの学生生活と何か違いがあるのでしょうか?

そう考えてみると、一つ思うのは、社会人の生活では自らの「価値」を考えていく必要がある、ということです。学生生活の授業やゼミ、研究は、あくまで学問の世界です。そして皆さんはその学問を「学ぶ」立場でした。企業でキャリアを積むということには、「学ぶ」ということも当然含まれますが、大きな違いは「学びながら、価値を生み出さなければいけない」ということだと思います。

この「価値」とは直接的には「利益」という生々しい形で、要するに(比較的目先の目線で)「お金を生み出す」という側面を持っています。それはどういった意味があるのでしょうか?単純に皆さんのお給料を生み出す行為でしょうか?それだけではなく、企業活動において、価値を生み出さければ企業活動は存続できません。赤字を出せば法人税も納められず、社会に存在していながら、その社会に対して何ら価値を生み出さないことになってしまうのです。つまり、企業とは組織的に価値を生み出し続けなくてはならない存在だと言えます。そのために、価値を生み出す組織を作る、そのためにも新人を採用していくのです。そこで皆さんの世代もまた、企業に入っていくのです。

ここで「価値」ということを申し上げました。これは非常に漠然としています。では、それをどうやって作り出すのか、を考えてみましょう。

例えば、簡単なことで最近のロボットやAIを考えてみると良いでしょう。

ロボットやAIにより、人間の単純作業が奪われる、というディストピアめいた話題が最近ありますね。

ただ、これはロボットを開発し、製造したコストに対して現在作業している人間が生み出す価値を比較した結果、前者の方がより安くつく場合に「奪われる」ことになります。人件費よりロボットの方が安いし、より正確(かつ疲れない)だということを判断した結果ですね。

企業でもそうです。皆さん一人一人が、自分が業務によって付加価値を生み出すことを求められてきます。

仮にいつまでも付加価値を生み出せないとすると、それはお互い不幸なことになりますね。

で、そこで今回のテーマである「学生時代の勉強」を思い出してください。

大学で皆さんが学んだ学問には体系があり、原理から法則へと、普遍的な論理的構成になっていました。皆さんは学問の基礎を学び、それを研究テーマとしてまとめてきました。先人の知見を理解し、その上で仮説をつくり、検証してきたはずです。個々のその内容は様々ですが、そこには「論理的思考」があったと思います。

企業において業務をする際にも重要なことは、この「論理的思考」です。

学生の勉強が社会でどう活かせるか?と問われると、まさにこの「論理的思考」であるといえます。

「論理的思考」は企業活動の様々な場面で使われ、それをうまく使える人とそれをうまく使えない人には差が出ます。

「価値」を生み出すこと、の一面は、論理的な思考を使って課題に対するより良い答えを出す、ということとも言えます。

なぜか。

組織は一般的に団体戦です。つまり個人の力を組合せて大きな組織力として発現することが必要です。もちろん個人で組織に匹敵する成果を出す人もいますが、多くありませんし個人としても消耗します。

そこで、組織の中で個人と個人が交渉する、組織と個人が交渉する、組織と組織が交渉する、企業と企業が交渉する、企業と行政が交渉する、企業と消費者が交渉する、こうした広い意味での当事者間の「交渉」によって、個人や組織がコミュニケーションをとり、利害調整をした結果として組織としての合意となり、成果に繋がります。

その根底にあり他者や他組織を接着する役割が「論理的思考」です。

論理的に破綻している主張には人々は共感しません。

他人を、あるいは、組織を、あるいは、社会を動かすためには「論理」の筋道が通っていることが必要です。自分以外の他者を動かすためには、論理的整合が必須なのです。もちろん「権力」もありますが、それだけではない、という話です。

こうした首尾一貫した論理的に正しい思考、そしてそれを表現することが、これからの皆さんの社会的活動にとって重要になってきます。

そしてその基礎はすでに身についているでしょう。

ただし、蛇足として注意しておきますが、この論理的思考というのは決してコピペやパクリでは身につかないものです。

ただし、一見論理的思考のような一例をコピペして、その場をしのぐこともできてしまいます。

しかし、そのロジックの前提条件が変わったらどうするか?と問われた場合、論理で導出した場合には解答の修正ができますが、コピペで出した回答ではすぐに対応できないのです。

コピペ元を探して彷徨う人は企業の中で残念ながらたくさんいます。

前提条件が変わったら、その論理によって違ったストーリー、違った結論になります。そのストーリーをつくるのは自分の頭で考えないと無理です。決してコピペやパクリ(他人の受け売り)では小手先の対応で終わります。そうした「見掛け倒し」は、社会ではすぐにメッキが剥がれてしまいます。

どうか皆さんには、論理的思考をこれからも生かして社会人としてキャリアを積んで行って欲しいと思います。

その基礎は、皆さん各自がこれまでの大学での勉強で学んだエッセンスとして持っているはずです。

ぜひ、それを自分の本当のスキルとして磨き、血肉としてください。

そうすれば、きっと皆さんの社会生活も豊かに、価値あるものになるでしょう。

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プレゼン資料の刈り込みとせめぎ合い、そして高橋メソッドの誘惑

私が社会人になった頃、まだプレゼンではOHPに手書きでやっていたのが主流だった。

それが徐々に、OHP+ワープロ、OHP+パワーポイントなどの専用ツールになり、現在のプロジェクタ+パワーポイントとなっている。

私はパワーポイントを代表するプレゼンソフトには功罪があると思っている。

特にプレゼンソフトを使う際の動機として、あるプロジェクトの成果に対して

①プレゼンというビジュアルで観衆に直感的に理解させる側面

②最終成果物として内容を読者に正確に読み込ませるという側面

この二つの側面を同時に持たせようとしたことに大きな問題があると思っている。

特にプレゼンソフトの効率的利用として、この二つを同時に持たせるような資料作りを推奨するような(要するに二度手間を省く)言い方もされたことがある。

これは大きな問題で、上記の二つは全く相違する。

その結果として、①方向に振った場合には、②を作るために大きな手間をかけるか、②の正確さを犠牲にするし、②方向に振った場合には、はっきり言ってわかりにくいプレゼンを聞かされることになる。

特に②はきつく、コンサル系に良くありがちなのだがとにかく活字を入れようとする。コンサル系は変に美映えのするフォーマットは沢山持っているので、それを基本的に流用しようとするので、その枠の中にがっつり活字が入ることがある。中身がアレなので枚数で稼ぐ、というようなケースが加わったプロジェクトの資料なんかはっきり言ってきつい。それならいっそ成果物はワープロソフトを使って文書で作成してくれた方が、まだ論理を追えるのに、と思うこともある。

また、技術系のプレゼンは基本的に自分の領域を、あの苦労もこの実験も何でもかんでも喋りたくて仕方ないので、枝葉末節を付け加えたくなる。注記な説明や但し書きなどを大量に加えた結果、これまた小さい活字の多い論理が追えないプレゼン資料になる。

他人のプレゼン資料をチェックすることが結構ある。どうするかというと、結局、著者が言いたい基本的な論理構造を残して、それ以外のノイズを「消す」作業が大半だ。要するにダイナミックレンジを上げる作業である。

短時間のプレゼンなんて、聞く側からしてみたら、全部理解できるわけはない。極端な話「できたのか」「できなかったのか」だけ聞きたいのだ。つまり、相手の短期記憶に残す勝負なのだから、せいぜい「できたけど課題がある、それはコレコレ」くらいだろう。

作る側の気持ちも良くわかる。これが時間がたっぷりある読者対象だったらね、というのもある。ただ、プレゼンの場合には、繰り返しになるが、聞き手の感想としては単純に「わかった」「わからない」なので、「わからない」イコール成果の価値も下がってしまうことになる。

そういう意味で、盆栽を刈り込むように、「ここまでは省略してもいいかな、どうかな」とギリギリを追求しながら、他人のプレゼン資料を刈り込む作業をしているが、10年くらい前に「高橋メソッド」というものを知った。

高橋メソッド(wikipediaのリンク)は、②の方向性を真逆にしたもので、

・文字だけ

・シンプルに

・とにかく活字をでかくする

というもの。

例えば、上記で2枚を使う。

正直ギャグなのかどうかわからない(未だにわからない)が、私は上記のようなことを考えていたので、それを知った時には、心にグッときた。こうきたか、と。

プレゼン資料を刈り込む際に、その対極からいくようなもので、盆栽で行ったら枝しか残っていない状態だ。こちらが五分刈りとスポーツ刈りで、どのあたりで妥協するかせめぎあっているのに、いきなり安全カミソリでスキンヘッドにするようなものだ

さすがに怖いのでここ一番ではやらないが、小規模の集まりで時間もない時などは、2,3回トライしたことはある。もともと図やグラフがないことを前提としたプレゼンだったので、全く違和感がなかった。ただ、「わかりやすかった」とは言われていない。

でも、話しやすいといえば話しやすいし、資料作成も始めから丸坊主前提なので、結構大胆に作れるのでプレゼン者の時間的負担は少ないと思う。

人に薦められるかと言われると微妙だが。

参考リンク:

困ったときのプレゼンテーションにオススメ!! 高橋メソッド

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