【書評】ジョーン・ロビンソン「思い出のマーニー」(岩波少年文庫)–自らの中にある<過去>との対話による救済とは

  先日ジブリ映画を地上波放映していたのか、周囲で「思い出のマーニーが良かった。泣けた」という声を聞いた。さいきん精神的な疲労なのか、長めの動画を見るのが億劫になっている。特に序盤がきつい。小説だって似たようなものだと思うが、そうでもない。

 そんなこともあり購入はしていたが積読状態であったジョーン・ロビンソン「思い出のマーニー」(岩波少年文庫)、上下巻を読んでみた。翻訳は松野正子である。

 両親と祖母を亡くし養女として育てられた、心に大きな孤独感を抱える主人公アンナの心の中の問題が、海辺の村で出会ったマーニーという少女との「友情」によって解消されていく物語である。

 物語の舞台はイギリスの海辺の村、そして時代は原書の出版された1967年という設定である(のちに発見されるマーニーの日記は第一次世界大戦の期間、1914年から18年に書かれたことが示唆され、それを読んだミセス・リンゼーが”50年くらいは昔”のことと発言することから)。

 名作「トムは真夜中の庭で」のような時間SFチックな構造かと思いきや、ある種のファンタジーであった。主人公アンナ自身が、空想世界と現実世界を行き来するように、小説を読む地の文も”どちらが現実なのか”ということを定めないような記述をしているようだ。

 全37章からなるこの小説で、重要な登場人物であるマーニーは8章から21章まで”存在”する。1/3である。そして後半は、マーニーの日記の発見から、その存在の謎が明らかにされる。

 結局、アンナとマーニーは実際には何回”出会った”ことになるのか。アンナが両親を交通事故で亡くした後の短い期間、そして、この物語における海辺の村で「友情」を結ぶ期間の2回とするのが自然であろうか。ただ、いずれにせよ金髪の少女として現れたマーニーは、何を契機によってアンナと出会ったのであろうか。

 アンナが子供の頃ずっと見ていたとされる絵葉書の「しめっ地やしき」のイメージが、この土地に来たことで呼び起こされたと考えるべきであろうか。だが、ジプシーの花売り娘のエピソード、シーラベンダーを思い出すシーンは空想では解消できないと思われる。よって、この問題は物語の中で解消されていないのである。

 その一方で物語の主題であるアンナの心の中の孤独、寂しさが解消される重要なプロセスとして、マーニーとの以下のような会話が描かれる。

 アンナは、涙を流さずに、すすり泣きました。それから、怒りをこめて、つづけました。「あたしを、ひとりぼっちにして行ったから、おばあちゃんなんかきらい。あたしの世話をしてくれるために生きててくれなかったから、きらい。あたしをおいてきぼりにするなんて、ひどい。ぜったい、ぜったいゆるせない。おばあちゃんなんか、きらい」

「それはほんとにそうだけれど……」と、なぐさめるようにマーニーはいいました。

ジョーン・ロビンソン「思い出のマーニー」上巻、p.198

 この中盤での会話は、単純には友情的な少女同士のやり取りにすぎない。しかし、最終的に物語の最後まで読み進み改めてこの部分を眺めると、もう少し深い意味として解釈できることがわかる。

 いわば、本来解消できないはずの過去の事件の当事者と、本来できないはずの直接対峙をしているのである。

 それは我々が取り返せない経験として描かれる「後悔」のような経験を、救済する「奇跡」とも言える。

 金髪の少女として現れているマーニーは、アンナの心の中での対話であり、アンナの空想と解釈することが自然なのかもしれない。

 だが、あえてそのように描かれた対話は、何と対話したと言えるのか。

 それは、自らの中にあり、折り畳まれている歴史(生物としての歴史)との対話であり、それは現実における他者との体験と何ら相違がないということを示していると私は考える。

(補足)どうでもいいことだが、アンナが「アッケシソウの酢漬けを作るので、海辺にあるアッケシソウを積んでくる」という記述がある。アッケシソウは、塩生植物で、通常の植物は生息できない塩分が多い土壌において、むしろ成長できる。そして、その味わいは塩辛い、という海の近くに生きる人間にとって最適な植物でもあるのである。ぜひどこかのタイミングで食べてみたいと思っている。

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