【書評】機本伸司「神様のパズル」ハードSFでは、作者にとって”天才の先端性”と”大衆への啓蒙性”のジレンマをどうやって解決するかが悩ましい

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 2002年の小松左京賞受賞作である機本伸司「神様のパズル」を(今更ながら)読んだ。

 本書のメインテーマは、ハードSFの王道とも言える「宇宙を作り出す方法の可能性」という設定。そこに素粒子物理や大型加速器施設などの物理ガジェットを散りばめて、ある種の「仮説」とその「実証」が描かれる。

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 ストーリー進行は、主人公である”天才”穂瑞沙羅華(ほみず・さらか)が「宇宙を作り出す方法の可能性」のテーマについて、彼女自身の出自に由来した問題意識に従って思考していく。主人公である穂瑞は、作中で既に”精子バンクの人工授精で生まれた早熟の天才”という位置付けであり、既に読者との乖離がある存在として描かれる。

 そこで、読者と同じ目線の進行役であり、この小説の語り手、綿貫基一を設定することで読者との橋渡しをしている。

 この小説自体は、こうした非常に冒険的なテーマをハードSF特有の仮説の提示のみで済ませることなく、大学4年生の卒論をめぐる恋愛・青春模様や、大規模実験施設の周辺にある農村の風景などの対極的な要素と、うまくリンクさせており、広範な読者に”読ませる”ことを実現させている。

 そしてSFとしての問題意識が突きつける、

 ・我々の宇宙には意味があるのか?あるとしたら、それは何か?

 ・我々の宇宙にとって創造主は居るのか?居るとしたらその意図は何か?

 ・我々の宇宙とそれを理解しようとする我々個人とは、
  どのような関係にあり、我々個人の生きる目的とは何か?

といったテーマについて、読者に想起させることにも成功させている。

 特に苦労するのが、主人公であり”天才”として描かれる穂瑞沙羅華の人物造形であろう。世界の謎を最初に解き明かす存在を小説中で描くこと、これは非常に難しい。読者にしても、その”天才性”あるいは”前衛性”について納得できないと、小説としてのリアリティが崩れてしまう。

 作者の主張の一部でありながら、現段階の人類の英知を超えた存在として描かれなくてはいけないというジレンマを作者が抱えるのである。特にSFのような科学的知識に裏付けを持つ必要がある場合には尚更高いハードルであろう。

 いっそ天才は無口で余計なことを語らない存在にした方が良いが、その場合でも小説としては誰かが理由を解釈して読者に提供する必要がある。

 教師としての”天才”と、読者代表でいつも怒られる”進行役”という構図で進めることは可能であるが(本書も基本的にはそうやって進行する)、進行役によって常に天才の先端性が薄められる結果、陳腐化する恐れもある。

 この小説では、その課題を真正面から捉え、”天才”にそれ自体の”仮説”を語らせることを選んだ(「光子場仮説」と呼ばれるもの)。そしてそれを落ちこぼれ的な語り手、綿貫基一の1人称(日記形式)で再解釈して語らせることで、読者との平滑な接続を図った。このコアの部分は、綿貫がそうしたように、一定の人々はこれを読み飛ばすので問題は起こらないが、ある種の専門知識のリアリティがある人にとっては、違和感となってしまうことは避けられない。

 私自身の経験(物理学科卒)からも、この小説における物理学科の大学生の卒論ゼミの描写、大学教授(理学部)の発言、卒論の内容に関しては、少々現実からの乖離として受け取らざるを得ない部分があり、少々読者として苦しい部分があった。

 直截的な印象として、登場人物が理系ではなく、全員文系のように捉えてしまったのである。物理の卒論ゼミでありながら、演習で使われる用語は一切登場しない(問題を解かない)。まるで教養学部のゼミのような、あるいは、NHKの科学番組のような、大衆への「啓蒙性」が全ての場面に強くなってしまっている。

 本来自然科学が有する論理性とは、独善的であり啓蒙性とは相容れない部分がある。そこのジレンマをSF小説では抱えており、非常に難しい。

 森博嗣の「四季シリーズ」や小川洋子「博士の愛した数式」でも、その”天才性”を描くことに対して同様の構図があり、それぞれ別の小説手法として解決している。

 更には、”天才”と”進行役”の構図は、”作者”と”読者”の関係でもある。

 「バーナード嬢曰く 第1巻」の、グレッグ・イーガンの小説に関して、全く理解できないと泣く町田さわ子に対する神林しおりさんの名言

「みんな 実は 結構よくわからないまま読んでいる・・・」

「グレッグ・イーガン自身 結構よくわからないまま書いている」

「私がよくわからない時 同じ部分 作者もわからない」

施川ユウキ「バーナード嬢曰く 第1巻」

 という仮説とも関連する。作者と読者の間でも情報レベルの均衡の問題がある、という鋭い指摘である。

 「独善的な先端性」=作者と「大衆的な啓蒙性」=読者との関係は、正にトレードオフの関係であり、最適点が見つかるはずである。その試みとしても「神様のパズル」は非常に挑戦的な小説として読めた。

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