藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」(講談社文芸文庫)を読んだ。
いわゆる私小説であるが、藤枝静男は、リアリズム的に自分の心理を中心に描き想像力の対極にあると思われた私小説がその極限まで突き抜けると、SFあるいはファンタジーのような異世界空間に到達してしまう、という稀有な作品世界を作り上げた。私小説に怨念を持っている筒井康隆が「みだれ撃ち涜書ノート 」で、藤枝の作品群に仰天していたのも記憶している。
妻の死を描いた連作「悲しいだけ」はまだそれほどでもないが、作者を投影したと思しき主人公「章」による連作「欣求浄土」は、読み進めていくと、いつの間にか読者は不思議な感覚に襲われる。
ラスト2作「厭離穢土」および「一家団欒」で、それは明確になる。
「厭離穢土」では、これまで主人公であった「章」が死ぬところから唐突に始まる。そして、ここまで読み進めて初めて、語り手である「私」が実はいたことが判明するのだ。
人を食ったような冒頭のシーンを引用する。
とうとう章が死んだ。告別式がすんでひと月ばかりしてやや落ちついたころ、章の細君が一冊の大学ノートを持ってきて私に手渡し「お読みになったらそのままお手元に置いてやって下さい」と云って帰った。
藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」(講談社文芸文庫)「厭離穢土」p.121
つまり、唐突に章=私ではなく、章と私が分離されるのである。そして章の「手記」が語られ、死期の姿が描写されていく。
そして最終話(これが実は一番先に書かれた作品のようだが)「一家団欒」では、私小説のリアリズムなどはもはや関係なく、死んだ章が自分の先祖(親や早世した兄弟)の眠る墓の中で、彼らと再会し霊魂となって祭りに参加する様がユーモラスに描かれる。
このイメージは、まさに作者の想像力によって作られたもので、私小説の作品作成の極限の到達としてこのような豊穣な物語空間が生み出されたということは、物語の力よって鼓舞されたいと日々思っている私のような読者にとって、勇気づけられる読書経験であった。