極私的 中島みゆき カラオケで歌っても他人とカブらない超名曲ベスト10【カラオケリスト】

中島みゆき先生の曲を知ったのは高校生の頃である(遅いのである)。

ベストテン番組でいわゆる歌謡曲は普通に親しんでいたが(当時は中森明菜全盛期)、中島みゆき先生はTVに出ておらず、全く存在を知らなかった。

何がキッカケで知ったのか、全く思い出せない。

初めて買ったCDアルバムが5th『親愛なる者へ』なのは確実だが、何故これを選んだのか?全く記憶にない。

しかしここから中島みゆき先生の魅力にどハマりし、CDを買い、コンサートに行き、夜会にも行き、といった順調な信者生活を歩んでいる。

上記は『歌旅 中島みゆきコンサートツアー2007』と『夜会の軌跡1988-2002』である。

もちろんカラオケでも中島みゆき先生中心である。

これは実は、社会人の戦略的には良いと思っている。何故なら、なんだかんだでみんな知ってる曲が多く、世代的な差異があまりない。

これ、新社会人が歓迎会の二次会に行った際の選曲としてオススメできる。オッさん連中の知らない唄を歌ってシラケさせることがない。

また長渕剛などの場合には、強面オッさんの持ち歌の場合で、地雷を踏んでしまう場合がある。

中島みゆき先生の場合には、オツボネーゼが持ち歌ということもあまり無いし、歌う側として”共通の文化遺産”という意識があり、むしろ知っていたことに対して寛容である気がする。

長渕剛と違い、信者であっても若干の後ろめたさがあるからであろうか。

ついでに、情け無い話をする。

年を取ると、カラオケの際に何を歌うか思い出せなくなる。あれ?何か歌おうと思ってたけど……思い出せない……という出来事が続くのだ。リモコン操作の時間に追われ、気づけば消化不良。

その結果として、諸君、”カラオケリストを作る”羽目になるのである。

オッサン臭いが、これはこれで便利である。

ただ、カラオケに行って、スマホのメモ帳から検索してるのを見られると、相手から100%引かれる。ドン引きされる(経験あり)。

よって、私のカラオケリストには中島みゆきのセレクトが詰まっているのだが、メジャーなものはあまり入っていない。それは、誰かが歌うからである。

その結果、比較的マイナーな名曲リストになっている気がするので、今回開陳する次第である。

1位 「ホームにて」

関連記事:再生の意思としての”キップ”:中島みゆき「ホームにて」と吉本隆明「涙が涸れる」

2位 「時は流れて」

3位 「夜曲」

4位 「永久欠番」

5位 「南三条」

6位 「この空を飛べたら」

7位 「タクシードライバー」

8位 「旅人のうた 2nd version」

9位    「シュガー」

10位 「あした」

以下、順不同で

  • 「2叟の舟」
  • 「誰のせいでもない雨が」
  • 「友情」
  • 「傷ついた翼」
  • 「明日なき我ら」
  • 「ローリング」
  • 「重き荷を負いて」
  • 「with」
  • 「あたいの夏休み」
  • 「やまねこ」
  • 「瞬きもせず」
  • 「炎と水」
  • 「おまえの家」
  • 「永遠の嘘をついてくれ」
  • 「たかが愛」
  • 「命のリレー」
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再生の意思としての”キップ”:中島みゆき「ホームにて」と吉本隆明「涙が涸れる」

 注意:完全に自己陶酔して執筆しています。

 中島みゆきの数ある名曲の中でも、私のベスト1は「ホームにて」である。

   ゆっくりとした静かな曲であり、その歌詞は抽象的であり、聴く人によって多様な解釈ができるようになっている。

 ファンの間でも、詞の「主人公」が男性なのか女性なのかという論議があったと聞いている。

 実は、この詞には主人公の存在自体が、明確に規定されていない。

 歌詞で言及されているものは、”ふるさとに向かう” ”最終列車(空色の汽車)”があり、場所としては ”ホーム”、登場人物は ”駅長”、”帰りびと”があるだけである。そして、主語としては単に歌い手じしん=<私>が暗示されているだけであり、その<私>でさえも、揺れ動く不確定な視点あるいは視線のように、歌詞の進行によって次々に空間的に移動し風景を切り取っているだけのぼんやりとした存在である。

 ここで、<私>が男性であるか女性であるかは本質的な問題ではないと思われる。

   むしろ、ここでは<私>という存在があり、その存在の規定には生死すら超えて定義されているという点に注意したい。つまり、時間的に大きな自由度を持つと同時に、実在性を極限まで収束させた単なる視線としての<私>だけが確かにそこにいる、というミクロな構図のみが確実になっているだけなのである。

 この歌が、”ふるさと”へ向かっての「新たな旅立ち」(往路)あるいは「旅の終わり(帰省)」(復路)双方の意味に解釈できる理由もそこにある。意図的に時間的に多様に解釈できる大きな自由度を与えているからだ。

 その一方で、空間的には一定の意味によって制約されている。それは、駅のホームであり、最終電車の車内である。ただし、そこでも”閉まりかけるドア”を見る視線はどちら側にいるのか、明確ではない。ホームにいる可能性もあるし、車内にいる可能性もある。<私>はどちらにいるのか。彼岸なのか、此岸なのかは確定されない。

 歌詞の中では、実在性のない<私>の視線が空間的にいくつかの地点を移動するだけである。

 しかし、歌詞の進行は次第にその総括的なベクトルを収束し始める。つまり、”ふるさとへ向かう”方向は、やはり一方向で非対称なのである。言うなれば戦場に向かう軍人のように、その行く先には帰還を期待してはいない。

 だが、それもマクロな「歴史」においてはただの「さざなみ」に過ぎない。

 グローバルかつマクロな歴史的時間を1つの座標軸に取った上で、空間的に一部を切り取り、その局面におけるほんの少しの非対称な出来事を歌っているだけの、この単純な歌に、なぜ、私たちの心はこれほどまでに揺さぶられるのであろうか。

 この構図は、歴史の中で繰り返される普遍的な<出来事>と言い換えても良い。

 ではその<出来事>とは何か。

 最終電車が到着したホーム、街とふるさとの対比、”帰りびと”と<私>の対比、これらを手掛かりにかんがえてみる。

 これらの材料を加えても、この<出来事>が何であるかは決して確定しない。<私>は、決断をしたのか、していないのかすら、未確定なのである。

 私にはこの歌を聴くと思い出す現代詩がある。

 吉本隆明の初期の名作『涙が涸れる』である。

 以下一部引用する。

(前略)

胸のあいだからは 涙のかわりに

バラ色の私鉄の切符が

くちやくちやになつてあらわれ

ぼくらはぼくらに または少女に

それを視せて とおくまで

ゆくんだと告げるのである

 

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ

(後略)

 引用終わり

 この詩も抽象性が高く、一義的な解釈が困難な詩である。

    あえて大胆に語ることが許されるとするならば、敗北の後の再生を、歯を食いしばって歌ううたであると思う。

    そして、”とおくまでゆくんだ”というフレーズは、その目指すべき再生の目標に対する非常に高い思想の射程距離を示している。同時に、一方向性、すなわち、非対称な特性もまた示している。

 そして、「涙のかわりに」出現する「バラ色の」「切符」。

 中島みゆきにおいても、2番において”溜まっていく空色のキップ”として表現されている、この”切符”=”キップ”とは、いったい何を意味しているのであろうか。

 往路であろうと復路であろうと、目標とする到達点があり、その目標を見出すまでに、我々は何を経験することになったのだろうか。

    おそらく「敗北」の経験があったのだと思われる。

   その「敗北」からの再生、すなわち人間の生活を組織するために、我々は大きな意思の力を必要とする。

 その意思を示すメタファーとしての”切符”は、「敗北」の結果として、くちゃくちゃであり、溜まっていく、弱々しいものとして描かれる。

 しかし、それなくして再生のための出発はなく、敗北の中で、一度は意思を固めた証としての証跡、”キップ”=”切符”は存在する。そして、歌詞および現代詩それぞれ、全体の中で大きな効果を上げている。

 こうした表現技術によって、中島みゆきの「ホームにて」において、我々が歌い手=<私>の個人的出来事と汎時代的に現れた普遍的な出来事とを、固く締結する効果を生む。

    その出来事とは何か。

 敗北からの再生である。

 そして、再び立ち上がる意思表示(契約=キップ)とともに、我々の小さな出来事自体が、より大きな普遍的出来事と結びつけられ、勇気をもたらす。

 そのとき、ちっぽけで弱い我々の心が、反応するのであろう。

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