都筑道夫「三重露出」(講談社文庫)を読んだ。
終戦直後を舞台としたアメリカ人作者によるスパイ活劇小説である「三重露出」の翻訳(という体裁の文)と、その翻訳者滝口が「三重露出」の登場人物である女性の名前が、かつて本人も関係する殺人事件の被害者の名と同一であることに着目し、迷宮入りとなった過去の事件の真相を探るという本格推理の二つの構造からなる。
いわゆるスパイ活劇の方は、舞台は終戦後の日本でありながら、忍者軍団やギャングが登場し、まさに無国籍映画そのものの展開を示す。実際にこの箇所だけを原作とした、小林旭主演の日活映画「俺にさわると危ないぜ」が公開されており、黒タイツの女忍者軍団など、なかなかの無国籍ぶりである。YouTubeに予告編があった(海外向けであろうか)。
上記の予告編を見てわかる通り、スパイ活劇の部分は確かに過剰に面白いのだが、これらを1つの推理小説として読了した感想として、何か釈然としないものが残るのである。
二つの輻輳するストーリーが、あまり連関していないのだ。
タイトル「三重露出」とは、いわば三枚の風景を露光し一つのフィルム映像に重ねたものであるが、あえてこの名称にしたとするほど小説が”重ね焼き”になっていないのである。スパイ活劇である「三重露出」の筋において、タイトル「三重露出」を語る場所は、おそらく1箇所、p.169に「今までこの事件は、三重露出ぎみだったがね。どうやら、ピントがあって来たようだぞ」というセリフがあるが、この意味もあえて言えば誤用に近い。
注意:以下ネタバレを含みますので、未読の方はご注意ください。
注意:独自見解を含みます(読み間違っている可能性もあります)。
また、重厚な犯人当ての推理を展開してきた本格推理のパートも、論理的な推理の前提となる証言が最後に覆され、いわば犯人が分かったような、分かっていないような状態のまま小説が終わってしまう。犯人のような人間も、仮にそうだと言われても、読者にとって、”なるほど”感も”意外”感もないのである。果ては、その殺人の動機に至っては解明されない。
実際に、この作品をめぐる読者の評価も、パンチの効いた(効きすぎて露悪的な表現が多い)スパイ活劇パートと、本格推理の割りに尻切れトンボのようなパートとの関連が見出せないとするものが多い。
実際にそう読める。
しかし、どうもこの読後感は”奇妙な味”の小説にも通じる雰囲気もあるのだ。
深読みかもしれないが、作者によって、もう一つ謎が仕掛けられているような気がするのである。「三重露出」でありながら、まだ二重、二つの絵しか投影されていない。つまり、実際にはもう一つの”絵”が重ねられていると解釈するのが正しいのではなかろうか。
ポイントの一つは、「誰がワトソンで、誰がホームズなのか」である。
本格パートは、箕浦と滝口という二人が、過去の事件の関係者に聞き取りなどを行って進行していく。滝口は「三重露光」の翻訳者であり、主人公というべき存在である。箕浦はその協力者である。どちらも過去の殺人事件の容疑者から自身が除外されていることを宣言している。
探偵役=ホームズ=滝口、善意の進行役=ワトソン=滝口という構図が自然の理解であり、最終盤に、箕浦自身が滝口に宛てた手紙の中で「ワトソンに欺かれたホームズ」と理解できる表現も使っている。
しかし、その一方で、この構図自身に”座りが悪い”表現もある。冒頭に箕浦はパイプを出すシーンが描かれる(p.28)。これはどう見てもステレオタイプなホームズのイメージを模したシーンではなかろうか。つまり、実際には逆で、滝口こそが善意の進行役=ワトソンであり、彼自身が”アンフェア”な嘘を読者に向かってついているということを意味しているのではないか。
滝口の「嘘」とは何か。
本格パートの”謎”である、電話をめぐる問題で、容疑者の一人小森と会った後に、同じく巻原と会った箕浦と会話するシーンがある。ここで問題となる”第二の電話”の話を箕浦がするのであるが、その前に事実として滝口自身が殺人事件の当日にかけたとする”第一の電話”も合わせた”電話について”、滝口は虚偽の発言をしているのである。小森とあった際に滝口は、電話の話はしていない。しかし、箕浦の”嘘”に合わせて「小森もそんな意見だった」(p.156)とするのである。
つまり滝口自身がワトソンであり、そして、推理小説の前提である善意の語り手であるとするフェアプレイをしていない。悪意のある語り手であることを示唆しているのではないだろうか。
そうすると、この小説自体もまだもう一つ重層的な構造を持っているように思える。早々に言及されて、犯人から除外され、読者の前から消えてしまった滝口、箕浦のアリバイすらも、確証があるのかどうか危ういこととなる。
だがこのレイヤーの構図は、滝口の下宿がそう描写されているように薄暗く、光度が不足している。
箕浦が小声でいって、立ちあがった。蛍光灯がついてみると、その顔は屈託なげに笑っていた。さっきから、話に険があるように感じていたのは、滝口の思い過ごしだったのだろう。やはり人間の生活には、つねに光が必要らしい。
都筑道夫「三重露出」(講談社文庫)p.163
単純明快なスパイ活劇と、それを巡るもう一つの事件の二重構造の上に、もう一つ、三層目の映像が見えるような気がするが、そのためにはまだ光が足りない。