【書評】山田正紀「花面祭 MASQUERADE」華道を舞台にした、ハッピーエンドを許さない連環的な読後感を持つ本格ミステリ

 山田正紀「花面祭 MASQUERADE」(講談社文庫)を読んだ。

 華道を舞台にしたミステリであり、4人の若い女性華道師範による、秘伝の花”しきの花”をめぐる謎解きを縦糸にしながら、過去にこの流派で起こった”事件”をめぐる大きな謎解きがリンクする。

 4人のヒロインたちは、それぞれ春夏秋冬の”四季”がシンボライズされている。小説の中では、これらの四季に応じた花々が登場し、いわばむせ返るような花の風景が咲き乱れるのである。

 更に過去の事件と、ストーリー自体の現代をめぐっては”輪廻転生”がキーワードとなる。”しきの花”は輪廻転生もシンボライズされているとされ、”しき”=死期という仕掛けもある。

 ミステリ空間では、”しきの花”をキーワードとして、むせ返るような「花」の乱舞の中で、次第に謎が解かれていく。

 本格ミステリらしく、大がかりなトリックも仕掛けられ、ある種のカタルシスも得られるが、本書の特色としては、こうしたミステリアスな雰囲気の中で最後まで閉じることであろう。本来ヒロイックなはずの「探偵」自体も、最後にはこの物語から明確に排除されてしまうのである。

 こうした読後感はある意味著者の真骨頂で、最後まで読者にある種の新規な仕掛けを与えるサービス精神とも思える。

 本来カタルシスや安心感を与えるはずの、読後感においてミステリとしては収束しておきながら、物語としては安易に終わらせない、いわば連環的なイメージを与えている。

 これはすなわち本書のメインテーマである「輪廻転生」そのもので、ミステリの題材というより著者の持つSF的志向がうまく融合されたものと言える。

 

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【ブックセンターいとう】30年前の多摩ニュータウンにあった超大型古書店の思い出【博蝶堂】

 あれは1980年代前半から1990年代前半。

 まだバブルが弾けていない、古き良き時代のことであったと記憶している。

  多摩ニュータウン近郊に出現した「超大型古書店」の思い出について語ってみたい。

 これはBOOKOFFのようないわゆる「新古書店」とは異なる。

 既存の町の古本屋の倉庫を、そのまま深夜営業の大型店舗にしたようなカオス感というかアナーキー感が漂う非常に面白い店であったのである。

 特徴としては、

 ・郊外にプレハブ倉庫のような超大型店舗(場合によっては2階建てもあり)

 ・深夜営業(おそらく大学生向け)

 ・本棚が異常に多い

 ・同じ本を多数置くことも許容

 ・大学の指定教科書の販売が多い(多摩ニュータウンの特徴)

 ・雑誌もバックナンバー含めとにかく多数置く

 ・今でこそ「あり」だが、立ち読み自由

 といった形で、とにかく物量が異常に多かったのである。

 おそらく多摩ニュータウンの立地(土地があり、大学生が多い)に適していた形態だったのであろう。

 また、BOOKOFFのような、本にスーパーのようなシール値札をつけるようなことはせず、 古書店らしく裏に鉛筆で値段を記載していた(当時のこと。現在は不明)。

 しかし、その後BOOKOFFなどの新古書店の台頭により、この店舗形態は駆逐され、それと同質化していった。

 そして現在のBOOKOFF的な新古書店ビジネスの停滞とともに、いっしょに駆逐されようとしている。

 代表的な店舗としては

 ・ブックセンターいとう

  ・ブックスーパーいとう(上記の”センター”と兄弟店舗らしく、のちに統合)

 ・博蝶堂

 などがあった。

 特に「ブックセンターいとう」の本店(東中野本店)は野猿街道沿いにあり、その2階建てで極めて巨大な店舗には度肝を抜かれ、圧倒された。まさに今でこそ当たり前の”せどり”の宝庫のような感じであったが、意外にも値付けは正確であったように記憶している。

 周辺の中央大・明星大などの大学指定の教科書などが大量にリサイクルされるようで、結構理工学系の書籍もあり、理工系の学生にとっては助かった。

 学生時代の私は50ccバイクに乗って、深夜の時間潰しもかねて良く寄っていた。いくら時 間があっても見尽くせない物量であり、心ときめいたのである。

 この店は今も同じ場所に店を構えているが、BOOKOFFに近い形態になってしまっており、当時の面影はない。

 博蝶堂も野猿街道沿いにあった店舗であり、既に閉店している。

 形態はさらに”古本屋の倉庫”に近い形態になっており、高い天井まで届く本棚には黄ばんだ年季の入った古い本が大量に並んでいて、カオスに加えエキゾチックな雰囲気があった。誰が買うの?と思われるような本が、多くあったのだ。

 ここで今や完全に忘れられている(?)城戸禮(きどれい)の三四郎シリーズ(春陽堂文庫)を1冊50円で大量に購入したが、その後の扱い(処分)に困ったのも良い思い出である。当時の私のつたない”せどり能力”では、これを掴むには時代が早すぎるのを感知できなかったのである。

 河出書房の<現代の科学>シリーズも、大量にかつ安価(300円均一)で販売されていた。これは今でも入門書としての価値があり、助かっている。

1冊300円で購入した河出書房の<現代の科学>シリーズ

 2019年5月、町田にあった大型古書店「高原書店」の倒産、閉店がちょっとしたニュースとなった。

 ここが今私の生活圏の中で、最後の”超大型古書店”であった。

 予備校を改造した店舗で、4F建てにぎっしりと書籍があり、学術書、児童書、漫画、SFなどジャンルは多岐にわたり、セール本から高価本まで値付けも確かであった。

 四国にあったという倉庫の100万冊とも言われる膨大な書籍の行方はどうなってしまうのだろうか。再び古本市場に流れて、我々の目に留まれば良いが。

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【書評】岡野弘彦「折口信夫の晩年」–折口信夫の壮絶な晩年と恐るべき師弟関係を描く

 岡野弘彦「折口信夫の晩年」(中公文庫)を読んだ。

 民俗学者・国文学者・歌人の折口信夫と晩年に同居し、その最期を看取った岡野弘彦による本書は、折口信夫という巨大な学者の、常識の枠を大きく逸脱した晩年のエピソードが満載である。

 太平洋戦争前の学問環境における師弟関係の特殊性、および、”折口学”と呼ばれる、多数のエピゴーネン(今で言えばフォロワー)を生む独特の思想体系を考慮する必要があることは理解できる。

 だが、それらを差し引いても、パワハラ+セクハラ(しかも同性間)+ストーキングとしか現代的に解釈できないエピソードのオンパレードなのである。

 折口は、学問の追求において、ある意味徹底した師弟関係を要求した。

 いわば師弟が肉体及び精神まで含めて同一化・一体化することを強要した。

 それは師弟関係という非対称な関係において、師匠の発言という側面から見れば、”権力”による支配となるであろう。そして、その支配に対して、弟子は学問的だけでなく生活面からも全面的に服従することもひとしく要求したとも言える。

 弟子たちに自分の後継者として慶應大学や国学院の講義を斡旋する。そこまでは良いが、彼らの講義内容は折口がほとんど口述してしまう。つまり、彼らの講義は、折口の思想の単なる再生装置であり、そこにオリジナリティの入る余地はなく、そのこと自体を彼ら自身も悩む。だが、このやり方自体は学問の習得としては間違っていないであろう。多少度が過ぎているとはいえ、まさしく師の思想の一体化に必要なプロセスとして折口が要求したものであろう。

 だが、そうした常識的なレベルに留まらないのである。

 折口信夫は、そうした全面的な服従のために、弟子の生活退路を断ち、相手の心を読み取り先回りするように支配する。失礼な言い方をすることが許されるのなら、その姿は、まさに「サイコパス」なのである。

 弟子の一人加藤守雄がその著書「わが師 折口信夫」(朝日文庫)において、折口発言として記録した「(前略)師弟というものは、そこまでゆかないと、完全ではないのだ。単に師匠の学説をうけつぐと言うのでは、功利的なことになってしまう」(加藤 p.208)とあるように、師弟関係に同一化を志向したより密接したものを要求した。

 また弟子の側でも、まさに世間の常識を超えるべく踏み絵を迫る師匠に対して一定の理解を示す。

 おれの信頼を裏切る者、おれの生活について来られない者は、何をいっても仕様がない。弱者は自ら裁かれよ、という割り切った厳しさで、身辺の者を律していられたのだと思う。

(岡野 p.96)

 だが、折口自身の態度が、実際にはそのような割り切った態度ではなかったことが、この問題を複雑化させている。

 折口がその後継者として認め、15年にわたり同居した養子の折口春洋は、召集され硫黄島の戦いで戦死してしまう。その折口春洋が自分の不在に際し折口に紹介した前述の加藤守雄に対して、折口信夫自身が上記のような割り切った思いとは裏腹の、異常な執着を示すのである。

 学問的な師匠という関係を超えた折口の情愛を恐れ、何度となく出奔する加藤を、老齢の折口自身が追いかけ、名古屋の実家に深夜出向いて連れ戻そうとする恐ろしいエピソードが加藤の著書には溢れている。

 明らかに折口の行動自体にも、自律的な学問追求の生活態度と、折口個人の情念の間において揺れ動き、自己矛盾を生じているとしか言いようがないのである。

 しかしながら、この矛盾は、”ことば”を頼りにして、古代日本人の民族的な精神を時間を超えて正確に読み解くことを追求した折口自身が、個人を超えた<精神的集合体>のようなものを志向していた結果とも思える。

 つまり、手法として、古代の日本人の<精神集合体>を時空を超えて訴求することは、自分自身もまたそうした<精神的集合体>を体現する必要があるということを宣言しているかのようなのである。

 それは矛盾そのものであり、極めて困難な作業だったに違いない。

 戦争によって学問的後継者を失った折口自身がその死に瀕して語った、「こんなになって、後を残す者のないことが一番苦しい。……こんなに苦しいものだとは、今まで思ってみたこともなかった」(岡野. p.273)という、弱々しいことばからもそれは窺える。

(参考文献)
 岡野弘彦「折口信夫の晩年」(中公文庫)
 加藤守雄「わが師 折口信夫」(朝日文庫)

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【書評】楠木新「左遷論 組織の論理、個人の心理」–”個人的な経験”となる「左遷」に対する体系的な良書

 楠木新「左遷論 組織の論理、個人の心理」(中公新書)を読んだ。

 生命保険会社を定年まで勤め上げ、MBAも取得している著者によって書かれた本書は、「左遷」という概念を真正面から取り扱っている良書である。

 本書で言及されているように、「左遷」そのものは、個人的な心理、すなわち主観的な部分に多くを依存し、社会科学的に捉える客観的な事象として捨象することが困難な側面を持っている。よって、既存の経営学的な視点で取り扱いう対象として難しい。一方、小説やドラマなどでは、劇中の大きなインパクト要因(例えば主人公の受難)として使用されるが、こちらは現実との乖離が大きい。

 社会人生活、特に組織に属する個人の経験として、「左遷」(自分の望まぬ、かつ、今より待遇の悪いポジションへの異動)は、自分にも周囲にも経験がある。自分に降りかかった際にはストレスになるし、他人の人事異動は正直言って野次馬的な興味があるのは否定しがたい。本書で言及したように、電子化される前に、定期辞令が紙で各部署単位で配布された際には、その冊子が回覧されて来るのを今か今かと楽しみにしていた自分がいたのも事実である。

 本書は、こうした言及しにくい「左遷」について、コンパクトであるが体系的に記述した良書である。

 著者は人部部門のキャリアもあることから、通常伺い知ることのできない、人事部門目線での記述もある。

 たしかに人事異動の担当者の仕事は、詰まるところ空いているポストに社員を当てはめる業務であり、実際にはそれほど大きな裁量はない。また会社組織の建前としても恣意性は公式には認めないであろう。
 私が若手社員だった時には、「家を建てると転勤の辞令が出る」と社内で良く言われていたが、実際に人事部で働くようになると、それが俗説であることがよく分かった。そんな理由で異動を決定する裁量は持ち合わせていないし、人事担当者も人の子で、嫌われたくないのが本音である。

楠木新「左遷論 組織の論理、個人の心理」(中公新書)p.17

 こうした客観的な事象ではなく、主観的な事象、いわば”個人的な経験”として記述されることの多い「左遷」について、著者は更に思考を推し進めて、戦後の日本経済が保有し、高度経済成長でその優位性を獲得した人事システムについて言及する。

 新卒の一括採用により同質化した社員を一列に並べ競争させる。ピラミッド型の役職体系により、キャリアとともにポストは少なくなる。成果主義ではなく”能力平等主義”により、専門性やスキルのみを重視しない。組織内の内部序列を作る。

 こうしたシステムのもとで、誰もが読むべき均質化した「空気」を持った環境を、その構成員の同意を持って自然に作りあげてきた「共同体」意識があるとする。これは高度経済成長時代には確かに有効なスキームであった。

 このような考え方は、中根千枝「タテ社会の人間関係」(講談社現代新書)でも既に言及されている、”根強い能力平等観”による日本の社会構造が抱えている課題そのものである。

 そうした共同体の中では、構成員は排除されることを恐れ、周囲の序列を常に確認しつつ、自らを照らしてその処遇を主観的な意識=「左遷」として意識するのである。

 そして著者は、その克服もまた自己の意識にあるとする。「挫折」をある種の契機として、すなわち「価値」として認識することを提示する。

 「左遷」は、個人の中にその根拠の多くを担っている。

 個人は個人として、社内とは別に自身の「物語」を作っている。その自分の「物語」と、社会生活は矛盾することが多い。大なり小なりこうした矛盾に折り合いをつけつつ、我々は日々生きている。しかし、その個人の「物語」に社会の方から看過し得ない大きな変更を加えられたとき、それは一面として「左遷」体験となるのであろう。

 そしてそれは直接的には他者の力によって解消されることでしか解決できない構図になっているとも言える。本書でも、「40歳以降では自力による敗者復活はない」という記述がある。では他力にすがるしかないのであろうか。

 本書では、そうではないとする。

 本質的に克服することができるのも、「物語」の作者である自分以外にないのである。そうした経験は、誰しも持っている。おそらくエリートでさえも。こうしたことを読後に考えさせてくれる良書であった。

 ちなみに本書では、「左遷」の実例として、菅原道真、森鴎外などを挙げている。私としては、鄧小平をあげたい。3度の失脚、そして3度の復活。本書の記述通り、復活は自力ではなく他力である。だが、毛沢東が「あいつはまだ使える」として、粛清手前で踏みとどまった運命には、何らかのわずかな自力が見える。この点には興味があり、私自身が苦境に陥るたびにwikipediaを見て勇気づけられるのである。

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【書評】菊池秀行「吸血鬼(バンパイア)ハンター”D”」–激烈に面白い超エンターテイメント!

 菊池秀行「吸血鬼(バンパイア)ハンター”D”」(ソノラマ文庫)を読んだ。

 本当に今更ながらであるが、初読である。

 1983年出版の作品で、菊池はこの作品を執筆当時33歳。

 いわゆるSF伝奇的な作品で、戦闘など胸躍るシーンも多い。吸血鬼伝説をモチーフとしつつ、遠い未来の世界(12,090年)における吸血鬼と人間の相克を描いたものである。

 この作品だけでは解けない謎(主人公”D”の出自や、謎の声の存在など)もあり、歴史スペクタクルとしても重厚であり、文体も一部講談調(弁士語り)もあるが、それが古びた感じもなく、むしろ活劇を描く意味で良い効果を出している。

 シリーズ第1作であり、主人公”D”の超人性を際立たせる部分に加え、物理的な弱点の存在や、心理的な二重性(相反する部分)などもあり、物語の造形としても非常に魅力的かつ重層的な設定となっており、一気読みである。

 今オッサンが読んでも心ときめくので、これを中高生時代に読んでいたら、きっと、どハマりしていたであろう。

 ちなみにフィジカルな本、要するに実体的な紙としての媒体で読んだ(実家から持ってきた)わけだが、今現在ではこのシリーズの初期の巻は、電子書籍と紙媒体の価格差が凄いことになっているようだ。

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【書評】平井和正「狼よ、故郷を見よ」–”狼男”の失われた”母”をめぐる傑作

 平井和正「狼よ、故郷を見よ」(ハヤカワ文庫)を読んだ。表紙や挿画は、生頼範義であり、なかなかの雰囲気である。

 本書には「地底の狼男」および「狼よ、故郷を見よ」の中編2編が収められ、いわゆるアダルト・ウルフガイ、30歳台のルポライター”犬神明”の冒険が描かれた別巻の第2作目にあたる。

 表題作「狼よ、故郷を見よ」がやはり面白い。毎回CIAなどの追手に追われ、過酷なピンチの状況に追い込まれる主人公、狼男である犬神明が、その母の故郷である紀州の隠れ里に追い込まれる場面から始まる。

 その隠れ里には自らの一族は不在であり、犬神明は、追手である密猟マタギとの死闘を演じる。そしてその窮地を助ける女性が、彼の伴侶でありつつ、それ以上の愛情、いわば超人的な「愛」を注ぐ。

 超自然的な何かに誓願をかけ、その見返りとして得られた超人的な力によって彼を助ける。そしてその誓願を達成する見返りとして自らの命を交換するという、自己犠牲が描かれる。

 これはまさしく伴侶というより、東京大空襲のなか、彼を守った血も分けた「母」の姿と重なるのである。そのことは明示的でないのだが、はっきりと浮かび上がってくる。

 狼男自体はアウトサイダーであり、主人公は同時にその一族からも追放された二重のアウトサイダーであり、寄る辺ない存在である。

 そうした孤立した宿命が前提された上で、自身は不在のままなお彼を守護する「母」の姿は、これもまた超自然的な壮大さのイメージとともに読み手に感動を呼び起こすのである。

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【書評】矢野徹「カムイの剣」–日本SF第一世代による幕末を舞台にしたSF大冒険活劇

 矢野徹「カムイの剣」(角川文庫)を読んだ。いわゆる旧版の1巻本で、1975年発行の初版本である。

 アイヌと和人の間に生まれた主人公が、自身、そしてその親をめぐる大いなる謎を解くべく、東北、北海道、オホーツク、ベーリング海峡、アメリカ、そして幕末の日本を舞台に駆け巡る。そして、彼の敵となる忍者軍団との戦い。

 とにかく大量の”材料”が仕込まれている。上記のストーリーラインだけでなく、アイヌ文化、漢籍、隠れキリシタン、安藤昌益、マークトウェイン、ネイティブアメリカン、西郷隆盛など、SFが持つ特徴の、異種結合タームも大量に駆使され、一気に読んでしまう。

 奇しくも解説の星新一が、彼らしくクールにサラッと指摘しているように、本作はデュマ「モンテ・クリスト伯」と小説構造は相似している。

 度重なる苦境、閉塞した空間での師匠による教育と成長、秘宝の探索、秘宝の秘匿、超越性を身につけた「変身」、強大な力による復讐、と言った時系列構造がまさに「モンテ・クリスト伯」を読んだ際のドキドキ感とそっくりなのである。

 だが、それが特に本作の瑕疵にはなっておらず、むしろより大きなスケール、テーマを与えた点に、矢野徹のオリジナリティがあると思われる。

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【書評】山田正紀「恍惚病棟」信じていた世界が、ある瞬間にグラリと転回する、本格ミステリ

 山田正紀「恍惚病棟」(ハルキ文庫)を読んだ。

 山田正紀は、デビュー作「神狩り」以降、極めて高度な娯楽性を持った作品を描き続けている。本作も認知症患者(老人)のいる病院を舞台に、本格ミステリのもつ大トリックが仕込まれた傑作である。

 ネタバレになりそうなので詳細は書けないが、読者への仕掛けがあり、それが明らかにされたとき、日常と思っていた世界が”ぐにゃり”と曲がり、全く異なる様相に転換されてしまうような心的体験をすることができる。

 題材として選ばれた、いわゆる「認知症」を患った老人たちの様々な症状の記述、すなわち、時間と空間が徐々に混線しその輪郭がぼやけてくるような経験、個人のパーソナリティの同一性が時空的に崩れていくような感覚が、小説の題材として横溢し、最後のクライマックスに向けた効果を生み出している。

 本格ミステリとして傑作であろう。その一方で山田正紀はその作品群のクオリティと比して世間の評価が低いというのが、私は不満なのである。

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【書評】田中光二「異星の人」人類の「発展の限界」を描く、叙情性に貫かれたSF

 田中光二「異星の人」(ハヤカワ文庫)を読んだ。昭和52年発行のハヤカワ文庫の初版である(どうでもいい情報)。

 SF第二世代にあたる著者であるが、読んだのは初めてである。

 表題通り、いわゆる異星人の視点で人類の”種としての文明”を客観的に捉え、その”進化”について問いかける内容である。それ自体は、小松左京「明日泥棒」のようなSFの持つ、人類の文明や歴史を俯瞰的に捉える文学的課題と同じであるが、本書はそれとは異なる特質もある。

 それはこの観察者、ジョン・エナリーのキャラクタ造形、そして彼自身の意思決定に至るプロセスの特色でもあり、また本書に収められた8本の中編それぞれに現れる極限的状況におけるカウンターパーソンたちの極めてリアリティのある造形である。

 我々人類が持つ「矛盾」、ヒューマニズムと残虐さ、知性と本能といった二律背反的な特質に、超・人類的存在であるエナリー自身が悩み、また、そのカオスさそのものを理解しようとする。しかし、それは超・人類的存在的な観点からは、文明としてのレベルアップがこれ以上望むべくもない「発展の限界」とも言える。

 その「限界」に直面するエアリー自身の運命がラストに描かれ、全編が叙情的な雰囲気に貫かれている。

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【書評】施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」5巻–まさかの激烈ペシミスト、E・M・シオランまで取り扱う幅広さ!

 2020年5月出版の、施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」5巻を読んだ。

 関連記事:【書評】施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」ーセカイ系の構造を持った文化系学生の視る夢

 読書マンガであるが、ネタが良く続いていると感心する。少し神林さんが美人になっているような絵柄の表紙である。腐女子チックから変化であろうか。

 取扱う本もかなりの幅広さであり、そのチョイスがなかなかである。E・M・シオラン「生誕の災厄」まで扱われるとは思わなかった。

 シオランの筋金入りのネガティブさには痺れる。

 確か「悪しき造物主」(法政大学出版局)のラストのアフォリズムが特にカッコ良くて、”我々はみな地獄の中にいる、一瞬一瞬が奇跡である地獄の中に”のような感じだったと思う(うろ覚え)。

 ネットで調べてみたらちょっと違っていた。

 そんな感じで、神林さんの”本捨てられないあるある”など、今回も楽しく読めた。

 若干これまでの1から4巻より、今回のページ数が多いのが今後の動向を予想すると少々不安である。

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