【書評】秦郁彦「昭和天皇五つの決断」–天皇制のもつ二重性とその対立について

 秦郁彦「昭和天皇五つの決断」(文春文庫)を読んだ。

 大日本帝国憲法と日本国憲法、皇国史観と民主主義、2つの大きな時代とその転換点を、その中心として活動した昭和天皇の「決断」についての論考である。

 大日本帝国憲法では国政や軍事の最終決定権は”元首”たる天皇にあった。しかし、国務大臣の輔弼を必要とした制限がかかっていた。また戦後の日本国憲法では「象徴」という存在として規定されている。

 いずれにしても天皇としての行動には一定の制限はあったことになる。しかしながら、様々な局面において天皇自身が政治的に行動し、決断する場面が存在したとする。

 それが本書で描かれた5つの場面であり、これは二・二六事件、終戦、新憲法、退位中止、講和をさす。

 いずれも日本という近代国家の存亡において高度な政治的行動・交渉・意思決定が必要な場面であり、天皇自身が判断する必要があった局面ともいえる。

 本書でも描かれ、また他の史実でも明らかなように、昭和天皇自身の「意思」が、常に国家の意思と同期・等価であったことはなかった。そして、いくつかの局面では、ある勢力と鋭く「対立」したことが知られている。

 何と対立したのか。

 代表的には、2つの立場−「皇国史観」および「共産主義」−との対立であろう。両者はそれ自体相反する要素をもち、それぞれが天皇および天皇制と鋭く対立する宿命を持っていた。

 皇国史観は、「国体」なる概念によって明治維新後の近代日本の国家統一イデオロギーとして機能した。しかし、その概念を先鋭化させていくと、次第に本来同伴かつ補完しあうはずの天皇自体から離れていくことになる。

 それが「君側の奸」へのテロリズムとして現れたのが、二・二六事件や宮城事件といった日本におけるクーデター未遂事件である。ここでは、個人としての天皇(の意思)を否定し、それを乗り越えるようとする動きが見える。

 つまり、概念としての「大御心」=「万世一系の天皇」という思想的シンボルの究極化において、個人としての昭和天皇すらも優越すると”論理的に”帰結されるのである。より理想化した「天皇」というイメージによって、元首=政治家=近代的個人としての「天皇」を乗り越えようとするかのようである。それは元々、同じ思想から生まれたはずなのに。

 これは極論ではなく、終戦判断においても皇国史観の提唱者・平泉澄や首相の東條英機(二・二六事件を主導した皇道派に対抗する統制派であったにもかかわらず)、軍人であれば大西瀧治郎など、こうしたインサイダーですら、天皇個人の意思を強いて変更するという行為を、国体維持の目的のもとで正当化しているのである。

 また「共産主義」は、その思想自体が天皇制とは本質的に対立することと同時に、広義の”貧富是正”あるいは”平等実現”という理想主義(その実現手段として暴力的革命を前提)として原理的に捉えると、農村の貧困を背景とした青年士官を中心とする陸軍皇道派の意識に通底していたと思われる。これもまた二・二六事件の背景であったと思われ、その収拾において昭和天皇が明確に彼らを否定したことは、本書でも描かれた歴史的な事実である。

 こうした天皇および天皇制と対立する、まさに近代そのものの「概念」(皇国史観と共産主義)がある一方で、天皇制自体についてはどのような構造であったのか。

 終戦判断の際には、昭和天皇自身が「国家元首あるいは大元帥としての天皇」と「神器を司る神職の頂点としての天皇」の2つの立場の間で、逡巡していたと思われる。つまり、天皇制の中にも2つの矛盾する側面が存在し、天皇個人として内部対立していた。天皇制はこのギリギリの局面において、内部と外部の二重の対立構造があったといえる。

 それは近代日本の政治的リーダーと神職・祭主としての宗教的リーダーの二重性と言い換えることもできる。

 この2つの側面が、昭和天皇の人格の中にあった。

 「宗教的」という部分を補足しておくと、より自然宗教的な原始的形態を指す。日本人が、初詣に行き、神社で祈る。その際に心の中で唱える「神様」のイメージである。これは教義や戒律などで規定される「宗教」のイメージではなく、むしろ我々の生活に即したものである。あるいは夏祭りに集まる村の鎮守様のような、生活に即した小規模の緩やかな「神様」のイメージの集合体のようなものである。天皇へのイメージには、この「村の神様」が集合した、その頂点としての性格があるのではないか。

 それが故に、本書の第四章において敗戦後の占領下において、その地位が危ぶまれていた昭和天皇に対して、庶民からその地位を守る多くの声(GHQへの投書)につながったといえる。この庶民の肉声–天皇への一体感は、占領軍の意思決定に一定の効果があったと著者は指摘する。

 そして、こうした自然宗教は、決して近代国家制度の中に組み込まれることはない。歴史的にも先に存在したものであり、より広い時間空間的構造の中で普遍的に存在する上位概念であろう。

 本書で描かれた決断の中で生まれた「対立」は、こうした観点から、より普遍的な要素により勝者が決まったといえる。

 皇国史観や共産主義は、ある一時代に現れた近代的なイデオロギーであり、自然宗教のもつ時間的空間的な普遍性に対して優越はできないという必然的な結果であった。

 現代の象徴(すなわちシンボル)としての天皇制は、その意味ではより両者の対立が弱まっているようだ。本書でも以下のような記述がある。いわば「象徴」の方が座りが良いとも解釈できる。

むしろ長い天皇家の歴史から見れば、明治以後の天皇制のあり方は例外で、世俗的な権力と富から超越する位置を占めた時期の方がはるかに長かった。そして、それこそ天皇家が細々ながら万世一系の血統を保って生きのびることができた秘密でもあった。

天皇家の人々は、こうした歴史的事情をよく知っていた。だからこそ敗戦の直後にあわてふためく女官たちへ、貞明皇太后が「皇室が明治維新の前に戻るだけのことでしょう」とさらりと言ってのけたのであろう。

秦郁彦「昭和天皇五つの決断」(文春文庫)p.250

 象徴という規定によって、この「対立」は一時的な折り合いがついているように見える。

 しかし、天皇制に内包されたこの2つの側面、自然宗教(神器・伝統)と近代国家(個人)との対立は依然として解消されたとは言い難く、まだふと何かの折に、先鋭的な対立として顕在化する可能性を秘めていると思われる。

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【書評】黒島伝治「渦巻ける烏の群 他三編」プロレタリア文学の枠内に収まらない物語性

 黒島伝治「渦巻ける烏の群 他三編」(岩波文庫)を読んだ。表題作「渦巻ける烏の群」は、作者じしんが参加した日本軍の「シベリア出兵」を題材とした、いわゆる”反戦文学”として名高い名作として知られている。

 ここに納められた4編の小説は、当時の日本の貧困や軍事制度に対する民衆の悲劇をリアリティ溢れる筆致で描く。いわゆるプロレタリア文学に属するものであるが、こうした文学のもつ政治性とは異なる物語性を感じさせる。

 その「階級」的に全くの対照的である志賀直哉のもつ資質と非常に近しいものを感じる。それは例えば志賀の「小僧の神様」や「清兵衛と瓢箪」のような物語性の高い部分と深く通じ合っているように感じるのである。

 ただし、その問題意識の向きは、志賀直哉のもつ”芸術性”あるいは”理想主義的”なものと黒島のそれは異なり、あくまで貧しき人々の悲劇に寄り添っているようだ。

 本人の体験にも基づくであろう「橇」や「渦巻ける烏の群」も、その三人称で語られる小説世界自体は明らかにフィクションでありながら、厳冬のシベリアの凶暴的な純白の風景、そこに存在する日本兵の異物的な存在感が説得力をもって描かれ、そして最終的な「民衆の悲劇的結末」が、作者の物語の力によって強くリアリティを与えられている。

 貧しい農村の家族を舞台にした「二銭銅貨」では、貧困のなかで二銭すら出せないことで”コマの緒”が友人より短いものを与えられた子供に訪れる悲劇であり、これもフィクションとわかっていながらもその物語性によって悲劇性は強まる名作である。

 

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【書評】門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」福島原発事故のフロントライン、中操(中央制御室)のオペレータたちの姿を描く

 門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」(PHP)を読んだ。(文中敬称略)

 福島第一原発事故において、事故発生から現在に至るまで次第に情報が出てきたものの、現場の最前線の声というものはあまり明らかになってこなかった。

 本書は、当時の所長・吉田昌郎だけでなく、もっとも最前線にあった中操(中央制御室)における現場オペレータたちの声や行動を丁寧に拾っている貴重な書となっている。

 以前の記事(フロントライン・シンドロームと兵站の問題)で、事故当時の福島第一原発では2つの「現場」いわゆるフロントラインがあったことを述べた。東京の東電本店とTV会議ができた「免震重要棟」(所長の吉田はここに詰めていた)と、オペレータたちのいた「中操(中央制御室)」である。

 ベントや冷却水注入などの重要判断があったが、その具体的な実行自体はこの1号機と2号機の間にある中操(中央制御室)に詰めていた、多くは地元出身のオペレータたちが行っていた。

 各種運転操作の実行だけでなく、電源喪失によりプラントの数値(パラメータ)を中央監視することもできず、次第に上昇する放射線環境下の中で、時には現場(機側)で計器を目測していたのも彼らなのである。

 原発事故の推移は、既に多くが明らかになっているように、津波の襲来により非常用電源(自家発電)であるディーゼル発電機が水没したことで全電源喪失の状況に陥った。そして大震災の影響によりインフラが途絶した状況で、冷却作業も虚しく、結果的に核燃料の溶融・漏洩に至った。

 そうした危機的状況が進行していく中、それでも、最も正確な情報が存在したのは最前線の中操(中央制御室)であった。

 非常に極限的環境において、彼らが自らの判断・責任でこのプラントの危機を回避した行為は良く理解できる。そして漏洩する放射線量が増えてくる中で、戦時中の特攻ではないが、個人への犠牲を強いるような場面すら生み出された。

 前記事で記載したように、フロントラインへの補給線は細く脆弱であった。トイレも流せず、食事や休息もまともにできない。彼らは使命感を持ち行動しているが、次第に疲弊していく。そして、次第に様々な事情を抱え、公私や義務といった”究極の判断”を迫られることになってしまう。

 本書では、こうしたフロントラインへの介入として、当時の首相・菅直人の訪問エピソードが否定的に描かれている。確かにこの行動自体には私自身も否定的な感想はある。しかし、こうした「補給線」の観点からは、若干やむを得ない部分もあるのではないかと思っている。

 事故当時の「戦線」は簡略化すると以下のような直線的な構造になっていた。

 プラント-中操(オペレータ)-免震重要棟(吉田)-東電本店-官邸

 この直線的なラインでは、情報の流れ自体と、物理的な補給線、双方の帯域(回線の太さ、流量)が細い状態であった。要するに”伸び切った補給線”となっていたことは厳然たる事実であろう。

 正しい情報は停滞し、その量は少なく、大きな時定数をもつ。

 そして現場から遠ざかるごとに、情報の不正確性は増し、その一方で関係者(専門家)の数は増えるという矛盾。

 従って、官邸では、「不確定な情報で専門的判定を元に重要な政治判断をしなくてはいけない」という状況に追い込まれたともいえ、それが首相の訪問の動機の一つになったことは本書でも菅直人が発言している。

 トップが現場に行って情報を取るような状況を作り出した責任は誰にあるのか、という議論はさておき、その動機自体は(微妙だが)それはそれとして正当な一面を持っていると私は考える。

 ただ、結果的に皮肉なことは、冷却水注入にせよ、ベントにせよ、その個別「判断」自体は、結局のところその段階でベストな解であった。つまり、こうした「東京」からの介入は結果的に”正解”にたどり着いている現場にとっては、首相の現場視察は、実行を遅らせる時間のロスにしかならなかった、という事実は動かし難い。

 確かに意思決定の責任はある。現場の独走は戒めるべきであろう。

 一般的にこうした状況の下では、正確な情報量が多い現場の判断が、より正しい解に近づけるのは自然なことである。それをこうした長大な情報ラインがその意思決定を無駄に遅滞させるという結果を招くという皮肉。太平洋戦争の日本軍の失敗と全く同様の構図に思える。

 かつてのJCOの臨界事故でもあったように、原子力事業者がこれまでの原子力行政との関係性から、事業者としての当事者意識が希薄な半官的な組織体質であったこともその一因であろう。

 加えて、そうした原子力行政を過去に推進し、パイプやそのヌエのような組織の「使い方」を熟知していたであろう自民党が下野し、民主党政権になっていたことも混乱の一因であった。

 福島原発の事故の教訓として、こうした危機管理において、サイバー(情報)・フィジカル(物資)を双方向的に補給する技術が求められているのではないか。

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【書評】河野啓「デス・ゾーン 栗木史多のエベレスト劇場」–「自己実現」と「大衆からの承認」のサイクルの中で泳ぎ続けないと死んでしまう”マグロ”になった人間の悲劇

 2020年の開高健ノンフィクション賞を受賞した河野啓「デス・ゾーン 栗木史多のエベレスト劇場」(集英社)を読んだ。(文中敬称略)

 ネット界隈で登山家ならぬ「下山家」と揶揄され、エベレストで最終的に命を落とした栗木史多の実像と虚像に迫る力作である。非常に面白く、一気読みである。

 栗木史多は、ネットを使った動画のリアルタイム配信を登山に持ち込み、副題にあるような「劇場型」の手法を用いた。こうした手法については、フェイクと噂される部分もあり、”炎上”の発生とネット民による”検証”という、現代的な動きも形成されていった。

 これは、例えば、科学者の捏造問題(STAP細胞、旧石器問題など)と同様の構図を持つネットによる大衆監視の劇場型事件の一つとも言える(参考記事:【書評】村松秀「論文捏造」-ベル研究所の世紀の大捏造事件と”発見”の栄誉の正統な帰属とは

 ビジネスシーンでは、彼は言い方は悪いが、「自己啓発系」のジャンルと理解されている。特に比較的中堅、若手の社員が、彼のフレーズを企画書に引用してくることもある。私自身はその度に、申し訳ないが、その「軽さ」に鼻白むことが多かった。つまり、フェイクっぽいのである。

 だが、一部の自己実現(と承認)を求める人々には、今でもなお「栗木史多」は確実にリーチしているようなのである。そうした言及も本書ではなされているし、栗木史多本人がそうした戦略を自分自身も含め、意識的に行っていた。

 本作は、こうした”中毒”のように「自己実現」と「大衆からの承認」を求めて実像と虚像を意図的に乖離させたはずが、そのギャップに苦しめられ自縛に陥ってしまった一人の人間を多角的に取材し、著者らしい映像的な構成でまとめたものである。

 冒頭で「少量の酸素でも泳ぎ続けられるマグロになりたい」とした彼は、”無酸素”登山というブランドにこだわった結果、「自己実現」と「大衆からの承認」のサイクルの中で泳ぎ続けないと死んでしまう、まさしく「マグロ」のようになる。

 そして、追い求めたものを死の直前に最後に抱くことはできたのかどうか?そうした仮説に対する回答が、本書のラストでは用意されている。

 その姿は、TVマンであった著者が、栗木史多を対象とした”製作できなかった企画作品”のラストシーンの映像のように描かれる。

 これは、著者自身もその取材者としていわば”共犯であると”反省しているように、劇場型イベントの悲劇的末路に対する著者なりの「落とし前」なのだろうと理解した。

 

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【書評】筒井康隆「川のほとり」(新潮2021年2月号)–生き残ってしまった老父・筒井の哀しみが伝わる感動作

 一部で話題となった筒井康隆の小説「川のほとり」(新潮2021年2月号掲載)を読んだ。

 筒井の「腹立半分日記」などでも頻繁に登場していた一人息子である「伸輔」–筒井伸輔が食道癌で51歳の若さで亡くなったことを、この小説で初めて知ったのであった。

 親にとって子供に先立たれることほどの悲劇はないであろう。

 この短い小説では、86歳の筒井が夢で死んだ息子と再会し、会話する。

 筒井自身はこの息子が自分の無意識(願望)が作り出した幻影であり、自分そのものに由来するものであることを理解している。

 自分が作り出したイメージであるならば、この会話は自問自答(モノローグ)にすぎず、全ては予測可能なはずであることも語り手の筒井は理解しているのである。

 しかし、この夢に現れた息子「伸輔」の応答はそうしたモノローグな要素ではなく、あくまで他者との対話であるダイアローグになっているようにも感じ取れてくる。

 さらに、それすら筒井は疑う。

 所詮この体験は、自分が作り出して自分で納得しようとしている行為なのだと。

 こうした諦念と希望の狭間の中で揺れうごきながら、それでもなお筒井は川のほとりで息子との物語を作ることで、自己の体験を静謐かつ荘厳な表現手段によって自ら決着をつけようとしている。

 このことは、同時に、筒井の文学的なメインテーマの一つである「無意識」の暗黙的共同性すらも我々に想起させる。

 こうして振り返って考えてみると「腹立半分日記」に登場していた筒井の作家仲間も、かなりの数が、もうこの世にいない。時代は遠くなっていく。

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【書評】川田利明「開業から3年以内に8割が潰れるラーメン屋を失敗を重ねながら10年も続けてきたプロレスラーが伝える「してはいけない」逆説ビジネス学」–不器用をブランディングした器用なレスラーの、やはり不器用な生き方に痺れる

 先日読んだ吉田豪のインタビュー集「超人間コク宝」(コアマガジン)で、プロレスラー川田利明との対談を読んだ。

 プロレスラーをセミリタイヤした後、現在成城学園前駅でラーメン屋のような居酒屋のような少々迷走した店を経営していることはネット界隈では知られており、少々偏屈な経営をしていると言われていたのである。

 しかし、このインタビューを読んで少々認識が変わったのである。ものすごく常識人でもあり、プロレスラーには似合わず社会性もあるのであった。

 そこで興味を持って対談の中でも言及されていた著書、川田利明「開業から3年以内に8割が潰れるラーメン屋を失敗を重ねながら10年も続けてきたプロレスラーが伝える「してはいけない」逆説ビジネス学」(ワニブックス)を購入、読んでみた。

 この本は間違いなく面白く良書である。フリーランスとサラリーマンの対比としても読める。個人事業主のビジネス本としても面白いし、個人営業のラーメン開業の苦労話としても面白い。 

 この本でも言及されているように川田のプロレスラーとしての印象は「不器用」、「無骨」であるが、本人の発言として、それは自分のプロレスラーとしてのブランディングであって実際には「器用」であることが語られる。確かに実際にこうした体験や料理へのこだわりなど、非常に繊細で細かい。

 実際には社交性もあり、かつ、社会性もあるのであろう。私のこれまでの認識も訂正が必要なことがわかり、この本によって川田のイメージは確かに大きく変化したのであった。これは成功であろう。

 また、ネットで言われていたシステムの複雑さ、お客へ要求する張り紙の多さなどは、川田に起因するのではなく、むしろプロレス ファンの無神経さ、もっと言えば幼稚さ、社会性の無さの方に起因することも十分よくわかったのである。

 この認識を理解した上で、読了した後に改めて思うことは、皮肉にも”やはり不器用だ”ということであった。

 プロレスラーがラーメン屋を経営する際に、そのブランドを利用するとしたら、やはりこうした飲食店にとって客単価が低く回転率も悪い”質の悪い客”が押し寄せてくることは、通常の飲食店経営者は理解しているはずである。そうしたことがないように、ある種の「敷居」を設定するのであろう。最初からそうした客は足切りするのである。

 だが川田自身はそうしない。その解決策として過剰なまでの張り紙になるのである。

 プロレスファンにとっては理解できないことであろう。チケットを購入し、CM付きのTV番組を見ていれば応援になったのだ。その意識はラーメン屋になった川田に対してもおそらく全く変化しないのであろう。これはプロレスファンが持つ幼児性であり、この幼児性を理解した上で「切り捨てる」選択をしない、あるいはできない経営者は「不器用」であろう。

 またそんな低レベルの客を前提とした場合、もうひとつの方法として、料理のこだわりなどを示す必要もなく、名義貸しや料理の質を落とすことも考えられる。しかし、それも川田はせず、ひたすら自分の時間を犠牲にしてラーメンや料理にこだわりを示すのである。

 洗浄などや効率のよい缶ビールや瓶ビールの提供に切り替えることなく、生ビールにこだわるのである。

 まさに「不器用」そのもの。

 本書で、川田に対するこれまでの見方は良い方向に変わったのは間違いない。確かに料理人としても、実際のレスラーとしても「器用」なのである。

 しかし、ブランディングとしての「不器用」と語る川田の生き方そのものは、この本を読むとやはり「不器用」なのだ、と思う。その不器用さには、ブランディングとは異なる説得力がものすごくあり、敬意を評したくなる。

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【書評】平井和正「超革命的中学生集団」50年前のSFスラップスティック小説で、楽屋落ちやギャグ連発でも古びてない凄さ

 先日行きつけの古本屋で見つけた、平井和正「超革命的中学生集団」(角川文庫)を105円で入手。カバーはなかった。前から読みたいと思っていた作品である。

 初出は1970年。もはや50年前の作品。そして内容は、ジュブナイル+スラップスティック小説で、ある意味軽い文体で書かれてギャグ満載なのであるが、不思議と古びていない。

 更に当時のSFファンダム(一の日会)に集うデビュー前の横田順彌や鏡明が実名でメイン登場人物として使われると同時に、SF作家を模したキャラや作者自身も出てくる。

 要するに、物語製作として危険な手法である楽屋落ちまで多用しており、一歩間違えば「オタクの内輪受け」という最悪の事態になってしまう可能性を秘めているのだが、不思議とそれによって質が低下していないのである。

 イラストはウルフガイシリーズで重厚な絵柄を提供する生頼範義で、これも絵柄と相まって面白い。

 まさかの角川映画版「復活の日」のイラストレーターが、性転換したハチャハチャ主人公のイラストを描く羽目になるとは(時間軸が逆だが、この作品的にはあり)。

登場人物紹介が既に笑えてしまう

 軽快な文体、メタ的仕掛け、オノマトペ(擬音)だけで1ページ続く戦闘シーン、ラストにおける小説自体の解体的仕掛けなど、平井和正の先駆性がこれでもか、と出てきて非常に面白い小説であった。

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【書評】山田正紀「チョウたちの時間」–文学的・哲学的・科学的に重厚なテーマ《時間》を語りつくす、SFの力強さを感じる傑作!

  山田正紀「チョウたちの時間」を読んだ。 初出は1979年。これは角川文庫の1980年の初版。装頓は横尾和則である。

 山田正紀のSFの真骨頂であり、「時間」という重厚なテーマに対して、”表現できないものを表現する”というSF的問題意識を駆使して、これを真正面から捉えたものとなっている。

 人類がより高度な知性として成長・進化するために、「時間」意識を拡張する勢力とそれを妨害する勢力の戦いを描く。

 我々の歴史が”可能性としての未来”に対して進歩していくことができるのか、どこかの地点までで限界に到達し衰退するしかないのか、とした小松左京が有していた人類の歴史に対する問題意識を正統に継承している。

 また、1941年のニールス・ボーアとヴェルナー・ハイゼンベルグの会談 (ドイツの原爆開発をめぐって、両者の記憶が食い違っている)もある種の重要なファクターとして言及されており、 これは1998年に発表されたマイケル・プレインの戯曲「コペンハーゲン」の主題でもあり、 この問題意識を先取りしているともいえる。

 SF的イメージも多く使用されており、時間を空間的にしか把握できない人類に対して、 時間に対し別の形式で把握をしているであろう「チョウ」を対比させ、人類の進化するイメージとし て与えている。

  一方、人類の知性の進化、さらには時間のより高度な把握を妨げる役割を与えられた「 敵」には コウモリのようなイメージが与えられ、さらには「ファウスト」のメフィストフェレスそのものとしても言及され、ラストに至る直前の対決シーンでは天使と悪魔による最終戦争、黙示録的な荘厳なイメージを提示している。

 こうした「時間」に対する人間の把握、そして、人類の進化、歴史的問題意識(可能性としての未来)というSFの王道ともいえるテーマである。山田正紀の凄いところは、更にもう一段深みを持たせるべく「知識欲」「知性の目的」を重要キーワードとして記述する。

 これは古典としては前述の「ファウスト」、同時代的には諸星大二郎「孔子暗黒伝」で示された「知識への絶え間なき欲望、饕餮(とうてつ)」としてもテーマ化されている普遍的な文学的課題であるともいえる。

 まだまだそれだけではない。

 ブラックホール生命体、反物質宇宙の生命体など、想像力の限界に迫るようなアイディアがこれでもか、と詰め込まれ、ラストには、もはや読者の想像力と知性自体が試されるかのような「難解な」それでいて荘厳な美しいクライマックスに至 る。

 こうした、文学的・哲学的・科学的に重厚なテーマを語りつくす、 SFの力強さを感じる非常に素晴らしい作品である。

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【書評】山田正紀「氷雨」–どうしようもない”孤独感”が際立つサスペンス

 山田正紀「氷雨」(ハルキ文庫)を読んだ。

 ミステリ形式であるが、むしろ挫折した男が孤立無援の逆境の中で、ひき逃げにより交通事故死した前の妻子の死因の謎を解き明かしていく疾走感のあるサスペンスである。

 とにかくこの主人公は、負債を抱えて会社を潰し、借金取り立てから切り離すために妻子と離婚し、たった一人である。そして彼を取り巻く周囲も、彼に協力的ではない。むしろあらゆる手段で彼を”潰し”にかかる。

 暴力的な金融の取り立て役、乗車拒否するタクシー運転手、腐敗した警察官、生命保険を目当てに群がるブローカー、非協力的な妻の妹夫婦など、個性的なキャラも多数出てきて、それぞれがある一面では取引により協力するが、決して主人公と融和することはない。

 読者は、この逆境につぐ逆境の中で、ミステリーとして主人公を救済するであろう”探偵役”の登場を期待しながら、常に裏切られるのである。

 そう、結局のところ、主人公が徒手空拳で孤立して謎を探る以外の方法がないのである。

 この小説は、謎解きの要素も含みつつ、こうした周囲から孤立してなお、その事実を前提として生きていくしかない個人の生き様を強く示唆するようなイメージが横溢しており、どうしようもない孤独感がそのテーマとして横たわっているように思える。

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トキワ荘マンガ家のリーダー・寺田ヒロオのこと:人格者のイメージと茅ヶ崎の家での隠遁と

 藤子不二雄Aの名作「まんが道」でも描かれていたが、マンガ家たちの楽園「トキワ荘」でリーダー格であった寺田ヒロオの印象は大きいものがあった。

 NHKドラマで演じた河島英五のイメージと同様、頼もしい兄貴分としての存在感があったのだ。

 トキワ荘のメンバーは確かにマンガの創作の才能は一流であったが、社会性という意味では非常に脆弱だったと思う。

 いわば彼らは、マンガの才能だけが溢れる”子供”であった。

 トキワ荘のメンバーの中で、寺田だけが社会性も合わせ持ち、彼らに社会人としてのマナーなどを教示しており、彼らもその知見を十分頼りにし敬意と信頼を示していたことが様々なトキワ荘関連の著作で描かれている。

 そして、彼らの商業的な成功と寺田の後半生は、対称的な軌跡を描く。

 寺田は1976年以降目立った作品は発表することなく実質的な断筆に至る。

 茅ヶ崎の自宅の離れに1人籠もって1992年に死に至るまでの16年間表舞台にはほとんど出ず、ほぼ隠遁、もっと悪く言えば引き篭もったアルコール中毒のような状態になっているのである。

 同様にアルコール中毒であった赤塚不二夫が、こう語ったというエピソードが盟友・長谷邦夫の著書で描かれている。

 平成四年九月二十四日、寺田ヒロオの死が報じられた。

 酒を飲み続け食事もろくに摂らぬ生活を続けた末の衰弱死だ、と赤塚は言った。

「手塚先生の本葬のとき、奥さんが彼の代理で来てたんだよ」

「そうだったのか。僕は顔を知らないから……」

「うちの人の生活、どうしたらやめてくれるんでしょう。赤塚さん助けてくださいって言われたんだ。でも、おれに助けろと言われても、おれ自身が依存症だものなあ……」

「漫画に愛を叫んだ男たち トキワ荘物語」長谷邦夫.p.317

 寺田自身の作品リストをもとにした「寺田ヒロオ年譜」(季刊「えすとりあ」第2号)によれば、月刊雑誌「小学二年生」の連載があったのが1973年まで。それ以降は単発の形に発表の場が限られていく。

 寺田は1931年生まれなので1973年時点では42歳。まだまだ働き盛りの年齢であるが、そこから没する1990年の61歳まで、ほぼ茅ヶ崎の自宅で世間との交渉を絶ち、いわば引きこもりをする生活であった。

 筆を絶った理由自体は、既に関係者が語るように、過激化する少年漫画の風潮に対する反対意思であったとされる。先に言及した「季刊えすとりあ第2号」は、寺田ヒロオ特集であり、1982年時点(51歳)での寺田ヒロオの肉声インタビューが掲載されている。

 そのインタビューにおいて、明確に寺田自身が語っている。

 例えば、毎週一〇〇万部二〇〇万部売れていると得意になっている漫画雑誌を、「これが今日本で最も人気のある少年雑誌です!」と世界中の人に送って自慢できますか。紙は汚い、印刷は汚い、内容も汚い。日本には、世界に誇れる製紙・印刷技術があるんですよ。漫画家の技術だって、世界のトップレベルでしょうよ。それなのにこんなみっともない雑誌が、日本の児童文化の代表なんですか。いやこれな(ママ;引用者注)娯楽だオヤツだと、言うなら、たとえ少部数でもいいけれど、本当に日本の児童文化の代表として、世界中の人に胸を張って見てもらえる少年雑誌がありますか。一つもないでしょう。こんな儲け第一主義の社会では、文化は育たないんですよ。(後略)

「えすとりあ 季刊2号」(えすとりあ同人)「寺田ヒロオ-児童漫画再考-」p.16

 このように手塚治虫以降(手塚は否定に含めない)のマンガ家、つまりトキワ荘世代からの全て、果ては製本技術まで含めた現在のマンガ文化全てを、呪詛を込めて実質的に否定するのである。

 このような寺田ヒロオの姿勢は、成功したトキワ荘のマンガ家たちにとって、ある種の背徳感、後ろめたさにも似た心理的重圧を与えたと思われる。誰もが認める人格者であり社会性の指導者としての寺田の生活者としての存在感と、そして寺田自身の現代の文化を否定した上での自裁の態度を見せつけられて、複雑な思いであったろう。

 外的世界に反抗し続けた寺田の存在は、時代の主流に追従できなくなった一表現者のサイレントな抗議としての”緩慢な自殺”であるとは片づけきれない要素を含んでいる。

 日本のマンガ文化史において、寺田の存在をどのように位置付けるべきかは、そのあまりに対称的な生き方を現示された我々にとって、大きな課題を含んでいるといえるのだ。

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