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【書評】小松左京「召集令状」(角川文庫)小松SFの原点としての戦争体験


 小松左京「召集令状」(角川文庫)を読んだ。

 戦後五十周年にあたる1995年(平成7年)の「角川文庫で読む戦後50年」フェアで新たに編まれた、小松の”戦争もの”8編を集めた文庫である。実質的デビュー作「地には平和を」も収録されている。

 小松自身は終戦時には14歳。勤労動員の中学生であった。本土決戦が叫ばれる切迫した環境において、思春期を迎え、そして兵士として戦いに参加できる年齢に入っていなかった小松自身にとって、この戦争体験は大きな文学的原体験となった。

 そして戦後の戦争なき”平和な日常”に対して、こうした過去から照射された問題意識を常に小松は常に保持していたようだ。「地には平和を」で、歴史を修正させるタイムトラベラーにこう語らせている。

 犠牲を払ったなら、それだけのものをつかみとらねばならん。それでなければ、歴史は無意味なものになる。二十世紀が後代の歴史に及ぼした最も大きな影響は、その中途半端さだった。世界史的規模に置ける日和見主義だった。

(前掲書「地には平和を」p.103)

 1945年8月15日に終戦がなく、本土決戦を遂行した場合のもう一つの現実を描いた「地には平和を」では、こうした歴史に対する問題意識をさらに進め、歴史自体が持つダイナミズムにまで対象を広げている。

 歴史がそれ自体としてどのような可能な未来を選択するか?可能な意味のある未来を破棄し、熱的な死のような(政治思想的な意味ではなく)”保守的”な未来にしか収斂しないのではないか?という根源的な問いかけである。

 こうした問題意識の中で、SF的手法を使って描かれた小松の「もう一つの歴史」は非常に深い。

 楳図かずお「漂流教室」(1972年)に遡ること8年前、1964年に発表された「お召し」では、12歳以上の人類が何の理由もなしに消滅する文明の未来を描く。

 戦争の記憶を意図的に忘れさせようとする動きを描く「戦争はなかった」や、平和な日常に全く異なる戦争が接続されてしまう「春の軍隊」など、戦争体験の持つ暴力性、残酷さのリアルが小松の肉声として伝わってくるようだ。

 この文庫のあとがきに小松は次のように書いている。

 最後に、この作品の中に出てくるエピソードは、ほとんどが実話である。戦後五十周年にあたり、この短編集を編むことになったが、ここに収録された作品群は、私にとって非常に「つらい想い出」の作品ばかりなのである。

(前掲書 「あとがき」 p.270)

 小松がこの文章を書いてから、更に20年以上経過し、リアルな戦争体験を知る世代も極めて少なくなっている。同時に”あの戦争”の意味も、また時代の中で変化しつつある。

 時代が経過すればするほど、対象を歴史の一つの客観的な「事件」「事象」として捉え、評価することが容易になるように思える。より客観的な視点といえば確かにそれは一面の真実だが、その一方で実際に起こった「リアル」な経験自体が、その世代がいなくなることにより評価の中から薄れてしまうことは、これもまた不当なことであろう。


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作成者: tankidesurvival

・男性 ・アラフィフ ・技術コンサルタント ・日本国内の出張が多い ・転職を経験している ・中島みゆきが好き ・古本屋が好き