【書評】秦郁彦「昭和天皇五つの決断」–天皇制のもつ二重性とその対立について

 秦郁彦「昭和天皇五つの決断」(文春文庫)を読んだ。

 大日本帝国憲法と日本国憲法、皇国史観と民主主義、2つの大きな時代とその転換点を、その中心として活動した昭和天皇の「決断」についての論考である。

 大日本帝国憲法では国政や軍事の最終決定権は”元首”たる天皇にあった。しかし、国務大臣の輔弼を必要とした制限がかかっていた。また戦後の日本国憲法では「象徴」という存在として規定されている。

 いずれにしても天皇としての行動には一定の制限はあったことになる。しかしながら、様々な局面において天皇自身が政治的に行動し、決断する場面が存在したとする。

 それが本書で描かれた5つの場面であり、これは二・二六事件、終戦、新憲法、退位中止、講和をさす。

 いずれも日本という近代国家の存亡において高度な政治的行動・交渉・意思決定が必要な場面であり、天皇自身が判断する必要があった局面ともいえる。

 本書でも描かれ、また他の史実でも明らかなように、昭和天皇自身の「意思」が、常に国家の意思と同期・等価であったことはなかった。そして、いくつかの局面では、ある勢力と鋭く「対立」したことが知られている。

 何と対立したのか。

 代表的には、2つの立場−「皇国史観」および「共産主義」−との対立であろう。両者はそれ自体相反する要素をもち、それぞれが天皇および天皇制と鋭く対立する宿命を持っていた。

 皇国史観は、「国体」なる概念によって明治維新後の近代日本の国家統一イデオロギーとして機能した。しかし、その概念を先鋭化させていくと、次第に本来同伴かつ補完しあうはずの天皇自体から離れていくことになる。

 それが「君側の奸」へのテロリズムとして現れたのが、二・二六事件や宮城事件といった日本におけるクーデター未遂事件である。ここでは、個人としての天皇(の意思)を否定し、それを乗り越えるようとする動きが見える。

 つまり、概念としての「大御心」=「万世一系の天皇」という思想的シンボルの究極化において、個人としての昭和天皇すらも優越すると”論理的に”帰結されるのである。より理想化した「天皇」というイメージによって、元首=政治家=近代的個人としての「天皇」を乗り越えようとするかのようである。それは元々、同じ思想から生まれたはずなのに。

 これは極論ではなく、終戦判断においても皇国史観の提唱者・平泉澄や首相の東條英機(二・二六事件を主導した皇道派に対抗する統制派であったにもかかわらず)、軍人であれば大西瀧治郎など、こうしたインサイダーですら、天皇個人の意思を強いて変更するという行為を、国体維持の目的のもとで正当化しているのである。

 また「共産主義」は、その思想自体が天皇制とは本質的に対立することと同時に、広義の”貧富是正”あるいは”平等実現”という理想主義(その実現手段として暴力的革命を前提)として原理的に捉えると、農村の貧困を背景とした青年士官を中心とする陸軍皇道派の意識に通底していたと思われる。これもまた二・二六事件の背景であったと思われ、その収拾において昭和天皇が明確に彼らを否定したことは、本書でも描かれた歴史的な事実である。

 こうした天皇および天皇制と対立する、まさに近代そのものの「概念」(皇国史観と共産主義)がある一方で、天皇制自体についてはどのような構造であったのか。

 終戦判断の際には、昭和天皇自身が「国家元首あるいは大元帥としての天皇」と「神器を司る神職の頂点としての天皇」の2つの立場の間で、逡巡していたと思われる。つまり、天皇制の中にも2つの矛盾する側面が存在し、天皇個人として内部対立していた。天皇制はこのギリギリの局面において、内部と外部の二重の対立構造があったといえる。

 それは近代日本の政治的リーダーと神職・祭主としての宗教的リーダーの二重性と言い換えることもできる。

 この2つの側面が、昭和天皇の人格の中にあった。

 「宗教的」という部分を補足しておくと、より自然宗教的な原始的形態を指す。日本人が、初詣に行き、神社で祈る。その際に心の中で唱える「神様」のイメージである。これは教義や戒律などで規定される「宗教」のイメージではなく、むしろ我々の生活に即したものである。あるいは夏祭りに集まる村の鎮守様のような、生活に即した小規模の緩やかな「神様」のイメージの集合体のようなものである。天皇へのイメージには、この「村の神様」が集合した、その頂点としての性格があるのではないか。

 それが故に、本書の第四章において敗戦後の占領下において、その地位が危ぶまれていた昭和天皇に対して、庶民からその地位を守る多くの声(GHQへの投書)につながったといえる。この庶民の肉声–天皇への一体感は、占領軍の意思決定に一定の効果があったと著者は指摘する。

 そして、こうした自然宗教は、決して近代国家制度の中に組み込まれることはない。歴史的にも先に存在したものであり、より広い時間空間的構造の中で普遍的に存在する上位概念であろう。

 本書で描かれた決断の中で生まれた「対立」は、こうした観点から、より普遍的な要素により勝者が決まったといえる。

 皇国史観や共産主義は、ある一時代に現れた近代的なイデオロギーであり、自然宗教のもつ時間的空間的な普遍性に対して優越はできないという必然的な結果であった。

 現代の象徴(すなわちシンボル)としての天皇制は、その意味ではより両者の対立が弱まっているようだ。本書でも以下のような記述がある。いわば「象徴」の方が座りが良いとも解釈できる。

むしろ長い天皇家の歴史から見れば、明治以後の天皇制のあり方は例外で、世俗的な権力と富から超越する位置を占めた時期の方がはるかに長かった。そして、それこそ天皇家が細々ながら万世一系の血統を保って生きのびることができた秘密でもあった。

天皇家の人々は、こうした歴史的事情をよく知っていた。だからこそ敗戦の直後にあわてふためく女官たちへ、貞明皇太后が「皇室が明治維新の前に戻るだけのことでしょう」とさらりと言ってのけたのであろう。

秦郁彦「昭和天皇五つの決断」(文春文庫)p.250

 象徴という規定によって、この「対立」は一時的な折り合いがついているように見える。

 しかし、天皇制に内包されたこの2つの側面、自然宗教(神器・伝統)と近代国家(個人)との対立は依然として解消されたとは言い難く、まだふと何かの折に、先鋭的な対立として顕在化する可能性を秘めていると思われる。

Share

町田市立自由民権資料館「町田の民権家たち」を見て、明治初期の日本人の、同調圧力に負けないエネルギーに感服する

 マイナーな(失礼)地元の資料館「町田市立自由民権資料館」の企画展「町田の民権家たち」展示を見てきた。

 入場無料で、あまり期待はしていなかったが、なかなか面白い展示であった。

 三多摩地区出身でもあり、小学校の授業などで地元の歴史学習として自由民権運動の情報はそこそこあったのだが、改めて明治初期の日本人の「熱気」を感じることができたのである。

 明治維新後の、政治体制としての近代国家に変化、それと同期して経済システムとしては資本主義への変化が行われていく状況下で、社会変革のために当時の日本人は極めて熱い情熱で議論を闘わしている。

 この展示でもあったように、建白書を作り、同志を集め結社・政党・メディアを作り、演説会を開き意見を表明する。そして、過激な場合によっては社会騒乱事件なども起こす。

 時代の大きな構造変化に対する民衆のエネルギーの発現といえば、それまでなのだが、一応豊かになった現代の我々の中に存在する集団同調圧力とは異なり、一人一人が明確に「意見」を述べている。むしろこの時代の日本人の方がシャイではないように思える。

 もちろんこうした人物たちが資本力のあった一部の比較的高い階層を中心としていたことも事実であろうが、それでもなお、現代の我々が実名で明示的に、同調圧力に屈せず意見を表明することに大きな抵抗があることを考えると、複雑な思いをもつ。

(おまけ)関連人物として北村透谷の展示もあり、古本界隈での掘出もの事件の代表例として有名な「楚囚之詩」の複製が展示されていた。

 「楚囚之詩」は日本に4冊しかない、と言われていた希覯本(紀田順一郎「古書街を歩く」p.58)である。紀田によれば、1967年の古書即売会で80万円という値がついたという高価本でもある。

 複製といってもこの提示物は、北村透谷が町田市の友人(八木虎之助)に謹呈したもので、表紙に北村透谷の自筆の「呈進」が記載されているというもの。展示は複製であろうが、自筆の追記があるのはまさしく原本が存在するのであろう。

Share

【書評】池田晧「漂民の記録 極限下の人間ドラマ」鎖国体制での過酷な漂流のエピソード

 池田晧「漂民の記録 極限下の人間ドラマ」(講談社現代新書)を読んだ。1969年出版であり、現在の講談社現代新書とは装丁がかなり異なっている。カバーもない。また現在はついていない「スピン」(栞紐)がついている。

 サバイバルものの王道(?)、日本の海上遭難=漂流に関して整理されたもので、吉村昭「漂流」で知られている鳥島で20年間暮らして生還した”無人島長平”のエピソードや、1年5ヶ月かけて太平洋を横断してしまった”史上最長”とも言える「督乗丸」のエピソード、アリューシャン列島に漂流しロシア皇帝に謁見した大黒屋光太夫のエピソードなど、読み応えがある。

 更に通常の漂流ものではあまりない、東南アジアへの漂着も描かれる。このケースでは、遭難船を現地民が略奪し、奴隷として使役され、場合によっては奴隷貿易の対象で売られてしまうといった過激なエピソードもある。そうした中でも、様々な工夫を凝らし鎖国中の日本に戻るエピソードもある(このあたりは当時の文献に引き摺られているのか、著者の目線が少々ポリティカル・コレクトネス的にまずい表現もある。これが再販できない理由であろうか)。

 著者が冒頭に記載したように、鎖国前、16世紀から17世紀において日本人は船で世界を駆け巡っていた(朱印船貿易)という。航海技術も、西欧流の天体観測技術を持っていたという。しかし、鎖国体制が確立すると、最先端だった造船技術や航海技術は失われてしまう。

 その一方で、江戸・大坂に物資が各地から集中するため、水運体制が必要になり、外洋を使う廻船が必要になる。しかし日本は黒潮と偏西風によって、容易に遠くへ流されてしまうという、漂流の宿命を持っているのであった。

 大阪と江戸、松前から江戸の航路は波も風もともにきびしい外洋航路であり、そこには熊野灘、遠州灘、鹿島灘といったなうての難所があった。しかもこの外洋航路の海運が、内海航路向きの大和船で行われた。

池田晧「漂民の記録 極限下の人間ドラマ」(講談社現代新書) p.15

 こうした遅れた技術(山見航法)の元で運悪く漂流をしてしまった場合、多くのケースで遭難者たちは「おみくじ」を頼りに”どちらへ向かうべきか”、”今どこにいるか”を頼る他がないという状況に陥る。

 見えるものは四方海しかなく、今どこにいるかが全くわからない中で、「おみくじ」を頼りにデータを集め、戦略を練るという状況(そして生還した状態での漂流体験記では、意外に辻褄があってしまう)は、現代の我々にとって後進性とは言い切れない何かがあるように思える。

 

Share

【書評】土門周平ほか「本土決戦 幻の防衛作戦と米軍侵攻計画」–最終防衛としての総力戦による水際作戦

 土門周平ほか「本土決戦 幻の防衛作戦と米軍侵攻計画」(光人社NF文庫)を読んだ。

 昭和20年4月に沖縄に上陸を許し、太平洋戦争の敗戦が濃厚になってきた段階に、米軍が本州、九州に直接上陸することを想定した防衛作戦「決号作戦」を中心に描いたものである。

 資源のない日本で食料、鉄鉱石、燃料などの補給線は絶たれ、またこれまでの戦闘の経過により戦力も喪失した状態の中で、最後の後退戦とも言える作戦である。

 その作戦自体も、九州および関東に上陸すると想定(これは米軍の実際の計画と一致していた)し、特攻兵器を用い水際で上陸を防ぐことを主眼としたものであった(それにより背後で動いていた終戦工作を少しでも有利にするという意図もあった)。

 上記の戦力としての差異だけでなく、日本列島自体が、長大な海岸線(防衛正面として5,000kmに及ぶ)も持っており、兵力の分散を招き防衛側に不利であることも困難な要素があった。つまり攻撃側は戦力を一点に集中しやすく、防御側は可能性のある場所に兵力を分散せざるを得ない、という非対称性が強い局面であった。

 アメリカ軍も、1945年6月18日には日本本土上陸作戦をトルーマン大統領が承認していた。この作戦は「オリンピック作戦」(南九州上陸作戦)および「コロネット作戦」(関東上陸作戦)の2つからなり、約220万人の兵力を準備していた。

 日本軍も敗北が続いていたとはいえ、いわゆる”根こそぎ動員”により、兵力自体は2,800万人が動員されていたと言われている。

 従って、まさに生活圏を含む日本”本土”を舞台とした総力戦が予定されていたのであった。

 日米ともに1945年秋と想定していたこの作戦は、ソ連参戦や原爆投下などによる8月15日のポツダム宣言受諾によって実行されることはなかった。

 総力戦であり「勝つ」ことしか戦争終了条件がなかった当時の日本にとって、この作戦は最後の手段であったことは難くない。

 仮に関東に米軍の上陸を許した場合、国家としての存続が危うくなる。

 それは内陸での戦闘になった沖縄戦のような非戦闘員を巻き込んだ混乱が生まれることでもあり、精神的支柱であった国体護持に必須の「神器」が奪われる、あるいは、喪失する可能性も秘めていた(昭和天皇も木戸内大臣との会話や「昭和天皇独白録」で、神器を守ることを気にかけており、「講和」の判断根拠の一つになっていた)。

 本土決戦が行われていた際の仮想(if)としては、小松左京のデビュー作「地には平和を」で描かれたように、焦土戦、ゲリラ戦になっていたであろう。その場合の未来はどうなっていたのであろうか、ということを考えてしまう。

 関連記事:【書評】小松左京「召集令状」(角川文庫)小松SFの原点としての戦争体験

 また、新型コロナ感染拡大に伴って、我々が今実感している”息苦しさ”、物流の停滞や長大な防衛線を水際で食い止めることの困難さなどは、見えない敵であるという違いはあれど、局面としては相似しているような気がする。

Share

【書評】福田恆存「人間・この劇的なるもの」進歩主義の欺瞞を暴いた”奴隷の思想”の瑕疵と、<部分の中にある全体>概念導入による修正

はじめに

 福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)を読んだ。1956年、戦後11年経た頃に発表された論争的な書である。

 当時の世相状況は、第二次世界大戦敗北後のサンフランシスコ講和条約が成立(1952年)したのち、冷戦構造が成立した中で、いわゆる反共的な政治状況=”逆コース”が進み、この世界状況(冷戦構造)を反映して論壇も、いわゆる進歩主義的・革新的な思想と、保守主義が先鋭的に対立していた。

 進歩主義的な主張は、いわゆる旧来の日本軍国主義に対するカウンター的な意味もあり、個人主義を旗印として、旧弊な習俗・伝統を否定し、自由を求める”解放思想”であった。

 いわば当時の進歩的文化人の主流に対して、福田は真向から反対意見を提示した。

 本書は、こうした進歩思想に対する一連の福田による論争の中で、彼らとの本質的な人間観、幸福観の違いを感じた福田が、その人間観に基づいて”個人主義的ヒューマニズム、あるいは、自由思想は人間を幸福にするか?“という問題を設定し、その論拠の自己撞着を明示することにより、反証を行なっている。

 この論点は現時点でも有効であり、今この時代に読まれるべき古典としての価値を有している。ただし当然のことながら、そこには現代的な観点からの見直しも必要であろう。

論点の整理

 以下に、福田が本書で主張している論理を筆者の責任において図示化したうえで、その反証の論理を追ってみたい。

 その上で福田自身の論理自体にも、ある種の論理矛盾があることを指摘し、それを新たに解釈しなおすことを提案する。

 表1に本書における対立構造の論点を整理したものを示す。

 表1では、進歩主義、保守主義と比較して記載した。当然のことながら、福田が拠って立つ保守主義の立場で整理されたものである。

 それぞれの立場には、より基本的な「原理」が記載され、差異が明確化されている。ここではその原理を2点とした。

 原理と称したのは、それ自体で証明ができないもので、いわば立場のようなものであり、端的には”好き嫌い”である。そして福田が攻撃する「進歩主義」との差異、すなわち論点は、本書の主題でもある「人間が幸福に生きること」である。

 これの対立する論点が、いずれの立場がより論理として優れているかを議論している。

 そして、保守主義者である福田は、有名な”奴隷の思想“による自由思想、解放思想、進歩思想のもつ自己欺瞞、自己撞着を明らかにした。その予言は事実、その後の社会主義国の弾圧、新左翼運動の粛清の歴史によって正しさの実証もされている。

 奴隷の思想とは、以下のようなものである。

自由ということ、そのことにまちがいがあるのではないか。自由とは所詮、奴隷の思想ではないか。私はそう考える。自由によって、ひとはけっして幸福にはありえない。自由というようなものが、ひとたび人の心を領するようになると、かれは際限もなくその道を歩みはじめる。方向は二つある。内に向かうものと外に向かうものと。自由を内に求めれば、彼は孤独になる。それを外に求めれば、特権階級への昇格を目ざさざるをえない。だから奴隷の思想だというのだ。奴隷は孤独であるか、特権の奪取をもくろむか、つねにその二つのうち、いずれかの道を選ぶ。

福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)p.84

 すなわち自由主義に基づく進歩主義は、自由を求めながら決してその目的を達成しえない、つまり自己矛盾を生じているとする。

精神の自由の頂点においては、ひとは自己を証するために、自己以外のなにものも必要としなくなるだろう。かれは他人を否定し、不要物と化する。物質的自由においても、それは同様である。その極限においては、それは他人の否定を意味せざるをえない。(略)自分以外のすべての存在は、人間であろうと、組織であろうと、物質であろうと、ただ自己の快楽を保証するための媒体としてしか意味をもたなくなる。それが自由というものの正体であり、奉仕と屈従とを裏がえしにした生活原理にほかならない。

福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)p.91

論点の評価

 この”奴隷の思想”による進歩主義への福田の反証は、公平な目で見て、福田のほうが2つの点で優れていると判断できる。

優位点1:より根源的な理由に基づいていること

  ロレンスの例にもあるように、福田の論点の方がより人間にとっての生命性にまで広げた論理であり、いわば”生物としての人間”としての観点を持っていることである。

優位点2:より首尾一貫していること

 繰り返しになるが福田による”奴隷の思想”の論理は、進歩主義の拠って立つ原理に基づくと、それが論理破綻していることを示している。同時に福田の論理自体には(一見)それはなく、原理に基づき首尾一貫している。いわば、よりself-consistentな理論であると言える。

福田の論理矛盾

 ただ、急いで付言しておくならば、首尾一貫しているように見える福田の論理にも、いくつかの瑕疵が指摘できる。それを以下に検討しておきたい。

 福田の論理の優れた点としてあげた2点について、優位点1は単純に議論を生物学的な話に拡張しただけという指摘もあろう。また、優位点2については、厳密に検討すると「比較的」首尾一貫しているにとどまっていると考える。つまり、福田の論理にも、程度の差こそあれ論理矛盾を有している。以下で詳細に検討する。

 具体的な論理矛盾は、死についての思想である。

 福田は、以下のように「全体に対する部分の俯瞰」を錯覚であると否定する。

今日、私たちは、あまりにも全体を鳥瞰しすぎる。いや、全体が見えるという錯覚に甘えすぎている。そして、一方では個人が社会の部分品になりさがってしまったことに不平をいっている。私たちは全体が見とおせていて、なぜ部分でしかありえないのか。実は全体を見とおせてしまったからこそ、私たちは部分になりさがってしまったのだ。ひとびとはそのことに気づかない。

福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)p.32

 しかし、必然としての死、生を正当化するための宿命としての死と解釈する福田自身が、「全体を鳥瞰した」視点に拠っている。これは全体は鳥瞰できず不可知として捉えた福田の原理①と矛盾する。

かれらがそのために死ぬに値するものが生のなかにあったのであり、それがまたかれらに生きがいを与えていたのだ。(略)そのために死ぬに値するものは、たんなる観念やイデオロギーではない。個人が、人間が、全体に参与しえたと実感する経験そのものである。それは死の瞬間においてしか現れない。(略)私たちは死に出あうことによって飲み、私たちの生を完結しうる。逆にいえば、私たちは生を完結するために、また、それが完結しうるように死ななければならない。

福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)p.112

 つまり、福田も指摘しているように、幸福に生きることにつながる「死」とはまず自分の死であるが、われわれは他者の死しか経験できない。これに対して、全体のもとで宿命としての必然を語るとき、部分を超えた視点、いわば鳥瞰的な視点が必須になる。これは福田の原理①と矛盾する。

 また、”奴隷の思想”についてもひとつ瑕疵がある。内と外の2つの道筋があるとされ、その1つ「孤独」を否定する際に、そこに原理的な主張が存在する。

 つまり、「孤独者が全体の支えなしに生きられない」として、この選択肢を排除する客観的根拠が何も語られていないのである。福田自身も何度もこの部分は繰り返し語っているが、原理的な主張の域を出ていない。

論理矛盾の回避

 では、進歩主義と保守主義はどちらも似たようなものであるのか。そうではないであろう。より根源的である福田の論拠を自体を修正することは可能なはずである。

 それには、”部分の中にある全体”、という考えを導入すれば解決できると思われる。

 優位点1にあげた論拠である、より根源的な理由としての生物としての人間、あるいはロレンスからの言及である”性の問題”である。これは、生物学的な用語で換言すると、要するに”大脳新皮質から大脳旧皮質へ遡れ、それが幸福だ”といっているに等しい。既に述べた通り、この主張自体は、より広い概念への拡張であり、福田の論理が強力なゆえんである。

 これを更に根拠づけると、何を意味しているのか。自己のなかに、生物学的な進化の歴史があること。そして自己の生命の存在は、過去に遡る何世代のもの先祖の歴史そのものであり、これこそが「部分のなかにある全体」なのである。

 先に福田の原理的な主張であるとした「孤独者は全体に支えられないと存在できない」という主張もまた、この「部分の中にある全体」という観点を付加して拡張されなくてはならない。

 孤独者は、自己のなかにある全体によって支えることができるのである。これによって先ほど瑕疵を指摘した”奴隷の思想”も、孤独者の論理によって自己矛盾を回避される。

 無意味な死や孤独に死んでいく例は、沢山存在する。炭鉱労働や、シベリヤ抑留の日本人もそうだった(関連記事:シベリア抑留と強制労働)。また現代のブラック労働による孤独死もそうである。彼らの「死」は福田の論理では評価できない。それを救済する必要がある。

 当然難しいことは言うまでもない。だが、そこに孤独者が生きていく幸福論の可能性があるのではないか。

Share

シベリア抑留と強制労働

はじめに

 1945年から1956年までの約11年にわたって行われた、ソ連による日本陸軍の捕虜約50万人に及ぶ強制労働、いわゆる「シベリア抑留」を整理した(第1章)。

 続いて、いくつかの論点を提示する。

 極寒のシベリアにおける過酷な労働環境(2.1節)、強制労働における組織統制の問題(特に日本軍が保有した「戦陣訓」の精神が、強制労働に対してどう対峙したか)(2.2節)、その後の「民主化運動」における組織分裂(2.3節)、更に捕虜労働の国際法的是非(2.4節)、そして底流としてのシベリア出兵の記憶(2.5節)を整理した。

 それらの論点を受けて、3章で「戦陣訓」に代表される戦前の日本軍の精神を敗北させた「強制労働」を再度概念的に検討しなおし、労働という概念が本質的に「強制」という概念を持っていることを論じる。

 4章では、労働にとって「強制」が不可避であり、他者との関係において「支配」が逃れられないとする前提のもとで、その「支配」を乗り越えるための方法を提示する。

(文中敬称略)

1.事実関係

 いわゆる「シベリア抑留」と称されている事件は、それ自体が様々な様相を持ち、現代にまでその影響を残す歴史的事象である。

 ここで”様々な様相”と記述した理由は、本事象が社会的に重層的な側面を持っていることによる。

 すなわち、簡単に思いつくだけでも

  •  国際政治権力のパワーゲームとしての側面
  •  戦前の日本軍あるいは帝国主義の精神的イデオロギーの側面
  •  国家の敗北に対する日本人の心情の反応
  •  捕虜を他国の労働力として行使する強制労働のもつ意味

 などが挙げられる。まず、事態がどのように進んでいったのかを理解する意味で、事実関係を以下に時系列にまとめた。

 表1 シベリア抑留に伴う時系列

日時 出来事
1945年4月5日 相互不可侵を謳った日ソ中立条約の延長非継続をソ連が通達
8月8日 ソ連、ポツダム宣言参加表明、同時に対日参戦
8月15日 日本、ポツダム宣言受諾および降伏を国民に発表
8月16日 日本 即時停戦命令
  ソ連 侵攻継続 樺太占領
8月18日 ソ連 千島占領
  関東軍山田大将とソ連軍極東司令官ヴァシレフスキー元帥による停戦交渉
8月23日 スターリン「国家防衛委員会決定No.9898」により日本軍捕虜のソ連内収容所への移送・強制労働の決定
8月26日 関東軍総司令部「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」ソ連へ送付
  大本営「関東軍方面停戦状況ニ関スル実状報告」ソ連へ送付
  停戦終了
9月2日 降伏文書調印(ソ連も参加)
  日本人のソ連国内収容所70箇所へ収容、過酷な環境下で強制労働に従事。強制労働に従事した日本人は57万5,000人、死者5万5,000人(日本側推定)
1946年12月19日 在ソ日本人捕虜の引揚げに関する米ソ暫定協定
1946〜49年 47万人が順次引揚げ
1950年4月 ソ連タス通信「日本人捕虜の送還完了」ただし政治犯(残留戦犯受刑者)は含まれず
1956年10月 日ソ共同宣言、国交回復
1956年12月26日 ソ連引揚船第11次興安丸(最終引揚船)で1,025人(遺骨24柱)が帰還

 「シベリア抑留」とは、第二次世界大戦で連合国に敗北した際に、満洲に駐留していた日本陸軍(関東軍)およびその軍属が、参戦したソ連によって、捕虜として長期に渡り強制的な労働力として使役された事件を指す。

 実際には表1に示したように、1945年の日本のポツダム宣言受諾、武装解除から、1956年の最終引揚までの11年の間、ソ連各地の収容所で約50万人の日本人捕虜がソ連の地で抑留され、労働を強いられたことになる。

 そうしたマクロに粗く捉えた見方であるが、より詳細には様々な問題が発生している。

 様々な事情で日本に帰れずソ連に定住した人々、ソ連から政治犯と認定され、更に拘束され続けた人々も存在する。

 また労働に対する補償問題もその後も残り、現在でも完全解決には至っていない「賃金未払い問題」として残った。

 極寒の過酷な地で捕虜として自由を奪われた日本人にとって、この「労働」とは、現代的にどのような意味を持っているのか。

 次章から、こうした歴史的事象に対していくつかの論点を定義して、議論をしてみたい。

2.論点

 前章で整理した事実関係に対する論点として、以下の5点にフォーカスする。

2.1 過酷な「労働」環境

 日本人が送られた土地は、「労働」環境としてはあまりに過酷な自然環境であった。その形態は、ソ連による強制労働であり、そこに労働者の意思が反映されることはなかった。

 もともとソ連(ロシア)は、囚人を過酷な労働に使役することを計算に入れていたと思われる。栗原俊雄は、それをソ連が元々持っている「強制労働依存体質」と呼んでいる(栗原俊雄、p.32)。シベリアも元々ソ連の囚人らによる強制労働で開発されたものである。

 後述するように、当時のソ連指導者スターリンはもともと参戦の条件として、北海道を占領する意思があったという。しかしながら、アメリカ大統領トルーマンにより、これを拒否されたことを受けて、満洲にいる関東軍の捕虜を自国の労働力として使役することに方針転換したとも言われている(坂本龍彦、p.270)。この意味では、日本の国土占領と引き換えに犠牲になったという側面もある。

 シベリアの自然環境は、-60度の極寒の環境であり、既に敗戦の段階で、装備はソ連軍に簒奪され尽くした中で、極めて過酷な労働環境であり、日本側の推定値だけでも55,000人が死亡したといわれている。

 労働者として以前に捕虜としての待遇であり、その労働は強制で行われた。十分な栄養などを与えられない中で、日本人は多く倒れていった。こうした痛ましい事例は、様々な著書で実際の体験として記述されている。

 その自然環境は現在の我々では想像できないかもしれない。以下のような”吐く息がその場で凍結する”ような現象が起こる。

やがて十二月、街を流れるアンガラ川に水を汲みにいくと、吐く息がすぐに凍りついて、サラサラと音をたてた。ヤクート人が「星のささやき」と呼ぶ零下六十度の現象だった。

(2)坂本龍彦、p.122

 そのような過酷な自然の中で、更に労働自体も過酷なものであった。前述のように、通常の労働環境より厳しい地域に囚人労働を配置するソ連の方針そのものが、捕虜としての日本軍に与えられることになった。炭鉱、鉱山、未開の地の開拓などである。

「チャバンボルガの作業は原石を掘り出すことから石灰を製品にするまでの一貫作業であった。(中略)毎朝七時、全員集合の上、各自の作業が告げられ、仕事に取りかかることになる。(中略)二名の石積み、三名の採石、二十五名の運搬班に分かれ三十五立方米の石積みを完成するのである。これが達成出来なければ食事も就寝も休養もとることが出来ない。(中略)石灰がウランバートルを初めモンゴル各地で行われた建築に使用される必需資材であったということである。毎日トラックが五台から十台石灰を引き取りに来た。これは国策であり是が非でも需要に供給せねばならなかったのである。我々がそのためにいかに生贄になったことか」

(2)坂本龍彦、p.119 林隆氏の「ウランバートルを偲びて」の再引用

コリマは金の産地だが、大島さんたちは鉛の鉱山で働いた。地下五百メートルの地底で一日十二時間労働。囚人たちはみな青くどす黒い顔をしていた。冬、一月下旬は零下六十度以下で一日中陽は上がらない。午後一時ごろ、空がほんのり白くなるだけでまた暗くなってゆく。(中略)地下五百メートルの地底では横穴を掘って鉛の鉱石をツルハシで掘った。食糧は冬季、飛行機が運ぶしかなく、一週間、輸送が途絶えたこともあった。馬糧の腐った塊り(燕麦)をも焼き、むさぼるように寝床で食べた。

(2)坂本龍彦、p.122 抑留軍人である大島英雄氏の「惨!極北コルィマの労働」より再引用

 更に収容所では、食糧も乏しく衛生状況も極めて悪く、人々は生存すること自体で苦しみを味わっていた。馬糞や自らの排泄物すらも再度食べるような、人間の尊厳という観点など遠い彼方に追いやられ、生存そのものに直面させられている体験は身につまされる。

零下三十度の寒さである。本来なら体の内部でエネルギーを燃やさなければならない。しかし、収容所で一日に支給されるのは、こぶしより小さい黒パン一個と、のぞきこんだ目玉が映るほど薄いスープのみ。カエルをつかまえ、ドックに浮かぶ死んだ魚をすくって食べた。残飯をあさっていた猫を捕まえて食べたこともある。

(1)栗原俊雄、p.49 軽野相之助氏の回想

コウリャンは消化が悪く大便の中にそのまま出てくる。これを布で包んで河で洗い、コウリャンだけ取り出し、缶詰めの空き缶に入れて火で炊いて食べた

(1)栗原俊雄、p.51 「読者の手記 シベリア強制収容所」からの再引用

「作業に行く途中、路上に落ちている『馬糞』、その中には、消化されていない麦の粒が残っている。ただ食うこと以外は頭にない。この兵は両手で馬糞を掬いあげ、中にある麦の粒を拾い出してうまそうに食べている。(中略)放心状態で、子供がお握りでも食べるように、無心になって馬糞を食べている有様を、この兵の親や兄弟などが見たら、どんな気持ちであろうか」

(1)栗原俊雄、p.51 「読者の手記 シベリア強制収容所」からの再引用

 更には、本来であれば同胞であり助け合うはずの日本人同士でも、奪い合いや盗みなどが起こるようになった。

最初の冬に黄疸で倒れた。食欲がなくなり、粥を残した。それを見た周りの男たちが「大勢でわあっと奪い合いになった」誰も看病しようとはしなかった。

(1)栗原俊雄、p.53

元大谷大学学長、廣瀬杲は、コムソモリスク周辺でなけなしのパンを盗まれた。すでに僧籍にあった廣瀬は「あきらめるのではなく『よし、こんどは俺が盗んでやる』と思ってしまった。結局盗みはしませんでしたが、私は餓鬼道に落ちた。信仰は壊れてしまったんです」。シベリアの飢えは抑留者の身体だけでなく、人間性をも砕いてしまったのである。

(1)栗原俊雄、p.54

 この廣瀬の発言にあるように、「人間性」自体も砕かれてしまったのである。

 だが、その際に、一つの疑問が湧く。彼らを支えているべき「支柱」は、その間何をしていたのであろうか。ただ過酷な運命を傍観していたのであろうか。

 ここでいう「支柱」とは、物理的には、当時の日本軍のもつ組織であり、精神的には天皇制のイデオロギーである。これらは戦前の日本を支えてきたものであり、敗戦と言えど一定の効力はありうべきと思われる。

 なぜならば、”1945年の敗戦”とは、まず第一に「軍事力」の敗戦と認識されていたはずであって、国家およびその精神の敗北との認識を当時の捕虜たちが持つ術はなかったはずである(国家およびその精神が、真に敗北したのかどうかという点も含めて)。

 更にはあくまで日本は連合国、あるいは中国と戦争をしていたのであって、ソ連と直接に戦闘し、敗北した事実はほとんどない。それにもかかわらず、何故その行為に対してある種の受容がなされるのであろうか。次節で日本軍が、ソ連に対してどのように対峙したかを検討してみたい。

2.2 日本軍の組織的・精神的問題

 捕虜集団を管理する上で、ソ連軍は当初日本軍の組織構造を残存させた。これは将校団と一般の兵の組織を残したことになる。つまり、一時的に日本軍の制度はそのままシベリアの強制労働においても維持されたことになる。ただし、その最上位にソ連がいることは言うまでもないが。

 その将校団は、日本軍の代表としてその環境を改善するために動いたのであろうか。また、その精神的な支柱となり得たのであろうか。

 以下に引用する事例からは、むしろ否定的な実態が浮かび上がる。

(将校団は)「俺たちは陛下の命令で停戦に応じただけで捕虜ではない」と公然と胸を張って言う始末だった。兵たち厳しい寒さと飢えに耐えながら悪戦苦闘を続けていたとき、彼等は兵食の上前を撥ねた特別食で将校室のストーブを囲み談笑するのが日常だった(略)

(2)坂本龍彦、p.69

 本来捕虜を代表して一般兵を守るべき将校たちは機能せず、むしろ一般兵の待遇と引き換えに自らの生存を図る妥協を行っているかのようだ。こうした将校団と一般兵の対立は根深い。

 また、日本が戦前その精神の精華として掲げた「イデオロギー」は一般兵を救ったのであろうか。その精神を誰よりも持っているはずの将校たちの振る舞いからは、その精神すらも機能していないように見える。

 例を挙げると、日本軍の精神的根拠となった”生きて虜囚の辱めをうけることなかれ”とある「戦陣訓」は、シベリア抑留の兵たちに、どのように機能したのか。そして、この「戦陣訓」は、軍部だけの手によるものではない。その成立において、島崎藤村、土井晩翠らの文学者、井上哲次郎などの哲学者の手が入っている(坂本、p.182)。まさに当時の日本の「精神文化」であった。

 1941年1月8日に布告された「戦陣訓」において、前述の”捕虜の全面否定”が入る。つまり捕虜は日本軍において存在しないことになる。よって、シベリア抑留において将校たちは何をどう振る舞って良いかすらわからない無力な存在となり、自らの生存のために取引をすることになる。

 全抑協会長の斎藤六郎は、怒りを持って以下のように語る。

こうした捕虜の人権無視に、天皇制軍隊のゆがみがさらに拍車をかけた。

国際法の基本が解っていないから、天皇陛下が捕虜に非ずといえば、それが世界に通用すると思っていた。関東軍高級参謀の中にはシベリアの抑留中最後まで「俺は捕虜ではない」との信念を通した呆れ果てた将校すらいた。彼らは自分に託された、国際法上の捕虜代表権を放棄し、恥じることがなかった。これら高級将校は捕虜大衆を擁護すべき人道上の義務を理解できなかったのである。

全く救いがない。なにゆえ天皇は「お前たちは捕虜である。捕虜の地位を自覚し生命をまっとうせよ」とまっとうな命令をしなかったのか。私はそれが残念でたまらない。私はシベリア抑留の悲劇はこの辺からはじまったと思っている。

(2)坂本龍彦、p.138 斎藤六郎の証言

 翻ってみると、他国の捕虜の振舞いは日本人のそれとは異なっていたことも示される(ただし、そこにはドイツ人のソ連に対する差別意識も明らかに存在している。全力に服従する日本人、支配される側を明確に差別するドイツ人、どちらが良いのかは議論の余地があろう)。

(ドイツ人捕虜は;引用者注)ソ連におもねることなく毅然としていた。日本人以上にノルマ以上に働いてノルマを引き上げ、自らの首をしめるようなことはしなかった。ソ連の監視兵の目を盗んでさぼる。国際法の規定で将校は労働を免除されている、日本人捕虜は半ば強制されて「自主的労働」を申し出るが、ドイツ人はそんなことをしない。赤旗は掲げないし、労働歌も歌わない。個人は別として、日本人のように集団で「民主化」されることはない。末端の兵までもが国際法を熟知し、主張すべきことはきちんと主張する。そもそも文化的に自分たちの方が優れていると確信しており、ソ連兵を見下していた–といったものだ。

(1)栗原俊雄、p.91

 そもそも、このシベリア抑留を産んだ原因として、ソ連の意思だけでなく、日本軍(関東軍)上層が、自らの労働力を交渉のカードとしてソ連と密約を結んだのではないか、という問題は「関東軍密約説」として今なお謎として残っている。

 日本軍が自主的に申し入れた可能性として、1993年に発見された、関東軍首脳の労働力提供申入れ「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」(栗原俊雄、p.156)などが存在し、この説を裏付けるものとして扱われている一方、その真贋についてはまだ決着を見ていない。

 しかしながら、当時の日本軍が持っていた精神は、強制労働の前に明確に敗北している。軍事力の敗戦ののちに、精神としての敗北を、将校団自らが体現しているのである。高杉一郎は、以下のように語っている。

懲罰大隊は、あたかも「着物が人間をつくる」とか「人間は環境の動物である」という古い諺を証明する実験管のようであった。この実験管は、人間という脆弱な動物のさまざまな化学変化を悲しいほどはっきりとみせてくれた。

ここに送られてきた当初は、藤田東湖の「正気歌」や吉田松蔭の憂国の和歌を声高らかに吟じて「サムライ」的な気骨を誇示していた将校が、一ヶ月の労働ののちには、円匙を握って作業場からひそかに脱け出し、近くにある畑で馬鈴薯を拾う姿が見られた。

(4) 高杉一郎 p.221

 そしてその生きて虜囚の辱めを受けた「敗北意識」は、将校団だけでなくシベリヤ抑留を経験した全ての人々が共有している。それは、生き残ったものさえも同胞への加害意識、贖罪意識としても現れる。

「生還した戦友に『シベリアでは何をしてた?』と聞くと、食料係とか医務室とか通訳などですよ。うまく立ち回って、重労働を逃れた。誰かが代わりにその仕事をさせられたんです」。

「そうだったととしても、生き残るために、仕方がなかったのでは」私(栗原、引用者注)はそう問うた。佐藤は長い間だまったあと、うめくように言った。「我々生き残った者はね、加害者なんですよ」。

(1)栗原俊雄、p.201 佐藤清氏の回想

 フランクルの発言とも類似するこのような贖罪意識は、本来第一義的には、強制労働をさせた側(ここではソ連)にその責任を帰するべきであるにもかかわらず、生まれてしまう。被害を受けたにもかかわらず、ある種の「後ろめたさ」を感じてしまう。これもシベリア抑留による精神的な敗北が生んだ産物であろう。

 高杉はその有名な一節で、以下のような「後ろめたさ」を感じる。

(前略)私はやはりひとたび虜囚の辱めを受けた者の心の傷みを感じないわけにはいかない。私は決して夜になって自分の家の裏口からこっそり入って行こうとは思わないが、もし父や妻や子供たちに再び顔を合わせる機会があるならば、そのとき思わず彼らの前に目を伏せるような心の淋しさを感じることであろう。

(4) 高杉一郎 p.138

 また、政治犯として11年獄中にいた内村剛介は、帰って来なかった人との対比でこう語る。

筆者(引用者注;内村自身のこと)のような臆病卑小な者ではなくて果敢に高く頭を下げて真実をその肩に担おうとしたものはみずからあらかじめ死者の運命を選んだというべきであって、その声はついに地下へ消えざるをえなかったのだ(たとえばわれわれ日本人は、ヴォルグタで東を向いたまま一言も発せず食を絶って死んでいった同胞を知っている)

(3) 内村剛介 p.225

 当然のことながら戦前の日本がもっていたイデオロギーは何一つ彼らの「後ろめたさ」を救済することはなかった。むしろ、シベリアからの帰還者をソ連のスパイ扱いするなどの差別意識で迎える態度すらとった。その原因には、もう一つのシベリアで起こった精神的敗北が背景にある。

 旧軍制度が支柱として敗北した状態から、さらに時間が進むと、冷戦構造を背景とした「民主化運動」と呼ばれるもう一つのイデオロギー闘争が内部で仕掛けられる。

 日本人たちは更に分裂する状況に追い込まれる。次節で詳細に述べる。

2.3 「民主化運動」に伴う組織のさらなる分裂

 前述したように、抑留当初は、旧日本軍の将校団が捕虜集団を「指導」してきたが、次第に共産主義化を目的とした「民主化グループ」に、その主導権の移行が行われてきたという。

 坂本の著書で、”日本に帰らなかった人”として、瀬島龍三の次の日本人捕虜団長である吉田氏の事例が紹介されている。彼は、1955年10月の日本人抑留者の集団的対ソ抗議運動として注目されたハバロフスク事件では、日本人の同胞から罷免を要求されている。つまり、彼はソ連寄りの人間と見なされていた(坂本龍彦、p.78)。

この民主化運動にも収容所の支配権を握ろう、ソ連当局に取り入ろう、といった権力志向がからんで、ドロドロとした抑留史の側面をのぞかせている。

(2)坂本龍彦、p.146

 こうした新たな権力構造-あくまでソ連の支配下限定でしかないのだが-は、最終的に”シベリア天皇”と呼ばれる新たな特権階級を生み出す。

 収容所における情報メディアを支配した「日本新聞」の日本側編集責任者:浅原正基などが代表的事例で、「自分たちを不当に連れ去り、強制労働させた国をほめたたえ、その指導者スターリンを礼賛している」(栗原俊雄、p.84)、そこでは日本軍のソ連参戦は、日本人民を解放したものと解釈される(栗原俊雄、p.85)。

 さらに、民主化運動が最高潮に達しつつあった1949年には、「スターリンに対する感謝署名運動」という(グロテスクな)運動が起こった。この決議文には6万6,434人が署名したという(栗原俊雄、p.99)。

理不尽な旧軍秩序への反発を引きがねとして始まったこの運動は、日本人が日本人を集団でリンチする「吊し上げ」や「アクチブ」と呼ばれた民主化運動のメンバーと反対派が帰国後までいがみあう悲劇につながった。

(1)栗原俊雄、p.73

 こうした民主化運動は、前節の旧日本軍の将校たちへの批判が根底にあった。

 軍人から知識人への権力移行という側面から、ある種の価値転換=”革命”運動として支持を得た。更に段階は進み、知識人(インテリ)層から労働者層への主体の移行も進んでいき、権力構造は変転していった。

 高杉は、こうした状況を以下のように分析する。

ソヴィエト・ロシアの全地域に散らばっている日本人俘虜収容所で、反ファシズム民主主義委員会の確立が叫ばれているとき、民主運動の啓蒙時代には大きな役割を果たした、頭脳は明晰だが、理論と饒舌のほかにはなんのなすところもないインテリゲンチヤ出身の指導者は、もう必要なくなったのではあるまいか。労働者農民出身の若い指導者で、自ら生産労働の先頭に立って働き、民主化運動の成果を収容所の作業成績の昂揚のなかに直接示すことのできる指導者があたらしくもとめられているのではあるまいか。

(4) 高杉一郎 p.204-5

 この民主化運動においても、旧日本軍の制度の「敗北」を見ることができる。第一段階の移行においては、ある時間が経過したのちに、彼ら=旧日本軍の将校たちは、もはや管理制度としても不要の存在であると、ソ連から見做されているのである。

 しかし、この民主化運動の新たな指導者も、同時に新たな権力者として、同胞の恨みを買っている。まさに我々がかつて新左翼運動や、中国の文化大革命で見たり経験したものと同様の思想矯正の姿を見ることができる。

 こうした二重、三重の対立構造はさらなる悲劇を産み、最終的な引き揚げの際に、ナホトカで乗船した人数と比べ、舞鶴上陸時の人数が減っている=民主化運動の権力者が海に放り込まれた(栗原俊雄、p.110)という事例も起こっている。

 つまり、最終的に逆コースを歩んだ日本に帰還するに際し、再度価値の転換が起こっている。

 その結果として、もはや”日本に帰らないことを選択せざるを得なかった”人々も生んでいる。

民主化運動の指導者の中にも、シベリアで彼らが「反動」として吊し上げ、批判した者たちの報復を遅れて帰国しなかった人々がいる、と言われている。

(1)栗原俊雄、p.132

 こうした対立自体も、第一義的には不当な強制労働に起因する問題である。しかし、その実態としては個人レベルの苦悩にまで落とし込まれ、決して個々の人生は救済されることはないという悲劇的な構図になっている。

2.4 捕虜労働の国際法的問題

 本節では、この「労働」における国際法的問題を整理する。

 シベリア抑留を「労働」の問題と捉えた場合、この「労働」とは一般に理解されている「労働」とは、明らかにかけ離れたものであった。

 つまり、労働者が自らの意思のもとに労働に従事し、対価と交換するような契約形態ではなく、自由を制限された上での強制であったという事実である。そもそも、依然として「賃金未払い」の問題は解決していないのだ。

 このソ連による捕虜の強制労働・使役が、国際法的に正当なものであったのかどうかという議論がある。ポツダム宣言との関連では、以下のような国際法違反の指摘がある。

ソ連も参加したポツダム宣言が、日本の軍隊は武装解除されたあと「各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会」を与えられると記している。にもかかわらず、ソ連による抑留は最長11年にも及んだ。明確な国際法違反である。

(1)栗原俊雄、p.38

 また、捕虜の処遇については、日本と当時の帝政ロシアは「陸戦慣習ヲ明確ニ規程スルヲ目的」とする、1907年の「ハーグ条約」は批准、調印している(坂本龍彦、p.178)。

 ハーグ条約の「陸戦の法規に関する条約」では「平和克後ノ後ハ、成ルベク速ニ俘虜ヲ基ノ本国ニ帰還セシムヘシ」とされ、この条約には帝政ロシア、日本政府も署名している。帝政ロシアの締結した条約の多くをソ連は継承しており、ハーグ条約にも拘束されている(栗原俊雄、p.161)。

 しかし、ハーグ条約の人道基準を明確にしたジュネーヴ条約(1929年)は、日本も批准したがソ連は批准していない。

 ジュネーブ条約によれば「捕虜の労賃は捕虜の所属国が支払わねばならない」とされる。すなわち使役する国が発行した「労働証明書」に基づき、これまでオーストラリア、ニュージーランド、東南アジア地域などで米英、オランダの捕虜になった人々には支払われた(栗原俊雄、p.139)

 結果として、敗戦を迎えた場所、捕虜になった地域によってその後の対応・待遇に差異が生じていることになった。

米英蘭などの捕虜となった日本人将兵には、行政措置として日本政府が未払い賃金を支払った経緯がある。(略)労働証明書が発行されており、帰国後、これに基づいて未払い労賃が支払われたのである。しかし、スターリン統治以来のソ連政府は労働証明書を発行しなかった。

(2)坂本龍彦、p.135

 斎藤六郎会長の「全抑協」裁判は、1989年に地裁で敗訴する。ジュネーブ条約が日ソ間で発効する以前に帰国していたことがその理由である。その判決で出てきた”受忍論”では「原告等の損害は、国民が等しく負担すべき戦争被害であり、これに対する補償は憲法の予想しないところである」(栗原俊雄、p.140)とされていた。

 その後のソ連崩壊後の1992年1月、ロシア共和国政府は労働証明書を発行・交付し、新たな裁判に展望を開いた。

 しかし、依然としてこの問題に対する結論は出ていない。労働としての補償すら結論が出ていないのである。

2.5 シベリア出兵の記憶

 前節でシベリア抑留における「労働」の国際法的な不法性を示した。そもそもソ連の第二次世界大戦への参戦自体が、日ソ中立条約の破棄に関する明確な違反であると考えることが一般的である(ソ連自体は、当然のことながら正当性を主張しているが)。

 この問題は、条約の解釈論という論点ではなく、全く別の論理の帰結であることは明白である。

 すなわち、枢軸国敗戦後の世界のパワーバランスを協議したヤルタ会談において、既に勝利者としての連合国(ソ連も含む)は、次なる世界の覇権に向けた権力闘争を開始していた。つまり、ソ連参戦の正当性には、軍事力の勝者であるが故に正しい、とする以上の根拠は存在しないと判断できる。

 ソ連側にとっては、勝者(後から参戦という不合理にもかかわらず)の権利としてのシベリア抑留であり、もしも公正な視点が可能であれば、そこに利と呼ばれるものは何一つない。

 シベリア抑留は、ソ連による非道と断言するしかないのである。

 しかしその背景として、ソ連の人々の当時の感情について、その公正のために一言することも必要であろうと思われる。

 それは、1918年の「シベリア出兵」の記憶である。

 日本は、米英とともにロシア革命に対し、反革命を支持するためにロシア領内へ出兵(軍事的な内政干渉)を行った。日本軍の派兵は他国に比較してずば抜けて多く、3ヶ月で7万3,000人、「ソ連にとってもっとも苦しい時期に干渉戦争をいどんだ日本への恨みは、深く残っていた」(栗原俊雄、p.27)という。

 黒島伝治「渦巻ける烏の群」「橇」といった小説でも描かれているように、シベリアという土地に日本軍が”侵略”し、ロシア人と戦闘する。そこでは、戦闘だけでなく非戦闘員であるシベリアの住民の労働力を強制し、物資を強制的に調達する描写が描かれる。公平な視点からしても、まさしく「侵略」なのである。

 つまり、シベリア出兵まで歴史の範囲を広げてみた場合、これはロシア革命に内政干渉をした「報復」である、という見方もできる。

しかし、江戸時代から続いている日露敵対と報復の歴史は、もう絶たねばならない、と思っている。シベリア抑留が生んだ学者(引用者注;加藤九祚創価大教授)はこういうのだ。「シベリア抑留も、考えてみれば七十余年前の日本のシベリア出兵の報復だったのではないのか。日本軍がシベリアの民や赤軍兵士を殺傷し、シベリアを破壊した歴史を償ったのだ、とも思います」

(2)坂本龍彦、p.139

3.労働の本質とは

 前章までのいくつかの論点において、戦前の日本が持っていた「戦陣訓」に代表されるような精神が、強制労働とそのシステムによって容易く思想的に敗北した経過を見てきた。

 本章では、このシベリア抑留を題材として、労働がもつ本質的性質について議論をしていきたい。

 強制労働とは、強制+労働というように、労働に強制的な制約を付与した用語と理解されている。しかし、そもそも「労働」という概念自体に強制的な性質が内在していないのであろうか、という問いを議論したい。

 労働というものの本質は、自然の人工化(疎外)である。すなわち主体たる人間が、自然に働きかけて、自然から客体として認識される対象を取り出す作業(客体化)である。

 ここまで見てきた一つの極端な類型としてのシベリア抑留における強制労働とは、支配関係の同心円的多重構造といえる。具体的には、最外周にソ連の管理層による支配構造がある。その1層内側には(ある時期において)旧日本軍の支配構造があり、その更に内部には、人間関係としての支配構造があるという連環的な多重支配関係がある。その連環の中心にまで突き詰めると、自己と他者という単純な基本要素にまで還元されるであろう。

 そして、この最終的な基本要素においても、なお「他者」自体を客体化、人工化することは原理的に可能である。そして他者の客体化とは「支配」のことである。

 労働自体がその概念を突き詰めると「支配すること」を定性的には含み、その支配対象が”自己でない「他者」”に直接的に対して向けられた時、それは「強制」になる。

 つまり労働の本質に「強制」があり、労働とは強制労働に他ならないと結論づけることができる。

 シベリア抑留の過酷な労働においても、また同様に過酷な炭鉱労働でも、労働自体を数値化する仕組みの中で効率化を見出し、これを達成する「喜び」はあったという。

 ビジネスをスポーツのように理解し、他人をプレイヤーとして尊重し、あくまでゲームのルールにおいて独占を目指すような労働観の議論もある。

 しかしながら、それらは労働がもつある種の側面に過ぎないのであって、その概念において本質的に「強制」が潜む。労働という概念はニュートラルなものではなく、良い労働と悪い労働がある訳ではない。言い換えると、あらゆる労働は、強制労働に変わりうる潜在的な可能性を、その萌芽=基本要素として秘めているのである。 

 このことが、現代においても、労働問題がその環境や法的整備を進めた上でもなお人々にとって不幸な問題を生み出し続ける要因となっているのではないだろうか。

4.強制労働を乗り越えるために

 前章で、労働の本質は強制的であり、条件が揃うと強制労働に転化しうると主張した。では、この「強制労働」を回避するためにはどうすれば良いのであろうか。

 つまり、「支配」は存在することを前提として、それを回避するためにはどうしたら良いのであろうか。

 「支配」を少数から多数に広げていくという進歩主義的な解決方法は、既に我々が経験した新左翼運動の粛清の歴史を見るように、誤りである。

 残された道は、「個人」のなかに強制関係を無効化する、絶え間ない斥力をもつことであろう。「BがAをして、〜をなさしめる」という使役の構造を、「Aが〜する」という形で、Bを無効化する方法を探るしかないと思われる。言い換えると、他者による自己への解釈を拒否する姿勢をもつことであろう。しかし、それは非常に困難な道を歩むことは間違いない。だが、それしか道は残されていないと思われる。

 確かに個人としての人間は、弱く、はかない。福田恆存が「人間・この劇的なるもの」(関連記事:【書評】福田恆存「人間・この劇的なるもの」進歩主義の欺瞞を暴いた”奴隷の思想”の瑕疵と、<部分の中にある全体>概念導入による修正)で、以下に述べたように、個人が支えなしに全体としての流れに逆らって存在することはできないであろう。

 (前略)精神の自由こそ、唯一の拠りどころであるとしても、そういうはかないものによって自己の正当さを信じうるほどに、ひとはみずからを強者となしうるであろうか。ひとびとは節操などと安易に口にするが、時代に背く自己を基準にして、逆にその時代を裁くことが、どうしてできるだろうか。そんなことは不可能だと思う。なんびとも孤立した自己を信じることができない。信じるに足る自己とは、何かに支えられた自己である。私たちは、そのなにものかを信じているからこそ、それに支えられた自己を信じるのだ。

福田恆存「人間・この劇的なるもの」(中公文庫版)p.90-91

 福田は、支えられるべきものとして、自然の周期を形式化した祭儀的な伝統を全体とするが、これもシベリア抑留の現実の前に有効な言説となっているとは言い難い。福田が選択肢から、敗北必至として消去したであろう「孤独者」の生き方、そしてそれを「奴隷の哲学」としないために何を拠り所とすべきなのか。

 そのヒントとなる、これまで見てきた文献の中から、いくつかの引用を行い、本論を閉じたいと思う。

 高杉一郎は「教養」として語る。

私は命令と鞭とびんたで行われた軍隊教育がいかに脆いものであるかを、ここで痛感させられた。誰にとってもおなじように過酷な条件を、堪えがたい現実であったが、結局その条件に堪え抜いたものは-たとえ受け身の弱々しい方法であったにしても-少数の将校服のなかにかくされていた市民的な背広の人間の教養であった。

(4) 高杉一郎 p.222

 外交官中村茂は、精神的な意思の力として語る。

「このような非道な屈辱的な生活に満足しているように自ら思いこむことは(中略)自分の尊厳を不当な圧迫の奴隷にすることである。豚になって豚小屋に飼われることに満足することである

(2)坂本龍彦、p.15 外交官 中村茂の手記より再引用

 11年間政治犯として収容所で過ごし、最終引揚船で帰国した内村剛介もまた同様に精神の糧、ことばの力として、こう書いた。

ラーゲリや監獄に拘禁されている者はその肉体が奴隷なのであり、逆にそれを監視する者はその精神が奴隷なのである。(略)肉体の奴隷の中には精神を奴隷にしてはならぬという不断のたたかいがあった。(略)衰え果てた肉体を養うところの物理的な糧は絶対的に乏しく、その不足を補うものは無限の精神の糧である。(略)当局の審問は判決があったのちも続く。それは拘禁の全期間にわたる。この審問は精神の糧を奪い、かくしてついにみずから進んで隷従するところの「奴隷の心性」をつちかうことを目的としている。だから囚人は自らの精神の糧を守り養い、これを当局に向けざるを得ない。この精神の糧をめぐるたたかいは、ことばにはじまり、ことばに終わる。

(3) 内村剛介、p.226

 個人が内部に持つ論理、言葉、知識、意志、こうしたものへの言及であるが、更に突きつめると、極限において個人が孤独の果てにこうしたものを媒介として、何を「支え」として取り出したのか。

 それは、「自己の中にある全体性」であろう。これは福田の文脈における「全体性」、「戦陣訓」に代表される戦前日本のメンタリズム、自然宗教的な日本人としての自覚、こうしたものいずれとも異なる。

 「自己の中にある全体性」とは、いわば、ひとりの人間が存在するために連綿と続く生物としての必然性であり、これこそが我々にとって最後の支えとなると思われる。

参考文献:

  • (1)栗原俊雄「シベリア抑留-未完の悲劇」(岩波新書)
  • (2)坂本龍彦「シベリアの生と死 歴史の中の抑留者」(岩波同時代ライブラリー)
  • (3)内村剛介「スターリン獄の日本人 生き急ぐ」(中公文庫)
  • (4)高杉一郎「極光のかげに」(岩波文庫)
  • (5)黒島伝治「渦巻ける烏の群 他三編」(岩波文庫)
Share

房総半島をドライブ③:チバニアンで有名になりつつある「地球磁場逆転地層」を見てきた【駐車場からの順路あり】

先日のニュースで、地質時代の一時期、ネアンデルタール人が生きていた「第四紀更新世」の中期に当たる時期が「チバ二アン=千葉時代」と命名されるニュースがあった。

参考記事(産経ニュース) 地球史に「千葉時代」誕生へ 日本初の地質年代名、国際審査でイタリア破る

この記事によれば、地質年代は、その基準となる地層が明確になっている土地の名前から選択される。今回は、イタリアと千葉の2地層が候補にあり、より年代の境界が明確な千葉が選択されたとのことである。

この地球磁場逆転地層は、養老渓谷の川沿いにある。

そもそも地球磁場逆転とは、地球の磁場が時代によって変化してきた現象を言う。具体的には、現在は(概ね)方位磁石は北を示す。しかし過去にはこれが南を指す時代があったと言うことである。

これを確認する方法として地層がある。地層はその年代を地層学的手段で明確にできる。そこで、そこに含まれている岩石などの磁気的な性質の分析を行う。

ある種の岩石は、溶岩が固まってできた際に、地球磁場の向きによって、磁石のNS極が揃えられる。その着磁された時の磁気の向きが、地層に含まれる岩石の磁気の向きとして保存されているので、これを調べることにより、その地層ができた当時の地球の持つ磁気の向きがわかることになる。

地層によって含まれる岩石が受けた地球磁気の方向が異なる、すなわち過去に地球磁場は逆転していた時期があったという説(地磁気逆転説)を世界で初めて1929年に提唱したのは、京都大学の松山基範であった。

参考:Wikipedia(地磁気逆転

過去360万年の間に11回は逆転し、現在では、2つの逆磁極期があったことが判明している。589.4万年前から358万年前の逆転期は、「ギルバート」と名づけられ、258.1万年前から78万年前の逆転期は「松山」と名づけられている。なお、国立極地研究所らの研究によれば、より精密な年代決定を行った結果、最後の磁気逆転の時期は約77万年前と報告されている

引用終わり

この77万年前の最後の磁気逆転の証拠となった地層が、千葉県市原市にある「地球磁場逆転地層」と現在呼ばれている地層である。

この「地磁気逆転」は結構SFのアイディアで使われている。例えば名作の諸星大二郎「孔子暗黒伝」では

このように地球磁場の逆転が、恐竜などのその時代の支配的な種族の大量絶滅や人類の進化を促したというアイディアが語られる。

さて、実際に逆転地層までの道中を紹介したい。以下の情報は2017年12月時点の情報である。

車で行く場合には、「田淵会館」に駐車場がある。スペースは広めで20台くらい駐車できる。

そこからは坂道を歩きである。約15分くらいであろうか。行きは下りなのでまあまあであるが、帰りは延々と登りなのでそこそこしんどい道のりである。

このような看板が立っているのでわかりやすい。

ただし最終的な地層の場所は川沿いで、粘土質の滑りやすく、すぐ水に覆われる場所なので靴は滑りにくいもの(できれば長靴)が必要であろう。晴れていて、水も少なければ問題ないが。

田淵会館から出てすぐの道。

ひたすら下る。

ひたすら下る。

だんだんと傾斜がきつくなる。帰りが厳しい。

小さい橋が。

竹で作られた手すりがあり、養老川に降りる階段。

川が見えてきた。

この河原の左側が地層である。このように増水すると覆われてしまう。

これが地層。わかりにくいが、緑、黄色、オレンジのマークがついている。

緑は現在と同じ向きの地層

赤は磁場が逆転していた時の地層

黄色は磁場がフラフラしていた時の地層

となっている。

より近くで見ることのできる階段があったが、工事中のため立ち入り禁止になっている。

観光客急増により、まだ整備が必要な感じである。

地磁気逆転という科学的話題で、かつ日本人の重要な業績でもあり、ぜひ観光的にも盛り上がって欲しい。

Share

【書評】東野治之『木簡が語る日本の古代』ー古代の乳製品”蘇”(そ)とは牛乳の湯葉ではないのではないか(追記あり)

 東野治之『木簡が語る日本の古代』(岩波新書)を読んでいて、日本の奈良時代に既に”牛乳及びその加工製品”があったことを知って、興味深く思った。

 牛乳自体は6世紀半ばに日本に渡来してきたようだ。

 その中で、蘇(そ)と呼ばれた加工品があり、朝廷へ地方からの納める租税品として収められたことが、木簡の荷札で明らかになっているらしい。

 著者は「乳製品を食べる古代人」という章で、文献にあった製法に基づいて蘇の再現を試みた記述がある。

 なお、蘇の製法は文献によってもまちまちで、この本では3種類がある。

 (1)牛乳を煮詰める方法 ー文献『延喜式』の記述

 (2)牛乳を弱火で煎じる。かき混ぜない。最後に乳皮を取り除くー文献『斉民要術』の記述

 (3)牛乳を桶に入れて半日搗き、分離したものを煎じて焦げた皮を除去するー文献『本草綱目』の記述

 再現実験では(1)(2)と(3)は出来上がりが異なったらしい。(1)(2)は今でいうコンデンスミルクであるが、(3)はクリームである。

 また、発酵したものは”酪”(らく)と呼び、蘇と区別されていたらしい。

 最近これを再現して商品化したものもあるらしい。

 例えば”古代チーズ”として商品化もされているようだ。
  例:http://www.asukamilk.com/so/

 蘇の製法として、基本的には牛乳を煮詰めて作ること自体は変わらないようだが、色々調べていくと、1点気になる点がある。

 それはwikipediaの”蘇”の記述であり、製法として

ーーー以下引用
ラムスデン現象によって牛乳に形成される膜を、箸や竹串などを使ってすくい取り、集めた物が蘇である(なお、同じ行程を豆乳で行った場合にできるのは湯葉[ゆば]である
ーーー引用終わり

とあり、要するに牛乳を加熱する際の皮膜が、蘇だと言い切っている。湯葉の牛乳バージョンが、蘇だというのである。

 しかし、上記の文献の製法(2)では、乳皮は取り除くとあり、実際に再現した際もそうした記述がある。

 つまり、真っ向から製法が違うのである。皮膜が蘇なのか、皮膜を除去したのが蘇なのか。どっちなのか。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているとしか言いようがないが、wikipedia先生の断言も捨てがたい。

 私は牛乳が苦手で、すぐお腹を壊す。また、特にその加熱した際の皮膜が大嫌いで、子供の頃どうしても牛乳を温めることに抵抗があった。なので(しょうもないことだが)、その皮膜が蘇の本質なのかどうかは気になって仕方がない。

(2018年11月追記)

 その後Wikipediaも少し訂正が入っている。

 蘇はあくまで牛乳を煮詰めたもの、それとは別に牛乳の皮膜を集めたものとして発音が同じ”酥”というものがあり、これとの混乱があるのでは、という記述になっている。『延喜式』ではこの”蘇”と”酥”が区別されているようで、文献(細野明義、我国における牛乳と乳製品普及の系譜 中央酪農会議 )では、明確に違うものとして記載されている。

 上記文献から引用すると、

平安時代の 927 年に藤原時平が、 賈思勰の「斉民要術」という本を翻訳し、「延喜式」という本を書いた。この延喜式をみると、当時の乳製品がどういうものだったかが分かる。この本は国立国会図書館で見ることができる。下の図を見てもらうと分かるが、全乳を温めると乳皮(にゅうひ)ができ、その皮膜だけを集めたものが酥(そ)で、酥を煮つめると醍醐となる。醍醐とは、これ以上美味しい物がないという意味であ る。ここで良く間違えるのは、酥と蘇である。 蘇は牛乳を沸騰させ、12 時間くらい煮つめて、 乳固形分が凝縮されたものであり、酥とは全く違うものである。延喜式にはこれらが区別して書いてある。

 引用終わり(強調部は引用者)

 ある意味明確であって、納得できた。

Share