少し前の新聞記事で、外来種であるブルーギルを駆除するために、”DNAを編集して作った”不妊のオスを放流して、最終的にその湖(例えば琵琶湖)のブルーギルを絶滅するというアイディアが出ていた。
以下引用する(該当記事)
不妊化させたオス放流、外来魚根絶へ 水産研などが計画
「ゲノム編集」という新技術を使って不妊にした外来魚・ブルーギルを琵琶湖などに放流し、仲間を根絶させるプロジェクトを、水産研究・教育機構や三重大のグループが進めている。(中略)ブルーギルは北米原産。1960年代から国内各地に広がった。琵琶湖にはブラックバスと合わせて1240トン(2015年)いると推定され、小魚などを食べるため在来生物への悪影響が懸念されている。(後略)
引用終わり
この記事を読んだ際に精神的ダメージを受けた。
私はバリバリ理系の技術者で、言わんとすることは良くわかる。また、生物学や薬学などで、人体への毒性をチェックするために多くの生物を犠牲にする学問行為の意義も理解しているつもりだ。
しかし、それでもなお、この記事は、正直私の心に針のように刺さるものがあった。
その理由のひとつとして、私が子供を作ることに”苦労”をした経験、生命を産み出すことに対する大変さの個人的認識があるからではないかとも思う。
自然科学の意義は理解する。また、ナチスのような人体実験に対する倫理的な問題も理解しているつもりだ。しかし、この科学技術利用の記事に関しては、何故か釈然とできないものを感じる。記事は極めてニュートラルに書かれているようだ。そのあと、その記事の意味について考えようとするとき、底流に潜む戦慄するような怖さに反応してしまう。
何故なのか。
生物種の積極的な絶滅を、例えどんな種類であろうと、科学が対象にすることなのだろうか、という疑問では無いかと思う。
そうすると、当然こういった疑問が出るだろう。ペスト菌はどうなのか?結核菌はどうなのか?ハンセン氏病はどうなのか?根絶するべく努力し、根絶したことで我々にとって大きな価値を得たでは無いのか?ウイルスだって生物では無いのか?
その通りで、これ自体はまさに是とする自分がいる。私が、生物の対象としての大きさに対して、恣意的に境界線を引いているだけなのかもしれない。
ウィルスレベルであれば、人類にとっての必要不必要の価値判断に従って絶滅させることは許され、動物レベル(あまり厳密では無いが)ではまずい、ということを私は言っていることになる。
人類にとって有効であるか、そうで無いかだけの話で判断すれば良い話なのか、とも思う。
しかし、ブルーギルの絶滅に対する科学のアクションと、例えば人類の愚行である”民族浄化””ジェノサイド”のような話とは、平行な二つの線に見えるが、どこか遠くの極限で交わるような気がしてならない。
私自身、首尾一貫していない態度だ。ダブルスタンダードといってもいい。
しかし、それでもなお、個人的に素直に読めない記事だった。その後も大して反響も無いようなので、あまり世の中でも騒がれていないようだが。
SF的発想で言えば人類だって同様に攻撃されないとも限らないであろう。そのように何者かからDNAを編集されてしまったら(あるいは既にしまっていたら)。