ビジネスにおける弁証法的唯物論:自己否定と発展

ビジネスシーンでは仕事自体が目的になってしまう場合はよくある。
その仕事、業務を継続すること自体が、目的となってしまい、本来の目的から逸脱してしまうことに気づかず、ただ惰性で続けてしまうような事態。業務のための業務。やっている人間も「昔からあるから」という理由だけでしかその存在理由を説明できないような業務に我々は意外と陥りやすい。

自己目的化を避けるためには、常に「なぜこの仕事をするのか」「この仕事の本質的なゴールは何か」を問いかけ、常にそこに向かって仕事の手段を変革していくことが求められる(……キマった)。

偉そうなことを言っているが、これはなかなか難しい。

自分の業務がいつのまにか自分の存在価値のようになってしまえば、その仕事の本来のゴールではなく、仕事を継続することが目的になってしまう。

そうなってしまうとお互い不幸だ。

意味のない仕事を自分のアイディンティティとするような事態になる。

本来は誰かがそれを「やめる」「やめさせる」決断をすることになるが、人間とは慣性(イナーシャ)があるので変化することが本能的に苦手なようだ。どうしても抵抗してしまう。

組織であれば尚更大変で、大きな慣性力を持っている状態になっている訳で、それをやめさせる方が抵抗になってしまう。非常に難しい問題をはらんでいるのである。

私自身も自分に戒める意味で、「自分の仕事のゴールは、自分の仕事がなくなる(無くなっても済むような状態を作り出す)ことである」ということを常に考えるようにしている。

自分の業務は常に変化の中にあり、自分の仕事は一時的に存在をしている、テンポラリなものである、ということを常に意識する。それにより、自分の仕事を自分の中に組み込まず、自分の外に出してシステム化する結果、この仕事自体が存在しなくなることが発展の姿であり、付加価値を生み出すことだと信じることである。

偉そうで(しつこい)申し訳ないが、自分の仕事が将来否定されることで、その完成になること。

製造装置で例えるならば、「検査」という工程があるが、これは非常に技術的に難しく付加価値が高いものだ。しかし、最終的には、製造工程の中で工程保証できれば「検査」というものは本質的にはなくなる。正常品のみを生産する、それが理想の製造だ。

では、「検査」という技術を究めることは不要なことなのか、と問われるとそうではない。むしろ逆で、必要であり、これからも技術を高めていかなくてはいけない。機械学習、パターンマッチング、画像処理、人工知能など、最先端の技術がそこには必要であるし、今も高めていかなくてはいけない。

しかしながら、携わる技術者が忘れてはいけないのは、究極の理想では「検査」は無くても良い、製造工程から否定されるべきものだという理念、すなわち自己否定の位相を持つことだと思う。

その一方で、技術者は最先端の検査、人間の官能に近い検査技術を作り出そうと日々開発する。

両者の行為は両立することであると私は思う。

消防士は消火、救命のために日々訓練をし、技術を開発している。彼らは火事が起こることを望んでいるだろうか。そうでは無く、火事のなくなる世の中を目指しつつ、日々消火活動のために訓練をしている。これは全く両立している。

これと全く同様の意味で、自分の業務が最終的に完結する際には、その業務自体が否定されている状態、これを究極の理想として射程に捉えた上で、現時点の業務を遂行するのが、自己目的の方向に誤らない態度なのではないかと思う。

自己否定はむしろ達成であり、その次に繋がる発展の過程として理解すべきであろう。

その態度が自分自身の存続のみを目的とする自己目的化された非生産的な陥穽から逃れる唯一の方法ではないかと考える。

自己の業務をできるだけ速やかに終了させても、次の課題がまた生まれてくるはずで、その発展過程において自分の価値が減ずることを恐れる必要は全くないと私は思っている。

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