中島らも先生は、一貫して強靭な自意識を保ちつつ、ドラッグや酒に対峙することができた稀有な人物だと思う。
若い頃からの睡眠薬の過剰摂取に始まり、アル中、ドラッグなどの経験や、メンタル的な病を抱えての生活など、通常であればそのまま身を持ち崩してもおかしくないのに踏みとどまって、こうした精神的に病んでいる自分を客観的な視点で語れてしまう。
中島らも『心が雨宿りする日には』(青春文庫)では、こうした体験的な精神的病いの苦しみと、その一方でのドラッグの気持ちよさを並列させつつ、現実生活で苦しみを抱えながらも、それらを神の視点のように客観的に語っている点で、他のメンタル系体験記とは一線を画している。
これは、ある意味危険な本なのである。
編集者がキャッチを作ったであろう”くたばれ、うつ病!奇才・中島らもが綴った波乱万丈・奇想天外の躁うつ人生”(くたばれ、うつ病!というフレーズは、本書の最後に先生が自分で書いている内容だが)は、確かにそうだが、そんな簡単なことではない。
この本には、確かに現実に精神的な病を抱えている人たちへのメッセージが含まれているが、その一方でここで語られていることを、そのまま実行できるかと言うと決してできない。むしろ悪化させちゃうんじゃないかと心配をしてしまうのだ。
まず第一にドラッグへの興味が満載なのである。
”ラリる”という言葉が沢山出てくる。
けれど、ラリるのはやっぱり気持ちがいいし。
人に良く聞かれる質問に、
「ラリるってどう楽しいんですか?」
というのがある。
楽しいなんておれは一度も書いたことはない。気持ちいいのである。(p.33)
なんて書かれると、却って興味が出てきてしまうではないか(笑)。
とはいえ、壮絶な躁うつ病で、自殺願望、躁状態での奇行、肝臓障害、失禁など、現実的には凄惨だ。周囲も大変だったに違いない。
その一方で、先生は、何かその状態を冷静に分析してしまっているのである。
主治医の精神科医師が、中島らも先生を治療している間に次第に自分が精神的に変調をきたすエピソード(ミイラ取りがミイラになるような例だが、結構あるらしい)などでは、非常に冷静な分析、記述をしている。
薬物の知識も非常に豊富で、精神医学や広義のドラッグを睥睨しているかのような高い視点を感じるのである。あたかも患者である中島らも先生が、治療するべき関係を全て支配しているような錯覚を覚えてしまう。
これは治療における、医者-患者の絶対的な関係を崩壊させるラディカルな視点であり、やはり”危険思想”なんではないだろうか、と思ってしまう。
最初にうつ病を発症した際に、中島らも先生は奥さんに、冷静に以下のようなことを告げたらしい。
絶対に励まさないでくれ
気分転換を強要しないでくれ
放っておいてくれれば一人で治るから干渉しないでくれ(p.49)
非常に格好いい。
こんなことを冷静に語れる患者なんているんだろうか。
最初のフレーズは、まあすぐわかるが、最後のフレーズになると、冷静に自分と向き合っていなければ言えない非常に重要なフレーズであると思う。
このフレーズは確かに悩んでいる人々とその周囲にとって参考になるであろう。
とはいうものの縷々述べた通り、本書はある意味精神医学と対等に渡り合ってしまう巨人の体験的知見であり、本書の雰囲気に惑わされて軽い気持ちで手に取ると火傷をするような猛毒が仕込まれていると思う。